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「祈りの輪」


聖書 エペソ6:18-24

今朝はエペソの締めくくりになります。ここでパウロは祈りについて記しています。私たちがどんな武具を持とうとも、どんな状況にあろうとも、どんな計画があろうとも「祈り」を手放すことがないように薦めています。私たちは生活のため、宣教のため、あらゆる知恵、会議、方法、人を駆使して計画、実行をしますが、それでは不十分です。祈ることをしなければ、それは大きな忘れ物です。神なくして過ごしているので真の満足をもたらすことはできません。たとえ成功したとしてもそれは一時的です。せいぜい自分がよくやった、運がよかった、あの人のおかげと地上的なものへの評価、関心だけで終わってしまいます。まさに見かけではうまくやれていても、表面上は困ることがないとしても、神とのつながりが切れているので、いつも自分の力や状態、他者とのコネクションに頼っていなければなりません。主イエスは、地上のコネではなく「わたし」を用いなさいと命じておられます。そしてご自身の名によって祈られることを待っておられます。それは、主イエスの名前に「権威がある」からです。それなのに「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです」(ヨハネ16:34)と主イエスは弟子たちに言わなければならなかった。当然イエスさまと3年間いっしょにいた弟子たちは祈ったことはあったはずです。けれども、もしかするとそれは形式的な祈りであったかもしれない。今の私のように、あなたのように。そうではなく、主イエスは「わたしの名によって祈りなさい」とチャレンジを与えられました。求めれば与えられる。そう確信して祈りなさいと迫られました。なのに今まであなたがたはそのように祈ったことがないと嘆いておられるのであります。今朝、パウロはエペソの締めくくりに祈りについて激しく命じています。個所としては先週と続いており、神の武具として祈りをするように命じられている節でもあります。私たちが、戦いの武具として、勝利の器として祈ることを始めるためです。


Ⅰ. 祈りをやめない(18節)

  1. あらゆることを祈れ


まず、私たちは「あらゆる願いと祈り」をもって祈ってよいと言われています。役所に行けばそれぞれ窓口が分かれています。住民票は1番、保険のことは3番、駐車券は10番、税金はあちらの別の建物・・・・・・というようにそれぞれ受け付けてもらえる窓口に行かなければなりません。ときにそれが面倒であったり、たくさんの部署を回らなければいけないことに腹を立てたりもします。しかし、ここでは「あらゆる願いと祈り」を持って来なさいと主は言ってくださっています。なぜなら、主がすべてを聞いて、あらゆる願いに耳を傾けてくださるからです。特にこのエペソ6章では悪魔の策略に悩まされ、もろもろの悪霊の攻撃に対抗する文脈で言われています。それに対し、私たちが自分の力を過信したり、悪魔を軽く見たり、何の用意や武具のないまま立ち向かうことがないように、これまで6つの神の武具を取るように命じられていました(帯、胸当て、靴、立て、かぶと、剣)。それらに続いて祈りが出ていますから、この戦いは祈ることよって勝利するのだと教えていることが分かります。しかも、それは祈る自分の姿や力によってではなく、主イエスの権威を信じて祈り、勝利する祈りです。


私はたびたび妻にまず祈るようにアドバイスされます。性格的に新しいことや何か変化すること、人がやる気になって発案することにはすぐに賛成することが大好きです。それがみこころかどうか、主に尋ねることなしに決断することもあるため、それをよく知っている妻は、まず私に祈るように言ってくれるのです。そして、おそらく祈ることによって、妻は私に従いやすくなるのではないかと思います。主イエスも朝早く、また山に退いてたびたび一人で祈られました。弟子たちはそのことを見て、よく知っていました。それで弟子たちも「私たちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)と尋ねます。イエスが父なる神に祈る姿が、弟子たちには非常に印象的で、この方に従って行こうという心を抱かせた一つの要因であったのではないでしょうか。


