聖書 ルカ4:1-13 |
はじめに
運動会の季節になりました。私の幼少期は秋が定番でしたが、この20年ほどで春に行うところが多いようです。みなさんは、運動会に関する思い出があるでしょうか。私の記憶に残っているのはお弁当とリレーです。まず、運動会のお弁当にはいなり寿司が我が家の定番でした。普段の食卓や遠足には出てこないいなし寿司が運動
会には四角い重箱の中にきれいに並べてられているのが楽しみでした。各世帯がレジャーシートを敷き、運動場をぐるりと囲んだお弁当の時間は印象深いものです。
もう一つはリレーです。正確にはリレーの時に何を履くかです。私は運動会のときには裸足派でした。なぜか靴よりも裸足の方が速く走れる気がして、出番が近づくと靴の中に靴下を丸めて裸足で用意するのが好きでした。また、リレーでは腕を回して走る子もそこそこいました。赤白帽子の赤と白を半分にしてウルトラマンと言って遊んでいる男子もいました。その裸足派に対して、運動会用に新しく靴を買う子もいました。今では「瞬足(しゅんそく)」という園児から小学生にまで大人気のブランドがあり、娘たちも履いていました。ともすると、クラス全員が瞬足(!)みたいなみんなの憧れのアイテムのようです。箱根駅伝を見ても、記録の出る靴だと話題になると多数のランナーが同じ靴を履いています。昔は裸足でマラソンを走るオリンピアンもいましたが・・・・・・
一時期、水泳でも薄い素材で作られた物で新記録が連発し、それが選手たちに流行しすぎて禁止になりました。
これらが示すのは道具の大切さです。何を装備するかによって競争や記録が変わってきます。プロ選手であれば、道具選びによってその人の人生がかかる重要な選択になります。何を装着して戦うのかが結果に直結するからです。
今朝はそんな装備と戦いに関する聖書箇所です。その戦いとは、私たちが日々さらされている霊的な戦いです。大げさではなく、このために私たちはしっかりと準備をし、良いものを装備した上で生きてゆかねばなりません。そうではないと簡単に欲や偽り、まやかしや惑わしに引っ張られ、罪が熟して死に招き入れられる敗北の人生を歩むことになります。いつも漠然とした不安や心配にさいなまれ、確固たる道を歩き損ねてしまいます。その行き着く先は滅びです。
ぜひ、今朝から新しい歩みをしましょう。真理に照準を合わせましょう。これからのみことばの時間が、かけがえのない知恵をいただき、確かな決断をなすものとなりますように。
試練があるのは
先月からルカの福音書をともに開いています。今朝から4章に入ります。イエス・キリストがいよいよ公の生涯、宣教を始められる場面です。始まりの節をご覧ください。「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、四十日間、悪魔の試みを受けられた」(4:1-2)
「聖霊、御霊」と「悪魔」という対極的な言葉があります。聖霊に満たされたイエスは、そのままハレルヤ!と賛美だけに満たされて過ごしたのではありません。「悪魔の試み」を受けられました。この四十日間は時間的な長さでもあり、悪魔の試みが徹底的になされたという意味でもあります。聖書の中で四十日、四十年は試練の意味を持ちます(例:ノアの洪水、荒野の期間、エリヤの旅など)。
聖霊に満ちたイエスが、試みを受けておられます。それも「御霊によって荒野に導かれ」、そこで試練にあわれました。試練にあうのは悪いことではありません。試練が起こるのは何か悪いことをしたそのしっぺ返しではありません。試練が続くのは、神があなたを見放しているのでも、あなたを突き放しているのでも、あなたから遠く離れているのでもありません。聖霊に満たされたイエスが、御霊によって導かれた荒野で試練を受けられました。聖霊があなたを導き、試練を通らせることがあるのです。
試練のある人生は神に見放されたしるしではありません。一見すると、ピンチです。トラブルを歓迎する人はいません。居心地の悪い場所に、わざわざ飛び込む人はいません。他人から見れば、「あの人終わってる」と笑われるかもしれません。けれども、ここに新しい視点があります。試練は、あなたが主をもっと素晴らしいお方であることを知るためのものです。試練は、あなたの内側がさらに強くされるためです。試練は、あなたがこの世のものではなく、永遠に続く価値あるものに生涯を費やすきっかけとなるものです。
病にならなければ、知ることのない恵みがあります。何でもないと思っていた健康の状態が何と素晴らしい恵みであるのかを知らされます。平気で過ごしていたのが奇跡だと学ばされます。心ざわつく出来事があって、ようやく自分の弱さに気づきます。こんなにも自分が頼りない存在であり、浅い知恵しか持ち合わせていないことを明らかにされます。危機になって初めて人に感謝を伝えなければという気持ちにさせられます。いつでも言えると思っていた謝罪を、いつまでもしないでいた自分を見せられます。慌ただしくすることで考えないようにしてきた人生の意味を、礼拝の場でようやく探り始めます。他者をさばき、境遇を嘆いてばかりいたのが、聖書を通して自らを見つめ直す機会が与えられます。試練は望むものではなくても、神によって配慮された正しい道です。
