聖書 ルカ3:15-22 |
はじめに
人生は決断の連続だと言われます。決断と聞くと何か大きなことを考えがちですが、人は大なり小なり、決断をして生活しています。もっと言えば、次の行動一つとっても決断なしには起こすことができません。
たとえば、今朝皆さんが会堂に来られたときのことを思い出してみてください。「玄関ドアが閉まるのではないか」、「一歩先に落とし穴があるのではないか」と考えた方はおられないと思います。「この椅子、私が腰をおろした瞬間に足が折れてしまうのでは」と疑った方もおられないでしょう。それは床が抜けることや椅子が壊れることを考えないから=大丈夫だと信頼しているからでしょうし、また教会にそんないたずらをするような人物はいないという前提があるからです(牧師はするかもしれませんね♪)。皆さんがここで集まって座っておられる裏には決断があるのです。
辞書では、決断とは「現時点で最善と思われる案をいち早く決める能力」だそうです。最善の決断をするためには正確な情報、確かな知恵、多くの事例、適切なタイミング、予測、また信頼といった多くの要素がです。これらの要素を基準にして、人は行動を決断しますから、コンピューターよりも複雑な処理ができる、素晴らしい能力を持っています。何気ない生活にも決断があります。
「石橋を叩いて渡る」ということわざがありますが、皆が叩いて渡るわけではないので、自分に次のいずれかの傾向があるか考えてみてください。
石橋を叩かずに即断して渡る(無鉄砲)
石橋を叩いて渡る(慎重)
石橋を見ないでみんなについて行く(他人任せ)
石橋を叩いているのを見るだけ(優柔不断)
石橋を叩いて割ってしまう(頑固)
本日のタイトルは「最善の決断」です。
聖書は自分の姿を映し出す鏡の役割をすると言われます。はたして自分が最善の決断をしているのか、また自分が最善の決断をするにはどうしたらよいのかを、みことばとともに探ってまいりましょう。
福音の中身
ルカ3章はバプテスマのヨハネの活動から始まっています。彼自身は「主の道を用意させ、主の通られる道をまっすぐにせよ」と荒野で叫ぶ声と称しています。まさに私たちが最善の決断ができるように、心や姿勢を整えるための声です。荒野にいる私たちが神の救いを見る者となるように導くのが、彼の役割です。
そして、先週は「まむしの子孫たち」との呼びかけから「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」というメッセージを聞きました。それを聞いた群衆、取税人、兵士はヨハネにかわるがわる「私たちはどうしたらよいのでしょうか」と問いかけ、彼ら自身が変わることを求めました。今朝はその続きで、ヨハネが続いて何を語ったのかが記されています。
16~17節には「私よりも力ある方が来られる」、「その方は聖霊と火でバプテスマを授ける」というイエス・キリストについての内容と「ご自分の脱穀場をきよめ、麦を倉に納めるがもみ殻は火で焼き尽くされる」というさばきについての内容があります。「聖霊と火」「消えない火で焼き尽くす」と、「火」がキーワードとなり、内容を展開しています。聖書において「火」という言葉は「さばき」という意味を持ち、さばきについて記しているときに出てきます。では、ここで扱われている「さばき」とは何かを見てまいりましょう。
「殻を消えない火で焼き尽くされる」(17節)はその前の「迫り来る怒り」(7節)をより具体的に語っています。「怒り」が「火」となり、そして「さばき」へとつながるのは私たちもイメージできます。これこそヨハネが荒野で叫ばねばならなかった中心のメッセージです。同時に、これはヨハネが言いたいことではなく、主なる神がヨハネを通して人々に伝えたいメッセージなのです。
「愛ある神さまなら、さばきなんて言ってほしくない」、「さばきとか火なんて言われたら怖いイメージしか持てなくなるし、第一優しくない」と漏らしてしまいそうになりますが、本当にそうでしょうか。優しい神さまならさばきがあることは隠して、よしよしと言ってくれた方がいいでしょうか。しかし、それは優しさではありません。かえって意地悪になるのではないでしょうか。今は全面的に私たちを受け入れ、肯定しておいて、後になってさばきがあることを知らされたら、それこそ私たちは絶体絶命の状態に陥ります。きっと「なんであの時にさばきがあると教えてくれなかったのですか」と、私たちは言うでしょう。結局今でも後でも私たちは、「さばき」とか「神の怒り」についてできるだけ知らないでいたいのです。それは、自分の罪を度外視してほしい、いつも自分に対して「OK,大丈夫だよ」と言ってほしい、すべてをありのまま受け入れてほしいという思いからです。しかし、実はこれこそ罪の本質であり、罪人の本性です。
