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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「救い主、キリスト」

更新日:2022年9月21日


聖書箇所:エペソ人への手紙1章20節


Ⅰ.死者からよみがえらせ(20節)


先週の結びに見た19節では「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」とありましたが、今朝はその「大能の力を神はキリストのうちに働かせて」と始まります。「信じる者」から「キリスト」へと神の力の現れが進んでいます。キリストは「救い主(メシヤ)」という意味ですから、私たちの目を自分自身からキリストに向けさせていく流れを作っています。これは本当に大切なことです。「私たち信じる者=信仰」というものが、私たち自身、あなた自身ではなく、キリストを見つめることがその本質なのですよ、と教えているからです。だから、せっかく神の力が信じる私に働くと思っていたのに・・・と誤解するのではなく、私たちが何を信じるのかを明らかにしていく箇所なのだととらえてみてください。


ここで記されていることは、次の2つです。神は全能の力を働かせて、キリストを①死者の中からよみがえらせ、②天上でご自分の右の座に着かせた、ことです。これこそ、私たちが信じる事実であり、信じる内容です。1つ目から見ていきましょう。


神は大能の力を働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせました。新約聖書には、イエスさまご自身が「よみがえり」について何度も話しておられます。注意深くそれらの箇所にあたっていくとあることに気づきます。イエスさまが「三日目によみがえらなければならない」と言われている箇所は実はすべて「受動態/受け身形」です。くどく言うと、「よみがえらされる」という意味です。イエスさまはご自分でよみがえったのではなく、よみがえらされたのです。イエスさまは、よみがえらされる側です。そして、どなたかよみがえらせた方がいるということになります。聖書の中で、こうして受身形だけで主語がない場合、主語=行為者は「神(Divine passiveという文法の法則)」になります。

参照箇所:マタイ16:21,17:9,17:23,20:19,ルカ9:22,ローマ4:25,6:4,6:9,Ⅰコリント15:4,Ⅱコリント5:15・・・

受け身形の反対は「よみがえらせる」です。聖書にはそのような箇所もたくさん出てきます。「神」が主語として明記される場合です。

「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました」(使徒3:15)その他の参照箇所:使徒4:10,5:30.10:40,13:30,ローマ8:11,10:9,Ⅰコリント6:14,15:43,Ⅱコリント4:14・・・


そして、このエペソ1:20も「神がキリストをよみがえらせた」となっています。これは、神がなさった主イエスのよみがえりという出来事・事実を通して、神の力を知るようになるための記述です。私たちはイエスさまの身に起こったことを通して神の力を知り、神ご自身を知るようになるのです。


もともと、イエスさまの地上の生涯の目的は何でしょうか。

「わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです」(ヨハネ6:38

イエスさまご自身が父なる神のみこころを行うために地上に来られ、人として歩まれました。それは、このイエスさまを通して神を知り、神を信じる者が永遠のいのちを持ち、決して滅びることのない救いをいただくためでした。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)とあるように。そうです、私たちは主イエスを通して、父なる神のみもとに行くのです。


神は、キリストを死者の中からよみがえらせました。この箇所では、ここに神の力が現れていると言っています。イエスさまが死者の中からよみがえられたのは、その前に十字架の死があることも忘れてはなりません。実に、父なる神は、ご自分のひとり子を世に送り、のろわれた者として十字架にかけて死に渡されました。どこの親が自分の子にこんなひどいことをさせるのでしょうか。どこにもいません。それが神の愛だからです。神は、罪人である私たちの死を喜ばれず、そのままに放っておくこともせず、私たちの身代わりにご自分のひとり子を世に送り、十字架にかけることを通して救おうとなさいました。


「死者の中からよみがえらせ」とは、十字架で死なせて終わりではなく、死に対して勝利された神の力の現れでもあります。勝利は戦った者にしか与えられません。勝利は力ある者があずかります。父なる神は、イエスをよみがえらせることによって、死に勝利されました。父なる神の力は偉大であり、死に負かされることなど決してありません。そして、その死に対する勝利を、ご自分のひとり子を十字架にかけるという犠牲を払って獲得されたのです。これこそ神の愛なのだ聖書は告げます。


