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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「栄光のゴール目指して」


聖書 エペソ人への手紙3章7~13節

 「ゴール」は大切です。サッカーはゴールポスト内を目指して競技します。そのためにすべての攻撃をデザインして、陣営を組織し、練習・訓練を重ねます。また相手からも攻撃されるので、ゴールされないように守備のことも考えます。九州にはたくさんのサッカーチームがあるので、観戦もプレーも楽しみですね~


 しかし、もし試合開始してからゴールの位置や広さが変わったら大変なことです。混乱しますし、ゲーム自体が成立しません。(たとえば、先週から政府で検討しているのは原子力発電所の運転期間40年、延長してプラス20年が限度を撤廃しようというものです。この40年は311の福島原発事故の反省を受けて法改正して設けたものでした。効率と利益の面から、その法を撤廃しようとしています。それは途中でゴールポストを動かすのと同じで、とても人間の知性、責任を生かした考え方とはいえません。特に地震の多いこの国では一日も早く原子力に頼らないエネルギー源への転換が必要です。しかし、向かうべき方向が間違っている(どうしても原発を運用して維持したい)ので、それをするためには、運転使用期間のゴールを変えるしかないのです。


 こうした状況に危機感を覚えたり、嘆いたり、時には憤り(原発のために土地を追われた人がいます)や悲しみを抱いたりしますが、もし、神さまがゴールポストを動かすお方であったなら、更に大きな失望を招きます。愛していると言ったけれど、それを取り消す神さま。天地を創造したけれど、宇宙を保持したり、雨を降らせたり、太陽を照らすのをやめてしまう神さま。信じるだけで救われると言ったけれど、やっぱりやめたと思い直される神さま。終わりまで助け出すと言ったけれど、途中で手を離してしまう神さま・・・もし、こんなことになれば私たちの信仰は崩れてなくなってしまいます。確信どこではなく、いつも疑念と不安にさいなまれます。喜びや賛美、礼拝どころではありません。


 しかし、どんなに世は世知辛くても、主は恵み深いお方です。とこしえからとこしえまで存在され、その性質(ご人格)も決して変わらないお方です。約束されたことは決して破りません。ゴールを変えないお方なのです。それゆえ、私たちはこの方を信じることができるのです。特に、移り変わる世の中、はかない世界にあって、私たちにとって唯一の慰め、とりで、岩こそ、主だからです。今朝のタイトルは「栄光のゴールを目指して」です。神の言葉は永遠に立つので、そこから示されるゴールは動かされることがありません。人生の目標を、神の言葉から立てることによって、私たちは今日も懸命に生き、精一杯力を注ぎ、究極の報いを受けることができます。一度かぎりの生涯、ニセモノではなく本物にささげたいと願います。


Ⅰ. 福音はあなたを(7-8節)

1. 新生させる

3章3-5節で繰り返されていた「啓示された奥義」は6節や7節、8節では「福音」と記されています。7節でパウロは「福音に仕える者にされました(受動態)」と自分のことを指しています。これは「福音のためには泥をくぐってでも奉仕する」という意味です。また、「仕える者になりました」の「なりました」は生まれるとか、創造されるという動詞の受身形ですから、パウロを宣教師としたのは神さまご自身で、それはそれまでの生き方からまったく変えられて、新しく生まれた者としての人生を与えてくださっているということです。私たちも、福音に触れるとこのような変化が起こります。どんなことよりも神さまのことが気になり、どんな約束よりも主との約束を大事にするようになり、どんな出来事や決断においても神の導きや意図を探り求めるようになります。それは「神の力の働き」(7節)=神があなたの人生、内側に深く関わってくださるようになったしるしです。病院に行くと聴診器をあてられて心音やからだの中の音を聴き、医師は正常や不正常を判断します。同じように、今、あなたの内には神の働いておられる音がしています。主の日に、教会でささげる礼拝。ここに身を置くこと。オンラインでつながっていること。それは「私の生きる場所はここだ」「ここは私の始まりだ」「ここでこそ、平安をいただくのだ」と新しく造られたあなたが味わういのちです。まだ自分ではたしかにそううなずけない人がここにいる場合、それはまた神の恵みです。もう、あなたの知らないところで主のストーリーが始まっているのですね。

