聖書 マタイ28:18-20 |
新年度のテーマである「福音に生きる」シリーズでみことばを聴いています。先週は主イエスの最初のメッセージ「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でしたね。主イエスの教え、奇跡、宣教の中心となるテーマは「神の国」であることを学びました。主イエスは御声をもって「神の国は近づいた」ことを宣言なさいました。そして、病や悪霊につかれた人々が癒される(身体的、社会的、霊的において)のは神の国の訪れを目に見えてあらわすしるしです。主イエスの教えやたとえ話は神の国に入る者の幸いに焦点がありました。みことばを聴いてそのまま受け入れる者は、神の国に入っていると告げられました。神のまったきご支配、ご性質が何にも妨げられることなく実現している神の国。それはやがて新天新地で完全なものとして実現します(イザヤ66:22,黙示録21:2)。そして、主イエスを見ると、その神の国が主イエスの降誕、宣教、数々のみわざによって確かに近づいている、ここまでやって来ているとうなずくことができます。その神の国に入るため、悔い改めて福音を信じなさいと命じておられます。人間から到達する方法ではなく、神の救われる方法で。人間が作りだした言葉ではなく、神の口から出るみことばを受け入れる。せっかく神の御子が天の座を捨てて人となってくださった。この地上で数々のしるしを行い、人としての誘惑にあわれ、罪を犯すことなく完全な義を打ち立てられた。しかし、自分を救わずに他人を救うために、しかも正しい人ではなく罪人を救うために十字架にかけられ、神にさばかれ、罪の報いである死を受けられた。それは私たちが死ぬべき死でした。ここに福音(良き知らせ)があります。
Ⅰ. 権威と約束
1. どなたが主であるのか
今朝は、イエスの最後のメッセージ(マタイの福音書において)です。先週は最初のメッセージであり、今週は最後のメッセージを見るわけです。それによって福音の全体像をつかんで主の教会とそこに連なる私たち一人ひとりの生きる道を定めさせていただきたいと願います。
今朝の個所はいわゆる「大宣教命令(The Great Commission)」として知られています。このみことばに基づいて数々の教会、クリスチャン、宣教団が建て上げられ、この使命に基づいて犠牲を払い、一致を保ち、働きを進めています。それはここに「権威と約束」が置かれているからです。
一つ目の「権威」について見てまいりましょう。場面は十字架で死なれ三日目によみがえられ、復活した主イエスを弟子たちが礼拝した場面です。それは「イエスが指示された山」(28:16)でガリラヤにありました。マタイの福音書では所々「山」が出てきます。5~7章では「山上の説教」と呼ばれるように、「山に登られ」(5;1)人々に神の国ついて教えられました。また、17章ではペテロとヤコブを連れて高い山(17:1)に登られ、顔は太陽のように、衣は光のように白くなった(変貌山)場面があります。ここでも「山に登った」(28:16)弟子たちと復活後に初めて会っています。それは、イエスが神の御子であることを告げる場所、分からせる場所でもありました。それなので、弟子たちは「イエスに会って礼拝した」(28:17)とあります。イエスこそ神であり、イエスこそ主であることが分かったのです。決して人間を礼拝しないユダヤ人である弟子たちがこぞってイエスを主として認め、ひれ伏し、礼拝したのです。(17節にある「疑う者たちもいた」はそのまばゆさに圧倒された者もいたとする解釈があります。復活後も弟子たちの中にも疑う者はいました(cf.マルコ16:11))。
そうして礼拝した後にある派遣のメッセージ、祝福を祈って送り出すようにして言われたのがこの28章18-20節になります。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」。「権威」は力であり、立場です。肩書でもあり、内実でもあります。たとえば、人間社会では目に見えない権威というものが、立場や肩書、名刺などで表されます。「私は〇〇会社の社長です」と言いながらその名刺を差し出せば、それを見て、その人の権威が分かります。町の中で歩いているだけでは、その人がどのような権威を持っているかは分かりません。また、黒い車が建物に近づいて、付き添いや出迎えの人がたくさんいる中で降りてくる人物は「権威がある」ことが分かります。それは、その人の権威が目に見える形で表れているからですね。もう一つ、権威で大事なのはその力が本当にあるかどうかです。いくら名刺を持っていても、その人の命令によって実際に人が従ったり、物事が決定することがなければ、その人の権威は名前ばかりのものになります。言っても誰も聞かないとしたら、その人には権威があるとは認められません。権威は誰もがそれを認めることとその証拠が必要です。
