聖書 ルカの福音書 6章20-26節
1. 幸いと哀れ
今朝は「平地の説教」と呼ばれる箇所です。マタイ5~7章に同じような内容で「山上の説教」と呼ばれる主イエスのメッセージが記されています。マタイでは山の上で語られたのに対し、ルカでは「山を下り、平らなところにお立ちになった」(6:17)ので「平地の説教」と呼ばれています。ルカは主イエスが誕生する前、母マリアに「いと高き方の子」と繰り返しています。主イエスが神の御子として天の御座から降りて来られ、人となられ、そして今は平地に下りて人々を教えられる。こうした矢印は、救いは神から人へくだるものだということが分かります。
主イエスはこのメッセージを、「幸いと哀れ」から始められました。それは聞きに来ている人すべてに共通する話題です。あなたにとっての「幸い」「しあわせ」は何でしょうか。日本人は温泉に入ると「あ~、しあわせ」と言います。また美容室やドライブ、生き物でしあわせを実感するかもしれません。反対に、あなたにとっての「哀れ」「不幸せ」とは何でしょうか。病気やけが、資格や仕事での失敗、家庭環境などが思い浮かぶかもしれません。
私たちが幸せな人生を送るためには、本当の幸せを知らないといけません。また、実際にその道を歩まなければなりません。本当の幸いを感じるためには、自分が決めたものや他人や社会から強制される幸せではなく、神が教える幸せを基準にスタートすることが大切です。
主イエスは、私たちに分かりやすいように「幸いと哀れ」をセットにして話しておられます。(1)貧しい人と富んでいる人、(2)飢えている人と満腹の人、(3)泣いている人と笑っている人、(4)憎まれるときとほめられるときの4つのペアです。神のことばを注意深く聞きましょう。なぜなら、これから学ぶのは「私たちの考える幸いと哀れとは逆」のことばかりだからです(!)。
(1)貧しい人と富んでいる人(20,24節)貧しさと富が対比されており、なぜそうなのかという理由も対比されています。貧しい人が幸いなのは「神の国はあなたがたのものだから」であり、富む人が哀れなのは「慰めをすでに受けているから」です。それが「どこで」なされるのかも対比されています。この地上で貧しい人は天で神の国が与えられ、地上で富んでいる人は天で何も受けられません。主イエスが第一声でこのことを言われました。それは、この地上でどんなに差があったとしても、天での報いの方が圧倒的に重要だからです。目を地にあるものではなく天にあるものに向け、自分のために蓄えず天に蓄える者になるようにとのチャレンジです。もし、私たちがここで神が教える幸いに、本当に生きるなら、私たちは地における比較や競争、ねたみや優越感から解放されます。真の宝は目に見えない天にあるので、目に見えるもので比べることをしなくなります。ただし、2人の主人に仕えることなく、ただ主にのみ仕えるまっすぐさを身につけなければなりません。
(2)飢えている人と満腹の人(21,25節)次は、飢えている人と満腹の人との対比ですが、その結果はどうなっているでしょう。今飢えている人はやがて満ち足りるようになり、今満腹の人はやがて飢えるようになります。ここでも、地上と天では真逆の結果となります。重要なのは地上の一時的な状態ではなく、天でのステータスです。今、私たちが目で見ている天地は消え去りますが、天の御国は永遠から永遠まで堅く立っています。私たちは、本当の国籍がある神の国を目ざして歩まなければ、何によっても満たされません。この地上で満腹と貪欲を繰り返し、永遠には役に立たないものばかりを追求していたら、永遠に取り返しのつかない損失を受けることになります。この地で神に求めなくても足りている人は、やがて天において飢えて飢えて仕方がなくなります。これは、この世界と歴史をすべて知っておられる主イエス・キリストのことばです。真実を知っておられる方からのメッセージであり、警告です。だから、この地で神に求めるものがたくさんある人は、天で多く答えられます。天の御国にもっと憧れを抱きましょう。主イエスのメッセージに信頼しましょう。現実や自分の予測よりも確かな、主イエスのことばを信じる者は決して良くされないことがありません。
2. 逆転の福音