さらに、パウロはここで「私」と何度も強調するように言っています。神さまは、この私に、こんな私に福音を伝える者にしてくださった!という驚きです。「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私」(8節)ですから(参照:第一コリント15:9「私は使徒の中では最も小さい者であり」)、どれほど彼が謙遜であったかがわかります。パウロでさえクリスチャンの中で自分が最も小さいと言っているのですから、私たちの間で競いあったり、ねたみあったり、いがみあったりするのは滑稽に過ぎません。


2. 伝える者にする

パウロが、自分をそのように低く仕えるように変えられたのは「福音に出会ったから」です。キリストに出会う前のパウロは、自分の生まれを誇り、知識を誇り、行いを誇り、熱心さを誇っていました(例:ピリピ3:3-7)。けれども、主イエスはそんなパウロと出会ってくださったのです。それは、とても難しいことではないでしょうか。

たとえば、「あなたに会いたいです!」と願ってやまない人と会うのは簡単です。会ってあげようかな、歓迎されているのだから会おうとなります。けれども、あなたを嫌っている人に会いに行くとしたら・・・気分が重くなりますね。明日電車が止まらないかなとか、都合が悪くならないかなと変な願いを持ったりします。


パウロはまさにそのような人物でした。キリストを否定し、教会を荒らし回り、男も女も捕まえて迫害し、牢に入れていました(使徒8:3)。イエスさまは、そんな自分と出会ってくれたんだ!という感動がパウロには押し寄せたに違いありません。こんな者のために福音が届いた。こんな自分のためにキリストは出会いにやってきてくださった。こんなショボい私のために天の御座を捨てて人となってくださった。すべてが驚きであり、恵みなのです。そして、このことを「キリストの測り知れない富」(8節)と呼んでいます。


このキリストの富(愛、力)によって、パウロは宣教に励みました。キリストの富は測り知れることがない=底が尽きることなどありません!どれだけでもキリスト預金を引き出すことができます。どれだけでもキリストの愛を受けられます。どれだけでもキリストはあなたを励ましてくださいます。それだから、福音を伝え続けられるのです。自分の力では限界があります。会う人さえも選んでしまいます。気分が乗らなければ変な態度で人と接してしまいます。恐れがあり、遠慮があり、うまく宣教できないことだってたくさんあります。というか、いつもそうです。しかし、キリストの富は測り知ることがありません。むしろ、自分に絶望し、自信をなくしてからが本番です。自分が退いて、ようやく、そこにキリストが働いてくださるからです。だから、伝えられる自信のある人に福音宣教を任せないようにしたいものです。主は「聖徒たちのうちで最も小さな者」を選んで用いてくださいます。自分なんかとてもダメです・・・と隠れようとしているあなたにこそ、主は目を留められているのではないでしょうか。ぜひ、ごいっしょにキリストの富・愛・力によって福音を広めていきましょう。


Ⅱ. 教会を通して(9-11節)

1. すべての人に明らかに

福音は、キリストの富によってあなたが伝えるものです。そしてにその範囲はとてつもなく広く「すべての人に明らかにするため」(9節)という世界大のミッションです。「教会を通して」(9節)ともありますから、これが私や牧師・宣教師だけでなく、あなたへのミッションです。私たち福岡めぐみ教会とそこに集うあなたに与えられているミッションです。


「福音をすべての人に明らかにするために」とは「光をもたらす」「あかりを照らす」という意味です。つまりは「わかりやすく福音を伝える」「信じたくなるように福音を届ける」ということです。このために、私たちは工夫を重ね、奮闘します。いろいろな催しを考えたり、機会を設けたりします。交わりを深めて、いっしょに福音宣教に進めるように励まし合います。今日、イエスさまと出会ってほしいと願って、人々を招きます。歓迎します。そうなるように祈ります。しかも、このことはやってもやらなくてもよいことではなく、ミッションであり、御心です。「主は・・・だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」(第2ペテロ3:9)からです。神の御心であれば、主が知恵を与えてくださいます。主が門を開いてくださいます。


