福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「真の居場所」

更新日:9月21日


聖書箇所:エペソ人への手紙1章5-6節

先週から「エペソ人への手紙」を学び始めました。この1章は実は1~14節までが一つの文章になっています。そのため節ごとに区切っていくことや訳すことも難しい箇所になっていますが、テーマははっきりとしています。それは「私たちが何者であるか」です。あるいは「身分」とか最近では「アイデンティティ」という言葉も浸透しています。自分がいったい何者であるのか、名前だけではない自分の存在意義。身長、体重、外見、成育歴、環境、履歴書では決して測れない「自分という存在の価値」「生きている意味」。その究極の答えをエペソ1章は提示しています。「自分が何者であるのか」がわかると、その問いにはっきりとした答えを持つことができると「私はこのように生きればよい」「私は生きていてよい」といった生きる勇気をもらうことができます。迷うことが多く、小さな私たちには人間の叡智ではなく、神による知恵、神の言葉、神の諭しが必要です。今朝もご一緒に、神の言葉に集中してまいりましょう。主よ、お語りください。しもべは聞いております(参照:第一サムエル3:9)。


Ⅰ.神によってあらかじめ定められ(4、5節)

1. 自分は誰なのか、何者なのか

韓国出身で今や世界的なアイドル(歌、ダンス、アーティスト)となったBTSという男性の7人組グループがあります。彼らは韓国で下積みから一緒に住み込んで、自ら作詞作曲をし、振り付けを考え、日夜特訓をして韓国のトップアーティストに昇りつめたグループです。それどころか、アメリカに進出してビルボードでも一位を獲得し、次の作品でも一位を獲得しています。一位を連続して、複数獲得するのはアジア人としては初の快挙で、日本人では坂本九の「上を向いて歩こう」(1963年)があります。全盛期のピンクレディで37位だそうです・・・・・・BTSはホワイトハウスにも呼ばれ、国連でもスピーチをし、日本語、英語を学んで流暢に話し、世界のリーダーになれる憧れの的です。そんな世界を席巻した彼らBTSが先週、グループでの活動を休止する発表をしました。その理由として①何を伝えればよいのかわからない(メッセージが枯渇してしまった)、②アイドルという立場は自分たちを成熟させてくれる時間を与えてくれない、③疲れたなんてことを言うのは間違っているかもしれないが、自分たちのアイデンティティを見つけるのは大変なんです、④変化が必要、と各メンバーが言いました。要するに「自分たちが何者なのかわからなくなった」「自分探しの時間が必要になった」ということです。自らが望んだ職業で世界一になっても、その達成感や平安は長続きしない、ということです。彼らであってもそうであれば、より一般的な私たちにとって「自分とは何者であるのか」はもっと深刻な問いかけになります。なぜなら、私たちには彼らのようにファンも、褒めてくれる人も、泣いてくれる人も、周りに集まってくれる人もいないからです。自分がどうやったら自分でいられるのか、自分はいったい何者なのか・・・この問に答えることができたら、それは世界一になることよりも尊い立場を獲得することになるのではないでしょうか。今朝の箇所では世界一のアイドルになるよりも価値ある宝が示されています。


2. 神の選びこそが信仰の確信

5節の始まりと終わりを結ぶと「神は・・・あらかじめ定めておられました」となります。前の4節では「神は・・・私たちを選び」とあるのと同じニュアンスを違う言葉をもって重ねて説いています。それはこのことが重要な教えになるからです。「神があらかじめ定められた=神の選び」と聞いてどんな神をイメージするでしょうか。ある者は選ばれ、ある者は選ばれない。ある者をえこひいきして、ある者を見捨てる神・・・そんな神なんてとんでもない!信じられない!信じたくもない!そんな疑問や怒りが湧いてくるかもしれません。しかし、ここで教えているのは神は救う人と滅ぶ人を前もって選んでいて、予定してしまっているということではありません。この「神の選び」という教理(聖書の教え)を、神が救いに至る人と滅ぶ人とを決めておられるから、人間は何をしてもムダだ。ひどい神」という教えにとらえることがないように、これから説明していきます。宗教改革の時代には「神の選び(予定論)こそ私たちの救いの確信である」と主張した神学者(カルヴァン)がいます。


なぜ、そのようなことが言えるのか?先週の反復にもなりますが、もし救いが私たちの決断にかかっているとしたら、どうなるでしょうか。私たちは自分の救いについて自ら、自発的に手を挙げ、自信を示し、神にその信仰が十分であることを証明しなければなりません。そして、神が納得するような信仰の表明をし続けなければなりません。「神さま、どうか私の方を向いてください」「主よ、私は悔い改めました!この私に免じて救いを与えてください」「主よ、この私が呼んでいるのですから振り向いてください。認めてください」とまるでプロポーズをお願いするような立場で、父なる神を納得させることが必要になります。救われる資格を自分の中にある根拠で獲得するために、主張の強さで押しまくるのが正しいでしょうか。自己アピールをして認められるまで粘るのが正しいのでしょうか。人間同士であればそのやり取りも可能かもしれません。しかし、相手が聖なる神であるとしたらどうでしょう。誰が、神の御前に出て、「私こそあなたにふさわしいものです」「私こそ、信仰を認められてしかるべきです」「私こそ、救われる根拠がある者です」と言えるでしょうか。そんなことを言える人間は、誰もいません。罪人が手を挙げてしゃしゃり出たところで、待っているのはさばきでしかないからです。実に、すべての者は罪人だからです。


