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「最高の栄誉」(「福音」シリーズその22)


​聖書:ルカの福音書10章17-20節

先週、先々週とイエスさまの弟子として立ち上がったペテロたちやレビから学びました。今朝は使徒たち個人ではなく、名もなき72人の弟子たちの姿から学びます。私たちも一人ひとり、主の弟子、主に従う者として招かれ、期待され、導かれているというメッセージを受け取りたく願います。


1. 群衆から弟子へ

イエスさまの周りには多くの人々がいました。それらを大きく分類すると、敵対者、群衆、弟子の3つに分けることができます。今朝はこの最高峰である主の弟子になる道をともに見てまいります。


まず、イエスさまの周りには敵対者がいました。イエスさまの教えや行動をよく思わない人です。無視するのでも遠巻きに見ている傍観者でもなく、敵対心を抱いている人たちです。律法学者、祭司長、パリサイ人と言われる人たちです。ルカの福音書にも彼らがイエスさまをどのように見ていたのか記されています。「祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが」(19:47)、他にも「律法学者たちと祭司長たちは・・・イエスに手をかけて捕えようとした」(10:19)、「機会を狙っていたい彼らは・・・回し者」を遣わし(20:10)など、敵対心だけでなく明確な殺意をもってイエスさまを見たり、付け回したりしていました。彼らはイエスさまの教えは聞いていたのですが、心には届いていませんでした。


これは、私たちのみことばの聞き方にも通じます。音として、意味としてイエスさまの教えやみことばを知っていたとしても、それが敵対心を生み出すものにもなりますし、心がイエスさまから離れていく聞き方もあるということです。神にできないことはありませんし、みことばには力がありますが、人の状態に関係なく働いてロボットのように操作はしません。そういうこともできるのに、神はそうなさらないのです。みことばに従うこともできるし、反抗することもできます。みことばに対して、私たちはそれを聞き入れないことも、どんなものより慕い求めることもできます。みことばをはねのけることも、受け入れることもできます。みことばを捨てることも、みことばから実を結ぶこともできます。みことばを敵対心に結びつけることも、みことばを信仰の心に結びつけることもできます。みことばを蔑むことも(箴言13:13)、みことばに仕えることもできます(ルカ1:1)。それは、神が私たちの愛の応答を待ち、みことばにより引き出そうとしておられるからです。私たちが無味乾燥に、自分の意思とは関係なしに、ただ神に従い、みことばを受け入れるのは逆に怖いことです。本当はそうしたくないのに、そうさせられるのは私たちの喜びを奪い、私たちの自由を取り上げ、私たちの意思を無力にすることです。もし、私たちの友人なり、パートナーなりがそのような態度であなたと一緒にいてくれるとしても、ちっとも嬉しくはありませんね。無表情で尽くしてくれることは、逆に心配になります。何か裏があるのではないかとか、心や活力の伴わないそぶりに平安が失われていきます。反対に、もし心底嬉しそうに一緒にいてくれるなら、幸せを感じます。双方の心が通い合うからですね。愛は確かめられることによって、互いに結び合わせ、お互いの関係を強めます。神さまが私たちと持とうとしてくださっているのは、そういった愛の関係です。そのために、私たちの自由を奪わず、無理強いをせず、脅迫せず、焦らせることなく語り、接してくださいます。鈍くてもやがてそれに応答するなら、その時まで待っていてくださり、遅い!とかなんで初めからそうしないんだ!とは言わずに迎え入れてくださいます。こうした神の愛に安心するから、私たちはようやく神に向かって歩み始めることができますし、それでよいのですね。ただし、みことばは私たちの心の奥底、判断の源、価値観、人生観、世界観、プライドを揺さぶるので、強敵なのです。今まで、自分以外や自分がよいと思ったもの以外に従ったことがないので、自分の耳、意志、心をみことばに従わせることが困難だったり、挑戦に感じます。それで、みことばは敵対心を引き起こすものでもあるのです。律法学者たちは真剣にイエスさまの教えを聞いていたからこそ、怒りました。私たちも自らの聞き方、そして神がどのような思いでみことばを語ってくださっているのかをよく掘り下げる必要がありますね。