本日のタイトルは「正面突破」です。試練を避けよう、脇道にそれよう、抜け道を探そうではありません。それは車の運転時だけで十分です。しかし、人生には避けてはならない道があります。抜け道よりも正面から突破しなければならない試練があります。もし私たちが避けたなら、同じような試練が何度でも立ち起こってくることでしょう。主は試練を通して私たちに、何かを得させたい、何かを与えたいからです。試練は、神に見放されたしるしではありません。聖霊に満ちたイエスが、御霊に導かれ荒野で四十日間悪魔の試みを受けられたのが何よりの証拠です。
ただし、裸一貫で何の装備もなしに試練に飛び込むのは賢明ではありません。私たちが何も考えずに無防備で毎日を過ごせば、悪魔の思うつぼです。嫌なものを避け、逆境にたじろぎ、他人のせいにして文句ばかり言う悪魔の手先の一丁上がりです。悪魔は、神の力や影響が増え広がるのを阻止しようと、今日も画策しています。神を軽視させ、聖書に触れるのを面倒だと思わせ、祈りを無駄だとささやきます。その人自身だけでなく、その影響を周囲にまき散らして、人生をあきらめさせます。
困ったことに、悪い影響ほど早く、広く拡散します。園芸作業や技術の習得を考えると分かりますが、良いことが行き渡るのは骨が折れ、時間と手間がかかります。だから私たちは毎週、一緒になって礼拝するのです!
2. 3つの誘惑
さて、具体的な試練については3~12節に3つ記されています。①空腹に対する誘惑(3-4節)②権力に対する誘惑(5-8節)③信仰に関する試練(9-12節)です。
1つ目の誘惑は、イエスが空腹時の場面です。悪魔は時を読む力が抜群です。時と場所をわきまえて誘惑するので大変効果的です。たとえば、満腹の時におまんじゅうを見せられても食べる気はしませんが、空腹時であれば大きな誘惑となります。ここでのタイミングはイエスが四十日間断食をし「空腹を覚えられた」(4:3)まさにそのときであると記しています。悪魔はまさにこのときを狙って、あなたの隙をついて近づきます。あなたがちょうど言ってもらいたいことをささやき、あなたが今したいことをちらつかせて寄って来ます。
ここでイエスがなされた答えはよく知られています。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」(引用元:申命記8:3) 「パンになるように」と言った悪魔に「パン」と言って答え、イエスは正面突破されています。もちろんパンに代表されるように、食べ物は生きるために絶対必要です。しかし、この荒野の期間の締めくくりにパンを貪るようにして食べることは、ふさわしくないのです。イエスは空腹だからこそあえてパンではなく、みことばを選ばれました。
これは私たちへの問いかけになっています。ここでのやり取りは「これがないと生きられない、と私が考えるものは何か」、「今の私が求めなければならないものは何か」、「この状況で何よりも神のことばが役に立つと考えているのか」というものです。私たちが試練や誘惑と正面から取り組み、みことばによる真剣勝負をしているか問いかけています。神よりも先に何かを求めてないか。神を忘れた解決策はその場をしのげても、まことのいのちには至りません。
2つ目の誘惑、悪魔はイエスを高いところに連れて行きました。悪魔はイエスを連れて行けるほどですから、私たちを誘い出すことは朝飯前です。そこで悪魔は「このような、国々の権力と栄光・・・・・・それは私に任されていて・・・・・・私が望む人にあげるのだ」(4:6)と平気で嘘をつきます。しかもこの場所とタイミングも抜群です。高いところでそのように言われたらいかにもそれが本当かのようです。唯一の条件は「もしあなたが私の前にひれ伏すなら」(4:7)というものです。悪魔が偽りを言うのは、自分を崇拝する者を繁殖させるためです。悪魔は自分の味方を作ることに長けています。悪魔は大ぜいのほうが効果的だと思い込ませるのが得意です。礼拝する権利をやすやすと悪魔に引き渡してしまわないようにしましょう。悪魔はあなたが頼み込み、ひれ伏し、興味と関心が自分に向けられることが大好きです。その反対にあなたが唯一の神を礼拝するなら歯ぎしりをします。
