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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「教会で大きく生きよう」


聖書 エペソ人への手紙4章13~16節

(最初の図を見ながら)

先週もこのスライドで始めましたが、本日もこれをご覧ください。

私たちは、教会を小さく考えてはいないでしょうか。自分の人生の一部に教会があると考えると、はっきり言って教会のことがわずらわしくなります。自分の自由を邪魔されるような、そんな気にもなるかもしれません。教会での礼拝に時間を取られます。献金でお金を取られます。奉仕で予定を空けなければなりません・・・・・・こういったクリスチャンライフを送ると、それは幸せではありませんね。続けるのがしんどくなりますし、続ければ続けるほど疲れます。まさに聖書にある「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)という約束から程遠い生活を送ることになります。しかし、それは主の御心、本望ではありません。クリスチャンライフの幸いを味わいながら送るにはどうしたらよいのか。人生と教会の立ち位置を入れ替える、ひっくり返すことです。


教会が人生の中心になると、まさに生活が「整えられ」ます。今は、水曜祈祷会では主の日のメッセージを分かち合っていますが、そこで話題の中心になったのは「整える」ということでした。私たちが、主の前にすべての重荷、問題をおろしてこそすべてが整えられ始める。主から始めるとき、あらゆる優先順位が整えられていく。主を中心にするとき、人生の目的が整えられていく。まさに、よいことばかりです! それは私たち人間にとって心地の良いことばかり、都合のよいことばかりが起こるという意味ではありません。聖書にはヨセフ、ヨブ、ダビデと幾多の試練にあった信仰者がたくさんいます。それでも、彼らの人生の主は生けるまことの神であったので、その試練のうちに悔い改め、へりくだり、主を尋ね求め、乗り越える力や脱出の道が備えられました。こうして、ますます主を知るのです。


もし、人生の一部に教会=神のことを位置づけると、そうはいきません。常に自分の能力、人脈、知恵フル回転させて必死に走り続けなければなりません。教会は、神は、その一部でしかないなら、あなたの人生にその力を発揮することも少ししかできません。どうか、この図で言えば左の大きな教会の図を展開させてください。その中に自分の身を置き、いっさいを支配し、導き、完成させてくださる主の御手の中に住まいましょう。ここに平安があります。始まりがあります。土台があります。


1. キリストを知って(13節)

❶ 成熟とはバランス

今朝の始まり13節は「成熟した大人」になるように励ましています。その対象は「私たちはみな」と誰もこれから除外されることはありません。私たちはみな、成熟した大人を目指します。そのゴールは「キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」ようにという途方もない高みです。


具体的には、どのような道・方法・手段で成熟を目指せば良いのでしょう。それは「神の御子に対する信仰と知識において一つとなる」ことによってです。この「信仰と知識」の反対は「行い」です。信仰と行い、知識と行いの両者のバランスが取れていることが成熟した大人の目安となります。この両者のバランスが取れていないと、どちらかに偏ってしまい、悪い意味で子どものような未熟な歩みとなってしまいます。たとえば、「信仰と行い」の調和が取れていないとどうなるでしょうか。嫌なのに教会に来る、ということになります。教会に来るという行動自体は良いものかもしれませんが、信仰(心で決めてそうしたいと思うこと)がないので喜びがありません。これは、自分も隣人も主も喜ばすことができません。ここでの危険は成熟していなくても、行いはできてしまうという点です。見かけは神に従っているように見えても、心では神に従っていません。


これは、自分と他者の問題にも通じます。自分と他者とのバランスが悪いと関係も悪化します。自分には甘いけれど、他者には厳しい、キツく当たる。反対に他者のことはうらやましい、すごいと憧れるけれど、自分のことは評価できない、自信がない、そんな自分が好きじゃない。これもアンバランスから来る不具合、不調ですね。そこから抜け出すためには、質的な成熟に注目していきましょう。この13節にあるのは「行いを磨いて、キリストのすがたにまで達しましょう」ではなく「信仰と知識において・・・キリストの身丈にまで」達しましょうと教えているからです。


❷ 質的成熟

「信仰と知識」は、ひとつにまとめると「神を知る」ということです。ある神学者は、問「人生の主な目的は何ですか」答「神を知ることです」問「人生最上の喜びは何ですか」答「それも同じです(=神を知ることです)」問「神についての正しい知識とは何ですか」答「神を崇める目的で神を知るときです」(カルヴァン、ジュネーブ信仰問答問1,3,6)と記しました。私たちの信仰は、喜びは神を知ることにかかっています。ただし、その姿勢だけはチェックされなければなりません。「神を崇める目的で神を知ろうとすること」が大事なのです。


たとえば、あなたが新聞の取材を受けるとします。インタビュアーが「ねえねえ、昨日何食べたの?どこに住んでるの?家賃はいくら?賃貸?持ち家?給料で足りるの?」などずけずけとプライベートなことを聞いてきたら、どんな気分でしょうか。いい気持ちはしないでしょう。それは、聞く相手に大事にされている、リスペクトされているという姿勢が見られないからです。そういう人を相手にする方が疲れてしまいます。そもそも、ちゃんと答えたところで自分のことをよくわかってくれる、知ってくれる、これからも頼りになるとは思いません。


