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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「歌って始めよう」


聖書 詩篇96:1-6

はじめに

主の年、2024年が始まりました。

元日に石川県能登半島地震が発生し、翌日は羽田空港で航空機衝突の火災事故があり、動乱の年明けとなりました。どうか主が傷ついた者を癒し、弱い者の近くにいてくださり、悲しむ者を慰めてくださいますように。


私たちは、この時にも主のご支配が全世界の上にあることを覚えましょう。主の御手は短くなく、弱くもありません。主ご自身の知恵により歴史を導かれ、その力によって支えておられます。そうです、この朝も私たちは主がこの世界を治めておられる王の王であることを、ここでともに告白しましょう。


今年の聖句は「新しい歌を主に歌え。全地よ 主に歌え。主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと 御救いの良い知らせを告げよ。」(詩篇96:1-2)です(週報欄もこの聖句に変わりました。一年間私たちはこのみことばに親しむ歩みをしてまいります)。


この動乱の世界にあって、この聖句を告白し続けましょう。みことばに信頼を置き、揺るがされることなく主の御名を高く掲げましょう。


私たち福岡めぐみ教会は主を礼拝する民です。週の初めの日である日曜日を主の日として定め、礼拝で一週間をスタートします。それは礼拝式の90分に限定されるものでなく、「礼拝で始めたこの一週間、あなたを主と告白し続けて歩みます」という意味です。


礼拝で力が与えられ、礼拝で思いが変えられ、礼拝でおろすことのできる重荷があります。それを一時的なものとせず、「私は主の民として生きていきます」という決意を離さずに抱えていくのですね。


それで今年は礼拝を日曜午前だけのものにしない、礼拝を教会堂だけの営みにしない、聖書を開くのは礼拝のときだけ、賛美するのは礼拝のときだけ、リスチャンっぽくいる(いなければならない!)のは礼拝のときだけにしないために、礼拝の本質を知り、礼拝の喜びを知り、礼拝体質のカラダを作り上げたいと願っています。


今朝は年間聖句から、礼拝と賛美について思いにふけります。


1. 賛美を求める神

礼拝の本質は、主に歌うことです。今朝の個所では始まりの1-2節に3度「主に歌え」と記されています。そしてこれをよく見ると命令されていることにも気づきます。

私たちが礼拝する神は「ご自身を賛美せよ」と命じられるお方であるということです。神は、ご自身がほめたたえられることを求めておられます。


さて、新年ですから頭の体操をして考えてみましょう。

賛美を求める神とはどのようなお方でしょう。賛美を強要するなんて暴君でしょうか?神が賛美されたいのは注目を浴びたいからでしょうか?


実は、古代から教会で「神は寂しいから、人間を造られたのではないか」「神は暇で仕方がなかったので動物や植物を造られたのではないか」と問われたり、考えたりされてきました。


これに対する答えを導き出すのに大切なのは、神がどのようなお方であるのかということです。聖書は、神は三位一体であると教えています。一人の神には父、子、聖霊という三つの位格(人格)があり、それらは本質において同じです。三位一体の神はともに権威を持ち、すべてのものの創造者であり、すべての造られた者によって礼拝されるべきお方です。

そして、ご自身のうちで愛の交わりを持っておられ、調和し、自律し、満足しておられるお方です。他の何かがないと存在できないとか、他に何かがないと寂しくなったり、つまらなくなったりするお方では決してなく、ご自身だけで存在できるお方です。これが聖書の教える三位一体の神です。


私たちは神を求めるとき、神の教えの中にとどまることが大切です。神を知ることを求めても、人間の知恵で神を理解しようとし、人間の言葉で神を表すことには限界があります。もし神を完全に理解し、完璧に表現できるとしたら、私たちの方が神よりも賢いことになります。神は人間が完全に知りえないお方。この範囲を私たちは大切にして守ります。私が「みなさんのことを完全に知っていますよ」と断言したら、それはみなさんを侮辱することになりますよね。人は人のすべてを理解することはできません。ましてや、人が神のすべてを理解することは不可能です。神が深淵であり、理解を超えた方であると知ることは、神をたたえることなのです!

