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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「救い主と出会うクリスマス」


ルカの福音書 2:8-20

 1. 大きな喜び


クリスマス、おめでとうございます。なぜ、世界中でクリスマスは祝われるのでしょうか。なぜ、町は華やかに飾られ、人々はケーキを食べたり、プレゼントを贈り合ったりするのでしょうか。今、隣に座っている人に聞いてみると、どんな答えが返ってくるでしょうか。


今朝開いている聖書個所は、世界で初めのクリスマスの出来事が記されています。私たちのクリスマス礼拝が聖書に示されたものと同じになっていれば、大いなる祝福を受けます。それから本日のタイトルを「救い主と出会うクリスマス」としました。「クリスマス」の語源は「キリスト+ミサ(礼拝)」です。ショッピングモールには本物のクリスマスはありません。なぜならそこにはイエス・キリストがいないからです。


礼拝と聞くと何か仰々しいもの、たとえば膝まづいたり、顔を地面にこすりつけたり、祈願するような行為をイメージするかもしれません。実は、私たちはいつでも何かを礼拝して生きています。それは食べ物であったり、音楽であったり、楽しみであったり、またのろいや憎しみであったりします。礼拝とは私たちの心がひきつけられていることです。礼拝とは、私たちの人生を導く中心となるものです。礼拝とは、私たちの感情を揺さぶり、高ぶらせたり、落ち込ませたりするものです。

クリスマスは、イエス・キリストを礼拝する日です。このお方の素晴らしさを知るなら、私たちはもう他のものを礼拝する必要はなくなります。心がイエス・キリストに魅了され、満たされ、導かれるようになるからです。ぜひ、このクリスマス礼拝を本物の礼拝にいたしましょう。


世界で初めのクリスマスの知らせは、羊飼いたちにその知らせが届きました。今朝の個所の出だし「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れを夜番していた」(2:8)とあるのは、ヨセフとマリアが住民登録のためにユダヤのベツレヘムという町に帰っていたときのことです。ここで一つ、おかしいことに気づきますね。羊飼いたちは住民登録の必要がなかったのか?ということです。


全世界の住民登録がローマ皇帝アウグストゥスから勅令として出され、それに従って人々は自分の生まれ故郷へ帰り住民登録をしなければなりませんでした。皇帝にとって住民登録は権力の誇示であり、課税や徴兵のためにも重要な政策です。しかし、羊飼いはその住民登録からも除外されていました。羊飼いは貧しく、動物を扱うために様々な律法も守ることのできない職業でした。わざわざ住民登録などさせる必要がないとされた人々でした。裁判の証言者にも採用されない社会的、経済的に小さく劣った存在でした。クリスマスは、自分など必要とされていないと悟っている人に届きます。

周りとうまく合わせられない、この世界や時代から取り残されている、自分の理想としていたものには届かない、長い間の悪い状況に心もくじけていると感じているなら、ぜひこの世界で初めのクリスマスのストーリーに自分を重ねてみてください。


そんな羊飼いたちに突然、主の使いが来て栄光で包んだので彼らは恐れましたが、それは「大きな喜びを告げ知らせ」(2:10)られたからでした。喜びは最強です。それは喜びが人を救う力になるからです。


たとえば、私たちは願い通りに事が進んだとき喜びます。それでもその後に残るのは「自分はよくやった」という安堵感や誇り、自信、そして自慢、高慢になるかもしれません。頑張ったから当然だと感謝もしないかもしれません。自分が努力した分報われても、それでは救われません。次の試験でまた頑張らないといけないので心が休まりません。喜びが長続きしないのです。それよりも

「大きな喜び」は、自分が悪い状況、不利な立場、暗い場所にいたのに、助けを受けて逆転してもらったときです。自分はダメ人間だ、秀でたところも未来もないと思うところからの逆転は、反動が大きい分喜びも大きなものになります。


(実践体操)できるだけ自分を小さくしてから両手を広げてみてください。主がクリスマスにもたらそうとされている大きな喜びをいただきましょう。



2. 出会い


その大きな喜びとは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(2:11)というメッセージでした。


「今日・・・あなたがたのために救い主がお生まれになりました」というメッセージを、私たちも「今日」受け取りたいと願います。この聖書の出来事が起こったベツレヘムの町を含むイスラエルは、今日も戦火の中です。ミャンマーでは内戦が60年以上も続いています。日本国内の問題もたくさんあります。


