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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「時は来た」(「福音」シリーズその18)


​聖書:マタイの福音書4章17-22節

 今朝は、今年の聖句(「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコ1:15)の続きの場面です。ここではマタイの福音書を開きながら、見てまいりましょう。マタイもほぼ同じことば「この時(イエスさまがバプテスマを受けられ、荒野で悪魔の試みを受けられたのち)からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた」となっています。イエスさまが宣教の働きをどのように始められたのか、具体的には何をなされたのかが記されていますので、私たちにとってもイエスさまとの出会いのイメージがわき、宣教の働きの参考になるものですね。


1. 主との出会い

イエスさまは、ガリラヤ湖のほとりで「宣教を開始」(マタイ4:17)されます。そこはすぐ前の4:15にあるガリラヤ州を象徴する場所になります。ガリラヤにはイエスさまが育ったナザレ(2:23)、結婚式で水をぶどう酒に変えられたカナ、一人息子を癒やされたナイン(ルカ7:11)、七つの霊を追い出してもらったマリアの住むマグダラ(ルカ8:2)、マルコではこのあと訪れてペテロとアンデレの姑を癒すカペナウム(マルコ1:21)など、なじみのある町々があります。そこは「異邦人のガリラヤ」(マタイ4:15)と呼ばれ、「闇の中に住んでいた民・・・死の陰の地に住んでいた者たち」(4:16)とも描写され、これまで闇と死の陰の地にいた人々(神さまがいじわるをしていたのではなく、人々が神を知らず、神に背を向けていたため)に、まさにこれからまことの光が当てられていきます。これが福音の始まり、宣教の始まりです。たくさんの神々を尋ね回っていた人々にほんとうの神さまは唯一だと知らせること。これまで神さまは天から見下ろして悪いことを罰すると考えてきた人々に、神は人となり罪の赦しを与えてくださると告げ知らせること。頼る人がどこにもいないと嘆く人々に、教会で交わりがあるよと誘ってあげること。これが福音、良き知らせとなります。


イエスさまが歩かれたのは、人と出会ってくださるためです。どんな人のもとにも訪ねてくださるためです。イエスさまは私たち人間を愛していることを伝えるために、ご自身の身をささげ、足を動かし、そばに来てくださる、そういうお方です。神さまは天の高いところで座っていることを想像するなら、それは間違っています。神さまは、私たち人間が救われる基準に達するために努力するのを待ち、神の基準に到達した者だけを救い上げると考えていたなら、それも間違っています。実に、神は人となって地上のくだり、私たちとともに住み、私たちのもとへと歩き、福音を届けてくださるお方だからです。


そうすることには、大変な犠牲が伴います。私たち家族は昨年春に岩手県盛岡市から福岡へと異動してきました。引っ越しは出るのも入るのも大変です。たくさんの手続きが必要で、まだ今年になっても盛岡市で書類を出してもらう必要が何度かありました。来年あたりには、そういった手続きが落ち着きそうです。宣教師の方々は、今もおそらく常に出身国と日本との手続きがあり、本当に大変だと思います。書面や申告のやり取りもそうですし、精神的なストレスもかかり続けます。皆さんの中にもそうした経験をされ、住まいを移すことの大変さを経験された方が多くおられることでしょう。本当、引越や移住は大変ですね!


しかし、神さまは国内の引っ越しや国外からの移住以上のことをしてくださっています。イエスさまの住まいは天にありました(ヨハネ17:5、ピリピ2:6)。しかし、天での住まい、神の子としての立場を捨てて、地上にくだり、「ナザレ人と呼ばれる」(マタイ2:23)ほどに、の人となられました。それは、こうして歩き巡りながら、あらゆる人のもとへ出かけて行き、福音=神の国が近づいたことを告げ知らせるためです。しかも、よくあるアクションヒーロー映画のように、ある日突然だれかに乗り移ってミッションを遂行するのではなく、赤ちゃんとなり、両親のもとで仕え、兄弟姉妹たちと過ごし、大工として働き、村や社会の中で労苦を重ねながら生きられました。要するに、私たちと同じ環境に身を置き、同じレベルで生活をされ、同じ体力で宣教をなされたのですね。重ねて申し上げますが、それはあらゆる人のもとへ福音=救いを届けるためです。そのために大きな、大きな犠牲を払って実現してくださいました。


このマタイ4章でイエスさまはまず漁師のシモン・ペテロ、アンデレ兄弟と出会います。またすぐそのあとには同じく漁師であったヤコブとヨハネとお会いになります。湖の近くを歩くことは強い日差しに照らされることであり、舗装されていない道を行くことであり、漁師の網や船の独特なにおいをかぐことです。つまり、そこにいる人のもっとも近くの人になってくださいました。その後は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちと出会われます(4:24)。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担っ」(イザヤ53:4)てくださるお方です。イエスさまはあらゆる人のもとまで歩き、すぐ近くへ行き、彼らに会いに出て行かれるお方です。相手のもとへ行くために、どんな犠牲をも払ってくださるイエスさまをこの始まりの姿から知ることができます。なんと感謝なことでしょう!