次にイエスさまの周りにいるのは群衆です。文字通り、彼らはたくさん、大勢います。今朝の個所に至るまででもたびたび記されています。「群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って」(5:1)、「大勢の弟子たちの群れやおびただしい数の人々」(6:18)、「弟子たちと大勢の群衆も一緒に」(7:12)、「イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のために近寄れなかった」(8:19)、「大勢の群衆がイエスを迎えた」(9:37)など、とにかく「大勢の群衆」がいたことが分かります。それでも、敵対者と弟子と一緒にされず、分けて記されています。敵対者もそれなりの数がいましたし、「大勢の弟子たち」(6:18)もいましたが、一番多かったのはこの群衆ゾーンにいる人々です。この前の9章にあるパンの奇跡では「男だけでおよそ五千人もいた」(9:14)ほどです。彼らは、どのような人たちだったのでしょうか。それはイエスの教えを聞く人たちです。それも喜んで聞きに来る人たちです。それは、イエスさまをその目で見た人です。それは、イエスさまの奇跡をその身で体験した人たちです。イエスさまのかおりも知っていたかもしれませんね。それくらい、ビンビンにイエスさまを味わうことのできた人たちです。イエスさまのみことばを喜んで聞き、日が暮れるまでいっしょについて行った人たち。それはもう弟子と呼んでよいほどの距離、時間、内容を過ごしています。けれども、彼らは「群衆」のままでした。決して「弟子」にはいたらなかった人たちのことです。群衆のすべてがイエスさまの弟子になっていたら、それは数千人、数万人という数の弟子が生まれていたはずですが、聖書を読むとそうではなかったことが明らかです。確かに、「大勢の弟子たち」がいるにはいましたが、それは群衆の比ではありません。敵対者、群衆、弟子の中でもっとも高い比率を占めているのがこの群衆です。


このことは何を教えているのでしょうか。それは、私たちがもっともなりやすいのが群衆だよ、ということです。みことばは聞いています。イエスさまのことも知っています、偉大なみわざの経験だってしています、たくさんの証しや証言を聞いています、イエスさまの福音宣教の旅について行ったりもしました。けれども、決してそれ以上踏み込もうとはしません。群衆のまま、その場所から動かないのです。なぜでしょうか?群衆と弟子の間には大きな溝、チャレンジがあるからです。旧約聖書で神の民がヨルダン川を渡ったように、群衆の目の前には渡らなければいけない川がありました。それは、人間の力では勇気が出ず、踏み出せないものです。実際、ヨルダン川を渡った時には「刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた」(ヨシュア記3:15)のでした。そんなもの、人間の計算では到底渡り切れないのです。しかし、神の民たちは一歩を踏み出し、全員が無事に渡り切りました。それは彼らに勇気があったわけでも、無謀な恐れ知らずだったわけでもなく、ただ主のみことばに従ったからです。主が聞きなさいと言われることを聞き、主がしなさいと言われることをなし、主が行きなさいと言われたときに踏み出したからです。主とみことばを信頼して、行動しました。


まさに、群衆から弟子になるのも同じです。自分の力では到底踏ん切りがつかない。自分では心の整理が追い付かない。自分の頭では神さまが自分の人生をめちゃくちゃにしようとしているように思える。不安だ、割に合わない。やったことがない、今は無理だ。これからもしないだろう・・・・・・様々な思いが去来します。やろうなかと思えるときもあれば、絶対に無理と思うときだってあります。そうすると、いつまでたっても渡れないのです。それどころか、そこから一歩も前進することができません。それが群衆です。そして、そのような群衆はどうなるでしょうか。群衆のままとどまってしまうと、もっと大事な場面で決定的なまちがいやあやまちを犯してしまいます。それは、十字架の場面です。「イエスを十字架につけろ!」(23:13,23)と要求したのは、敵対者ではなく、群衆(民衆)でした。これは非常に重い事実です。イエスさまの教えを聞き、その声を知っており、どのように生きておられたのかを見、奇跡さえ味わったのに、彼らは「十字架だ、十字架につけろ」と声を張り上げ、くぎで打たれる音を聞いていたのです。十字架を背負って歩くイエスさまをののしり、ゴルゴタの丘で苦しみ、罪人の赦しのために祈るイエスさまを目の当たりにしながら「民衆は立って眺めていた」(23:35)のです。そして、イエスさまが息を引き取ってしまうと「悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った」(23:48)のです。全部、目撃しながら決してその場所から一歩たりともイエスさまに近づこうとはしない人たち。それが群衆です。敵対者よりも恐ろしいことかもしれません。皆が熱狂して聞いていると思えば、皆で十字架につけろと叫ぶ。皆で喜んでそばに近づいて行ったと思えば、悲しみながら帰ってしまう。これが群衆であり、群衆心理を呼ばれるものかもしれません。