同じように、私たちが主なる神に対してこんな態度であったら・・・・・・不遜なことです。百歩ゆずって主が御心を教えてくださったとしても、私たちがそんな姿勢で聞いているなら、信仰や喜びが宿ることは決してないでしょう。だから、私たちは「神を崇める目的で神を知る」ことが大切です。ただ、それだけを心に決めて礼拝をささげるだけでも、ずいぶんと効果が違うのではないでしょうか。だから、私たちは「信仰と知識」と言われるときに、闇雲に【知識の量】だけを意識するのではなく、【知識の質】にも注意深くありたいと願います。モノを与えるだけで赤ちゃんは育ちません。心をこめ、愛情を注いであげることで健全に成長します。ただ必要な物品、生活用品、環境だけを与えて終わりであればその子は健全には育たないでしょう。私たちも、主からただの知識をもらえばよいと考えるのではなく、主の愛をいただいて成熟させていただきましょう。このみことばを教えようとされる主の愛はどれほど広いのか。今日、このみことばを私が聞くようにされている主の計画はどれほど深いのか。今日、あなたがここに座っている、この礼拝にいることの主の喜びはどれほど熱いのか。そんなことを思い巡らすと、私たちは主を知る、神を知ることと自身の内側の喜びが伴うようになり、質的な成熟もさせていただけるのではないでしょうか。


2. キリストに向かって(14-15節)

❶ 子どもからの脱却

14節からは「大人」の対比として「もはや子どもではなく」と書き出します。どの意味で子どもではないのかというと「間違った教えにかき乱されない」という点において、もはや子どもであってはならない、と教えています。なぜなら、子どもは無邪気ゆえに無防備、無警戒だからです。どのようにディフェンスすればよいのか知りません。しかし、主を知るためには、無防備であってはいけません。「どんな教えでもいいんだ~、聞きやすい方がなじむ~、バズってるからこれはいいんだろうな~」と考えることをしないで主の知識を積み上げることはやめるように、警告されています。


子どもと大人ということに関して「あれ?乳飲み子のように慕い求めるんじゃなかったっっけ?」(参照:第1ペテロ2:2)と聖書にあったのを思い出すかもしれません。あれは「純粋なみことばを慕い求める」ことを教えるものです。さらには「乳ばかり飲んでいないで、固い食物を食べる」ように言っていたのを思い出すかもしれません(参照:ヘブル5:14)。これは「乳=初歩の教え」「固い食物=訓練された大人のもの」という意味で使われています。このエペソでは後者=大人として正しい神の教えは何なのか識別、判断、分別する力を養うことが成熟の鍵を握っていると告げています。その反対に、子どもは「どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたり」してしまう危険性、未熟さをはらんでいます。


子育てにおいても、昔から「知らないおじさんについていっではダメだよ」「お菓子をくれると言ってもついていってはダメだよ」という甘い誘いから「おかあさんが事故にあったから、病院に連れてってあげると言われてもついていってはダメだよ」という少しばかり高度なものまで忠告されたものです。今は「知らない人とSNS(スマホのネットワーク)でつながっちゃだめよ」「自分の顔写真をネットにアップしたらダメよ」とさらに多様な危険から身を守るように、子どもに教えることが必要な時代になってきました。それは信仰と知識においても同じで、「人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た教えの風」が吹き回っています。その風に吹きさらされると、子どもはいとも簡単にさらわれてしまいます。


そうならないために、主が召し、訓練を受けた「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師たち」(4:12)を教会に据えて、正しい知識によって健全なクリスチャンとなるようになっています。牧師は聖書を語り、聖徒は聖書を聴く。これが教会の基本であり、健全な成長の鍵です。


❷ 愛と真理とかしら

成熟した大人になる、子どもではない、間違った教えの風に吹き飛ばされない・・・・・・そうしたクリスチャン品性の具体的あらわれが「愛をもって真理を語る」という生き方です。よく耳にする有名な箇所かもしれないこの「愛をもって真理を語る」には、実は「語る」という言葉は入っていません。直接的に訳すと「愛において真実である(being truth in love)」となります。愛において真実に生きるとか、愛において真実に行動するとも理解できるようです(注解者:ジョン・ストット)。


愛と真理が言動において一致しているかどうか。成熟した大人としてバランスが取れているかどうか、です。これはとてもよくわかりやすい判断材料になるものです。たとえば、「愛をもたずに真理を語る」とどうなるでしょうか。それはキツいです。攻撃的です。相手を打ちのめすものです。なぜなら愛がなければ「真理だけをぶつける」ということだからです。相手に欠点があったとしても、失敗をしたとしても、それが事実だとしてもそれだけ言えば角が立ちます。「あなた、何やってるの!」「こんなことしてどうしてくれるの?」「ダメって言ったでしょ。何回言ったらわかるの?」これらはすべて愛をもたずに真理を語る例です。


