top of page

「新しい計画」

聖書 ヨハネの福音書14章6節



主の年(A.D=Anno Domine)、2025年が始まりました。礼拝からともに始められることを感謝します。今朝は新たな年の始まりに際して、ヨハネ14:6の一節からみことばを聞いてまいりましょう。ヨハネ14章で主イエスは「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と始め、「あなたがたに場所を用意したら、また来て・・・わたしのもとに迎えます」と話されました。弟子たちが不安や心配で心がちぎれないために主イエスを信じるように命じ、またご自分はやがて(十字架につけられ、死んで、葬られ、よみがえり)見えなくなるけれども、また必ず迎えに来るからと励ましています。

このように、主イエスにははっきりとした計画と道が見えていますが、人間である弟子たちにはそれが分かりません。そこでトマスが「どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と聞いたときの答えがこの14:6です


「どうしたら、その道を知ることができるのか」という問いに対し、主イエスは「わたしが道です」と返されました。私たちはいつも方法を求めます。どうしたらいいのか分からず迷います。しかし、大切なのは「主イエスご自身を求めること」です。イエスが与えてくれるもの、してくれることに目を奪われてしまうと、主イエスご自身を見失います。たとえば、あなたの誕生日に、家族からプレゼントをもらったことを想像してください。

その贈り物が自分の好みではなかった場合、どうしますか?これは実際にあった話ですが、①ありがとうと言う(不満は伝えない)、②嬉しい。けど本当に欲しいものとは違うと言う、③レシートをもらって返品する。これら3つの中からどの行動をしますか?①が大半、心の中では②というのがおおよそでしょうか。まさか③を選ぶ人はいません。一人、この③を選択した人を知っています。それは私です。ある年、妻が誕生日にくれた万年筆があったのですが、私はそれをすでに持っていたので、レシートをもらい、色違いに替えてもらおうと考えました。そして購入した店へ行くと気に入った色がなかったので、ついに返金してもらったのです。そのことを妻に伝えると・・・その後はご想像にお任せします。贈り主ではなく、贈り物しか見えていないとき、悲劇は起こります。


では、ここで「わたしが道です」と言われたみことばと新年の計画とを照らしてみましょう。もし、私たちが自分の思いにとらわれて、主を見失っていたら、その計画自体が誤りです。このあたり、本日のコラムにも記しましたので参照してください。私たちにとっての悲劇は、「主が与えようとしている恵み」を考えないで計画を立てることです。主を忘れて(あるいは端に置いて)、願いや計画を立てて進むことです。主が願っておられない方向に多くの努力や時間、お金をかけているとしたら、それはむなしさに向かう前進です。

それで、主の御心にかなった計画を立てることが重要です。御心にかなった計画とは、すなわち「わたしが道です」と言われた主イエスに沿った計画です。それは私たちが考えて作る道ではなく、私たちが招かれている道ですね。それで「今年、私がしたいことは何か。なりたい自分は何か」よりも、「今年、主が私に与えたいものは何か。主はどんな私になることを望んでおられるか」に思いを巡らしてみてください。たとえば、主が私に「今年、あなたはプロ棋士になってほしい」と言われないことは明らかです。どれだけそれが気に入ったとしても、私に与えられた牧師の召命とは違うからです。


今、あなたに与えられている思いと「主イエスが道」とが一致するのかよく考え、また祈ってみましょう。道は踏んで前進するためにあります。主が与えようとしている恵みをし、受け取り損ねることも悲劇ですが、その祝福を考えもしないことはさらに悲劇です。私たちのいい加減さ、怠慢、惰性、消極性によって(強い語句でごめんなさい。しかし、これらが痛点です)、主が与えようと待ち構えている祝福をもらい損ねることは、ぜひとも避けたいのです。ひととき、「主があなたに与えようと願っている恵み」は何かをたくさん考えましょう。新年はそうするのに良い機会です。静まってひざまづき、「主よ、どうぞ語ってください」、「主よ、どうか教えてください」、「主よ、この私に見せてください」と求めましょう。


2. 真理


続いて主イエスは「わたしが真理です」と言われました。この前の「道」もこの後の「いのち」もすべて並列でつながっているので、同じ熱量で読むことが求められます。ジーザスは「道、真理、いのち」です。「真理」は私たちがその道を確信するためにあります。誰も間違っているものや、誤りかもしれない道を進み行くことはしません。「この道間違ってるかも~」といって進むのは変な意地を張っているときだけですね。しかし、「真理」があれば、知性で確認し、道を続けて進む力が出てきます。


2010年に家族でカナダの宣教師を尋ねる旅をしました。まだスマートフォンが普及しておらず、レンタカーにもナビが付いていませんでした。そこで、本屋でカナダ・アルバータ州の地図を買って向かいました。エドモントンからカルガリーの300キロほどの道のりです。動き出しは初めて見る景色や旅行の楽しさも手伝って、車内の雰囲気も良かったのですが、時間が経ってからは運転手である私以外は眠っていました。カナダでしかも内陸の縦断道なので、日本ほど丁寧な案内板が設置されていません。街灯もなく、地図を頼りに道を進むのですがやがて真っ暗になり、本当に心細くなりました。それでも家族は寝ています。途中、何度もこの道をこのまま行っていいのか、果たしてこれで合ってるのか不安に駆られたのですが、地図しか確認方法がありません。