(3)泣いている人と笑っている人(21,25節)普段の生活では泣くよりは笑える方が絶対良いに決まっています。泣ける映画を見ることはあっても、泣かされるのを好む人はいません。それでも、涙することはたくさんあります(夏の松原湖バイブルキャンプでも別れ際に悲しみで涙が止まらない子がいました)。涙には悔しい、寂しい、つらいといった要因があります。私たちはすぐ解決されることを求めます。すぐに正義が審判されることを望み、自分が不当なことをされたら怒り、誤解されたらすぐに否定します。うまく理解してもらえずにいると涙が出ます。それは真剣だからです。真剣に立ち向かわず、いい加減でよければ涙は出ませんよね。真剣でも報われないから涙を流すのです。しかし、今泣いている人は天で笑うようになります。実は、新約聖書には「笑った」と書かれている箇所はありません(主イエスを「あざ笑う」は複数回ある)。主イエスや弟子たちが笑わなかったことはないでしょうが、あえて書かれてはいません。しかし、やがて天においては大いに笑うようになります。天では主イエスを中心に笑うようになるのです。これは大逆転劇です。そして、地上で笑っている人は天では泣き悲しむようになります。ただ笑うのが悪いのではなく、すべて思い通りに事が進み、主イエスをあざ笑い、神を求めて泣かない者は、やがて取り返しのつかない時が訪れます。その人は涙を流し、歯ぎしりをします。
しかし、この地で絶望するような出来事に出会って涙しても、主が幸いであると約束されたこの道を歩む人は天において必ず主と笑えるようになります。「どうか私の涙を あなたの皮袋に蓄えてください」(詩篇56:8)すべて解決しなくたっていい、全部理解してもらえなくてもいい、何の疑問もないまま人生が進まなくてもよいのです。私たちは涙をかき消したり、泣くことを否定する交わりではなく、ともに涙する交わりを築き上げていきたいと願います。それが主を中心とした共同体です。
(4)憎まれるときとほめられるとき(22,26節)4つ目は憎まれ、排除され、ののしられ、けなされるのは幸いというメッセージです。これらは避けたいことのオンパレードです。憎まれるのは、精神が削られ、生きる気力が奪われます。遠くの無関係の人からののしられるのはまだ開き直れるのですが、多くの場合、近しい人から悪く言われるのを聞くので心が痛みます。仲間だ、理解者だと思っていた人たちから排除されるので、心がくじけます。優しくしてあげたのに邪険にされるので、やってられない気持ちになります。尊重されたいのにけなされるので、自分は価値の低いものだと言い聞かせます。
いったい誰が自分の味方でいてくれるのか分かりません。自分のすべてを理解してくれて、決してけなさず軽べつしない家族や友人がいるでしょうか?なかなかそんな人はいないのではないでしょうか。
皆がそれぞれ、どこかで裏切られ、誰かに傷つけられ、夜には不安に襲われます。しかし、主イエスによれば、その人はやがて天で躍り上がるそうです(!)。ダンスが苦手な私も天では踊れるようになります。ここだけは旧約聖書の預言者たちについて言われており、彼らも地上では憎まれ、ののしられ、捕らえられ、迫害されましたが、彼らは天において大きな報いを受けていると約束されます。
その理由は22節にある「人の子のゆえに」地上で苦しみを受けたからです。ここにあるのはただの苦難ではありません。明確に「人の子=イエスのゆえに」人々があなたを憎むとき、あなたは幸いだと言われます。イエスのために心がギュッと縛られるような経験をすること。主の教会のために、人と人との間に挟まれ忍耐すること。誰に誇ることもなく、主の教会に仕えること。家族から冷ややかな目をされても、礼拝に集ってくること。そうした一つひとつのことを思い出してみてください。それは、天で大きな報いを受けます。イエスのためにすればするほど、地上では報われないと打ちひしがれるほど、天では躍り上がるものに変えられます。このことを約束しておられるのは主イエスです。主は決して裏切ることがありません。主は決して偽りを言いません。だから、私たちは最後までこの方のために走り続けることができるのです。
反対に、この地上で人々からほめられるとき、天でその人は目も当てられない哀れさに包まれます。地上で評価されること、当たり障りのないふるまいをし、聞こえのよい言葉を発すれば、人に受け入れられ、ほめられることでしょう。これも「人の子=イエスのために」と同じ文脈で考えなければなりません。イエスは主ですとの告白や信仰を隠せば、誰とも和合できるかもしれません。余計な気づかいや争いはなくなるかもしれません。しかし、それは主の弟子=クリスチャンが取るべき方法ではありません。
人に良いと見える門は広いものです。皆がそこを通り、見栄えもよいでしょう。しかし、主イエスは狭い門から入りなさいと言われました。天を目指す人は、地では旅人、一時的な寄留者で、本当の家は天にあることを信じて揺り動かない人です。私たちは、この主イエスのメッセージにいかに応答するでしょうか。