  2. 御霊によって祈る


ここで示されている原則は「あらゆる願いと祈り」を主の前に持っていくことです。自分で判断できることは祈らずにしてもよいというわけでは決してありません。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5-6)とあるように、常に主に尋ね求めるのです。今からしようとすることは、主から出たことなのか。主の導きを確信してこその決断なのか。主の栄光を現すことになるのか。自分の心地よさや楽になることで即決してはいないか。他者に責任を取らせたり、他者が失敗する可能性を放置したり、笑おうとはしていないか。こういう思いを注ぎ出して祈ることで、主が正しい道筋へと導いてくださいます。どんなことも神さまに一度お預けし、取り扱っていただくことにより、平安をもって過ごすことができるようになります。


これが続く「どんなときにも御霊によって祈りなさい」につながっています。あらゆる願いと祈りを、わがまま放題に言うことではありません。それとセットになっているのは「どんなときにも御霊によって」祈ることだからです。


たとえば「神さま、宝くじが当たるようにしてください。それは私が楽になることだけではありません。ちゃんと献金もします」と祈ったとしましょう。御霊によって祈っているでしょうか?「主よ。あなたは世界中の人々を愛して助けるのに忙しい方です。もうあなたに面倒をかけなくてもいいように、どうぞ私に偉大な力をください」という祈りは、御霊による祈りでしょうか?そうではありませんね。私たちが主の祈りで教えられているように「みこころがなるように」祈ることが大切だからです。みこころを祈らなければなりません。そして、そのみこころを教えてくださるのが御霊です。御霊は私たちに罪を示し、誤りを認めさせ、悔い改めを起こさせ、真理へと導いてくださるお方です。だから、この御霊によって祈るとき、私たちは祈りの言葉が変えられ、祈りの答えをいただき、祈りを聞いてくださる神との時間を味わうことができます。御霊は、神の思い、神の深みにまで届いていくお方です。それゆえ、私たちは何をどう祈ったらよいのかを祈りの中で教えられ、示されるのです。どうか主よ、私たちがどのように祈ったらよいのか教えてください。このことの前で、私は震えています。恐怖です。心配です。主よ助けてください。今、祈りのことばを与えてください。そのように祈ってよいのです。


  3. 忍耐のかぎり祈る


 また、私たちは「忍耐の限りを尽くして」祈るように命じられています。祈りは忍耐が必要とされるのです。しかもちょっとやそっと、人間的な器量や自分のキャパシティ、能力を働かすのではなく、忍耐の限りを尽くして祈りを積み重ねなければいけません。簡単にやめてしまってはいけないと言われています。それは、なかなかすぐには祈りが聞かれない、祈りの答えが祈った通りではないことが多いからです。


 ある神学者は祈りについて3通りの答えがあると紹介しています。一つはYES。これは祈った通りすぐに答えられる祈りです。たとえばペテロが湖で沈みそうになったとき「主よ、助けてください」(マタイ14:30)と祈り、それは即座に聞かれました。イエスはすぐに手を伸ばし、ペテロをつかんでくださいました。

もう一つは「まだ」という答えです。これはYESなのだけれども、神の定めておられる時があるから、それまで待ちなさいという答えです。このために忍耐が必要です。そこまで待てるのか試されているからです。しかし、それはいじわるではなく、私たちの信仰が鍛えられるためです。何でも、いつでも私たちの祈りがすぐに聞き入れられれば、私たちはとっても不幸になります。何一つ不自由なく子育てをすることと同じです。まるで世界は自分中心に回り、自分にとって不都合なことは何一つ起こらないと慢心するような成長の仕方しかしないからです。「まだ」の祈りの例としては、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒1:4)と言われて、人々は使徒の働き2章で聖霊が降るまでいつも集まって祈っていた姿を思い起こすことができますね。


