聖書 エペソ人への手紙4章17~24節 |
今朝はいつもより少しめに合計8節分を見ていきます。
始まりの17節には「歩む」という語が二度出てきます。聖書は私たちの人生、日常、生活、生涯、営みを「歩む」という語で表現しています。それは、①歩み=自分の足、自分自身のことである、②歩み=毎日少しずつの積み重ねである、③歩み=行く先、方向があるといった意味が含まれていると考えると、ここでの語りかけをより具体的にイメージできます。
そして、歩みをたしかにするためにはどこへ向かっているのか、それを確かめるためには「コンパス」が必要です。(図を見る)コンパスには赤い印がついていて、それは常に「北」を向いています。見る者、歩む者が間違った方向に行ったり、迷ったりしないためですね。そのコンパス、私たちの信仰の歩みにも必要となります。もし、自分の感覚で突き進んで行ったとしたら、その先には何が待ち受けているでしょうか。
1. コンパスは自分(17-19節)
❶ 知性、心、行い
コンパスなしで進む場合、どうなるのか。それが17節からズラズラと記されています。聖書の特徴として、例を挙げだすと止まらない箇所があります。たとえば「御霊の実」が記されているガラテヤ5章では「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)と9つが続けて列挙されます。最初の3つぐらいはスラスラと出てくるかもしれませんが、全部となると本気で暗記しないと覚えられないほどですね。しかし、それとは反対の肉のわざが御霊の実の前には挙げられています。「淫らな行い、汚れ、好色・・・」から始まって「・・・泥酔、遊興」(5:19-21)まで実に15の肉のわざ(罪の具体的リスト)が挙げられています。御霊の実9つに対して、罪のリストは1.5倍以上の語彙力を使っています。イエスさまも内側から出てくるものが人を汚すのだと言われて、やはり12個のリストを並べて(ほんとはもっと言いたい、言えるのだよと言わんばかりです)、人の罪の多さ、素早さ、身近さ、根深さを指摘されています(マルコ7:21-23)。
同じように着目すると、ここでは①知性において暗く、②無知、③頑なな心、④無感覚、⑤好色に身を任せる、⑥不潔な行いを貪ると文章になって並んでいます。それは「神のいのちから遠く離れている」(18節)状態であり、その行き着く先は「腐敗していく」(22節)とはっきり示されています。なぜなら、これらはすべて「人を欺く情欲」(22節)だからです。私たちが主の方を向かないで、主を仰ぎ見ないで、聖書を無視して「自分の知性」により頼むならその先にあるのは腐敗です。なぜなら知性が暗くなっているからです。私たちが神に従わず「自分の感覚」に従うなら、その先にあるのは腐敗です。腐って、異臭がし、良いものを生み出さない地です。なぜなら、神や聖なるもの、罪に対して「無感覚」なので、正しいことができないからです。いや、もっと純粋な「心」に素直になればよいのではないか、と言いたいかもしれません。しかし、その心は「頑な」(字義的には冷淡である)なので、神に同意できるわけでもなく、聖なるものへの情熱もないので、ひたすら自分にとって都合のよい、自分の目によいものばかりを選び取るにすぎません。こうして、私たちは知性、心、感覚のすべてにおいて間違った歩みをする存在なのだというメッセージを突きつけられています。
さらに、こうした内面だけでなく「好色に身を任せ」、「不潔な行いを貪る」と具体的な行動、罪の行い、積み重ねが起こっていると続けています。身を任せるとは抵抗しないことです。自分の気分や感覚にしたがって行動するので、定まりません。また、貪るとは、一線を超えないように踏みとどまるとか、ある程度のところでストップすることができない。こうした悲惨な状況に取り囲まれていることにハッとさせられているでしょうか。
❷ 「常に正しい」ところを基準にする
これに反発を覚えるでしょうか。反感を抱くでしょうか。少しぐらい良いことだってする。いつも、すべてが間違っているわけではない。神は、聖書はそんなことさえも否定するのか、と。初めに見たように、実はコンパスは「常に正しい方向」を示していなければ役に立ちません。同じように、私たちも「常に正しいお方」を基準にしておかねばなりません。あるときはこっちの方角を、次にはこっちの方角をと色々な方角を示すコンパスを使っていたら、迷ってしまうからです。たとえ、あるときには私たち人間の感覚や心、考えが正しかったとしても、それで「常に正しい」と信頼できる、自慢できるわけではありません。今日は3つぐらい確実に御心を行ったと安心していたとしても、神の目から見ると「神のいのちから遠く離れている」状況でしかありません。なぜなら、自分の感覚や知性からではなく、神がご覧になっている自分の状況を知ることが、ここで「厳かに勧められている」(17節)ことだからです。心には痛いけれど、少しムカッとするけれど、学校や教科書で習ったこととは違うけれど、神の真理に触れられ、軌道修正されることの方が、私たちにとっては益だからです。この世で一時的に平安で、成功し、身を安全に、居心地よく過ごしても、永遠のいのちを損なったなら、何の益にもなりません。一時的にしか通用しない、その場しのぎの解決は、永遠に役に立たないものです。ぜひ、唯一正しい道を示し続けるコンパス、神のことばである聖書を指針に歩みましょう。