そして、この姿勢を私たちも持つようにチャレンジを受けています。この礼拝堂の前に掲げていますマタイ28:19の大宣教命令や「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を伝えなさい」(マルコ16:15)とあるように、今や私たちが、イエスさまが開始された宣教の働きを担っているからです。イエスさまがガリラヤというご自身にとって身近なところから歩いて宣教を始められたように、私たちも歩ける範囲から、手の動かせるところから、今頭に浮かぶ人のところから宣教の働きを始められるのではないでしょうか。イエスさまが私たちのところに来てくださったように、私たちも互いが「出て行くクリスチャン」となるように励まし合いましょう。


2. 主の招き

イエスさまは、出会うために歩き巡り、尋ねてくださいます。それから声をかけてくださいます。今朝の個所では「わたしについて来なさい」(4:19)とあります。このひと声をかけるために、イエスさまは人となり、歩き、出会われたといっても過言ではありません。なぜなら、関係性やコミュニケーションのないところでいきなり「福音を信じなさい」といっても相手には届かないし、響かないからです。 映画館でとなりに座っている人に、いきなり耳打ちをして「悔い改めなさい」と言ってもつまみ出されるだけです。ただ言えばいい、伝えればいいのではなく、その人と福音を分かち合える関係が築けているか、しっかりお互いの位置情報を把握することが大切だと教えられます。それを土台として、福音のメッセージは相手に伝わっていきます。イエスさまも何の犠牲もなしにいきなり声だけをかけたわけではありません。ここでペテロたちと出会うために払われた犠牲、準備期間はとても大きく長いものです。


イエスさまはペテロとその兄弟アンデレを見て、「わたしについて来なさい」と招かれました。神の子イエスの宣教の働きは、このようにご自身の足で歩かれ、その目でご覧になり、一人に声をかけることから始まっています。彼らに個人的に呼びかけられています。先日、九州宣教区のサマーバイブルキャンプで訪れた大分県九重では、お悔やみと葬儀会場と日時のお知らせを町内放送でやっていました。私には関係のない放送だったので、行動することはありませんでした。これは不特定多数への呼びかけの例です。


なぜ、この兄弟にとって個人的に語りかけられていると感じたのでしょうか。それは「人間をとる漁師にしてあげよう」と続けたからです。ここでイエスさまは「わたしについて来なさい」という招きだけでなく「これからは人間を取る漁師にしてあげよう」という約束をしておられるのですね。それで彼ら兄弟のたましいは揺さぶられ、従うという行動を引き起こしました。ペテロとアンデレにとって漁師の仕事とはおそらくは家業でした。親から受け継いだ仕事であり、彼らの人生そのものだったはずです。「人間を取る漁師にしてあげよう」というイエスさまの語りかけは、それまで彼らが育てられた環境、受けてきた教育、形成されてきた価値観、賜物、仕事、人生の目標のすべてを生かしながら(漁師)、今度はイエスさまが用いてくれる(人間を取る)特別な響きになったことでしょう。


こうして、ペテロとアンデレはイエスさまによる招きと約束をしっかりと受け取ったので「すぐに網を捨ててイエスに従」(4:20)いました。これは彼らがもともと何も考えずに行動する性格だったとか、燃えやすいタイプだったわけではありません。このペテロとアンデレ兄弟に続いて、ヤコブとヨハネという別の兄弟も同じようにすぐ従っています。2組の兄弟、計4人がほぼ同時に漁師をやめてイエスさまに従っています。これは、4人全員が後先を考えずに決断する性格だったことを示すものではありません。そうであれば、この個所はそういった猪突猛進型の人へのモデルにしかなりません。また、4人全員がイエスさまに巧妙にだまされたとか、催眠術にかけられたとも考えにくいです。彼らはこれからずっと弟子としてイエスさまに従っているからです。催眠術であったら、それが冷めたとき、猛烈にイエスさまに怒ったり、抗議したりするはずですものね。そうです。彼らはそれぞれがイエスさまの語りかけを聞き、それぞれがイエスさまの招きを受け取り、それぞれがイエスさまの約束を握り、それぞれが自分の足で従い始めました。今、あなたのところにもイエスさまは歩いて来てくださり、この弟子たちと同じようにあなたも神の国に仕える者となるように呼びかけておられます。

