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「永遠の望み」(福音シリーズその15)

更新日:2023年10月4日


​聖書:黙示録21:1-7

(※今朝は時事ニュースから入ることをお許しください)

先月、伝統芸能の歌舞伎で著名な家庭で親子心中がありました。いよいよそれを実行するときには「次の世界へ行こう」と相談をして親子心中を図ったと伝えられています。家族で話し合い、思い詰め、ある意味追い込まれ、心中死を選ぶことしかできませんでした。いかに名を立て、都内に豪邸と言われる住まいがあり、仕事に困ることはなかったとしても、それらがその親子に世を生き抜く力を与えたり、最後まで支えるものとはなりませんでした。そうして、地上での別れを決心した親子が見ていたのが「家族3人で次の世界へ行こう」という最後の望みです。今朝は、「次の世界へ行こう」と彼らが死をもって託したものに注目したいと思います。


私たちも悲しみのない世界へ行きたい、今とはまったく違う新しい世界へ行ってしまいたいと思った経験があるのではないでしょうか。「取り返しのつかない失敗をしてしまった。叱られることのない世界へ行ってしまいたい」、「疲れてしまってもう自分の限界を超えてしまった。もう頑張らなくてもいい世界へ行ってしまいたい」、「どれだけもがいてもゴールが見えない。人生のゴールが欲しい。もうこれでいいのだという平安と確信が欲しい。この世界にはそれがない」。このように、この世で生きることがつらくなってしまう、疲れ果てて希望が持てなくなってしまうのは多くの人が経験することです。今朝は本当に希望を持てる世界がある、次の世界に行くことができる、というメッセージです。


1. 刷新の恵み

本日の中心となる聖書個所はヨハネの黙示録21章です。聖書の最後の書で、ジャンルは「預言書」です。預言書は、主なる神からの啓示を収めたものです。啓示とは、人間から出た創作や願望、予測ではなく、神から出て、明らかにされた真理のことを指します。私たちが本当に神さまのことを知りたい、本当に天国のことを知りたいと思うなら、私たちから始めるのではなく、天国から教えられるのであれば間違いがありません。その真理を啓示(神から明らかにしてくださる)という方法で、私たちは受け取ります。これは、聖書全体にも通じることです。ぜひ聖書の信頼性は、神さまの折り紙付きなのだということを覚えましょう。


今朝の聖書個所も「次の世界がある」というメッセージを伝えるものです。そのことが一番確かなのは「次の世界を知っている方」から教えてもらうことです。日本的な表現をすれば「本当にあの世に行ったことがある人」からの証言が一番確かです。次の世界はこの世とは違います。断絶があります。それは「死」という断絶です。死という一線を越えると次の世界のことが分かります。けれども、人間は死んでしまったら、その人の声を聞くことができません(話してくれるような気がしますが、それは慰めであっても、確かなものではありません)。死んだ人から「あの世はこうなんだよ!」と証言をもらうことができません。ただ唯一の方を除いては。それがイエス・キリストです。その意味で、イエスさまが復活されて本当に良かったのです!イエスの十字架と復活がこの世界を大逆転させました。それは本当に「次の世界がある」ということを証明したからです。イエスの復活により、恐れていた弟子たちは福音宣教にいのちをかけるようになりました。それから「イエスの復活の証人」(使徒1:22)として全世界に派遣されていきました。ある者は迫害を受け、ある者は殺され、殉教しました。けれども、彼ら全員は主イエスの復活によって新しいいのち、新しい世界、天に国籍を持つ者とされたので、この世でどんな死に方をするか、この世のいのちがいつ終わってしまうかについて、それらを超えた革新と力と喜びがありました。彼らは「次の世界に行くことができる」という真理を知り、確信を持っていたからです。


弟子たちは、自分たちでこの世の恐れを克服し、死んだらどうなるか研究して分かったのではなく、主イエスの復活を目撃し、イエスがよみがえったこと、またその教えがすべて本当であることを分からせてもらいました。イエスの復活こそ、「次の世界がある」何よりの証拠だからです。本当に死んで、本当によみがえられた方による証言。もし、これを否定するなら、私たちは自分で次の世界を想像したり、こうだと思ったり、人からこうらしいよと伝え聞くことで納得させなければなりません。それがこの聖書への歴史的な信頼にまさるものなのかどうかを考えないといけません。そうすると、聖書信仰の歴史、宣教の歴史の重みが分かりますね。