2. 真理のコンパスはキリスト(20-21節)
❶ キリストこそ真理
20節は「しかし」から始まっているように、この間違ったコンパスから正しいコンパスへ目を向けるようになっています。正しいコンパスとは、「キリスト」であり、「真理はイエスにある」(21節)と20-21節にまたがって真理の橋をかけています。無知、無感覚から修正されるどころか、貪りから解放され、闇から救い出すのは「イエス・キリスト」おひとりです。「真理」とは本物である、これ一つしかない、これ以外にないということです。真理がいくつもあってはいただけませんものね。たとえ「今は多様性の時代です。真理も複数あってしかるべき、認めるべきでしょう」とか「だからクリスチャンは非寛容と言われるんですよ。自分のところだけ認めて、他は違うとおっしゃるんですか」とにじり寄られたとしても、「真理」を動かすことはできません。それは、自分が前に出て「イエスさま、ちょっとうしろに下がっててください。余計なこと言わないでください。邪魔をするならあっちへ行っていてください」と制するようなものです。人から責められて困ってしまう時、寛容じゃないと指摘されるときはみことばを思い出しましょう。
「主の真実は大盾 また砦」(詩篇91:4)
「あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17:17)
神が真実、真理ですから、そのお方に守っていただくことが確実です。あなたが真理を守ったり、弁護したりするのではなく、真理があなたを守り、かつ自由にしてくださいます。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)
❷ 学び、聞き、教えられる
この真理、キリストを知るための方法があります、。それは「学ぶ」(20節)、「聞く」「教えられる」(21節)です。知性や感覚、心を真理になじませるためには、瞑想や修行ではなく「学び、聞き、教えられる」ことがなければならないという箇所です。なんだか、とても教育的、勉強的な響きになりますが、重要なことです。
なぜなら、私たちは「キリストを知る」ことを大切にするからです。「まあまあ、よく分からなくても洗礼とか受けておきましょう」とは勧めません。私たちが何を信じているのか、どなたを信じるのか、何を頼りにしているのか、救いとは何か、確かな救いなのだろうかということを可能な限りよく学びます。それは信じるハードルを上げることではなく、信じていること・内容・お方をはっきりと知ることが大切だからです。その土台が信仰生活、クリスチャンライフを長続きさせ、支えてくれるものになるからです。使徒の時代が終わってからの教会はこのあたりをしっかりと取り組み、資料によれば洗礼志願者は3年間、教育をほどこしたとあります。(今であったら、ここまで厳しく引き伸ばせば、その間に洗礼を受けるのをやめてしまう人も出てくるかもしれませんね・・・)ただ、それくらい教会での教育を大事な位置づけにしていました。それは救いの確信、根幹となるものだからです。ローマ皇帝が神、主とされる中で、イエスを主と告白し、迫害社会の中でイエスを主として生きることは大変なことだったからです。それを支えたのが、彼らが学び、聞き、教えられた信仰であり、その内容であり、唯一の真理なのでした。
それは「なんとなく信じている」「よくわからないけれどありがたい」という無知、無感覚から私たちを救い出します。お守りやパワースポット、占いや池に向かってコインを投げるなど・・・・・・他宗教、信仰の世界は意外と知性を否定するもの、教育を重視しないもの、根拠を持たないものが多くあります。そして、「知識と信仰とは別だから」、「信じる心の方が大切だから」といとも簡単にそのような間違った教えに飲み込まれてしまう人が少なくありません。福岡めぐみ教会の礼拝や交わりでは、試験のような厳しい審査、知識の詰め込みのようなやり方ではなく、キリストを知る喜びと信仰の足場を築き、確認していけるように喜びをもって学び、聞き、教えを分かち合いたいと願っています。
3. 脱ぎ捨て、着る(22-23節)
❶ 古い人を脱ぎ捨てる
「その教えとは」(22節)で学び、聞き、教えの内容が展開されていきます。それを「脱ぎ捨てる」「着る」という劇的、動作的な表現をしています。まずは「あなたがたの以前の生活について」深掘りをしていきます。17節では「異邦人がむなしい心で歩んでいた」と指摘していましたが、実は、クリスチャンになる前の人はすべての人が神のいのちから遠く離れた異邦人であり、2章11~ 13節でも「異邦人」、「無割礼の者」、「契約については他国人」「この世にあって望みもなく、神のない者たち」「神から遠く離れていた」と似たような言葉で評されています。それはたとえ肉において割礼を受けていたイスラエル民族にとっても同様でした。すべての人は、キリストを学び、聞き、教えられる前は「古い人」と呼ばれる、自我によって生きる存在でした。その古い人の行き着く先は「人を欺く情欲によって腐敗していく」(22節)ものです。それまで頼りにしてた自分の知性、感性、感覚、この世での成功うんぬんはすべて「人を欺く=だます」ものであったとの教えです。それは「腐敗=破壊、滅び、廃墟」になるだけの道であり、生き方でしかない。それを「脱ぎ捨てなさい」と強い語調で迫ります。
