聖書 ルカの福音書 1:26-38 |
はじめに ~アドベント第2週~
本日はシンガポール長老教会から6名のチームをお迎えしています。滞在と奉仕期間は12/7(木)~14(木)です。先週は木曜早朝に到着してからエステル会での交わり、金曜にプレイヤーウォーキングとトラクト配布(あるメンバーはたくさん歩いたので「もう死にそう!」と楽しそうに報告してくれました)、そして本日の礼拝での証しと賛美、また午後からのランチ準備をしてくださいました。明日は佐賀バイブルチャーチへ行き、交わりとトラクト配布の予定です。
シンガポールチームとの出会いは2011年に起きた東日本大震災の支援活動でした。当時、岩手県盛岡市で牧師をしていた私がかかわる震災支援ネットワークを通して、2012年から毎月(!)チームを組んで岩手に来てくださいました。毎回メンバーは変わるのですが、シンガポール国内にある16の長老教会(英語部礼拝)から有志を募り、支援活動、賛美や歌、クラフトやゲーム、料理などの準備をして仕えてくださいました。
岩手はとっても寒い時期もあるのですが、いつも笑顔で、いつも食べて、いつも賛美と祈りをもって接してくださるので、彼らからたくさんの力と励ましをいただきました。今回、ポーリーンが福岡に2年間派遣されることとなり、福岡にも初めてのチーム派遣となりました。ふと、私(たち)は逆のことをできるかな?と考えます。シンガポールで災害が起き、その後一度きりではなく1年、2年、3年・・・今は12年です。本当にすごいことですし、彼らに働く神の導きと聖霊の力を思います。彼らの多くは社会人です。忙しい仕事の日々を送りながら、日本宣教のために祈り、準備をし(シンガポールでは毎月日本宣教のための祈祷会があります)、貴重な休みをこうして日本宣教のために使っています。航空券や滞在費、宣教の費用も彼ら自身のささげものや教会のサポートによってまかなわれています。
彼らを歓迎するとともに、彼らの福音宣教に対する姿勢と熱心を私たちも受け取り継承してまいりましょう。また主からお声がかかったなら、全世界のどこへでも出て行く、またそれをサポートする福岡めぐみ教会でありたいと願います。
特別なアドベント第2週を感謝します。
主に栄光がありますように!
1.救いは神から
「・・・御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た・・・御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(ルカ1:26,28)
本日の聖書個所は、御使いガブリエルがイエス・キリストの母となるマリアを訪れる場面です。クリスマスは、神が人を訪れることから始まります。救いは、神が人に与えてくださるものなのです。そうでなければ、私たち人間から神に向かっていかなければなりません。実は、それはとても大変なことです。
シンガポールチームがレンタカーを予約しました。お店に行き、保険に加入し、支払いを済ませました。運転する前にしたのは「地図に目的地を登録する」ことです。運転するよりも先に目的地の登録をしておかないと、迷子になってしまいます。それで、今回の宣教旅行で行く目的地を私と一緒に登録し、操作方法も確認しました。それから、ドライバーは安心して運転を始めました。今週木曜までの宣教旅行を、主が守ってくださいますように。
もし、私たちの目的地が天の御国であったら、私たちはいったいどこへ向かえばよいのでしょうか。私たちには十分な予算、持ち金はあるのでしょうか。途中で疲れたら休憩する場所はあるのでしょうか。途中でもう続けられなくなったら、そこで失格なのでしょうか。助けてくれる保険はあるのでしょうか。今から行く準備を始めて、どのくらいの時間がかかるのでしょうか。
私たちが天の御国に到達するために考えてみましょう。まず、私たちは神の救いの基準に到達しなければなりません。それは、とても大変な仕事です。なぜなら、神は完全なお方ですから、私たちはいつも良いことをし、罪と戦い、勝ち続けなければなりません。一つの失敗も許されません。人生で一度の失敗もせず、罪もおかさずにいて、ようやく私たちは神の完全さに到達できます。これは、私たちにとって達成可能でしょうか?
また、神は正しく、聖いお方ですから、私たちは行いだけでなく、心も聖くなければなりません。悪いことをいっさい考えはいけません。少しでも悪い考えがよぎったら、それでゲームオーバーです。やり直しはできません。私たちには、それぞれ一度の人生しか与えられていないからです。とても平等ですね!王様も、医者も、昔の人も、現代人もたった一度きりの人生が与えられています。その中で、完全な考えと完全な行いをやり続けて神の基準に達します。
神に認められる完全さ、正しさ、聖さに到達する人はいるでしょうか。いいえ、残念ながら一人としていません。私たちのうち、誰も天の御国に行きつくことはできません。神の前に出て、自分に正直であればあるほど、自分の罪深さ、欠けたところ、弱い部分を痛感します。そして、自分こそ一番救いから遠い存在であることを知ります。
しかし、たった一つ私たちが天の御国に到達する方法があります。それは、私たちではなく、神が私たちを助け、救い、導いてくださる場合です。実は、それしか方法がありません! 今朝の聖書個所の始まり、「御使いガブリエルが、神から遣わされて」マリアを訪れているところにそんな驚きと感動を発見するのです。
神は、私たちに救いの訪れを知らせてくださるお方
2. 真剣な神
「しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです」(1:29-30)
神は御使いガブリエルを遣わし、救いの計画を進められますが、マリアはそのことを知りませんでした。それでも神の計画やタイミングは完璧なのでしょうか? マリアはこの時、12-14歳くらいだったと考えられます。私たちが考える聖なる母は、もう少し年齢と経験と立場がある女性を思い浮かべます。しかも、「ガリラヤのナザレという町」は当時200-450人位の小さな町だったことがわかっています。神は救いのみわざのために、小さな村にいる、まったく無名の少女であるマリアを選び、行動されました。マリアは、プランBだったのでしょうか? 人間的に考えるとそうかもしれません。
しかし、神の知恵は、人間の知恵を愚かにします。神の力は、人間の力を無にします。神はその知恵によって、小さな村の少女マリアを選ばれました。神は、幼いマリアに対してなんの心配もしていません。神は、面白がってとか、遊び心によってではなく、真剣にマリアを選び、出向き、語りかけています。神はその知恵によって計画を成し遂げられます。
私たちは、マリアが恐れ戸惑って経験した出来事を、聖書によって、じっくりとたどることができます。これは大きな恵みです。なぜなら、私たちは聖書を通して、ゆっくり考える時間、祈る時間が与えられながら、神ご自身や神の計画について、また神に対する私たちの応答について聖書から学び、間違った考えや行動を正すことができるからです。そのために、マリアのように恐れたり、ひどく戸惑ったりしなくてもよいのです!