なぜなら、神を抜きにして私たち自身で何が良いか悪いかを決めることが罪だからです。「神のようになって善悪を知る者」(創世記3:5)となり、神からあれこれと言われたくない罪人となり、これが罪の始まりでした。
そして、この罪を認めることが私たち人間にとっては一番困難なことです。罪を認めることをたくみに避けたり、もっと大きな悪事をしている人と比較して逃げたりします。ある偉人(キケロ・前106~前43年)の言葉にこうあります。「最も難しい3つのことー秘密を守ること、他人から受けた危害を忘れること、ひまな時間を利用すること」。3つ目を付け替えるなら「自分の罪を認めること」です。私たちにとって難しい3つは①秘密を守ること②他人から受けた傷を忘れること③罪を認めることーです。中でも最も難しいのは罪を認めることです。 私たちは素直に過ちを認めたり、即座に謝罪することができません。言おうと思っても黙ってしまったり、その人と会うのを避けたり、贈り物で繕おうとした経験はないでしょうか。さらにやっかいなのは、罪は私たちがそれを認めないとさらに大きくなってしまうことです。問題を放置するとさらに深刻化してしまうように、罪も認めずにいると重荷や苦みが幾倍にもなります。イエス・キリストの、礼拝する前に兄弟を和解せよ(マタイ5:23~)という命令は、罪を早く認め、処分することの大切さを表しています。
2. 決断 その1
週の初めからこんなことを聞くのはしんどいでしょうか。できるならもっと楽になることを言ってほしいと願うでしょうか。この続きを読んでいくと「このようにヨハネは・・・人々に福音を伝えた」(18節)とあります。厳しい内容であってもそれは「福音」だというのです。人々にとってこのことは良い知らせというのです。「福音」は私たちが良いと感じること、耳障りのよい言葉、人受けすることだけではありません。「焼き尽くす火」や罪についての警告も「福音」です。なぜなら、その福音によって私たちのいのちが滅びから救い出されるからです。
事故に遭いそうなときの「危ない!」という警告は、その人にとって必要な、良い知らせです。それが叫び声や首根っこをつかむようなものであっても、「あの人のおかげで私は命拾いした」と感謝することでしょう。
同じように、ヨハネが厳しく険しいメッセージをしても、人々は聞く耳をもって聞き、自分たちの考えや行動をヨハネの語るメッセージに合わせて変えていきました。人々が「私たちはどうしたらよいのでしょうか」と進み出たのは、自らの罪を認めた証拠です。罪を負う者としての自分に耐えられなくなり、神の御前に出てきたのです。罪を隠すことから罪の赦しを受ける方向への転換です。
私たちに委ねられている決断があります。2つの決断をルカはここで記しています。1つ目は19~20節にある領主ヘロデ(・アンティパス)の決断です。ヘロデは自分の悪事をヨハネによって非難されたので「ヨハネを牢に閉じ込め」(20節)ました。その悪事とは、異母兄弟であるピリポの妻へロディアを略奪したことでした。それは彼の目には好ましく、立場も上手に利用してなしたことです。また、彼の周囲にそれを止める人はいませんでした。
ヘロデは何をしてもうるさく言われることはない座にいたので、ヨハネがその罪を指摘したことに対して我慢なりませんでした。自分に都合の悪いことを言ってくる人物は邪魔だと、権力を行使してヨハネを牢屋に入れました。ヘロデはもうヨハネからやかましく言われることはなくなりましたが、それは「すべての悪事にもう一つの悪事を加え」(20節)たほど愚かなことでした。
なぜなら、せっかく福音を伝えてくれているヨハネの口を縛る決断をヘロデはしたからです。社会的には領主であるヘロデを追い込める人物はおらず、彼の立場は安泰でした。けれどヘロデがその罪を赦され、永遠のいのちを受けることはできなくなりました。ヘロデの決断は、今の居心地の良さや罪を認めるという恥をかかないで済むものでしたが、永遠のいのちを損なう愚かなものでした。
これも一つの決断です。ヘロデは誰かに頼まれて行ったのでも、誰かに無理やりそう言わさせられたのでもありません。彼の本心からの行為であり、彼の願ったとおりをしただけです。ここにも、罪の恐ろしさがあります。私たちは罪に敏感でいないと、燃え尽くす火が迫っていることがわからず、今の視点や自分の都合によって決断するズルさがあるからです。罪を認めることから逃げた損失は、天においてはるかに重くなります。今月の賛美『心を一つに』の歌詞はこうです。
「なんでも地上でつなぐなら 天でもつながれて
なんでも地上で解くなら 天でも解かれる」