キリストの死は、私たちが死ぬべき死でした。罪人として神にさばかれ、その当然の報いとしてのろわれて死ぬべき存在でした。それがかつての私たちです。しかし、神はイエスさまを地上に送り、十字架につけ、私たちへのさばきをすべてそこに置いてくださいました。イエスに私たちの罪を背負わせ、十字架を負わせられました。神が私たちに送られたのは、良い人としての見本や励ましてくれる存在ではなく、この罪から救ってくださる救い主としてのイエス・キリストでした。私たちには(自分が良い人になる、良い方向に歩めるようになる、真似をすれば自分を救うことができる)模範ではなく、救い主が必要だからです。


それゆえ、私たちはここで「死者」という言葉から、自分が死ぬべき罪人であったことを認め、「よみがえらせ」という言葉から、神は罪の報い、その刑罰としての死は滅ぼされたことを知るのです。神はひとり子を送られるほどにあなたを引き戻そうとしてくださつお方。神はひとり子を十字架につけるほどにあなたに赦しを与えようとしてくださるお方。神は死者からイエスをよみがえらせるほどに力あるお方。この事実を、私たちは今朝しっかりと受け取っているでしょうか?

Ⅱ.天上で神の右の座に着かせ(20節)

2つ目は「(神はキリストを)天上でご自分の右の座に着かせ」ることによって、その大能の力を現されています。私たちがイエス・キリストのみわざについて思う時、十字架の死と復活は必ずセットで覚えておいてください。イエスが十字架につけられて死んでおしまいであれば、それこそ希望はありません。悲劇です。弟子たちもイエスさまの復活前(墓におられるとき)はみなうなだれ、散り散りになり、そして人としてのイエスの思い出だけを大事にしながら過ごしていました。そうして、ペテロも前の職業である漁師の生活に戻っているようば場面もあります(ヨハネの福音書21:3)。そして、イエスが復活したからこそ、弟子たちは地の果てまで復活の証人となって宣教を開始しました。パウロも地上のいのちにのみ、キリストに望みを置いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です」(第一コリント15:19)と言っています。私たちは、十字架につけれられたイエスさまだけでなく、ここにあるように、死んでよみがえり、今、神の右の座に着いておられるイエスさまを信じる者なのです。これが信仰の中身です。


毎週の礼拝で告白している「使徒信条」を思い出してみてください。「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえりとありますものね。


私たちは死んでしまったお方ではなく、今も生きておられるキリストを信じる者です。私たちは病を癒やし、人々を教えられただけでなく、今や天において神の右の座で支配しておられるお方を信じる者です。「神の右の座」とは神の権威、主権、神の祝福を意味する場所です(「あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが あなたの御前にあり 楽しみが あなたの右にとこしえにあります」詩篇16:11)。そこにキリストは着かれました。すると、どういうことになるでしょう。


私たちはこの世における苦難に失望しません。落胆させられることはあっても絶望はしません。目の前の状況がどれほど悪くても、身の回りのことで怒りが噴火しそうになっても、政治について阿蘇山ほどの不満があっても、明日からのことについて富士山ほどの心配事があっても、私たちは天におられるキリストを仰ぎ続けます。しかもリラックスのテクニックとか気休めの手段としてではなく、現にキリストは天にあげられて、神の右の座についておられることのゆえに、これらのことの中にあっても、私たちは圧倒的な勝利者とされていくのです。キリストは、今も生きておられます。キリストは、天にある神の右の座に着いておられます。キリストはすべてのことを治めておられます。



Ⅲ.苦難から栄光へ(まとめ)

さらに、死者から天に昇られたキリストの姿を思い出してください。復活のキリストには「手に釘の跡」があり「脇腹には槍で突き刺された跡」(ヨハネ19:34,20:25等)がありました。イエスさまは傷だらけの姿で昇天されたのです。まさに、苦難から栄光への道を歩まれました。私たちは、このお方を救い主と信じ、このお方に従い、このお方の跡についていく者です。