これまでのすべての歩み、蓄積し、積み重ねてきたものを、神の国のために生かしてくださいます。それはもっと意味と喜びのある人生への招待です。

ある人は歌手をしていたのが、ゴスペルに出会い、クリスチャンとなり賛美とその指導をして主に仕えています。恋愛の歌を歌うよりも、神さまをほめたたえる賛美ができる今はとても幸せだと証ししています。ペテロたちもきっと「魚を取る漁師から人間を取る漁師にしてもらった私の人生はとても幸いだ」と話してくれるのではないでしょうか。イエスさまは、あなたの心を造り変え、あなたが神の国のために用いられる人生を歩むことを願っておられます。ぜひ、これまでのあなたの人生を神の国のために生かしてくださる主の招きと約束に応答してください。


3. 主に従う

最後に、私たちも主に従うためには、どのようにしたらよいか学びましょう。この兄弟たちはあまりにも潔いので、自分にもできるか少し心配になりますね。最初のペテロとアンデレは「すぐに網を捨ててイエスに従った」(4:20)とあり、次のヤコブとヨハネに関しては「すぐに舟と父親を残してイエスに従った」(4:22)とすごい感じです。とても真似などできないと尻込みして当然かもしれません。


けれど、私たちがイメージしているのとちょっと違うのかもしれません。たとえば、ペテロとアンデレは彼らの家で姑が熱を出した時、イエスさまに癒してもらっています(マタイ8:14-15)。彼らは出家して、親兄弟親戚といっさい付き合いをしなかったのでも、家や財産を捨てたのでもありません。他の弟子になりますが、マタイと思われるレビは「すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った」(ルカ5:28)すぐあとで「レビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした」(5:29)とあるので、「すべてを捨てて」の中に財産を全額捨てるとか、持ち家を捨てるとか、家族や友人と絶縁するという意味ではないことが分かってきます。

そうではなく、イエスさまに従うことで、捨てるよりも得るものの方が格段に大きく、豊かだということです。次の聖句をいつも胸に置きましょう。


「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」(マタイ16:26)

この4人の兄弟たちが示してくれているのは、彼らは捨てたものよりもはるかに多くのものを受け継ぐようになったということです。それまで漁のために、自分の成果のために、生活のために生きていたのかもしれません。もちろん、喜びや楽しみを味わったことでしょう。けれども、彼らはそれをすぐに捨てました。理由はイエス・キリストです。イエス・キリストによって、地上に宝を蓄えるよりも、天に宝を蓄えることに人生の照準が変えられたからです。イエス・キリストによって、地上のいのちよりもはるかに大事で価値ある永遠のいのちに生きることを教えられたからです。イエス・キリストによって、自分で捨てるもの以上をこの地上でも天でも与えてくださいます。ただし、イエスさまに従い、ついて行かないと決して永遠のいのちは手に入れることができません。永遠のいのちを手に入れ損ねたら、あとでどれだけ後悔しても、どんな高価なものであっても弁償したり、取り返すことができません。



まとめに、主に従うための2つのチャレンジをします。

一つ目は、今すぐに従うことです。

先日、虹が出てワッと沸きました。虹は一時はっきりと出現しますが、数分もたてばなくなってしまいます。主の招きも同じことが言えます。主の声を聞いたときに、主にたましいがふれられたときに、すぐに応答しないと、あとで「何だっけ」とそんなこともなかったように冷えてしまいます。このとき、ペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネの2組の兄弟はすぐさま従ったからこそ、弟子の続きの人生へと導かれていきました。だから今、イエスさまの声を聞いたなら、従いましょう。


2つ目は、イエスさまとの約束を守ることです。

イエスさまに従うことは、その招きと約束を受け取ることです。自分には真の導き手が必要ですと認めることです(例:おしゃれになる本を受け取るなら、今はそうでないのを認めることになりますね)。主が、最後まで弟子たちを見捨てずに愛し、育てられたように、応答する私たち一人ひとりのことも守り導いてくださいます。主が約束を守ってくださるのであれば、私たちも主との約束を守り通したいと願います。ずっと従って行きます、どんな病や苦しみにあったとしてもあなたから離れません、みことばを蓄えます、陰で祈り続けます、教会や小さな者たちのためにささげます、毎日声に出して賛美します・・・イエスさまと個人的な約束を交わしてみませんか?


今日から始まる新しい道を丁寧に、精一杯、生涯かけて歩んでまいりましょう。


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