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「神にしかできないこと」


聖書 ルカ5:17-26

はじめに

松原湖バイブルキャンプ(MBC)への派遣とお祈り、ささげものを感謝します。福岡めぐみ教会からは小学生6名、中学生1名、大人3名の計10名が参加しました。キャンプでは埼玉から須賀めぐみ、あかり親子とも再会し、皆様にどうぞよろしくお伝えくださいとのことです。全体では小学生40名、宣教師、めぐみ姉はカウンセラーとしてそれぞれ数名の子どもたちと部屋と行動を同じくし、生活面を見ながら、何より霊的成長と救いのために労されました。夜も祈祷課題や分かち合いがあり、身体は休む間のない3泊4日でしたが、めぐみ姉は「子どもたちの信仰が回を追うごとに成長していくのを目の当たりにできて、本当に力が湧きます」と言っておられました。ジョナサン宣教師、エイドリアン宣教師も英語での賛美以外はすべて日本語でのやり取りとなり、多くの気遣いがあったがあったと思いますが、期間内を全力で走り抜けました。中学生のエズラ兄は、補助役として同じ部屋に泊まり、小学生たちが集会やクラフト、レクリエーションに集中できるように終始サポートしてくれていました。

行きは愛知県小牧市の教会に、帰りは大阪府茨木市の教会に泊めていただき、それぞれ歓待を受けました。お茶やお水を人数分冷やしてくださったり、ドライブのおやつをいただいたり、夜遅くに迎えてくださったりと感謝にたえません。

各家庭、親御さんにとっても不安を感じつつ子どもたちをゆだねてくださったことと思います。往復2千キロ超の運転、2台とも事故やトラブルなく、車内も楽しい交わりによって祝されてきました。


私は4回のメッセージの機会があり、心がけたことは確信をもって聖書から主イエスの救いを語ることでした。すべてのプログラム、奉仕、祈りがみことばを聞くためになされていました。子どもたちはキャンプの中で霊的な急成長をしたことを感じます。最終日前夜のキャンプファイヤーでは一年生から六年生まで全員が決心を言い表しました。それを聞いた仲間たち、また何より主がその決心を聞いてくださり、時にかなって実現してくださることを信じます。その意味でも、単なる数日のキャンプではなく、生涯にわたるおおきな決断や意味を持つものです。



  1.  助けて、助け手

本日の聖書箇所は「中風の人の癒やし」です。バイブルキャンプが一人や個人単体では行くことさえも不可能なように、ここにもその人を主イエスのもとへと連れて行った仲間の存在があります。この礼拝では神=主イエスにしかできないことに焦点を当ててメッセージいたします。

「中風」は欄外注にあるように「からだが麻痺した状態の人」を指します。その前のツァラアトの人は自分で「主よ、お心一つで私をきよくすることができます」と言っていますが、ここに出て来る人は彼自身の言葉はありません。ただし、主イエスが話しかけているところから、彼は目や耳は機能していますが、言葉を発することやからだを動かすことができない状態だったようです。

これは、私たち人間が神に出会う能力や機能、力があるかということを示しています。昨年、礼拝でご一緒に学んだエペソ人への手紙には「自分の背きと罪過の中に死んでいた者」(2:1)とあるように、自分からは神に近づくこと、神を引き寄せることができません。救いに関して、少しでも私たち人間の側に要因があるとしたら、それは聖書の教える救いではありません。私たちが1%でも努力や功績が必要とされるなら、それはいつわりの宗教であり異端です。なぜなら「イエスは、いつも生きていて・・・ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります」(へブル7:25)とあるからです。

人間にわずかでもしなければいけないことがあるとしたら、それは「完全な救い主」」ではありません。また私たちも救いのために必死に努力したり、救いに足りているか心配になったり、大丈夫かどうか判断しなければなりません。そこには平安も喜びもありません。キリストが完全な救い主であるからこそ、私たちは救いを受け入れ、確信することができ、またこうして毎週主イエスをほめたたえて賛美し、生涯をささげるにふさわしい唯一のお方として礼拝し、従っています。

もしそうでなければ「私たちはすべての人の中で一番哀れな者」(第一コリント15:19)です。単なる望みや単なる可能性、単なる生きがいや単なるファッションとしてキリストを見ているなら、それは何の力にも救いにもなりません。ぜひ、救いには主イエスが100%必要であり、私たち人間の側には1%でもなすべき余地がないことを整理しておきましょう。