みなさんに、次の質問させてください。

「あなたは、どのような姿で天国へ行きたいですか?」

・できるだけきれいな顔でイエスさまと会いたい

・たくさん奉仕の手柄をもってイエスさまと会いたい

・おいしいお弁当をもってイエスさまと一緒に食べたい

色々あることと思います。


私自身がモットーにしていることは「できるだけボロボロの姿でイエスさまに会いたい」ということです(個人の目標です)。もし、私がきれいな顔で、ピンピンした身体で御国へ行ったら、どうもイエスさまから「やり直し!」と言われそうな気がします。「お前は、わたしが用意しておいた試練や成長の機会を全部よけて来たのではないか」と迫られそうで・・・・・・


近頃は冠婚葬祭の返礼品がカタログギフトになることも多くなりました。主催者が決めたものを送るよりも、参列者にはカタログから好きな品を選んでもらおうというものです。自分で選べるので、好きなものがもらえます。けれど、私たちの人生はそうではありませんよね。神さまが、私たちにカタログを渡してくれて、その中から選ばせてくれるというわけにはいきません。好きなこと、望み通りにことが運べば苦労はしませんが、そのように主はご自分の民を導こうとはなさいませんでした。アブラハムには故郷を離れるように言われ、モーセには40年間しゅうとイテロの羊の世話をしていました。神の民には40年間荒野を旅させました。預言者エレミヤには言うことを聞く民ではなく、かたくなで迫害する者に向かって預言するように命じられました。そして、イエス・キリストには飼い葉桶で誕生し、枕して寝るところもなく、茨の冠をかぶらせ、人々からののしられ、弟子たちに裏切られ、十字架でのろわれて死ぬ道を用意しておられました。そして、そのキリストを天に上げ、ご自身の右の座に着かせておられるのです。


であれば、主はあなたにどんな道を用意しておられるでしょうか。とても楽な旅路でしょうか。それとも涙のともなう旅路でしょうか。上り坂、下り坂のない平坦な道でしょうか。それとも荒野でしょうか。人から褒められて仕方のない太陽のあたる道でしょうか。それともさげすまれる陰の道を歩くことがあるでしょうか。

そんなとき、ぜひ思い出してください。私たちの救い主は苦難から栄光の道を歩まれたことを。十字架を通って復活なさったことを。死者の中からよみがえり、天に昇られたことを。もっとも低いところにくだられ、歩まれたお方は、私たちを助けてくださいます。私たちの声を聞いてくださいます。私たちを慰めてくださいます。ともに涙し、これ以上進めないと立ちすくむとき、主が先に立って導いてくださいます。もう嫌だと投げ出したくなるとき、主が嘆きを聞いてくださいます。自分の力ではどうしようもないとへこたれるときには、主が休ませ、背負ってくださいます。


私たちは聖書を通じて、地上を歩まれた主イエスが、今私たちとともにいてくださることを確信することができます。天に上げられ、神の右の座に着かれているお方は、実に「ほふられた子羊」(黙示録5:6,12)です。傷跡がある救い主です。ならば、私たちも主のために受ける傷、御国のためにする労苦を避けることなく、できればたくさんそのような試練をいただけるような弟子の道を歩ませていただければと願うものです。人生、最短経路で突破し速さを競うわけではありません。人生、どれだけの障害に合わなかったかと無傷を競うわけではありません。人生、遠回りした者が負けというレースをしているわけではありません。私たちの人生、どれだけ主に忠実でいることができたか、どれだけ主にお会いすることを待ち望んだか、どれだけイエス・キリストの足あとに従ってきたか、どれだけイエスさまに助けてもらって感謝したか、どれだけイエスさまに愛されていることを喜んできたか。そうしたことにしっかりと足を置き、御国を目指して一歩ずつ進めてまいりましょう。そのために、このめぐみ教会の礼拝がいつも重荷をおろし、みこころを確認し、新しい力といのちにあふれたものであるように願います。みなさんと礼拝をささげられる喜びに感謝しています。<了>


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