所々農場があり、小屋に電気が付いていますが、突然尋ねて聞く勇気もなく、地図通りに運転することだけが安心材料でした。そして、ついに遠くに町の灯りが見えてきました。スリーヒルズという丘にある町で、目的地でした。その光を見て、本当にほっと安堵しました。私をその道から外れずに導いてくれたのは一冊の地図です。またそこから宣教師の家を特定するのが一仕事だったのですが、眠りから覚めた妻が、ある家の窓から眺めている女性がかつてお世話になった宣教師夫人であることを見つけて、ついにたどり着きました。あの心細い経験は忘れ得ない旅の思い出です。


同じように、私たちの行く道には不安がもれなく付いてきます。主も「世にあっては苦難があります」(ヨハネ16:33)、「あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」(21:18)とも言われました。主イエスといっしょに行く道も平坦で気楽なことばかりではありません。自分が望まないところへ連れて行かれるような過酷な道です。そんなとき、「真理」を思い返す必要があります。もし、私たちがいつでも、どこでも、どんな目にあっても主を賛美できたら、どんなにいいかと思いますが、それは人間ではありません。苦しみにあいました→「主よ、あなたは素晴らしいお方です」、試練にあいました→「主よ、あなたの計画は完璧です」、病気になりました→「主よ、これこそ恵みです」

こんな応答が即座にできとしたら、プログラムで仕組まれているA.Iです。隣にいたらちょっと気持ち悪いくらい程です。しかし、主は私たち人間をそのようには造られませんでした。モーセは私にはできませんと言い、エリヤはもう無理です、死なせてくださいと願い、ダビデも敵を消し去ってくださいと祈りました。試練や苦難をすぐに受け入れることはできないのが人間です。もがき、叫び、背を向けることもあるのが人間です。主はそのような人間を導いてくださるお方です。その道に足を置いた私たちを守り、約束を成し遂げてくださるお方です。それを確信するのが「真理」です。迷ったときにこそ、悩んだときにこそ、間違っていない「真理」が力になります。


3. いのち


結びに主は「わたしはいのちです」と言われました。主は私たちを祝福してくださいます。そのために道を備え、真理をもって導かれます。そして、そこには必ず「いのち」を味わいながらたどり着くのです。これの前に、主は「真理はあなたがたを自由にします」(8:32)と言われました。私たちは、神に従うことを自由が奪われるのではないか、束縛だと感じることがあります。クリスチャン家庭の子どもや求道中の方は特にそう感じるかもしれません。しかし、ここで「いのち」もセットになっています。それは「真理」を握って「道」を歩むことは、私たちに「いのち」与えるものだということです。

主に従うことは、生きた心地を持つ最良の道です。神の真理を握って生きるように造られているからです。そこから離れていのちはありません。主こそ、私たちを真の意味で生かす唯一のお方です。


フランスで長寿の女性についての記録があります。彼女が90歳になった時、相続人がいなくなったので弁護士に相談しました。その弁護士の提案で、彼女の所有するアパートを相続する代わりに、生涯の間、毎月7万円の生活費を彼女に支払う取り決めをしました。その建物は支払い10年分くらいの価値があったそうですが、弁護士は彼女が90歳なので、少しすれば支払う必要がなくなるだろうと計算して、契約をしました。結局、彼女は122歳まで生きました。実に契約から32年間です。

一方、その弁護士は契約した時47歳でしたが、77歳で死にます。つまり、弁護士の計画(思惑)は崩れ、彼女は彼よりも長生きしたのです。


いのちは自分のものと考えているかぎり、他人のいのちや価値さえも計算して、利益を得ようとします。しかし、いのちは主の御手にあり、私たちはどれだけ主の真理に忠実、熱心であるかでいのちを体験し、喜びを感じます。ジーザスに出会うことは、あなたにとって最大の宝です。この方こそ、あなたの行く道そのもの、真理そのもの、いのちそのものだからです。主の祝福をいただきましょう。


最新記事

すべて表示
「主を待ち望む」

聖書 詩篇130篇 どこから主を 今朝の礼拝から、しばらくの間2025年間テーマ「主を求め、みわざを味わう」のシリーズに入ります。具体的に、主を求めることを学びたいと願います。今朝は詩篇130篇。表題に「都上りの歌」と付けられています。詩篇の中で一番長い119篇の次120篇...

 
 
 
「ブレるな」

聖書 ホセア書10章12節 耕地の開拓 本日は2025年間聖句のみことばを味わいます。年間聖句は、目当てがはっきりするように、ホセア10:12の中から2行を抜き出していますが、本日は10:12全体(6行)を見てまいります。...

 
 
 
「いのちのパンを」

聖書 マタイの福音書 26章26-28節 はじめに~聖餐の意味と招き~ 本日は今年1回目の聖餐礼拝を行います(年4回を計画)。聖餐式は、イエス・キリストが教会に守り行うように命じられたもので、教会はこれを2,000年間守り行っています。聖餐式を執り行うことは、歴史的な教会に...

 
 
 

留言


福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

Fukuoka Megumi Church

日曜礼拝

 歓迎主日礼拝 10:30am-12:00pm

お問い合わせ

〒819-0041
福岡県福岡市西区拾六町1-22-19

メールはこちら

​電話番号は0922042386

© 2014 by Fukuoka Megumi Church. Proudly created with Wix.com

bottom of page