今朝開いているヨハネの黙示録は、このイエス・キリストが書かせた手紙です。イエスさまが、七つの教会(つまり、全世界の教会)に賞賛や励まし、そして警告や希望を書き送っています。主イエスが証言する「次の世界」とはどんなものでしょうか。それは、ひと言で表現するなら「刷新」です。「新しい天と新しい地」  (21:1)、「新しいエルサレム」(21:2)、「聖なる都」(21:2)、「神の幕屋」(21:3)です。その新しい天と新しい地が降って来るため(この表現に注目)、「以前の天と以前の地は過ぎ去り」(21:1)いっさいが刷新されます。つまり、今見ているもの、さわっているもの、立っているところ、使っているもの、教えられたこと、常識、枠組み、しがらみ・・・これらいっさいが「過ぎ去る」のです。「以前の天と以前の地」がすべて過ぎ去り、刷新されます。何とすがすがしいことでしょう。


新しい天と地は「涙、死、悲しみ、叫び声、苦しみ」が「もはやない」世界です。想像してみてください。涙のない世界を。死のない世界を。悲しみのない世界を。叫び声のない世界を。苦しみのない世界を。イギリスの作家C.S.ルイスは私たちが天国へ行った際の第一声は“Ohhhh!”だろうと記しています。私たちが天国に着いた時、「だからこうなっていたんだ」、「あのことにはこのような意味があったのだ」、「地上で苦しんだことがこんなふうに報われるんだ」とすべてへの理解と報いが一気に分かるようにされるのです。だから、そのときに私たちは驚きと感嘆を込めて「ウオオオオ!」と(叫び声はないので、大きな声で♪)言う。ナルニア国物語や悪魔の手紙、信仰書をたくさん記している彼のような作家が適当な言葉が見当たらないほど、新しい天と地は素晴らしいのです!!


今のこの世界には「涙、死、悲しみ、叫び声、苦しみ」をたくさん経験します。毎日それがのしかかります。嫌な気持ちにさせられたり、思いつめたり、追い詰められたりします。ただ、これらのことを経験することで、私たちは救いの願望が増大し、世界が刷新されることへの希望を持たせてくれます。この世でどれだけ忍耐したとしても、それはその人の品性を練り上げるためではなく、次の世界への希望を持つためです。次の聖書個所を開いてみましょう。


「・・・苦難さえ喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:3-5)


苦難、苦しみ、涙、悲しみは、私たちがそれに忍耐して、練られた品性を持って耐えぬく力をつけるためとか、それらを「無」であるとか「悟った!」ように解脱させるのが目的ではなく、最終的に私たちが「希望」を持つためです。今日のテーマで言えば、苦しみは私たちが「次の世界への希望を持つ」ために働くのです。その手順として、苦難から忍耐、忍耐から練られた品性、練られた品性から希望という順序をたどります。それは「神の愛が私たちの心に注がれている」ので、早まった決断をしなくなり、苦しみや悲しみや死があったとしても最終的にそれらを乗り越えることのできる希望を持つのです。まさに何という希望でしょうか。この世のものは一新され、すべてが刷新されます。ぜひ、次の世界に行く希望をいただきましょう。その希望が、苦しみにあるときも支えとなり、その希望が忍耐を持たせるとりでとなり、その希望が練られた品性を生み出す源、パワーとなります。


2. 約束は成就する

では、どうしたらそのような希望を確信として持つことができるのでしょうか。

初めに、この黙示録は「預言書」だと紹介しました。それは私たちの知らない真理を、神の側から顕して(明らかにして)くださるという方向、方法です。この新天新地がどのように実現するのかを見てください。


「新しい天と新しい地・・・聖なる都、新しいエルサレムが・・・神のみもとから、天から降って来るのを見た」(21:2)とあります。それは「天から降って来る」のです。徹頭徹尾、初めから終わりまで、地上から=人間から何かを生み出したり、新しくしたりする力や技術、歴史もありません。すべては主から来ます。「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:29)からです。


新しい天と新しい地が、神のみもとである天から降って来るように、私たちの次の世界への希望も、神からいただくのです。それがもっとも確かな根拠です。 特に本日の21章5節は珍しいと指摘されている箇所です。「すると、御座に座っておられる方が言われた」(21:5)。これは神ご自身のことです。黙示録はイエス・キリストの黙示(1:1)とあるように、主イエスの声として書き送られ、天からの声は御使いによるものです(参照:19:9-,22:6など)。ただ、その中にまれに神ご自身によることばが記されています。それが黙示録には二か所あり、一つは「神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」」(1:8)で、もう一つがここにある「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる」(21:5)から始まって21:6-8のことばになります。この二か所だけが父なる神が明確に語られている場面になりますので、私たちがそのことにも注目してよいということですね。