クリスマスに私たちが個人的な平穏を願い、忙しい日常を忘れてケーキを食べて祝うのであれば、それは大きな喜びではなく、小さくいびつな喜びです。クリスマスおめでとうと口にするとき、むしろ、私たちは地上で起こっているこれらの出来事に対して無関心でいることに気づかされます。


私たちは自分やその家族、大切に思っている方のためには身を粉にし、喜んで犠牲を払います。しかし、他人に対しては平気でいられます。自分の反対側にいる人々には無関心でいられます。自分に敵対する人々には会いたくもありません。私たちは人を受け付けない冷たさを持っています。人を入り込ませない暗さを持っています。

そのような罪深さを自分が持っていることを、この礼拝で知らされることの意味は小さくありません。自分の愚かさ、罪深さ、冷たさを覚えましょう。そして、まさにそのようなところに神はご自身のひとり子イエス・キリストを送ってくださったのです。神は実にすべての人のために犠牲を払い、無関心どころかどんな小さな者にも関心を払い、弱く、小さく、苦しい立場にその身を置かれました。このことを今日、クリスマスで考えましょう。


羊飼いたちは、主の使いのキラキラと輝くまばゆい光、自分の心に平安を与えてくれる賛美を楽しんだのではなく、こんなちっぽけな自分たちにも向けられた神の訪れ、冷たい地に平和をもたらす神の決意に心打たれたのではないでしょうか。



3. 賛美


御使いたちが羊飼いたちから離れて天に帰ったとき、彼らは話し合いました。ただし、意見が割れてまとまらなかったのではなく「さあ・・・この出来事を見届けて来よう」(2:15)と全員の心に火が点いているのがとても良いですね。


急いで出かけた羊飼いたちは「飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当て」(2:16)ました。彼らが、みどりごを見つけたことが最重要事項ではありません。主の使いは「救い主のしるしが飼葉桶に寝ているみどりご」と告げました。そうです、羊飼いたちは赤ちゃんの誕生や発見を喜んだのではなく、救い主の到来を喜び祝ったのです。 住民登録も必要とされなかった羊飼いたちが救い主誕生の目撃者となったのは、とんでもない恵みです。 彼らは世界初のクリスマスを祝う当事者となりました。


羊飼いたちはさらに恵みを味わいます。彼らが「幼子について自分たちに告げられたことを知らせ」(2:17)たとき「・・・聞いた人たちはみな・・・驚」(2:18)きました。裁判では証言者としての資格なしとされていた羊飼いたちの言ったことを、そこにいた人々は信用してくれたのです。彼らはすべての人の救い主の証言者となりました。神は地位の上下で人を分け隔てなさいません。どんな者であっても救い主イエスの名を知らせるために用いてくださる素晴らしいお方です。


結びに、天の軍勢による賛美「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」(2:14)からクリスマス礼拝をご一緒している意味を確かめましょう。


「地の上で、平和が」あるのがクリスマスです。ただここにいる私たちが互いに「クリスマスおめでとう」と言い合い、互いの祝福だけを願って終わるのであれば、飼葉桶にお生まれになったイエス・キリストを礼拝していません。クリスマスは住民登録をするヨセフとマリア、そしてそこから除外された羊飼いたちがともにいました。隔てや壁、破れのあったところに平和が実現しました。彼らがイエス・キリストを囲んでいたからです。


この主の平和はみこころにかなう人々に与えられます。私たちは、神のみこころにかなう自信はないかもしれませんが、みこころにかなわない人も誰一人としていません。神が羊飼いを選ばれたのは、すべての人がみこころにかなっていることを教えるためです。神は皇帝も人々も社会も必要とはしていなかった存在に、救い主の誕生を一番に知らせてくださいました。すべての人が救われることは神のみこころです。さばかれることなく、滅ぼされることもない。逃げ隠れする必要もない。あなたのために救い主がお生まれになった!あなたを赦し、愛してやまない方がいることを確信できる。この喜びの知らせを隣人に、世界に分かち合いましょう。


今まで自分でも目を背けていた自分自身の汚さ、ふがいなさ、行動の遅さ、他人事として聞き流していたこと。それらをすべてイエス・キリストはあぶり出し、教え、良き方へと導こうとされています。世界各地での出来事を照らし、人々には冷たかった自分の闇を照らす光。そんな自分に悩み、不安に感じていることが大切です。まことの光であるイエス・キリストは私たちの闇を照らします。自分のひきょうさ、ズルさ、醜さに気づかせます。そして、悔い改めに導く救い主としてお生まれになったイエス・キリストに私たちは出会い、礼拝するのです。


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