イエスさまの権威はどこにあるのでしょうか。まず「わたしにはすべての権威が与えられています」ということばです。これが私たち社会でいう名刺の役割です。そして、本当にその通りの力があるのかの証拠は、実際によみがえられた主イエスご自身になります。裁判官が「有罪」と言えば必ず有罪になるように、イエスさまのことばには権威があり、それがそのまま実現する力がありました。弟子たちに繰り返し伝えておられたのは「ご自分が・・・多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないこと」(マタイ16:21)でした。そして、今そのことばの通りに、イエスは十字架に付けられ殺され、よみがえられました。まさに、イエスのことばどおりに物事が実現している。この方には権威があることを示しておられるのです。人の死をも超えた権威。それは「天においても地においても、すべての権威が与えられています」とあるそのままでした。主イエスのことばには力があり、そのまま実現します。それは主イエスご自身に権威があるからです。天にも地にもそれをさえぎること、抵抗することはできません。この方が主です。権威を認めることが、私たちにとっての福音です。それは、どんなつらいこと、苦しいこと、意味の分からないことが自分や身の回りに起こったとしても、主の権威に背いて事をなすことのできる存在はいないからです。もちろん、これは私たちの罪の問題やサタン、悪霊の問題にもかかわってきますが、究極的に権威があるのは主イエスです。ヨブ記でしたいうようにしているように思えるサタンも主の前に出て行きその許可をもらわなければ、何もできないことを思い出してください。すべてのものは、主の権威に逆らって、主の権威を超えて行動することはできません。それが神の国であり、神の統治、ご支配です。すべては、このことを認めることから始まります。この世も、歴史も、あなたの人生も権威をもって導いておられるのは主です。
天と地さえも超えてすべ治めておられるお方。それは、その天と地の間に生まれ、住み、歩んでいる私たちにとって、最大のよりどころです。次々起こる思わぬ出来事や環境や体調の変化に翻弄されているようにしか思えなくても、この天と地を上からご支配しておられる方を知っています。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マタイ24:35)、「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から」(詩篇121:2) これが権威を持っておられる方のことばです。そのまま受け入れるに値するものであることを、ここで「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています」と復活の主が言われているところから始め、受け取ることができます。
2. 約束に基づいて
この権威は過去も現在も未来も有効です。そのことを裏付け、励ますように「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(28:20)でマタイの福音書は結ばれています。これは権威に基づいた「約束」です。だから、必ずこうなるのだということです。「イエスは必ずあなたとともいます」「イエスは必ず世の終わり(=完成)まであなたを守られます」という約束です。私たちの信仰は「約束」に基づいて持つことができます。約束がなければ信仰には意味がありません。自分の頑張りや人間の妄想、作り話にはそれこそ何の権威もないからです。どんないい話も、どんな素晴らしい努力も、権威の前には無力です。主イエスは権威に基づいて「世の終わりまで、あなたがたとともにいます」と約束をしてくださいました。信仰の父アブラハムが律法を守り行うことによってではなく、ただ主の約束を信じて義とされたように、弟子たちも主の約束によって力を受け、私たちも主の約束によって信仰が生み出され、保たれ、励まされ、守られていくのです。弟子たちを励ますのは主の約束です。主の約束によって弟子たちは励ましを受け続けました。あなたを守るのは主の約束です。主の約束によってあなたは守られます。世の終わりまで、主はあなたを離すことなく守り通してくださいます。天と地で何が起ころうとも、主はあなたとともにいて、力と励ましを与え続けてくださいます。