「つなぐ」は罪を赦さないこと、また「解く」は罪を赦すことです。手話もそのように賛美しています。福音は私たちの罪に対する考え、姿勢を変えてくれます。それまで先延ばしにしたり、上手に処理したり、何とかして隠したりしていた罪に対して「地上で解く」ことを考えるようになります。今地面に埋めてもいずれあらわにされます。それがさばきの日であったらひとたまりもありません。後悔してもしきれないのです。それよりも、今解かれること、今赦されること、今解くこと、今赦すことを考えて行動するようになります。そうすると「天でも解かれる」ので私たちには神による平安が与えられます。あんなに苦くて重い罪が、その取扱いによって様変わりします。それが「福音」の力です。
3. 決断 その2
2つ目はイエス・キリストの決断です。21~22節は イエス・キリストがヨハネからバプテスマを受ける場面です。ヨハネが「水であなたがたにバプテスマを授けています」(16節)と言っているそのバプテスマを、主イエスはお受けになりました。このルカとマルコでは洗礼の出来事のみが書かれていますが、マタイにはより詳しく記されています。マタイでは、ヨハネは、自分にはイエスの履き物のひもを解く資格さえもないと思っていました。ですから、イエス・キリストにバプテスマを授けることなどできないと辞退しました。しかし「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです」(マタイ3:15)と主イエスは答えて説得し、ヨハネからバプテスマを受けられました。
「正しいことをすべて(原語:すべての義を実現すること」とは、2つの意味があります。1つは、自分の罪を告白し、悔い改めた者はバプテスマを受けるのが正しいのだ、という意味です。もう1つはイエス・キリストがバプテスマを受けられたことによってもたらされる意味です。神の御子であるイエス・キリストは、罪の赦しや悔い改めのしるしとしてのバプテスマをお受けになる必要はありません。
では、なぜ悔い改める必要のない方がバプテスマを受けられたのでしょうか。なぜ罪の告白をする必要のない方が罪の赦しに導くバプテスマを受けられたのでしょうか。
罪のない方が罪ある者としてバプテスマを受けられました。本当は私たちを「消えない火で焼き尽くす」権威を持つ方が、さばきを受ける側に身を置かれました。それも一時(いっとき)だけそうされたのではなく、生涯私たちと同じ人間として限界の中に身を置き、試みにあわれました。このころ主イエスはおよそ「三十歳」(3:23)であったとあります。イエス・キリストは私たちと同じ人として生きられました。何も私たちとは違う点はないのです。違っていたのは、罪がなく、罪を犯したことがないということだけでした。
その方がバプテスマを受けられました。生涯を通して聖であり、義であり、罪を犯すことがない方がバプテスマを受けられました。神の子がへりくだり、列に並んでヨハネからバプテスマを受けられました。これが「正しいこと」だからです。
私たちの常識はそうではありません。偉い人が尊ばれ、弱い人が追いやられます。罪ある者がさばかれ、罪なき者はさばかれません。それが正しいことです。しかし神の目には、偉大な方がへりくだり、神の御子が人となり、罪なきキリストが罪ある者とされることが「正しいこと」なのです。人間はどれだけ良いことをたくさん行ったとしても、神の義に達することはできません。その思いや動機がすべて、しかも永遠に正しくなければならないからです。
神の義は完全に正しい生活と、まったく罪のない心を要求します。けれどもそんなことは人間には不可能です。それで「福音には神の義が啓示され」(ローマ1:17)と聖書は教えています。この「神の義」は、神が達成された義のことです。神が地上に送ったひとり子イエスは、罪のない完全な心と完全な義をもって過ごされました。その方がすべての人間の罪を背負い、十字架で犠牲となられました。そして、今やイエス・キリストを信じ、キリストの内にある者はすべて「正しい(神の義にかなった者)」とされるのです。罪ある者がさばかれず、罪なき者がさばかれることが神にとって正しいことであり、ヨハネが叫んだ福音なのです。
神の怒りは、私たちが恐れなければならない真理です。あらゆる不義や曲がったことは神の目にかなうものではありません。またそうした悪をそのままにしておくのも、神をいい加減な方に引きずり下ろす冒涜です。怒りのない神は正義のない神と同じです。しかし神は、愛とあわれみにあふれた方であり、同時にその怒りをくだされる方です。ここで「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(22節)と天から言わずにおれなかった神が、後に炎のような怒りをイエス・キリストの上にくだすのです。主イエスの受けられたバプテスマは、私たちの罪をすべて背負うという決断によるものです。私たちは神の前で、また福音に対し、果たしてどのような決断をすべきでしょうか。
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