神ご自身が真実であり、信頼できることばとして教えていることは「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」(21:6-7)


まず「事は成就した」とあることです。実は、ここは「完了形」が使われています。もう新しい天と新しい地に代表されるような、すべてのものの刷新、贖いは「完了し、成就しました」と言っているのです。現実は相変わらず死が支配し、この世の終わりであり、希望が持てず、涙、悲しみ、苦しみが蔓延しているのだけれども、「事は成就した」という主の宣言をどのように聴き、どのように見て、どのように受け止め、どのように生きるのか。主が完了した、成就したと言っておられることばは「真実であり、信頼できる」(21:5)と前節で言い始めたことをつながっている、アーメンだとうなずけるのかという問いかけです。


主は、私たちがみことばに包まれ、囲まれ、かくまわれて生きることを願っておられます。この世に流され、この世の荒波に飲み込まれることをよしとはされません。この世の中で、あなたの人生でみことば、神のことば、聖書のメッセージを聞けることはとってもとっても恵まれたことです。主が導いておられるとしか言いようがありません。主はあなたに聞かせておられるのです。これが真実であり、これに信頼せよと。「事は成就した」。死は力を持たず、墓は打ち破られ、イエスは復活された。死を支配し、死に勝利し、サタンは最後の攻撃道具を無力化された。それでも、往生際が悪いので、自分が滅ぼされること、神には勝てないこと、火と硫黄の池に投げ入れられる結末を知っているので、何とかして一人でも多くを道連れにしようとこの世を荒らしまわっています。みことば以外からあなたにささやくものは、サタンの策略です。巧妙に仕掛けられるその策略に乗ってはいけません。だまされてはいけません。みことばをかき消してはいけません。


主の約束は確かです。主は言い送られたことばを必ず成し遂げられます。たとえ状況がそれとは違ったように見え、あなたの感情がそれについていかないとしても、です。なぜなら「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のよう」(2ペテロ3:8)だから。今日がそうだからと言って、状況に振り回されてはなりません。今までもずっとそうだったと言われて、偽りにだまされてはいけません。この世界のどこに神さまが見えるのだとそそのかされてはいけません。たとえ今日まですべて神さまが何もしてくれない、神のことばは空しいと思えたとしても、主の御前ではその千年は一日のようです。すぐに事を変え、成し遂げることができます。主のことばの方が真実であること。主の力の方が強いこと。主の前に歴史はひれ伏し、時は支配されていることを信じてよいのです。


それが「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」と 1:8から始まり、次の22:13でも続く主の宣言が教えていることです。主は始めることのできるお方であり、終わらせることのできるお方です。ここに、私たちの人生や世界の究極の答えがあります。「人はどこから来て、どこへ行くのか」その問いに対する見事な答えがこのみことばです。「わたしはアルファであり、オメガ」である。私たちは主から出て、主に至るものです。この世界に生きなければ、すべてのものは空しくなり、始まりも終わりも、答えもゴールも目的も見失ったまま、さまよわなければなりません。それは途方に暮れることであり、悲嘆にくれることであり、流した涙はぬぐわれることがなく、死、悲しみ、叫び声、苦しみが襲い掛かり負けてしまう世界です。このみことばから、主を知らないと、その世界から抜け出すことができず、あえぎ、もがき続けるしかないのです。最後には不確かであっても「次の世界に行こう」と、自分たちで終わりを決めなければならなくなります。そこから救われたくはないでしょうか。ぜひ、この方を信じてください。そのことばのゆえに、真実のゆえに、信頼できるゆえに、この方を信じてください。ポイントは、生きているうちに次の世界に生きる選択をするということです。ある歌手が「生まれ変わるなら、生きているうちに」と記しています。本当にそうだと思います。この世界にいながら、生まれ変わることができる。この世界に行きながら、次の世界に生きている者として生まれ変わることができる。それは、みことばが真実であると信じ、信頼することによって生まれ変わることができます。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです」(1ペテロ1:23)


3. 勇敢に生きる

私たちが生まれ変わるためには、明確な転換点、決心、そして勇気が必要です。今日の結びの節をご覧ください。「しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」(21:8)