三つ目は「祈ったのとは違う」答えをくださることです。ずっこけるかもしれませんが、実はこれこそ祈りの真髄であり、祈りに対するりっぱな神の答えです。この手紙を書いたパウロには「肉体のとげ」がありました。彼はそれが取り除かれるように「三度」(きっと簡単に三度ではなく、一度が40日間の断食と祈りであったかもしれません)祈りましたが、その病は去ることがありませんでした。しかし「かわりに」パウロが主からもらった答えがあります。それが有名な「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(第二コリント12:9)というものでした。それはパウロの願ったとおりの答えではなかったのですが、パウロの祈りに主が明確に答えてくださったものです。パウロもそれを答えとして受け取り「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と告白しています。これはやせ我慢ではなく、主が祈りに答えてくださった結果、完全に内側が変えられたパウロの証しです。


 このように、祈りには3つの答えがあります。YESか、まだか、別の答えか。そのいずれも、私たちは忍耐の限りを尽くして祈ることで聞かれます。主イエスから離れていった者も多くいました。「ある人が言った。主よ、救われる人は救いないのですか」(ルカ13:23)、「こういうわけで、弟子たちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった」(ヨハネ6:66)という衝撃的な聖書個所があります。人々は(私を含めて)、自分のタイミングで神に動いてもらわないと文句を言います。自分の努力がそのまま報われないと、神からそっぽを向きます。自分の理解を超えた事件事故を知ると、神さまを無力や無慈悲だと結論付けます。そして、背を向けて離れていくのです。


 そのため、ここで「忍耐の限りを尽くして」祈るように命じられています。多くの弟子と呼ばれる人たち、弟子と見られていた人たちが、もはやイエスとともに歩まなくなりました。私たちはどうでしょうか。あなたはどうでしょうか。すぐに目くじらや腹を立ててイエスから離れてしまうことはないでしょうか。祈ってもムダだとか、思い通りにならないことに嫌気がさして、イエスのそばからフェードアウトしようと考えたりはしないでしょうか。私たちは弱い者です。自分で自分を守ることさえできません。だから、神の与えるみことばを聞き、みことばの通りに従うことによって、自らを守り、最後まで堅く立つ者とさせてもらうのです。私たちが一時的とかあの頃は元気だった、信仰が燃えていたという仕え方ではなく、たえず目を覚まして、忍耐の限りを尽くして祈ることを願っておられます。一人では難しいので、これをエペソの教に向けて、また私たち福岡めぐみ教会に集う者に対して語っておられます。

祈られないとやれない(19-20節)福音を語れるように

次にパウロは具体的に何を祈るのかを展開していきます。ここでパウロがクリスチャンたちに祈ってほしいのは、「語るべき福音の奥義を大胆に知らせることができるように」ということでした。会

パウロは大伝道者です。彼の秘訣は何にあったのでしょうか。それは彼の力や培ってきた知識や頑張って成し遂げた成功体験ではありません。パウロの勇気や度胸でもありません。彼の宣教の原動力は祈りでした。しかも教会に、支援者に、クリスチャンに「祈ってもらうこと」です。それは祈られることによってパウロに力が注がれるからです。祈りは力をもらうことができます。祈りは神とのコミュニケーションであり、関係です。祈ることがなければ、そこには会話も絆も生まれず、ただ死んだ関係です。祈らない者は神から何も力もいただくことができません。だから、パウロはここで祈ってほしいと強くお願いしています。なぜなら、福音宣教は最大の戦いだからです。

私たちは人を恐れます。当たり障りのない会話ですませようとするおくびょうさがあるかもしれません。天気や植物の話しをしていれば近所の方と良好な関係が築けるかもしれません。けれど、ここでは「福音を大胆に知らせることができるように」祈ってほしいとリクエストしています。大胆にとはあっても、むやみやたらにではありません。語るときには、その相手がいます。だから「口を開くときに」とあります。黙々と仕えるときべきときにはただひたすら仕え、語るべきときにははっきりと語ること。これが福音を伝えるクリスチャンの姿勢です。そして、悪魔はそうさせないように足を引っ張るのに必死です。