古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る。クリスチャンの境目がここにあります。
このような変化が起きていなければならない。このようなアクションがなされていなければならない。このようにしたのだという自覚がなければならない。このような証しがお一人おひとりにはあるでしょうか?「以前の生活」がどのようなものであったか。私のことで言えば、本棚が音楽雑誌から神学書になりました。日曜や休日はバイクで遠出していたのが教会の礼拝や集いや交わりに費やすようになりました。(今でも言葉使いには気をつけなければなりませんが)会話が自分の方が偉い・できるぞというものから、人の考えややってきたことを聞くのが楽しみにになりました。自分がこのようにしてきたのだ!と照明することから(以前よりは)自由になりました。何より、人生の主人公が自分から主に変わりました。何か立ち起こってくること、起きてしまったこと、これからどうなるかという将来について、「主」を前に置いて考えることができるようになりました。人との交わりを持つ時、中心は自分ではなく主であるように、主がいてくださるように願いながら過ごすようになりました。25年の間、クリスチャンである両親を見て育ちながら、何の意味があるのかわからなかったのに、クリスチャンは天国行きの切符をもらうだけでなく、日々の生活に変化が起こるのだと知るようになりました。今朝の始まりにみた「歩み」と直接関わるものなので、日々に影響をもたらします。以前の生活、歩みとは違うものにされていく。ぜひ「古い人を脱ぎ捨てる」ときには、具体的な変化を振り返りましょう。それは「私たち一人ひとり・・・恵みを与えられた」(7節)のと同じく、必ずあるものです。
❷ 新しい人を着る
その反対が「新しい人を着る」ことになります。古い人を脱ぎ捨てただけでは半分で、新しい人を来た生活、歩みをするのです。この新しい人の特徴は「霊と心において新しくされ続け」(23節)るものです。あれほどまでに「頑なな心」(18節)であったのが、変えられていく。「新しく変えられ続け」と詳細に訳されていますね。変えられるということは受け身です。神さまが私たちの頑なな心を変えてくださいます。自分の感覚や知性、欲に身を委ねるのでなく、主に委ねる(任せる)ともたらされるみわざがこの変化です。以前では考えに及ばなかったことが示される、昔であったら絶対に譲れなかったのに赦す心になる。そのようにして、主はあなたを新しくしてくださいます。また「新しくされ続ける」とあるように、これは現在進行形です。完成はされていません。未完成、途上であるけれども、新しくされ続けるという方向にコンパスが向き、それに従うかぎりにおいて、間違ったことやさばかれることは何一つありません。
さらにこの新しい人は「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた」(24節)存在です。無理矢理に新しい人として意識しなくても、神がかたどって造られた新しい人を着て歩む。これからは、主があなたのために造ってくださる新しい服(人)を着るのです。たとえば、人との関わりで衝突が起きたとき、以前であれば「わざとじゃないから」と言い訳をしていたかもしれません。仕事で失敗をしたなら、それが大事にならないように、バレないように画策していたかもしれません。しかし、それは古い人の生き方です。自分の知性や感覚でどうにかしようという古い服の人です。けれども、これからはキリストが着せてくださる服があります。それはあなたの恥を覆ってくださるものだということです。キリストがあなたの罪を背負ってくださったので、あなたはもう自分のおかした罪を必要以上に隠したり、ないように振る舞ったり、謝ったら立場が終わり・死ぬ・・・などと意地を張らなくてもよくなります。素直に罪を認め、赦しを求めることこそ、主があなたに造ってくださった新しい人です。対人(たいひと)で、虚勢を張って強がったり、いい人に見せようと繕ったり、自分の非やミスを認めないようにする必要がなくなりました。それらの傷や恥は、キリストが覆っていてくださっているからです。
さらに、もし自分に自信が持てない、自分は誰からも愛されていない、頼りにならないと思うことがあれば、ぜひ思い出してください。主があなたをすでに愛してくださっています。あなたのいない永遠など考えられないと、いのちの犠牲を払ってその愛を十字架で示してくださいました。あなたは愛されているんだよ、もう頑張らなくて良いよ、自分を見て自信がないと落ち込まないでも良いよとおっしゃってくださいます。このキリストの愛を着てみませんか?それは疲れることも、自信を喪失することもありません。なぜなら、この新しい人は完璧を目指すのではなく、真理に向かって歩むのだからです。何をしたかという行いやどれだけわかっているか、やっているかという程度・量の問題ではなく、どこへ向かっているか、目指しているかという姿勢・態度・コンパスの問題だからです。その意味で、もはや古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るあなたがここに誕生しています。 <了>
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