反対に「真理のない愛」だとどうなるでしょう。これは一見よさそうに思えますが、本当にそうでしょうか。「マー君、あなたは勉強もお手伝いもしないけれどほんとにいい子ね。大好き」「ともちゃん、お友だちのモノを借りて返してないんだって?だけどね、愛してる」なんて接していたらどうでしょうか。その子は善悪の判断をわきまえず、人に悪をおかしてもなんとも思わず、主の前に罪を犯したなんて意識ももたずに育ちます。親子関係には害がないかもしれませんが、人格的成熟、信仰や神を知ることにおいては壊滅的、絶望的になります。


愛のない真理は相手をかたくなにし、苦い思いだけをさせ、追い詰め、やり込める效果しかもたらしません。真理のない愛は、神を恐れることを知らず、ひとりよがりで、人の痛みを想像できず、常に問題を他者のせいにします。どちらも具合がよくありません!


そんな私たちが「愛をもって真理を語る(生きる、行う)」ことが可能なのでしょうか?唯一、その道は「かしらであるキリストに向かって成長する」(15節)ことです。私たちが「キリストに向かって」生きることで、このことは可能になります。人に真理を伝えたいとき(それは苦言であったり、言いにくいことであったり、嫌な役目でしょう)、キリストにつながりながら話すとき、必ずそこには愛が伴います。相手の欠点や弱点に向かっていると、愛は注がれません。自分の感情に向かっていると、せっかく真理を伝えたくても怒りを注いでしまいます。うまく伝えられない!とあせって、両者の関係はさらに悪いものになってしまいます。しかし、キリストに向いているなら、真理を語るとき、愛と知恵が注がれます。キリストに向かっているなら、真理に生きるとき、勇気が与えられます。


これは、最初の図を思い出していただけると良いと思います。教会に生きるとは、自分の人生、生活、日常においてはすべて神のことばに従って生きることです。神のことば=聖書に従って生きるとき、真理のない愛というあやふやな姿勢から守られ、愛のない真理というさばき癖のついた生き方から守られ、愛をもって真理を語る/生きられるようになります。変に小手先で生きる指針を付け替えると、ロクなことになりません!常に神に従って生きることが平安をいただく唯一の方法です。


3. キリストによって(16節)

❶ 砕かれ、削られる交わりこそ

こうして、私たち一人ひとりがキリストに向かって成長する節々であるなら、からだ全体=教会はより成長し、愛のうちに建てられていきます。あなた一人の成熟が、信仰が、従順が、からだ全体の成熟に確実につながっているということです。神さまは、クリスチャンとして生きる私たちに「めいめい好きなように生きなさい」「一人で自立しなさい」「だれのことも頼るな」とはおっしゃいませんでした。むしろ常に「あなたがたは互いに」と言い、「集まりをやめたりせず」(ヘブル10:25)と言われます。なぜなら、からだ全体は一人ひとりによって成り立つだけでなく、節々が「つなぎ合わされ、組み合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長」(16節)するのだからです。「組み合わされつつ、つなぎ合わされつつ」教会は成長していきます。


「組み合わされる」とは一方が妥協しただけでは成立しません。もう一方も同じように組み合わされるために取り扱われ、変えられてこそ、互いに組み合わされます。同じように、一人だけが悔い改めても、群れの成長にはつながりません。一人ひとり、みなが悔い改めてこそつなぎ合わされていきます。一人だけ奉仕をしても教会は建て上げられません。私たちは、互いに削られ、研がれ、磨かれて組み合わされていきます。これが教会の礼拝、交わりの大切さです。ここから離れてしまうならば、組み合わされる唯一の機会を逃していることになります。そして、そのようなかたくなな節は、組み合わせることが困難になります。相手だけでなく自分も。それぞれが削られ、磨かれ、組み合わされ、つなぎ合わされていく。自分が砕かれるのは気軽に受け止めることはできません。自分が削られるのは痛い経験です。それでも、からだ全体の中で節々が組み合わされることこそ、成長の唯一の方法です。誰しも嫌な思いをしたり、苦くて激しい言葉をあびせられたり、冷たい目を向けられたりすることです。それでも、主は知恵深く生きて働いておられます。あなたのうちにみわざをなしてくださいます。あなたを成熟させ、からだ全体がキリストを知る信仰と知識の喜びで満たしてくださいます。私たちの中にどなたが生きておられるのか、私たちの中心にどなたがおられるのか、そのときはっきりします。それが教会の魅力であり、光です。私たちがキリストを知ることを喜びとし、キリストに似た者、品性をいただき、キリストに向かって目を上げ、キリストにつながって愛と真理に生き、キリストによって削られること、砕かれることによって互いに組み合わされ、つなぎあわされ、教会が成長していくなら、それはとっても素晴らしいことです。このことのためになら、すべてを賭けてもよい、ささげてもよい。そうして主につく者として決心してこの週を歩み出しましょう。   <了>


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