では、ご自身のうちで満ち足りておられる神はなぜこの宇宙を創造し、世界を創造し、人間を造られたのでしょうか。それはご自身の栄光を現すためです。この世界に置かれた人が、そこかしこにちりばめられ、あふれている神の栄光を見て驚き、神をほめたたえるためです。

私たち人間にとっても、神をほめたたえることは真の満足を与えます。私たちは神以外のものでは決して満足しません。まことの神を見出し、神の栄光を見、神を礼拝してこそ、人は真の平安を得、喜びを味わうからです。 


礼拝のない世界は、争いを引き起こします。人間が「私をたたえよ」「皆の衆、私だけを礼拝したまえ」「お前たちは虫けらだ」と言い合うようになったとしたら、その先は恐ろしい世界です。私たちがまことの神を礼拝するまでは、神礼拝のない、みにくく激しい争い、混迷の世界に身を置くことになります。それゆえ、この週の初めの日に、出来る限りの準備をし、礼拝の場を整え、ここに招かれ、その身を置き、たましいを神にだけむけることができる福岡めぐみ教会の礼拝が大切なのです。


あなたが歯止めをかけられ、混迷の世界から救い出され、あなたに見るべきお方が示され、たたえるべきお方があがめられ、信じるべきお方が明らかにされていることは何よりの、何よりの幸いです。


「主に歌え」と三度も命じてくださる主の熱心、愛の招きに応えてまいりましょう。今、ここで私たちは持ちうるかぎりの賜物、熱心をもって主をたたえましょう。主だけを礼拝しましょう。


2. 大いに賛美する

では、どのように主に歌うのかを見ていきます。

始まりの1節で命じられているのは「新しい歌を主に」歌うことです。「新しい歌」とはいわゆる「新曲」のことではありません。なぜなら、神の民は詩篇を何千年にもわたって歌い続けているからです。もし、新曲しか神さまが受け付けてくださらないのなら、詩篇は残されていなかったことでしょう。「新しい歌」とは、歌に比重があるのではなく、歌えと命じられている私たちに向けられています。そうです、賛美する私たちがたえず新しくされていること、主の救いに感謝していること、主に生かされていることに感動していること、主の創造のわざに魅了されていることです。決してマンネリや行動の繰り返しであってはならないのです。


たとえば、私が妻の誕生日に「お誕生日おめでとう!永遠の20歳だね。いっしょにいてくれてありがとう。これからも支え合って過ごそうね。」とメッセージをそえたら、妻は喜ぶでしょう。しかし、もしそれが二年目も三年目も同じ内容だったとしたらどうでしょうか。それでも妻は喜んでくれるのでしょうか。最初の2年間は「この人は毎年新鮮に言ってくれるな」と感動するかもしれませんが、数年続くと「あ、この人、超忘れっぽいのかな」と心配になるかもしれません。ただし、それが10年も続いたら妻は怒り沸騰でしょう。いつも同じ内容だからです。

同じように、私たちが毎週まったく同じ言葉、同じ気持ち、何なら徐々に表情がなくなっていくようなマンネリの賛美を神さまに向かってしていたとしたら、それは良い礼拝ではありません。神ご自身も喜んで受け入れてくださるとは、到底思えません。私たちが自分のカラダのケアを怠らず、デトックス(毒抜き)に励むのであれば、神に対してはそれ以上の熱心さ、新鮮さを向けたいと願います。そうしてささげる賛美がこの会堂に満ちていきますように!


続く2~3節では「日から日へと」「国々の間で」「あらゆる民の間で」語り告ぐように命じられています。「日から日へと」とは、毎日ということです。この礼拝式だけでなく、日曜午前だけでも、会堂だけでもなく、会堂の外で、月曜から土曜まで、普段の生活の場で御救いの良い知らせを告げます。ここから「歌え」ではなく「告げよ」「語り告げよ」と繰り返される言葉が変わっています。


それは、いわゆるメロディーがともなった歌に限らないということですね。あなたが普段の会話の中で、どれほど神による救いを告げているか。主は良いお方であると語っているか。相手がいなければ独り言でもいいから、主をたたえるのです。それは、主が必ずそれを聞いておられ、聞こえている人、見ている人がいるからです。


毎日、証しの機会がありすぎて困る人は少ないでしょう。むしろ、証しする相手がいないことに、申し訳なさを感じるかもしれません。ただ、ここで「日から日へと 御救いの良い知らせを告げよ」とあるのは、わざとらしくなくてよい、ということでもありますね。舞台が整ったら、証しの順番が来たらしないさい、というものではないからです。肩ひじ張らずに、普段の何気ない会話の中で、主をほめたたえていきましょう。


しかも、「あらゆる国々の間で」、「あらゆる民の間で」とは、教会外の場所で、クリスチャン以外の人々と会話するとき、という意味です。あなたが一歩この会堂を出たときから、塩気を保つ主の弟子であるか、つい口にすることが主の栄光を現しているかと問われているのです。


