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「新たな十戒」

執筆者の写真: 大塚 史明 牧師大塚 史明 牧師

聖書 エペソ人への手紙4章25~29節

 今朝は予定より少し短い聖書箇所となりました。25-29節は、本日のタイトルにもあるように「新たな十戒」として、読むことのできます。それぞれがどのように呼応しているのか、また聖書全体に貫かれている真理に期待を寄せつつ、ともに神の言葉に聴いてまいりましょう。具体的には、新約の光を通して旧約を読み、旧約の土台の上で新約を読むことです。そうすることで、偏った律法主義や放任主義から守られ、神の御心を受け止めることができます。


1. 怒りについて(26-27節)

❶ 怒りを治めなければ・・・

26節から始めます(25節は最後の29節と一緒に見ます)。ここは「怒り」について述べられています。「怒っても罪を犯さず、憤ったまま日が暮れてはならない」。日は毎日明け、毎日暮れるものです。もし毎日これを聞くとしたら、毎日怒っていることになりますね。そのくらい、怒りは私たちにとって身近であり、ある意味当然の感情でもあります。そうした私たちに慰めを与えるように「怒ってはならない」ではなく「怒っても罪を犯してはなりません」と教えています。なんだ、怒ってもいいのだ!と早合点し、自分を肯定したくなりますが、もう少し注意深く読んでいく必要があります。


実は、この節は十戒ではいわゆる第六戒にあたります。それは「殺してはならない」(出エジプト20:13)です。「怒ってはならない」がどうして「殺してはならない」につながるのか疑問に思われるかもしれませんね。「殺人」で思い出すのは、人類最初の殺人、カインがアベルを殺した記録が創世記4章に出てきます。その発端となったのはカインの「怒り」でした。しかも「激しく怒り」(創世記4:5)と記されるほどのものです。激しい怒りは、人を殺すほどのエネルギー、力を暴発させてしまうものです。カインは「それを治めなければならない」(創世記4:7)と言われた主のことばに従うことができませんでした。それも「怒り」によるものです。怒りは隣人を、家族を、友を傷つけ、正面から見つめることができないようにし、表情をこわばらさせ、互いの距離を広げ、心の中で殺し、時には本当に手をかけて息の根を止めてしまうほどの力を持っています。そして、残念なことに誰もこの「怒り」から自由な人、怒らない人というのはいません。誰もが心の中で、目で、表情で、行動で怒っています。誰から見ても怒っているように見える人は、まだその見分けが付きますが、表面的には穏やかな人でも心のうちには嵐が吹き、波風が立っているものです。ある神学者はそういう人を「怒れる聖人」と称しました。

しかし、この節は「怒ってはなりません」ではなく「怒っても、罪を犯してはなりません」とくくられています。罪を犯さないように怒るのではなく、怒っても罪を犯さないように治めることです。具体的には「憤ったままで日が暮れるようであってはいけ」ないのです。これと似たところでは「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい」(ヤコブ1:19)が思い出されますね。ここでは「怒るのに遅く(Slow to Anger)」ですが、今朝見ているエペソでは「早く怒りを治めよ(Quick to Stop Anger)」ということになります。これは、もし私たちが自分の怒りや感情、不満通りに生活をしていたら隣人との生活が成り立たなくなるからです。せっかく「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい」(エペソ4:1)と勧められていたのに、主の召しではなく、自分の思惑通りに歩んでいたらそれは残念なことですし、いつまでたっても成熟や結実を見ません。


なぜ、怒りを早く処分しなくてはならないかと言うと、それは「悪魔に機会を与える」(27節)ことだからです。これは「悪魔が働く余地、場所、スペースを与える」という意味です。本日からサッカーのワールドカップが開催されます。昨今のサッカーで大事なことは「スペース」の奪い合いです。相手チームのフォワード(攻撃陣)が自由に使えるスペースを与えてしまうと、あっという間に失点してしまいます。だから、得点を奪われないためにできるだけスペースをつぶして防御します。そして、もし私たちが怒るならば「悪魔が自由自在に動くことのできるスペースを与えてしまっている」ことになります。その先にあるのは悪魔の得点、歓喜です。また一人、神から引き離してやった、神の役には立たないと失望させてやったと悪魔が喜ぶのです。


❷ 十字架につけた罪

では、どのようにしたら怒りを「早く治める」ことができるのでしょうか。日が暮れそうになったら、ヤバイヤバイと切り替えられるものなのでしょうか。怒りをうまく処理でき、なかったこととして水に流すことができるのでしょうか。怒りと「殺してはならない」が密接につながっていることを最初に申し上げました。実は、私たちにとってこの戒めはキリストに対してしてしまったことと関係があります。私たちはキリストを「十字架につけた」罪を持っています。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた」(ローマ5:8)ことは明らかだからです。その意味で、私たちはキリストの死に無関係ではないのです。私たちこそ、私こそ、あなたこそ、神の御子イエス・キリストを十字架につけて殺した張本人なのです。殺人に関与してしまった。それは罪深さを抱えている、怒りを治めることのできない私たちのそのままの姿。そして「怒っても、罪を犯してはなりません」とのみことばを聴く時、このことを思い出さなければならないのです。私が、この私がキリストを十字架につけ、殺してしまった。どうしようもなく恐ろしい罪を持っている。しかも、それを簡単に治めることも、気づくことさえできていない。しかし、その十字架によって、神の怒りから救われた(ローマ5:9)。私たちの怒りはキリストに向けられ、私たちの怒りはキリストを十字架につけ、殺したのです。だから、もう人をやみくもに傷つけること、自分の気分次第であたり散らさないこと、怒っても罪を犯さないことを学ぶようになります。