「神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みをくださった」(ガラテヤ3:18)通りに、私たちも安全や力を勝ち取るのではなく、それらいっさいを神から受け取ることです。今目に見えている環境に生きるのではなく、それらすべてを治めておられる主の権威の下に生きるのです。これからどうなってしまうのだろうという不安の中ではなく、これからもあなたがたとずっとともにいますという主の約束の中で生きていくのです。今の問題ある状況がずっと続くわけではない。あれが足りない、これが足りないという不足だらけの生活が永遠に続くわけではない。なぜなら、やがて神の国が完成するからです。古いものは過ぎ去ってすべてが新しくされるからです。罪と死は投げ捨てられ、いっさいが神のみこころと栄光を輝かせるようになるからです。主の権威と約束がそれを示しています。環境や状況によって生きるのではなく、約束によって生きます。これが福音です。これこそが福音です。
Ⅱ. 神の国へ招き
1. 行って
主の権威と約束に基づいて、何が命じられているでしょうか(ようやく今朝の本題に入ります!)。大きく分けると二つのことです。大宣教命令と言われているように一つはたましいの救い(バプテスマを授ける)、もう一つは主の弟子となることです。大宣教命令の宣教とは、主イエスの初めのメッセージ、第一声にあったように「神の国は近づきました。神の国に入りましょう」というのがテーマです。そのために、必要なわざはイエス・キリストがすべてしてくださいました。聖書は一貫して、救われるために私たちに~をしなさいとは言いません。そうではなく、あなたの救いのためになされるのは神ご自身である。永遠のいのちのためにわたしのもとへ来なさい(cf.ヨハネ5:40)。神があなたのためにしてくださったことを知ってそれを受け取りなさい。そのことを信じなさいと言っています。この福音のメッセージを携えて、まず「行って」(28:19)と命じます。それはまるでイエスさまご自身が天から降り人となられて「神の国は近づいた」「神の国はここまで来た」「神の国はあなたの目の前まで来た」と告げられるのと同じです。「こっちまでおいで」ではなく、私たちから「行って」その人の目の前に福音を届けるのです。しかも、それは「あらゆる国の人々」に向かって行くのが、主イエスの情熱です。
これはイエスさまがなされたことをたどっていくと明白です。今日はマタイの福音書を見ていますので、少し例を挙げますと「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」(4:23)、「イエスは山に登られ」(5:1)、「山から下りて来られ」(8:1)、「カペナウムに入られ」(8:5)、「家の中で食事の席に着いて」(9:10)、「すべての町や村を巡って」(9:35)、「町々で教え、宣べ伝えるために」(11:1)など、実際に行動され、人々のところへ行かれた様子が案外細かく記録されています。ただ何かをしたではなく、どこどこへ行かれて、このような人々とお会いになり、その人にはこのようにしたという書き方です。それは、私たちが福音書を読んで、実生活での励ましや導きを受けるためでもあるように思います。イエスさまが歩かれ、人に声をかけられ、ともに食事をし、交わりを持ち、病の人を訪ねて手を置き、徒歩だけでなく舟に乗ったりとあらゆる行動をなさっています。そして、それらは神の国の福音を伝えるためになさったことなのだと気づくとき、私たちは大きなチャレンジを受けるのです。イエスさまの宣教の様子がすかし絵のように、福音書を読むと見えてきます。そして、イエスさまは「人間をとる漁師にしてあげよう」(4:19)と声をかけられたように、ご自分が天に昇られた後は、弟子たちが神の国の宣教の働きをすることを、はじめから考え、計画しておられました。それは、主イエスの弟子たちのように、私たちも「行く」ためです。
自分から壁を作る必要はありません。あらゆる国の人々、あらゆる地域の人々、あらゆる分野の人々、あらゆる境遇にある人々、あらゆるところで出会う人々・・・それは「福音がその人を救う唯一の知らせ」だからです。イエス・キリストこそ唯一の救い主であるからです。聖書こそその人の道のともしびであるからです。天の神こそまことの父であられるからです。そして、その人にそのことを伝えられるのが、あなただけかもしれないからです。あなただけからしか福音を聞くことのない人がたくさんいるからです。どこへ、誰のもとへ行くでしょうか。主の促しのままに従いましょう。このめぐみ教会に集うお一人おひとりが行ったら素晴らしい光景です!足を使って、自転車で、車で、ラインで、メールで、お手紙で「行く」ことができます。私も行きます。いっしょに行きませんか?いっしょに始めませんか?