しかし、もしこれが逆であったらどうでしょうか。たとえば・・・・・・

緊張してプロポーズに行った先で、「お義父さん、娘さんを私にください。私を婿として認めてください」と言おうとしたら、フィアンセの父親に「お前を私の娘婿に定めていたよ」と言われたとしたら、驚きますね。けれども、それは父親から認められる一番確実な方法です。なぜなら、選ばれた根拠が自分の実績や自信、手を挙げたかどうかにかかっていなからです。選ばれた根拠は、先方の父親にあるからです。大切なのは婿になる者の自信や自己主張ではなく、あちらの父親が認めているかどうかです。


父なる神はあらかじめ救われる者と滅ぶ者とを選んでいるのではありません。神はだれもえこひいきなさらない、偏ったことをなさらない公平なお方です。であれば、考えることはこうです。すべての人は罪を犯したために、神の義の基準には達していません。神の栄誉も救いも受けることができません。そのまま義なる神の公平なさばきによってさばかれるか、恵みによって救われるかのどちらかです。礼拝の始まりで告白するように「神はすべての人が悔い改めて生きることを喜ばれ」、「罪人の死を喜ばれません」。そして、神は救われる者をあらかじめ定めて選んでくださっています。すなわち、私たちが愛する前に神が愛し、私たちが悔い改める前に主イエスを十字架につけ、私たちが絶望する前に主イエスをよみがえらせ、私たちが選ぶ前にみことばによって選び出し、私たちが求める前に私たちを引き寄せてくださいました。ここに救いの始まり、そして完成があります。すべては主から出ており、主が成してくださいます。そのことを信じるからこそ、信じていられるからこそ、私たちは自分の救いを確信し、信仰を保ち続けることができます。私ではなく、神。私のやる気ではなく神の熱心。私の決断ではなく、神の忍耐と招き。そのことに飛び込んでみましょう。そしてその恵みにどっぷりと浸かりましょう。信仰の肩の荷をおろしていただきたいと願います。 の子とされ(5節)

父なる神はあらかじめ救われる者と滅ぶ者とを選んでいるのではありません。神はだれもえこひいきなさらない、偏ったことをなさらない公平なお方です。であれば、考えることはこうです。すべての人は罪を犯したために、神の義の基準には達していません。神の栄誉も救いも受けることができません。そのまま義なる神の公平なさばきによってさばかれるか、恵みによって救われるかのどちらかです。礼拝の始まりで告白するように「神はすべての人が悔い改めて生きることを喜ばれ」、「罪人の死を喜ばれません」。そして、神は救われる者をあらかじめ定めて選んでくださっています。すなわち、私たちが愛する前に神が愛し、私たちが悔い改める前に主イエスを十字架につけ、私たちが絶望する前に主イエスをよみがえらせ、私たちが選ぶ前にみことばによって選び出し、私たちが求める前に私たちを引き寄せてくださいました。ここに救いの始まり、そして完成があります。すべては主から出ており、主が成してくださいます。そのことを信じるからこそ、信じていられるからこそ、私たちは自分の救いを確信し、信仰を保ち続けることができます。私ではなく、神。私のやる気ではなく神の熱心。私の決断ではなく、神の忍耐と招き。そのことに飛び込んでみましょう。そしてその恵みにどっぷりと浸かりましょう。信仰の肩の荷をおろしていただきたいと願います。


Ⅱ.神の子とされ(5節) 1. 神の子とされた<キリストにあって>

神があらかじめ定められた内容とは「私たちをイエス・キリストによってご自分の子としよう」とすることです。聖書は救いに関して様々な表現を用います。義と認められる、罪が赦される、永遠のいのちを持つ。そして今回のところでは「神の子とされる」です。1章14節とのつながりで読むと、「御国を受け継ぐ=相続」保証として子の身分を確認することができます。子は父の持つすべての財産を相続する権利が与えられる者のことです。よくドラマでは資産家の親の財産を目当てに、兄弟姉妹、親族の骨肉の争いがテーマに描かれます。彼らは自分がどれだけ親思いであったかをアピールし、ずっとそばで親に仕えていた者も「俺がどれだけ我慢して親に仕えてきたと思っているんだ!」と化けの皮が剥がされる場面もよく登場します。彼らは、自分がどれだけの財産を相続してもらえるのか不安なのです。そして、より自分に多くの財産が入るように争います。実にみにくいのですが、人間の本心を表しているので人間心理を巻き込むテーマとしてすたれることがありません。