3つ目の誘惑で、悪魔はイエスをエルサレム神殿へと連れて行きました。それも屋根の端に立たせ、ギリギリまで追い込みます。この前の2つの誘惑で「書いてある」(4:4,8)とみことばで対抗されたので、3つ目は悪魔もみことばで誘います。何と賢いのでしょう。そして、さすが悪魔なので素直にみことばを伝えません。みことばを悪用します。みことばを間違って理解させ、誤った適用をさせることが悪魔の策略だからです。エデンの園でも、蛇は「神は本当に言われたのですか」(創世記3:1)とみことばへの疑いから女との会話を始めています。それは人間を神から引き離すのには、聖書を疑わせること、聖書を間違って理解させることが効果的だからです。
イエス・キリストと対決した悪魔はどうしたでしょうか。「悪魔はあらゆる試みを終えると・・・・・・イエスから離れた」(4:13)悪魔はイエスに対してあらゆる手を尽くしたけれども太刀打ちできず、退散しました。それほどイエス・キリストと悪魔との力の差は歴然としています。ただし「しばらくの間イエスから離れた」とあるように、悪魔はまったくあきらめていません。むしろ、今は退いて完全に敗北したかのように油断させておいて、また隙を見てやって来る、という風にも読めます。誘惑になびきやすい私たちであればなおのことです。悪魔の格好の的であり、カモなのではないでしょうか。結びに「正面突破」の具体的な方法を見てまいりましょう。
3. 悪魔の名前
悪魔(単数形)とその手下である悪霊(複数形)について、聖書は次のように教えています。
「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています」(ヤコブ2:18)
「サタンでさえ、光の御使いに変装します」(第二コリント11:14)
悪魔は唯一神信仰です!また、今日の個所のようにたくさんの聖書知識を持っています。悪魔は神を知って身震いしています。しかし、あきらめません。往生際が悪いのです。なぜなら、悪魔は最後に自分が滅ぼされることを知っているので、一人でも多くのたましいを滅びの道連れにしようと必死だからです。それが悪魔の喜びだからです。喜びのためには、どんなことも犠牲にしますし、すべてを差し置いて最優先します。そうして今日も悪魔はターゲットを探し回り、活動しています。
また悪魔は、私たちには御使いのように見えることさえあります。虫歯のイラストのような分かりやすい形では近づいてきません。それでは私たちをだますことが難しいと知っているからです。私たちが正面突破するためには、この敵と正面から向き合わなければなりません。
そのためには、悪魔が自分のどこを攻撃し、どの弱点を突いているかを見極めることが重要です。もし褒められることがあなたの大好物であったとしたら、悪魔はあなたを褒めながら近づき、高ぶりをお土産にと渡していくかもしれません。もしあなたが人の言葉によって極度に落ち込んだり、人の顔色を伺わないと平安が持てないようであれば、サタンはもっともっとあなたを不安にさせ、神を見せないように仕向けることでしょう。もしあなたが瞬間的に怒ってしまうなら、悪魔はそれを利用してどんどんあなたが不満を持つような状況にするかもしれません。もしあなたが噂好きだとしたら、そうしたことに多くの時間を割くようにさせるかもしれません。他にもすぐにあきらめたり、私なんて死んだっていいと思わせて、あなたを神から引き離そうとするかもしれません。
「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力、愛と慎みの霊を与えてくださいました」(第二テモテ1:7)
神があなたに与えてくださっているのは臆病の霊でも強がりの霊でも、高ぶりでも、自信喪失でも、怒りでも、孤独の霊でもなく、「力と愛と慎みの霊」です。今朝の個所でイエス・キリストは悪魔に対して正面突破されました。そして、完全勝利を治められました。なぜならイエス・キリストは悪魔よりも力あるお方だからです。
たとえ誰かが「私には国々の権力と栄光を私が望む人にあげることができる」「あなたの理解者は私だけ」とささやいても、心ひかれてはなりません。イエス・キリストこそ「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」(マタイ28:18)と宣言する通りの方です。最も高い権威を持つお方に私たちはつき従うべきです。その方こそ、イエス・キリストです。今日からこの方を主として正面突破してまいりましょう。
祈りましょう。
今はあなたと神との二人だけの時間です。
今朝、みことばを通して語ってくださったことを思いめぐらしましょう。今朝、神があなたに覚えてほしかったことは何でしょうか。これまでのあなたの生き方、考え方の中で捨てるべき偶像は何でしょうか。あなたが気づくべき弱点は何でしょうか。主がその傷口、破れ口に立ってくださるように祈りましょう。教会の礼拝の中に身を置き続けましょう。すべてに勝利されたイエス・キリストをあなたの主としましょう。今日から、この方に従って私たちは歩み出します。
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