2. バプテスマを授け
福音を携えて行ったならば、「バプテスマを授けなさい」と続きます。ただ「バプテスマを授けなさい」とあるだけでなく、この短いインパクトを残さなければならない文章の中に「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」と指示しておられます。三位一体の正しい教理をここから確認できることもありますが、「権威と約束」がそれぞれに等しくあることを覚えたいと願います。父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神はそれぞれに等しく権威があります。どなたが上位で、どなたが下位という違いはまったくありません。そして父なる神が契約をノア、アブラハム、モーセ、ダビデと結ばれ、祝福を絶やすことなく注いでくださっていて、イエス・キリストは約束された救い主として世に来られ救いを成就してくださり、聖霊は約束された助け主として信じる一人ひとりの内に住んでいてくださいます。そして「授けなさい」と言われるところに、教会が神の権威と約束を引き継いでいる存在なのだと背筋を伸ばされます。遊びやクラブではなく「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」(マタイ16:19)と通称「鍵の権能(権威)」と言われる大きな権威が教会にゆだねられています。そのことを表すのがバプテスマです。バプテスマによって、神の国の一員であること、主の民であることを明らかにするからです。それで、主を信じた者はその機会があるかぎりバプテスマを受けること、教会はバプテスマを授けることが求められてきました。それは主の命令だからです。主イエスご自身も「正しいこと」(マタイ3:15)をすべて実現すると言われバプテスマをお受けになられました。主の約束を忘れやすい私たちにとって「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)という声をバプテスマによってずっと確かなものとすることができます。バプテスマによって古い人は死に、新しく生まれる。古い人は葬られ、キリストとともに生きるようにされる(参照:ヨハネ3章、ローマ6章)。罪人の私の罪責が神によって問われなくなるのは、私の行いや回心のゆえではなく、バプテスマによってキリストと一体とされることによって罪の赦しを宣告されるからです。そしてバプテスマに授かった私は、自我やこの世の霊ではなく、キリストを主として、聖霊によって生きるようになります。毎回、毎秒その歩みに失敗したとしても、罪責や滅びの声に惑わされることはありません。なぜなら、バプテスマに授かったからです。そうして、バプテスマは古い自分、罪性と犯した罪の責任を問われる自分はもはや死んでいること(キリストが代わりに死んでくださった)と、今やキリストにつなげられているので決して失われず、損なわれず、罪の責任を問われず、滅びに引き込まれることはないことを確認させてくれるものとなります。バプテスマは、儀式ではありますが、それによって大事な救いのことばを自分に語り続けてくれるのです。だから、行って、福音を告げ、それを受け入れたならバプテスマに授かってほしい。バプテスマを授けて主の教会を建て上げてほしい。神の国を打ち立てていってほしい。そういう主イエスの願いがここに込められているように聴こえてきます。教会員の数としてでなく、救いの喜びとしてのバプテスマ。数多く授かる人が起こされるように祈りましょう。
Ⅲ. 主につき従う
1. 弟子として
イエスさまの大宣教命令は一つは救いであることを見ました。ここからはもう一つの軸である「弟子とすること」について見てまいります。ここ19-20節の文章にある「行って」「弟子としなさい」「バプテスマを授け」「教えなさい」と四つの動詞があります。すべてが命令形に読めますが、実はこの中での命令形は一つだけです。あとはそれに付随する動詞で形容詞のような役割をします(主動詞を説明、補足する役割)。どれが主動詞だと思いますか?