そのために、私たちはできるだけ福音をわかりやすく、親しみやすく、伝わりやすくする努力をします。だれもしかめっ面で伝えられるのは嬉しくありません。乱れた環境では落ち着きません。教会を掃除し、看板を設置し、花壇を整備し、椅子を並べ、音響やビデオやプロジェクターを設置するのはそのためですね。私たちの居心地の良さ、快適さではなく、これから福音を聞いてもらう人のためへのまごころ、歓迎のためです。だから奉仕は丁寧にします。こなしていては伝わらないからです。教会学校教師や牧師はメッセージをあやふやなまましません。よく祈り、準備し、練習をして臨みます。それは心配性とかうまくやるためでなく、福音を分かってもらうように伝えるためです。イエスさまと出会ってもらえるように福音を語るためです。十字架の救いを受け入れてもらえるように近づくためです。年齢も国籍も生活する環境も関係なく、すべての人に福音が届けられるように。そのために、私たち福岡めぐみ教会が存分に用いられますように。このキリストのからだに組み合わされているあなたが用いられますように。


例:ある会社員が定年の日を迎えました。社長に最後の挨拶をする際に、ずっと言えなかったことを告白します。「社長。本日までお世話になりました。実は、私はクリスチャンです。退職後は教会で存分に過ごそうと思います」と挨拶をすると、社長は「あなたはクリスチャンだったのか!実は、私もだ!」という例え話があります。もっと早く言えばこの会社は、主のためにもっと用いられたのではないでしょうか。私たちはそれぞれ与えられている機会をムダにすることなく、福音を語り、伝え、感じさせることができますように。


Ⅲ. 神に近づく(12-13節)

1. 確信をもって大胆に

そうは言っても、福音を伝えることのハードルは高く感じますよね。普段の生活、付き合いの場で「クリスチャンなの」と言える場面や「聖書の話を聞かせてください」と言われる場面はなかなか訪れません。ましてや、そのために私は立候補します!という勇気も出ないものです。そんな私たちを見透かすように続く節で主はこのように言われます。「確信をもって大胆に神に近づくことができます」(12節)。私なんかダメだ、お役に立てない、苦手、無理と尻込みするのですが、主はそんなこと全然思っておられないということです。次にある通りです。


「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブル11:6)


主は、私たちが出来か不出来か、得意なことは何か、やる気はどのくらいあるのか、志望動機は何なのか・・・そういったことは一切問われません。問題は「キリストにより頼んでいるか」の一点です。神に大胆に近づくことができるのは「私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰」によるのだからです。このキリストを通して、私たちは大胆に、ビビらずに神に近づくことができるのです。


神さまは自信満々の人、勇敢な戦士、権力者ではなく、キリストによってご自身に近づく者を求めておられます。ここにあるようにパウロ自身「すべての聖徒たちのうちで最も小さな」(8節)者でした。神の歴史の中心は、王でも王妃でも大統領でもなく、最も小さな者、へりくだる人、悔い改める人です。優越感に浸るために人と争ったり、劣等感を振り払うために他者をねたんだりしないで、人と和解するために自分の力を使う人です。人を理解するために努力する人です。人を慰めるために頭と言葉を使う人です。それは自我が邪魔するので、自分の力ではできません。納得もいきませんし、続きません。けれども、キリストにより頼むなら、キリストが愛してくださった愛を知るなら、自分も愛する人へと変わることができます。


2. 苦難をいとわずに

しかし、その道は決して楽でも簡単にできるのでもありません。パウロ自身が「私があなたがたのために苦難にあっている」(13節)と記しているからです。具体的にはどのような苦難かはわかりませんが、エペソ教会の人々は、パウロが自分たちのために苦難を背負ってくれていることを知っていました。けれども、「私たちのせいだ」「私たちがいけなかったから」と落胆するのではなく、神からの栄光にあずかれることを知るように願っています(第2コリント4:17、ローマ8:17)。ゴールに向かうには避けては通れない道があります。ショートカットはありません。平坦なルートを選択することもできません。苦難があるのです。しかし、それは主があなたに用意してくださった道。だから、今週も私たちは前進します。<了>


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