福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「教会のつくり」

更新日:9月21日


聖書箇所:エペソ人への手紙1章21~23節


Ⅰ.すべてにまさるキリスト(21節)

先週に続いてオンライン礼拝となりますが、ともに神の言葉に集中してまいりましょう。このときにも、お一人おひとり、そしてそれぞれの場所に聖霊が働いてくださいますように。


私たちが聖書を通じて「神を知るための知恵」(1:17)にふれることができるように、多くの言葉をもって主は語ってくださいます。今朝エペソ1:21から始めますが、そこにはキリストについて「支配、権威、権力、主権」と似たような言葉をもって語りつくそうとしています。いえ、語りつくせないからこそ、これら類似した言葉を重ねてどうにかキリストの素晴らしさを表そう、伝えよう、知らせようとしています。ここで提示されているのは、「キリストの卓越した偉大さ(群を抜いてすぐれていること、まさっていること)」です。それは、先週見ましたように、死者の中からよみがえり、天において神の右の座に着いておられるお方をどのように表現したらよいのか。実は、キリストの偉大さを表すのにふさわしい言葉はないのです。まず、人間の言葉、語彙、理解力には限界があります。どんなに素晴らしい言葉、どんなに多くの言葉数をもってしてもキリストの偉大さを十分に表すことはできません。どんなに理解力のある人、想像力豊かな人、信仰歴が長い人であっても、キリストの偉大さを分かる人はいません。なぜなら、キリストの偉大さは言葉にも経験にも、収まるはずがないからです。


ドラマや本などでは「私のこと、どのくらい好き?」とか「私が大事ならその心を見せて」というシーンがあります。それらの答えは「うーん、他のことは考えられないくらい好きだよ」とか「そう言うと思って今日は君の好きな花と洋服を買ってきたよ」などと会話を続けます。もし、相手がそれで「嬉しい!そのくらい私のことを思ってくれていたのね」となるなら、それはその人を思う気持ちが言葉や贈り物で表すことができた、ということです。人間同士なら、そのくらいの言葉や贈り物(モノ)で、愛を伝えることができるかもしれません。ラブラブなカップルだと「いやだ、そんなんじゃ全然足りない!」とか言って、さらに相手からの愛を確認しようとするかもしれませんが・・・・・・


私たちは、キリストの偉大さをどのように考えているでしょうか。今朝のみことばは「あなたが分からないほどキリストは素晴らしい」と教えています。実に「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に」(1:22)キリストはおられるからです。「雲の上の存在」と人間レベルでは表現しますが、それらをはるかに超えてキリストは偉大なお方です。そして、それは「分からないから信じられない」というものではなく、「私の頭には入らないほどに主は素晴らしい」と自分よりも神を大きくする信仰をいただけるように祈ってまいりましょう。


神学校でこんな会話をしてくれた人がいました。ある友人にイエスさまが水の上を歩いたことを話したとき、その友人は「お前はそんな話を本当に信じているのか?だから神なんて信じられない。お前もそんな神を信じるなんて、信仰者はやっぱり変だ」と聞き返したそうです。するとその人は「あなたは神が水の上を歩くことを信じていることが馬鹿馬鹿しいと言うが、私にとっては神が水の上を歩けないと信じるほうが信じられない!」と答えたそうです。


神を私たちの頭の中、理解できる範囲で考えようとすると、それは結果私たち人間よりも劣った神を想像することになります。それは、私たちの信仰の対象とはなりえません。誰も、自分より劣った存在を神として崇めたり、助けをもとめたり、頼りにすることなどないからです。しかし、神は私たちの理解を超えたお方です。この世界も神を納めることも、とどめることもできません。この地球ばかりでなく、実は宇宙さえも、神にとっては小さな存在です。宇宙の中に神がいるのではないからです。神は、それを造ったお方です。宇宙空間が神を含めることができたら、神はそれ以下の存在です。しかし、ここに示されているように、神であるキリストはすべての支配、権威、権力、主権の上におられるお方です。今の世だけでなく、次に来る世=永遠にその地位も名も権威もすたれることのないお方です。私たちは、この方を毎週礼拝しています。自分の理解や認識よりはもちろんのこと、どんな権力も、地も、天でさえもこのお方を捕らえることはできません。それゆえ、私たちは最高の準備をし、最高の礼拝、最高の讃美、最善の祈り、最上のささげものをこのお方におささげします。このキリストこそ、私たちの生きる目的です。このキリストをたたえることこそ、私たちの生きる力です。それはこのオンラインの画面を通してもできることです。私たちが迷ったとき、真っ先に主の偉大さを思い出し、讃美することができます。私たちが有頂天になりそうなとき、正しい道に引き戻し、感謝することができます。私たちが何も代わり映えがしないとうなだれるとき、主の偉大さをほめたたえるという最高の務めをしていることに誇りを持ってください。人間同士であれば褒めるのは苦手です。自分のプライドがそれを邪魔するからです。しかし、神の前ではそれは比較になりません。神を褒めることに抵抗を感じるのであれば、それは神を神としていない証拠です。けれども、神はどの人間、力、時代よりも卓越し、超越し、頂点に君臨しておられるのでプライドが・・・などと比較する必要のないお方です。こうして、私たちは心から「ハレルヤ!主のお名前を讃美します」と告白できるのです。プライド多きこの者を、ひざまずかせ、礼拝へと導いてくださる主を讃えます!!