けれども、このあとの展開がおもしろいですね。神は、ひどく戸惑い恐れるマリアに対して、「大丈夫だよ」とか「ちょっとびっくりさせてしまったね。また落ち着いたら来るからね」と慰めたりせず、すぐに詳しい説明を続けているからです(31‐33節)。神は真剣なゆえ、いつも容赦がありません。相手が少女であろうが、突然であろうが、ご自身の計画を詳しく教えておられます。
反対に言うと、神はマリアを子ども扱いしたり、初心者扱いしたりしないお方です。そして、ここにいる私たちにも同じように、同じことばを語ってくださいます。クリスチャンにだけ、大人にだけ、背筋が伸びている人だけに教えることをなさいません。神は、誰に対しても、全力をもって交わりをもってくださいます。神は、世界の片隅にいる人のもとを訪れ、交わりをもってくださいます
私たちも、熱心に神に心身を向けよう
3. 神のことばの確かさ
「神にとって不可能なことは何もありません」(1:37)
御使いがマリアに、生まれてくる子をイエスと名づけ、その子は大いなる、高き方の子と呼ばれ、とこしえに世界を治めるようになる(31‐33節)と告げたとき、マリアは、まったく理解できないと答えています(34節)。しかも、注意深く見てみると、マリアは31節にある「あなたは身ごもって」という言葉だけに反応しています。結婚もしていないのに身ごもるのだということを言われたショックからか、それ以降の32‐33節の内容はいっさい頭に入っていません。
そんなマリアに対し、御使いは「全部聞きなさいよ!」と怒鳴りません。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」(35節)と答えるのです。「聖霊が・・・おおう」(原意:影がかかる)とは、とてもやわらかい言い方です。私がソファでうたたねをしようとすると、妻は(私が断っても!)必ず薄い毛布をかけてくれます。けれど、寝るときに、その毛布があるととても心地よくなります。この個所を読むとそのことを思い出します。そして、大げさではなく、自分一人で何とかして頑張らなければならないという必死さから解放される気分になります。それくらい「おおう」存在に私たちは慰められるものです。
聖書のことがわからないし、理解できないと焦る必要はありません。このときのマリアもそうでした。たとえ、私たちの理解が追いつかなくても、聖霊がおおい、守り、教え、導いてくださいます。
そして、この訪問の最後に御使いが伝えたのは「神にとって不可能なことは何もありません。」ということです。
直訳では「神において、全てのことばに不可能はない」となります。強調されているのは「ことば」です。 「神に不可能なことは何もない」と聞くと、たとえば、私が空を飛べるように、勉強しなくても合格するように、病気や事故にあわないように、などと誤解しがちです。そして、それらができないのなら、神に不可能なことはいっぱいある!と反論したくなります。
しかし、大切なのは、聖書がまことの神について何と教えているのかですね。私たちが「このような神さまがほしい」と願い、それを神とするとしたら、それは「偶像(にせもの)」です。その理由は、人間の側から出発しているからです。はじめにお話ししたように、私たちが天の御国という目的地に確実に到着するためには、神から導いてもらうことです。私たちが勝手にこの道がいいと思って進んでも、その先に救いはありません。救いは人から神ではなく、神から人に与えられるものだからです。
マリアは「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように(38節)と応答しました。マリアは、自分の身体を、人生設計を、思考を、願いを神にゆだねたのです。マリアは、他でもない自分の人生に、これからの生活が神のことばに支配されても良いとしたのです。
まだヨセフと結婚していないときに身ごもること、小さな町で噂や冷たい目にさらされることなどを考えると、マリアにとって不利なことば、無理なタイミングです。それでも、マリアは、神のことばどおりのことが自分の身に起こるように願い出ました。マリアは、神が語られたことばにその人生をゆだねました。
「おめでとう、恵まれた方」(28節)ら始まった御使いとマリアの会話は、マリアが神のことばに従う応答で終結しました。「恵まれた」人生とは、思い通りになることではなく、神のことばに人生をお任せすることです。神のいいようにされることです。マリアの告白を聞いた御使いは、その場を立ち去ります。先程まであれほど話していたのに! 神はまた、私たちの信仰告白を待っておられます。私たちが神のことばに立つのを待っておられます。今、ここで、あなたが「神のことばどおりにこの身になりますように」と告白するなら、神は疑わずに受け取ってくださいます。人生の目的地を天の御国へセットしましょう。聖霊があなたをおおい、力をくださいます! ■
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