なぜなら、キリストが身代わりとなって死なれことによって、あなたを生かそうとしてくださったからです。神の御子へりくだって、いのちまで差し出してあなたを生かしてくださったのであれば、私たちこそ、小さな正義、臭いこだわりを捨て、隣人を「生かす」ようでなければなりません。これ以上十字架の死を粗末に、雑に扱ってはならないのです。こんな私たちとご自身を引き換えにしてくださったキリストの愛をしっかりと受け取り、十字架をしっかりと見つめ、私の怒りは人に向けるべきものではないこと、自分が生かされたように人を生かすことに目一杯傾いていきたいと願わされます。


2. 盗みについて(28節)

❶ 盗みをしている

28節は旧約出エジプト記と同じ文言ですので、わかりやすいですね。けれども、「盗んではならない」だけでなく、積極的命令が続いているのにも気づきます。また「盗みをしている人は」と過去にあったことやこれからするなということよりも、現在信仰形なのでむしろ現在に焦点を当てて言われている点も気になります。「今、盗んでいる」ということにドキッとさせようとしているからです。この点はスルーしてはならないところになりますね。


では、ここで言われている「盗んでいる」とはどのような意味があるのでしょう。もちろん、商品や人のモノを盗むという意味は最初に出てくるものです。しかし、それだけでなく続けての命令を読むと「自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい」ということが言われていますので、これとセット(ペア)で考えることが良いと思います。注目したいのは「自分の手で」という点です。今はできるだけ「効率」が考えられ、優先され、求められる時代になりました。ゲームの攻略法、安い買い物の方法、効率的なポイントの貯め方、無人化など周りを見回しても「効率化」に囲まれて生活しているような気るほどです。それは「誰かが楽をするように回る社会」の体現でもあります。いかに楽に稼ぐか(こちらの蓄えに関係なく投資や簡単なお仕事の勧誘があふれています)、いかに楽をして人間関係を築くか(面倒なことには関わらない)、いかに楽をしてダイエットするか(冗談)など、目的達成のために効果のあることと面倒をさけ、力を残して立ち振る舞う効率とがごちゃまぜになっているように感じます。面倒だから関わらない、他の人がやってくれるから自分は動かなくてもいい・・・面倒な部分、余分なことを減らそうとするうちに、いつしか自分の手でなすべきこと、やれることさえも控えてしまうこと。これが「盗んではならない」で私たちが問われていることなのです。その裏返しが「自分の手で労苦して働く」という積極的姿勢、命令です。


自分の手を、時間を、頭を、足を「この方が効率がいいから。面倒じゃないから」と動かすこと、働かせること、使うことを控えていたら、このみことばにもう一度正面から取り組んでみましょう。あるいは上手に人を動かすことを覚えようとしているなら、あなたが動かしているその手は「他者の大事な手」であることを覚えたいと願います。そして、「自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい」という主の祝福がともなった命令を喜んで果たしていきたいと願います。


❷ 目的の変化(獲得するから分け与えるへ)

さらに、間に挟まれているのは「むしろ、困っている人に分け与えるため」という視点です。この「むしろ」は「分け与えるため」という仕事の目的を変換させるための「むしろ」です。私たちは、労働や犠牲をそれから得られる対価によって判断する傾向があります。「これをしたら、何になるのだろうか」「時給にすると・・・」と考えるのは、それが自分のため、自分で獲得するものだからです。しかし、主は「分け与えなさい」と、ここで命じておられます。それは、分け与えることが交わりの本質だからです。神さまは、この世界を私たちが交わりを形成し、交わりの中で過ごし、助け、助けられ、愛し、愛されるように願って創造されました。すべてのものには、私の名前、あなたの名前が付いているのではなく、主のものです。その主が、すべてのものを恵んでくださっているので、私たちは収入を得、財産を築き、生活が成り立っています。無理やり全部をささげたり、自分のものはいっさいないと無一文になることではなく、「自分の手で働いた」その分から分け与えなさいと言われます。これが教会を形成し、世を神の国の祝福で変えていく交わりの形、姿です。大きくなくてもいい、高価でなくてもいい、いつもでなくてもいい。大切なのは自分の手でしたことを、自分の手から他者の手へと受け渡すこと、分け与えること、分け合うこと。そこに主にある交わりの姿が現れ、その中に身を置かれていることの幸いを覚えます。そして、この私に、あなたに「自分の手で」と言われている招きに応えたいと願います。




3. 口について(25、29節)