Ⅱ.教会のかしらキリスト(22節)

キリストの偉大さは、すべての名の上に置かれると同時に、次はその下にあるものに目を留めるようみことばは語っています。すべてにまさっているのがキリストであれば、そのキリストの下にすべてのものがあるだろう、という展開です。


今、私たちが見ているものは何でしょうか。何に圧迫されていると感じているでしょうか。誰が権威を持っていると考えているでしょうか。日常生活の中で、重くのしかかっているものとは何でしょうか。気になって仕方がない事柄とは何でしょうか。安眠を妨げるような存在に脅かされているでしょうか。私たちは、この世を前にすると失望しやすい者です。この世を前にするとつぶやきやすい者です。この世を前にすると仕えれやすい者です。そんな私たちにとってこの箇所は「この世で絶望することから守ってくれるもの」となります。


しかし、私たちがどれほどこの世に疲れても、ここにそれらを足の下に従わせておられる方、それがキリストです。キリストはすべての者にまさる名=権威をお持ちです。キリストがすべての名の上におられることを知る時、私たちは奮い立つのです。最後まであきらめずに天を見上げることができます。キリストがすべての支配、権威、権力、主権の上にたち、万物を従わせておられるからです。


この世にあるすべてのものは造られたものであり、それ自身で存在することも、その理由も持っていません。リンゴはリンゴの木が必要で、木には土も水も太陽も必要です。何をさかのぼっても、それ自身で存在する原因を持たず、それ自身で支える力も持ちません。すべては何かによって造られたので始まりがあり、何かによって保持されて(支えられ、保たれて)いるからです。しかし、キリストは唯一、その存在を他者によりかからないお方であり、すべてを支え、保っておられるお方です。あなたも、あなたの周囲も、この世界もすべて治めておられます。このような能力、知恵は私たち人間には絶対に無理です。また、人が作ったどんなにすぐれた機械やコンピューターも無理です。こういうものには修理やアップデートが必須であり、失敗やエラーがあるからです。しかし、キリストは完全であり、神であられるので、すべてを保持し続けることが可能です。しかも、世の初めから終わりまでその働きをやめることなく、疲れることも劣化することもなく、治めておられます。このことのゆえに、私たちはキリストを信頼し、礼拝し、賛美することを決してやめません。今の暗い世にあって、キリストに栄光をもたらす生き方をする私たちこそ、勝利者です。


さらに、キリストがすべてを足の下に従わせていることと合わせて、神は「キリストを・・・かしらとして教会に与えられました」(22節)と続けます。これはこういうことになりますね。


【図を見せる】


キリストは「かしら=すべてを従わせるもの」として君臨しておられます。すべての権威、歴史はこの方の前にひれ伏します。死もこの方をつなぎとめることはできませんでした。罪もこの方を滅ぼすことはできませんでした。誘惑もこの方を倒すことはできませんでした。神であられるだけでなく、人となりすべての誘惑に打ち勝ち、罪を犯すことなく、けれども十字架の死には従われ、私たちの罪の刑罰を受けてくださいました。それから三日目によみがえり、天に昇り、神の右の座に着いておられます。キリストは今も生きておられます。これから先も永遠に世界を治められます。そういったことをすべて含めて、キリストはかしらなのです。そして、23節を見ると「教会はキリストのからだ」(23節)とあるので、この図のようになります。


かしら=キリスト、からだ=教会、足の下にあるもの=この世


これがみことばの示している世界観です。私たちはいったいどこに連なっているでしょうか。からだの部分ですね。決して、足の下にあるこの世の下に私たちがいるわけではありません。そうしたむなしさ、暗闇から私たちは救い出されたのだからです。キリストがこれらの上におられるのに、私たちがこの世の権力、出来事、もろもろの霊や誘惑、時には自分自身にも負けてしまってはからだの芯が折れてしまっているのと同じ状態です。私たちは、どんな世にあっても、かしらにつながって、背筋を伸ばしていなければなりません。さあ、顔をイエスに上げましょう!!