私たちは、「神の子」とされました。父なる神はすべての者=御国を相続する者として、私たちを選び、定め、子としてくださったのです。これにまさる栄誉はありません。ドラマでは、地上の財産のために人生をささげる子どもたちがいるように、聖書には天の財産・永遠の御国のために人生をささげる信仰者たちがたくさん登場し、証しします(ヘブル11章:ノア、アブラハム、モーセ、ラハブなど)。

そんな栄誉に預かるのは、私たちの功績のゆえではありません。実に「イエス・キリストによって」ご自分の子として定めてくださったのだからです。私たちが神の子とされるのは、イエス・キリストのおかげです。キリストこそ、神のひとり子であり、その御方と結び合わされた私たちは、いわば養子です。聖書や教会で「兄弟姉妹」と呼ばれるのは、私たちが兄弟であり、姉妹であるように仲良く過ごすということではなく、主イエスが長子であり、そのイエスと結ばれた者であるので、兄弟であり、姉妹となります。そして、その集まりを神の家族としているのです。私たちは個人的にイエスとつながっているだけではありません。むしろ、それより重要なのは皆、イエスによって子とされた集まり=教会であるということです。ただ個人的な救いではなく、キリストを長子とした兄弟姉妹、キリストをかしらとした教会としての変化を理解しておきましょう。


2. 居場所(ポジション)としての子

神の子とされることは、私たちの新しい身分です。身分ですから、その後の行いによって取り消されることもありません。子はいくら門限を破っても子です。受験に失敗しても子です。むしろ叱られたり、戒めを受けたり、懲らしめられたりすることこそ、子のしるしです。他人の子どもをそこまで真剣に見たり、叱ったり、懲らしめることはしないからです。奴隷との違いはここにあります。奴隷は「行いがすべて」です。失敗をしても「奴隷だから」と許してはくれません。ひどい罰を受けて、怠慢が続けば追放されます。それが怖いので、奴隷は主人を怒らせまいとビクビクし、主人にご機嫌を取ろうとせめてうわべでは仕えます。しかし、子はそうではありません。父の愛と懐の深さを知っています。


失敗で吊るし上げられ、そうならないようにビクビクする社会に私たちは生きています。そこからの解放は、社会の奴隷になるのではなく、神の子とされた揺るがない保証によって平安をいただき、喜びをもって過ごすことができるようになります。現代は、厳しい社会です。また、健全な親子関係が揺らいでいます。忙しすぎて親子の時間が取れない。育児のストレス、ネグレクト(育児放棄)、反抗期からの放任主義(お手上げ)、シングル家庭や貧困家庭の叫び、教育や医療の格差拡大、モノは豊かになっても心の豊かさが損なわれている時代。居場所を探しています。自分が何者なのか親も子もあえいでいます。孤独にさいなまれています。相談することも遠慮して人間関係を築いています。それへの解決は人頼みではなく、神との交わりを豊かにすることです。神との関係を正しく築くことです。私は他でもない、神の子であると。キリスト・イエスによって、私たちは兄弟姉妹であると。教会こそ、重荷を降ろせる場所であると。せっかく救われたいのち。せっかく始まった新しい人生。せっかくいただいた神の子としての保証。世の世知辛さよりも、神の国の幸いをより味わうものでありたいと願います。


Ⅲ. 神をほめたたえる(6節)

1. 救いのゆえに(ほめたたえるべき理由)

私たちが選ばれ、定められ、神の子とされたのには理由があります。先週の節では「御前に聖なる、傷のない者」(4節)」でした。世では目指さない生き方。狭い門から入ってこそ追求できる聖なる道。しかし、そのために汗を流し、犠牲を払ってこそ喜びが湧き上がってきます。なぜなら、それが私たちの本来の生き方であり、かたちであるからです。ゴルフや釣りが好きな人は早起きも道具を買うのにもためらいません。好きなことには犠牲が伴います。私たちには朽ちることのない至高の目的があります。聖なる者にどんどんなること、愛すること、そして「神をほめたたえる」(6節)ことです。神を前においてこそそれは可能です。神に信頼してこそそれはかないます。神を見上げてこそ、讃美はあふれてきます。


2. ほめたたえる帰り道

私たちが神をほめたたえるようになることで、神はその栄光をお受けになります。私たちの讃美を喜んで受け入れてくださる、ということです。教会からの帰り道、私たちはどんな顔、表情をしているでしょうか。家に帰ってどんな話をするでしょうか。ディズニーランドに行ってきた人はすぐにわかります。彼らはミッキーやミニーマウスの耳を付け、お土産を持ち、何よりも顔が喜んでいるからです。私たちの礼拝をささげてからの顔はいかがなものでしょうか。教会にはぜひ礼拝をしにいらしてください。神さまに出会いにいらしてください。奉仕が一部の人に偏らないように心を配ってみてください。そして、皆が、喜んで「今日は主にお会いした」と讃美し、ほめたたえてここから遣わされるようにと願います。

「御名の栄光をほめ歌い、神の誉れに栄光を帰せよ」(詩篇66:2)


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