これを読むとどのような印象を持つでしょうか?これらのリストから、未信者、ノンクリスチャンのことを思い浮かべるでしょうか。仮に、そうであれば、それは間違いです。ここでは、ただの臆病、不信仰、人殺し、淫行、魔術、偶像崇拝、偽りを言う者のことを指しているのではありません。この黙示録(そして聖書全体)は、教会に宛てて書かれた手紙です(参照1:11)。聖書は、信じていない人や未信者の運命を教えるものではありません。ましてや、クリスチャンである人が、まだ信じておられない人をさばいたり、その人の行く末を断言するために聖書知識を使うのは間違っていますし、絶対にすべきではありません。そうではなく、聖書は教会、クリスチャンに宛てられた手紙であって、警告や叱責は教会に向けてのものです(励ましや約束もそうです)。ですから、ここで挙げられているリストは、クリスチャンとなった者のうちで、臆病や不信仰、偶像や淫らな行い、魔術や偽りになびいてしまっている者がいれば、そういう者は神の国を相続できず、第二の死=永遠に望みを持つことのできない燃える池の中へと投げ入れられるという警告です。この点をしっかり整理しておきましょう。


私たちが個人伝道をする際にも大事なポイントになります。まだ、信じておられない方に対して、不信仰や偶像、魔術や占い、嘘や偽り、不品行を責め立て、恐怖心を抱かせ、さばきをあおりたてるのは良くありません。むしろその前にある「わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる」(21:6、22:17)ことを伝えることが大事です。たとえば、主イエスはサマリヤの女に対し、罪を犯し続けていることを知りつつも、彼女のそばにすわり、現状を聞き、救いを求めさせ、ご自身がまさにその救い主であることを示され、救いへと導かれました。その後サマリヤの女性は、もう自分が罪に定められることのないことを知りました。彼女が永遠に渇くことのないいのちの水を飲んだからですね。


これと同じように、私たちも未信者の「渇き」に対していのちの水を注いでいくような伝道をしたいのです。彼らが何に苦しんでいるか、何にもがいているか、何を焦っているのか、何を必要としているのかをよく知ること。そして、それを与えることのできるお方がおられます、私もこの方によって救われましたという流れで、イエス・キリストを紹介するように伝道したいのです。これまで主を知らなかった人、未信者と言われる人が、そのようにして福音にふれ、刷新される次の世界を知り、そこへ導き贖ってくださるイエスを主としてお迎えし、平安と喜びをもって生きる者へと変えられていく姿を見たいのです。もう一度確認しますが、これら永遠に望みのない第二の死を迎える者のリストは、今、教会にいる者に語られているのであって、未信者へのさばきや運命を告げるものではありません。

そうであるからこそ、黙示録2~3章の七つの教会への結びはすべて「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい」(2:7,11,17,29,3:6,13,22)となっていることの緊急性、当事者性、自分に言われているのだと思い知らされます。このみことばを聞くのは、まず私たちなのです。


臆病な者とは、信仰告白を貫くことをやめてしまうクリスチャンのことです。特に迫害や脅威の下でその信仰を貫くことを励ましています。そうであれば、目に見える迫害のない現代日本社会においては、なおのことです。生ぬるい信仰でふらついているようではお話になりません。以下、不信仰~偽りを言う者たちまですべてに共通するのは、イエスは主であるということを否定する生き方、行いです。証しになっていないのです。それでは、まだ主を知らない方に伝道するどころか、あなた自身の救いも達成するか否かおぼつかない。だから、まず弱い自分の姿を認め、主の恵みに立つことを覚えましょう。この世界から次の世界へ確かに移された喜びを味わいましょう。何度でも確認しましょう。こうして礼拝をささげるとき、賛美をささげるとき、神の家族とともに集うとき、みことばを聞くとき、この私、あなた、私たち自身が主によって刷新され、素晴らしい希望を抱くことができますように。自らの霊が刷新されるような礼拝のときをもちましょう。


次の世界は本当にあります。そこには涙も、死も、苦しみも、叫び声も、悲しみもありません。この世で嫌だと思ったものはすべてなくなっています。ただ、今はその準備段階です。失敗したら即終わりではありません。むしろ、ずっと主といるための予行演習です。何度失敗したとしても、そのつど悔い改めればよいのです。何度うなだれても、そのつど新しくされ、刷新されていくのです。そうやって、集まることをやめたりせず、決してあきらめません。あなたは永遠の望み、希望をもっています。この世がどれだけ暗く思えても、主は約束をすでに成就されました。すべてが刷新され、御国に迎え入れられます。ともに希望を持ち続けましょう。イエスが復活されたことの証人として、今週も遣わされていきます。


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