「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました」(第二テモテ1:7)のですから、大胆に福音を語る者でありたいと、そうできるように祈ってくださいと言うべきです。あなたを通してでしか、イエスさまのことを聞くことができない人がいます。あなたでなければ、伝えることのできない人がきっといます。私もこのみことばに探られて、悔い改め、口を開くとき語るべき福音を語れるように。そのことに専念している者であるようにさせられたいと願います。どうか牧師が(講壇からはもちろんですが)福音を語る力を与えられる様に、福音を語る機会が与えられるように、福音を届ける人と出会えるように、出て行って福音を語れるように祈ってください。また、皆さんのためにも祈ります。ここから派遣される新しい週。世は福音を知らない方、イエスキリストのお名前を聞いたことのない方で満ちています。どうか語るべきことばで福音が知らされていきますように。



Ⅱ. 励ましと恵み(21-24節)

  1. 宣教報告を知る


 結びに見たいのは、私たちは牧師、宣教師、兄弟姉妹、教会同士でお互いの様子を知ることがとても大切だということです。パウロはエペソの教会の人々に自分の様子を分かってもらいたいと願っていました。そして自分は鎖につながれているので、同労者のティキコ(使徒20:4、他テモテ、テトスでも言及されているパウロの右腕の一人)を遣わします。それは、ティキコがパウロの宣教活動の様子、パウロの心をよく知っているからです。パウロはちゃんと自分の活動、様子を同労者に見せる人でした。楽しいことばかり、躍進ばかりではないでしょう。迫害や盗難、困窮、むち打ちの刑罰などたくさんの苦難にもあっていましたから、パウロの限界や弱さ、痛み、課題もよく知っていました。パウロはそれらすべてを周囲に見せていたのです。それで、ティキコをエペソへ送り(実際に送っている:第二テモテ4:12)、宣教報告をしてもらったのです。それは、エペソの人々がもっと祈れるようになるためでした。また自分たちも奮い立って、福音が前進するために奉仕するチャレンジを与えるためでした。


 昨日、私も身に染みたことがあります。土曜日は多くの牧師にとって苦しみの日でもあります。まさに語るべきことばをつかみ、整理するために心や知恵、時間を費やすからです。土曜の礼拝準備がひと段落して、紅茶を出してくれました。まだ私が重たい表情のままでいるのを見て、ある姉妹が私のことを案じてくれました。はちきれるものがないから、とにかく元気出せ!と激励してくれました。自分のことを知ってもらえるのは、牧師にとって励ましです。そのために祈ってくださるからです。教会総会も、月ごとの奉仕表も、主との交わりも、週ごとの祈祷課題シートも、国内宣教も、国外宣教も同じです。そこにあるのはただの文言、名前や担当の羅列ではありません。キリストのからだとして各自が担っている大切な働きを覚えるためであり、一人ひとりが課題や戦い、弱さを覚えながらもささげておられる姿をまぶたに映して祈るためです。また、背後にいろいろな課題や試練を抱えながらも礼拝に来られる兄弟姉妹、奉仕をされている兄弟姉妹、力以上にささげものをする姿を見て励ましを受けるのです。みんな、楽ではないし、当たり前でもない。平気でもないし、流してるわけでもありません。それでも主のために仕える姿が、教会を建て上げる熱量となり、他のだれかの励ましとなります。


  2. 主の愛と恵み


 最後の挨拶で「信仰に伴う平安と愛・・・恵みがありますように」と結びます。何が平安で、何が愛で、何が恵みでしょうか。牢に捕らえられても主の御手のうちにある平安、罪の中に死んでいた私たちをご自身からの自由で一方的に愛で愛してくださったその愛、行いではなく信じることによって救われた恵み。これが私たちの宝であり、福音です。私を愛してくださった神、あなたを愛しておられる神がいます。人生捨てたものではありません。愛に拾われ、救い出され、生涯をかけてよい永遠の保証ある人生を手に入れることができるのです。


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