そうですね、この「弟子としなさい」というのが主動詞で、唯一の命令形になっています。他の「行って」「授け」「教え」は現在進行形で「弟子としなさい」を形容するものです。くどく訳すと「行くことによって弟子としなさい」「授けることによって弟子としなさい」「教えることによって弟子としなさい」と示すことができます。そして、「弟子とする」という作業が一番大事であり、その他のことはすべてこの「弟子としなさい」という大きな傘の下にあるものであることが分かります。弟子としなさいという命令を果たすことによって、「行く」「授ける」「教える」という具体的行動が現れてくるというのです。
「弟子」は主に従う者、主に従って生きる者のことです。イエスさまは人々が福音を信じて救われるだけで終わりではないと(あえてこのような言い方をします)ここで釘を刺しておられるのですね。使徒たちがこれから何をしなければならないか、イエスさまから最後に言われた言葉の中心が「弟子としなさい」であったことは、このあとずっと使徒たちの頭と心に残り続けていたことだと思われます。「そういえば、イエスさまは人々が主を信じるようになりなさい」とpは言われなかったなあ、「弟子としなさい」と強調されていたなあとしみじみ思い出しては、初心に立ち返っていたのです。
すなわち、救われた者が継続して学ぶこと、成長すること、教えられること、訓練されること、成長すること。救いを受けて終わりではなく、続けて学び成長し、ゆくゆくはその人が次の人のところへ行って、バプテスマを授け、教えていく者となること。この全体図が使徒たちの宣教の初めにしっかりと刷り込まれています。それで、私たち福岡めぐみ教会も新年度の初めにしっかりとこのことを刷り込みたいのです。
エステル会、壮年会、教会学校、ジュニアクラス、入門クラスが主の日や平日に開催されれていることを主に感謝します。そして次に取り組むゴスペルハウスは会堂で行われているこれらの働きが、さらに各家々や地域に広がっていくことを願ってのことです。それはここから行くことであり、神の国を拡げるものです。私たちクリスチャンにとっては、クリスチャン生活が教会堂の建物、日曜の礼拝、教会での集会という領域から、会堂の外、家、またあるいはカフェへ、日曜だけでなく週日も、集会だけでなく日常生活や交わりへとその領域が拡大していくイメージです。それは、この教会堂の外にいる、福音をまだ聞いたり見たり味わったりしたことのない人への贈り物になります。
2. 語ること生きること
弟子の姿を人々に見せていく・・・そんなことができるのかな?まだまだ自分では不安だし、不十分だろう・・・ほかのモデルになりそうな人だけがやればいいんじゃないの?としり込みをするかもしれません。最後の命令を見てみてください。「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(28:20)。「わたしが命じておいた・・・すべてのこと」とは、すなわち主イエスのみことばであり、主イエスの生き方です。「新しい戒めを与えます・・・わたしが愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい・・・それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」(ヨハネ13:34-35)。主に愛されたように、私たちも愛し合うこと。主がしてくださったように、私たちも互いにすること。互いをイエスさまだと思って仕えること。罪赦された者として、福音を伝えてもらった者として、自分がしてもらったように、互いにするならば、人々は私たちが主の弟子であることが分かる、認めると言う「約束」です。肩ひじならなくても、何ができないからとか、あの人より立派ではないから、時間が足りないから、面倒くさいから・・・そういった垣根を取り払い、すべてを捨てて来てくださった主イエスを見ましょう。こんな私をも愛してくださった主がおられます。すべての人は主に愛されています。その愛は、私たちが互いに愛し合うことによって、人々はここに主の愛があることを知ります。主のみことばに従うことによって、人々はそこに主の愛が出ていることを知ります。みことばを知識として教えるのではありません。みことばを守るようにとは、みことばを行うように命じられているということです。みことばを行うことによって教えるのが主の弟子の姿です。「聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅く」(ヤコブ1:19)をその通り行うことで、教えます。みことばは知っていることよりも、行うことで多くのことを教えることができるからです。
私たち福岡めぐみ教会も主の権威と約束が与えられています。いつも、いつまでも主はともにいてくださるという約束は有効です。そのとおり私たちとともにいてくださいます。「あなたの信じたとおりになるように」(マタイ8:13)という主の権威はそのとおり私たちの教会に与えられています。私たちは行って、バプテスマを授け、弟子となり、みことばを守り行うことで教え合う姿をそのまま映し出していく、主の教会であることをひたすらに求めましょう。主の約束と権威によって終わりの日までブレずに、この道を進みます。第一歩は今日です。
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