あなたも、群衆にいる限り同じです。イエスさまの教えは聞いていても、知っていても決して従わない。イエスさまの招きを受けても、決して応答しない。イエスさまの祈りを聞いても、決して心を開かない。目の前の川を見て足がすくみ、それまで聞いてきたみことばは働かず、隣の人たちと同じように帰ってしまうのです。あなたが、群衆から一歩進み出る朝が来ているのではないでしょうか。


2. 本質をつかもう

ここまで敵対者、群衆と見てまいりました。イエスさまの周りにいた最後の人は「弟子」です。弟子はいわゆる十二弟子=使徒を思い浮かべるかもしれません。今朝の前の章でも「イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒す力と権威を、彼らにお授けになった」(9:1)とあります。イエスさまの弟子は十二人というのがまっさきに来るかもしれませんが、先ほど見てきたように、群衆とともに「大勢の弟子たち」(6:17)がおりました。また、女性たちが目立っていたことが、「悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らの仕えていた」(9:3)ことからも分かります。そして、今朝はイエスさまが十二使徒とは「別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた」(10:1)続きです。その彼らが帰って来て、「悪霊どもでさえ私たちに服従します」(10:17)と喜んで報告しています。イエスさまの周りには敵対者がおり、群衆がいました。彼らは神の国の働きを進めたり、手伝ったりしない人たちです。邪魔をしたり、さえぎったり、無関心、無関係であったりします。けれども、弟子はそうではありません。今朝の七十二人もイエスさまが行くつもりであった町や場所に、先に遣わされた弟子たちなのでした。イエスさまといっしょにその働きを担うのが弟子たちです。もっと言えば、イエスさまのかわりに神の国の喜びと祝福をもたらすのが弟子たちです。十二人よりは多くいたことが分かって少し安心するでしょうか。ちなみに、この七十二人の弟子たちの存在と派遣は福音書ではルカだけが記しています。

イエスさまは敵対者ににらまれながら、多くの群衆を教え導かれました。しかし、そこからどれだけの人々が「弟子となった」のでしょうか。おそらく、十二使徒やこの七十二人以外にも弟子と呼ばれる人たちは大勢いたと思います。ただ、パンの奇跡を体験したのた男だけでも五千人であったとあるように、同等かそれ以上の数の弟子がいたとは考えにくいですね。実際、13章ではある人が次のようにイエスさまに質問しています。私は、この個所に非常な関心を持ちます。


すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は救いないのですか」(13:23)


これは主に従う人が思いのほか少なかったということの証言です。この質問をした人は、イエスさまを囲んでいる民衆の数だけ弟子がいるとは思えなかったからそう聞いたのですね。救いを受けて喜んでいる人が思いのほか少ないのではないか。神の子のうわさや奇跡を数々聞いてきて、実際に今イエスさまを目の前にし、大勢の群衆がついて来てはいるけれども、思いのほか真剣につき従っている人は少ないのではないか。あの人は今いっしょにいるけれども、やがて離れていくのではないか、やっぱり・・・というようなことがあったのかもしれませんね。人の真剣度や物事の真偽は、案外その周りにいる人が分かるものです。学校行事やスポーツ、お祭りなんかでも、見に行けば誰が真剣で誰がそうではないか外からでもよくわかるものです。イエスさまの周りにいる群衆も同じでした。そこにいることはいるが、それ以上踏み込まない人たち。それを肌身で感じた人が、イエスさまに「主よ、救われる人は少ないのでしょうか。」と聞いたのです。うわさほどではない、見ている人数ほどではないと感じ取ったのでしょうか。これは非常に身につまされる問いかけです。ここにいる中のどれだけが主の弟子なのだろうか。いいえ、他人が主の弟子であるかどうかを考えるのではなく、あなたは本当に主の弟子なのかという問いを突き付けられています。あなたはどれくらい真剣に主のために生きているのか。本当に群衆と言われるゾーンから一歩も二歩も弟子に入っているか。主の弟子は多い、救われる者は多いと感じさせるような聖霊の輝きを放っているか。そんなことを問われるのです。


敵対者、群衆から比べると弟子の数は一握りです。聖書はたびたび神の民のことを「残りの者」(イザヤ10:21、22あるいはミカ2:12あるいはローマ9:27)と記します。それは諸外国に連れていかれた捕虜であり、最後まで取り残されなすすべがない者たちのことです。そして、何と主はこの残りの者を買い取ってくださるお方です!