Ⅲ.教会を満たすキリスト(23節)

さらに、教会について言及してパウロの祈りが結ばれています。「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」(23節)。


キリストはすべてのものの上にたち、すべてを足の下に置いて従わせておられる王でありながら、ここでは「教会のかしら」として記されています。主イエスにとって教会がどれほど大切で、特別な存在であるかが分かります。「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)ともあります。キリストがご自分を犠牲にし、そのいのちと引き換えにして買い取ったものこそが教会=福岡めぐみ教会です。それで、教会はキリストのからだ=キリストご自身だと言われるのです。教会の価値はとてつもなく重いものであることを覚えましょう。教会は、人間の寄せ集めではなく、キリストがここに生きているように神の性質を表し、福音を知らせ、人々に仕え、救いへと導くキリストのからだなのです。ここで行われるいっさいのことが、キリストが生きている姿を現しておられるようにしなければなりません。だから、この世に落胆していたり、教会内の交わりや集会に疲れてしまって・・・なんて言っている暇はないほどなのです!キリストが生きておられるように教会は動いているだろうか。この使命を授かっているのは教会=福岡めぐみ教会に他なりません。からだは勝手に動きません。かしら(頭)の命令によって動きます。制止されるのもかしらによります。私たちの教会=あなたは、どんなときも、いかなる状況でも、かしらである御子からの命令、願い、期待、導きを受け取ってから動かされているでしょうか?

私たちの救いは今抱えている重荷や悲しみが解消されることでも、自分の願い通りに生きられるようになることでもなく「キリストの姿を現す生き方をすること」です。世に打たれ、疲れ、迷っていた私たちにとって、このことが救いなのです。


私たちをそのことに向かって励ますために「すべてのものを満たす方が満ちておられるところ(=教会)」と「満たす」という言葉を二使って結ばれています。訳出が難解な箇所として知られているようですが、整理しながら見ていきましょう。


これは「かしらとからだ=キリストとからだ」がバラバラに存在しているのではないことの念押しです。ただかしら(頭)が命令してからだ(体)が動くのではありません。そんな無機質なつくりを神さまは造られません。「すべてのものをすべてで満たす方が満ちておられる」のですから、もっと有機的で、いきいきとしている姿です。


たとえば、キリストの命じられることを行うのがからだの役割だとだけ理解していると、苦しみも背負う地上の旅路を、あなた一人で頑張って行かなければ、となります。しかし、主は満たしてくださるお方です。すべての領域、どんな状況、いつでも満たしてくださるお方です。「満たす」とはあなたに目を注ぎ、あなたの声を聞き、あなたと交わりを持ち、あなたとともにいてくださり、あなたを最大限理解してくださらなければ決してできないことです。どこかに遠くにいて「満たすよ~」とか「励ますよ~」とか言われても、私たちには届かないからです。死からよみがえったキリストは、今も生きておられます。全能であり、すべての権威よりも上にあり、すべてを足の下に従えておられる方なので、あなたを満たすことがおできになるのです。心がからっぽになってしまったとき、孤独でどうしようもないとき、怒りに震えるとき、うまくいかずに絶叫するとき、この方がそのひび割れた心を満たしてくださるように祈ってみませんか?それができるお方だと信じて近づいてみませんか?


私たちは、苦しみを味わっているときほど、キリストが私のうちにおられることを実感できるのも真実だからです。たとえば、普段、息をしていて酸素がありがたい!とはそんなに思わないとしても、息切れをしたり、呼吸の苦しい状態になったならば、酸素ほどありがたいものはないと感じるはずです。同様に、苦しいときほど、キリストのありがたみを体験することができるのです。また、私たちはかしらなるキリストのことばに諭され、教えられたところに従っていくことが期待されています。クリスチャンの歴史は迫害の歴史でもありました。石投げ、投獄、水攻め、火あぶりの刑にさらされながら、終わりまで信仰を抱きつづけることを選びました。現実の生活の中で苦しめば苦しむほど、その信仰は弱まるどころか、かえって強くされました。クリスチャンの喜びは、自分がキリストに似た者にされることだからです。かしらなるキリストの御旨を果たすことだからです。ですから、キリストのために苦しみ、キリストのように扱われることが、クリスチャンの最大の栄誉であり、最高の誉め言葉です。現代にキリシタン迫害時代のような刑罰はなくても、信仰を表明することで後ろめたさや気まずさを感じ、白い目で見られることもあります。しかし、ののしられ、あざけられても耐え忍ばれたキリストがこの内側で働いて、あなたを燃やし続けてくださいます。


この世に惑わされやすいからこそ、天にあるものを見上げてこの地上で生きていく。みことばと信仰と交わりによって、私たちは力をいただきます。今週もキリストのからだとしてその栄光を現しましょう。かしらなるキリストの御声を聞き、キリストを仰ぎ見てまいりましょう。

<了>


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