❶ 悪いことばのいっさいを捨てる

最後は25,29節をいっしょに見てまいりましょう。「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」(25節)、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」(29節)。これらも十戒に当てはまるものが思い浮かびますね。これは第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」(出エジプト20:16)とつながっています。その偽りと対称にあるのが「真理」(4:15)「真実」(4:25)です。「真実を語る」ためには「偽りを捨て」(25節)なさいと命じられています。嘘や偽りを言わない消極的命令と真実を語るという積極的命令の両面があり、これらはセットになっています。偽りを言わないだけでは、主の命令の半分しか果たしていないことになります。


これが29節になると「悪いことばを、いっさい口に出してはいけない」(偽証してはならない)、「聞く人に恵みを与えなさい」(真実を語りなさい)というペアになります。このようにして、もともとは裁判の場面で「偽証」が扱われていたことを、私たちの生活の領域に意識させるような展開になっています。私たちは裁判においても、家庭においても、友人や知人関係においても、日曜でも月曜でも、偽証=偽りを捨て、真理を語らなけばなりません。そして、真理を語ることは、本当であればオブラートに包まなくても言葉にしてよいともなりがちです。たとえば、集会や奉仕に遅れた人に対して単刀直入に「あなたが来なくて困っている!どういうつもり!?」と言葉を勢いを付けて言うならばその場は硬直し、関係は悪くなります。「何か困った事があったのですか?急なことに対処してから来られるなんて大変でしたね。さあ、みんなで始めましょう」と言えたら違ったものが生まれます。真実にも配慮をもって伝えることが大切です。


このように、私たちが「偽りを捨て真実を語ることと」と「悪いことばを出さずに聞く人に恵みを与える」ことに取り組むことは、相手に居場所を作り、交わりにある平安を作り出します。それはそれぞれ「互いにからだの一部分なのです」(25節)、「人の成長に役立つ(=建て上げる)」(29節)という教会を建て上げるために、大事な営みだからです。私たちが真実を語り合うのは、お互いをあばくためではない、隠していること・隠されていることを暴露して恥をかかせるためではありません。それは「互いにからだの一部分=キリストのからだの一部分」として聖さを保ち、一致を保つためです。交わりを破壊しないために、腐敗させないために、真理を語り合うことが不可欠です。もし、私たちがうわべだけで付き合っていたら、それは大変居心地のわるい空間になります。想像してみてください。みんなが笑顔で、天使のようにほがらかで、「オホホ」「あはは」と言い合っていたとしたら、何か怖いですよね。「そのブローチ素敵ですね!」「その髪型、服、いや靴下までとっても似合ってます」と言われたら、なんだか窮屈です。もっと自然体で、人間味があってよいのです。しかし、「真理のことば・・・救いの福音」(1:13)、「真理はイエスにある」(4:21)ことをいつも掲げている。互いにイエスを主として交わりを持つ。間違ったことをしたり、言ったりしたら愛をもってそのことを伝え、悔い改め、和解し、ともに成長していく。そのことがあったからこそ、真理を大事にしたからこそ、後の糧になる。そうやって育まれることが教会に生きる恵みです。さらには、偽りを捨てるためには、不確かな情報やうわさに流されない、翻弄されないことも大事です。私たちが普段いちばんよく目にするもの、さわるもの、時間をかけるもの、気づいたらしていること・・・それが何なのかよく考えたいと願います。


スマホの掲示板やSNSばかり見ていれば、軽い言葉、根拠のない議論、一方的な主張しかしない偽証、偽装かもしれない映像にやられてしまいます。隣人に真実を語るための過ごし方、自分の養い方、ケアの仕方にも注意を払いたく願います。自分の口から出ることばが悪いものではなく、ただ「必要なときに、人の成長に役立つことば」(29節)であるように。


❷ キリスト者の名札を付ける

新たな十戒として見てきましたこれらのみことば。これは今日の礼拝だけに限りません。教会(会堂、集会、メンバー)だけに限りません。ここから始まる新しい週、それぞれが遣わされる場で、思いっきりこの御心を受け止めて果たしていくのです。みことばを体現する旅路が始まります。もし、ここで聴いて終わりならば、楽かもしれません。その気にはなった、学んで真理がわかったといういい気分で過ごせるかもしれません。けれども、ここから今朝の神の言葉に聴き従う歩みが始まります。それは、たとえると【クリスチャン○○○○(大塚史明)(○に自分の名前を入れる)】という名札を付けて歩くようなものです。


仕事や学校の名札をずっと付けて生活する人はいません。仕事場だけ、学校でだけそれらの名札は付けます。その後は別人で過ごしていて構いません。しかし、私たちには外せない名札があります。【クリスチャン○○】という名札を外してはいけません。ここにいるときも、ここから遣わされる場でも。いつもイエスは主ですと告白して生きるのだからです。そこで主に頼り、すがり、みことばを思い出し、みことばを行います。そこから生まれる交わりは、きっと主をあがめる、主が証しされる交わりとなります。神の国の祝福と喜びに生き、神の国の祝福と喜びをもたらしてまいりましょう。

<了>


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