「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を買い取られる。彼らは、アッシリア、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シンアル、ハマテ、海の島々に残っている者たちである」(イザヤ11:11)


実に、主は周囲の力に翻弄されて不本意な人生を歩んでいる者、理不尽な仕打ちを受けてうなだれている者、頼るべきものがなく立ち尽くしている者を救い出してくださるお方なのです。弟子というと、求められるレベル、力を想像して遠慮してしまうかもしれません。けれども、実際には力や知恵や立場や資格があるから弟子になれる、弟子として立ち上がるのではありません。まさに「主の弟子」ですから、それにふさわしい資格のある者など、この世に一人もいません。ただ、主が残りの者を買い取ってくださったので、弟子として招き入れられるのです。先々週見たペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、先週見たレビ(マタイ)も同じですね。彼らはそれまでの自分が主の弟子になるのにふさわしいとは考えたことありませんでした。主の弟子になった方が得だからそうしようとも考えませんでした。ただ、自分の目の前にイエスさまが来られ、「わたしについて来なさい」と招いてくださったみことばに従ったのみです。主はそうやって一人ひとりのもとに訪れ、弟子として招いてくださるお方です。かくいう私自身もそうでした。本当に残りの者、自分の力ではどうにもならなくなった者でした。そんな私をひとり子キリストのいのちと引き換えに買い取ってくださった。何の価値もない私に、いのちを、宝を引き換えにしてくださった。途方にくれていた者に、光の道を示してくださった。生きていても死んだ者のようだった私を、新しく生まれ変わらせてくださった。それは、自分の決心や力ではなく、神の力、神の愛です。弟子とはこの者のために、ご自身の宝であるひとり子を十字架につけて買い取ってくださった主の愛、招きを受け取る者のことです。すると、新しい人生を歩み始めます。自分ではなく、主を主として歩み始めます。世の常識や学問の知識ではなく、主の知恵、主のみことばに従って生き始めます。様々な画策や戦略、人脈や下準備ではなく、主の権威を大事にします。自分の名が尊ばれ、賞賛されることよりも、主の御名が崇められること、広められることを喜ぶようになります。


「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(10:20)

3. 神を体験する道

主は敵対者でもなく、群衆でもなく、残りの者を弟子として買い取ってご自身の近くに置いてくださるお方です。私たちは、どこで神の国の喜びを味わうのでしょうか。どんな時に神の導きをもっとも感じるのでしょうか。神の造られた自然を味わうとき、海辺を歩いているとき、星を眺めているとき、おいしいものを食べているとき、温泉につかっているとき、甲子園を見るとき、髪型がうまく決まったとき・・・・・・さまざまあると思います。それは間違いではありませんね。けれど、本丸ではありません。新約聖書の中で一貫しているのは、福音に生きるということです。福音を聞き、福音を知り、福音を味わい、福音を伝えるということです。聖書の命令や約束は、福音宣教のため、その戦いの場においてもっとも有効です。たとえば、「勇気を出しなさい/勇敢でありなさい」(ヨハネ16:33)というみことばは、水泳プールに飛び込むために思い出して勇気をくれるかもしれませんが、もっとも優先されるのは福音に生きる場面において勇気が必要なときです。今朝の「喜びなさい」(10:20)のみことばは、自分の働きが成功したときに実行して喜んでいるかもしれまんが、もっとも優先されるのは「あなたの名が天に書き記されていること」=自分の救いを確信するときです。こういう意味で、私たちはすべてのことを福音のためになすのです。


イエスさまがこの七十二人を遣わしたのは、「ご自分がこれから行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた」(10:1)からです。そうです、イエスさまの働きをするために遣わされました。私たちも同じです。福岡めぐみ教会は牧師でも宣教師でも信徒一人ひとりのビジョンを達成するために存在しているのではありません。主の働きをなすために祈られ、生み出され、支えられ、存在し、これからも歩んでいきます。イエス・キリストの教会であり、キリストのからだとして福岡めぐみ教会が立っていかなければ、何の意味もありません。ただ楽しい仲間、時間があるだけではなく、福音に生きる人として交わりをもっていく。福音を伝える者として励まし合っていく。今日、私は主を礼拝した。今日、私は主に出会った。今日、私は福音を知った。今日、私は変えられた。


「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです」(マルコ8:35)


私たちは福音のために労苦しましょう。福音のために話し合いましょう。福音のために議論しましょう。福音のために計画しましょう。福音のために実行しましょう。福音のためにささげましょう。福音のために手足を使いましょう。福音のために口を開きましょう。福音のために悩みましょう。福音のために奮闘しましょう。福音のために夜遅くまで働きましょう。福音のために早起きしてみましょう。主イエスと福音のために生きることは、最高の栄誉です。最高の栄誉のためには、最大の犠牲を払います。それは必ず報われるので、無駄にはなりません。


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