ここにいるみんなにキング牧師やビリーグラハムのように大演説をし、民衆を巻き込み、回心させる役割や機会が与えられているわけではありません。ただし、あなたにはあなたの遣わされる場所があり、あなたにはあなたが出会う人がおり、あなたにはあなたが証しする人が備えられています。他の人がそれに替わることができません。

あなたが誰に何を言うかと点検したり、監視したりする人はいませんから、肩ひじ張らずに、主は良いお方であると語り、告げ、知らせてください。そこから、神の国は広がっていくのだからです。


3. 主だけに栄光を

ここまで来ると、「わあ~、私も普段から主を証しできるといいな」と感じてもらえたでしょうか。それとも「会堂出てまで主をたたえるなんて私にはちょっと無理かも」と感じられたでしょうか。きっと両方の方がおられると思いますので、どのようにしたら証しができるのか、みことばが示しているところを確認してまいりましょう。


6節には「威厳と威光は御前にあり 力と輝きは主の聖所にある」(6節)とあります。これらはすべて主が持っておられるものです。私たちがなすべき礼拝とは主の威厳、威光、力、輝きをほめたたえることです。


何か主をたたえることが大げさで仰々しくとらえるかもしれませんが、実に、私たちは日ごろから良いものをたたえています。正確には、それが良いものだと、私たちは自然とたたえます。たとえば、かっこいい車を見たとき、かわいいピアスを見つけたとき、おいしいものを食べたとき、虹を見たとき、雪が降ったとき、温泉に入ったとき、スポーツで興奮したとき、推しのライブに行ったとき、私たちは歓声や手を上げて喜びを表現するのではないでしょうか。それは、対象を見た私たちの心が動かされ、思わず声が出たり、手足が動いているような具合です。

私たちは良いもの、魅力あるもの、心にふれるものに出会うと自然と賛美し、ほめたたえるのです。

良いものを見て、無反応な人は見たことがありません。思わず「ねえねえ、これ見て」、「ちょっと聞いてよ」と言いたくなるし、誰かに伝えたり、共有したりしたくなるはずです。もし、良いものを見たり、喜びを感じたりしたときに黙っておかなければならないルールがあったとしたら、それを守るのはとっても難しいでしょう。もし、私たちが本当に主の偉大さを知るならば、感嘆せずにいられないのです。もし、私たちが救いの確信を得たとしたら、誰かに伝えずにはいられません。


反対に、いい加減なものに対しては、いい加減な反応をします。時々、長女が自分の撮った動画を私に見せてくれるのですが、私はいつもそっけない反応をします。それは対象に対する興味がない(!)からです。


同じように、神の偉大さが分からないなら、礼拝や賛美や伝道は苦痛でしかありません。そのためにも、どうかここにいるみなさん、そしてそれぞれに祈っている方々の目を聖霊が開いてくださり、主の素晴らしさを知ることができますように!

最後に5節をご覧ください。「まことにどの民の神々も みな偽りだ」(5節)。ここから教えられることは、主をほめたたえるということは、他の神々と決別をし、真理と偽りを明らかにするということです。

キリスト教に興味がある方から「聖書は唯一の神を教えている。そんなのは寛容ではない」と言われたことはないでしょうか。「様々な対象を神と人々が信じているのに、神は唯一だと主張するのは傲慢だ」とか「寄り添うとかと言っても、クリスチャンは人の信じているものを否定するのか」と指摘されることもあるかもしれません。しかし、正しいことを伝えることと、相手を尊重することとは両立します。偽りの神々にだまされ、人々がだまされないようにすることは非寛容ではなく愛ある忠告です。


たとえば、病気の人が効かない薬を飲み続けるのを見ているのは、愛ではありません。本当に効く薬を知っているなら、なおのことです。病気の人が良い薬だと信じていても、砂糖を食べ続ければいのちを失うでしょう。


あなたが黙っているなら、その人は救い主を知らないまま過ごすことになります。あなたが福音を恥とするなら、神の栄光を曇らせていることになります。私たちはただ唯一賛美すべきお方にほめ歌ささげましょう。私たちを通して、神は栄光を受けになります。想像してください。全世界を造られたお方が、私たちの賛美を待ち望んでくださっているのです。これほど名誉ある生き方はありません。

「新しい歌を主に歌え。 

日から日へと 御救いの良い知らせを告げよ。」


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