3. 真理から始めるなら
福音は「逆転」を告げます。「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある」(箴言16:25)のです。だから「愚か者には自分の道がまっすぐに見える。しかし、知恵のある者は忠告を聞き入れる」(箴言12:15)ように自分を逆転させなければなりません。福音が自分と逆転しているなら、自分を逆転させて福音を受け入れる者になる選択があります。
それがイエスを主とすることです。イエスを主と告白し、信じるときには、そうした逆転が自分の中に起こっているからです。以前は頑なだったけど、今はやわらかくなった。以前は聞く耳を持てなかったけど、今は聞けるようになった。以前はこだわりを人に押し付けていたけれど、今は融通がきくようになった。それが自分に関することだけでなく、人との関りでも逆転の変化がみられるようになったら、自分自身にも周囲の人にも祝福です。
「あの人、なんだか変わったよね」「あなた、変わったね!」とされるのはどんな事業を成功させるより大きなインパクトがあります。それほど、自分の世界観を逆転させることは難しいです。他人の意見を聞いて受け入れることは難しいです。人から言われて従うほど素直な人はほぼいません。
だから、今主イエスによって変えられませんか?主によって変わるなら、余分なプライドもいりません。聖書を通して、ひそかに自分の考えを変えるなら、それは恥ずかしいことではありません。主とそのような交わり、やり取りができればと願います。
主イエスのことばは真理です。確かに、私たちの考えとは違うことを言っています。なんか気に入らないからやめておくこともできます。けれども、重要なのはどちらが真理なのか、ということです。自分の考えに合うことであっても、それが偽りだったら、選択するのは愚かです。一時的に気分が良くても、永遠に悪い結果を招きます。
みことばは、私たちが生きるために必要です。それはただ息をする、ちょっと慰めやヒントを得る以上のことです。みことばによって、私たちのたましいが生き返り、生き方が変えられ、顔つきや行動も主の栄光を現すことができるようになります。
私たちの食べ物のことで考えてみましょう。秋にはキノコが食べられるようになります。キノコの全種類の中で食べられるのは100種類あるそうです。そして、食べられない毒キノコは200種類もあるそうです。キノコ好きな人は自分で山へ入り取りに行きます。そして、毎年結構な数の人が間違って毒キノコを食べて中毒になり、時には命を落とす方もおられます。以前、読んだ本に「コテングダケ」と「コテングダケモドキ」というものが並んで載っていました。本当にそっくりでした。どちらが先なのかは、わかりませんが名前に「モドキ」を付けられるのはかわいそうだなと思う反面、人間が食べないようにするためには素晴らしい知識です(!)。私たちは、命を養い、守り、育てるために食べ物は重要です。食べて死んでしまうものは、食べてはいけません。
では、私たちのたましいについてはいかがでしょう。からだのための食べ物は判別しても、たましいには無分別であったら、たましいは損なわれます。
主イエスは「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼることができる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と言われました。
私たちはからだを大切にするように、たましいにも本物を食べないといけません。たましいに取り入れるものに無関心であれば、永遠のいのちを失います。まさに、自分の考え=肉によって生きるのか、真理のことば=御霊によって生きるのかを選択するのです。本物を取り入れる人は、ちょっとやそっとのことでは揺り動かされません。ベジタリアンやビーガンの人がどこに行ってもその生き方をします。それが正しいと確信しているからです。
私たちは今朝、たましいへのメッセージを語られています。一時的ではなく、いつまでもなくならないものを見分けることができますように。今貧しく、飢え、涙をし、排除されているとしても、やがての逆転に思いを馳せることができますように。自分や周囲の声ではなく、主の声に耳を傾けることができますように。主よ、どうかここでみことばを聞いている者たちが一人として滅びることなく永遠のいのちを持つことができるように、心を開き、忘れられないメッセージとしてください。
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