同時にそのことは、私たち自身によってはいかなる努力、方法によっても救われないということです。そのままではいけないということです!それゆえ、ここに登場します中風の人=からだ全体が麻痺して動くことができない人というのは、決して他人事ではありません。神の前における自分自身の姿として重ねることによって、この個所でのストーリーが自分の物語として響いてきます。

さて、この人は自分で動くことができませんが、寝ている床のまま主イエスの近くまで移動してきました。彼を運び込んでくれた友がいたからです(「四人」(マルコ2:3)。私たちは自分では主に近づくことはできなくても、主イエスに近づけてくれる存在(友人、家族、同僚、恩師等)がいます。また、それは主イエスご自身が願っておられることです。

この会堂にもあるように復活の主イエスが昇天される際弟子たちに最後のことばとして語られたのは「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)でした。あなたがもし誰かに聖書を手渡されたり、教会に誘われたり、福音を聞いたなら、それはここで友に担がれた中風の人と同じ恵みにあずかっているとうことです。あなたが「助けて」と言ったとき、本当の救い主のもとへ連れてくれた人がいたということです。

また、この個所はそれだけでなく、あなたが「助け手」となることも御心であると教えています。この男たちの名前もその後も定かではありませんが、彼らがひとりの人の救いのために大きな仕事をしたことは確かです。それは彼らの人生の中でもっとも特筆すべき働きです。私たちも「助けて」もらったこととと、「助け手」として仕えていくこととを受け取りましょう。


2. 信仰はイエスに

さて、ここには彼らがどのようにして主イエスのもとへ中風の人を連れて行ったのか、詳細が記されています。四人は主イエスのおられるニュースを聞いて彼を運び込み、イエスの前に置こうとしますが、大勢の人がいたためにかないません。「運び込む方法が見つからなかった」(ルカ5:19)とそのまま引き返しても仕方がない状況です。しかし、それで諦めることなく「屋上に上って瓦をはがし…人々の真ん中、イエスの前につり降ろし」ました。


聖書を道徳やマナーの基本書として読むと、ここは「順番を飛ばしてもよいのか」「人の家の屋根を勝手にはがすなんて行為は違法だ」とツッコミどころ満載です。しかし、聖書をイエス・キリストに出会う書として読むと、別のことが見えてきます。「人の救いのためにここまでするんだ」「そこまでしてジーザスに会わせるとは」「救いはイエスにしかないとまっしぐらだな」と教えられます。ぜひ、こういう個所は聖書が伝えようとしているメイン部分が何であるかを見きわめながら接してまいりましょう(※社会生活でのマナーや隣人愛は他の個所で教えられており、いつも度外視してよいわけではないことも私たちは知っています)。


ここでの破格の行動は、当時の屋根の構造と材料を知るともっと臨場感を味わうことができます。

新約時代の一般的な家はレンガや石作りで、屋根の部分だけに梁(横に通す部分)に木を使いました。おおよそ二階建てで、一階が客間や作業室、家畜のスペース、二階が寝室などのプライベートな区分けになっていたそうです。屋上や屋根に上ることは一般的で、外付けの階段も付けられていました。ガラスがないために窓は小さくて少なく、そこからのぞいて主イエスを見るということも難しかったようです。こうした状況で、彼らは協力して中風の人を床にのせたまま、屋根をはがしてそこから吊り降ろして、彼を主イエスのもとへと連れていきました。


友人たちは相談して決断し、汗を流し、爪の中も泥で真っ黒にしながら主イエスとの出会いを実現させました。しかも自分ではなく、友、隣人、他者の救いのためにそこまでしたのです。本人が頼みこんだわけではなかったかもしれませんが、彼らは必死でした。主イエスにしか救ってくださる方がいないからです。この人は主イエスに出会わなければならないと考えていたからです。


私たちが他の人に伝道したい、主イエスを紹介したいと願うときには、「この方にしかできないことがある」「ジーザスとの出会いが一番大事」と確信している必要があります。「こっちもいいけど、あっちでもいいよ」「私もそんなに本気には信じていないんだけどね」という態度や熱量ではいけないのです。

以前、マルコの福音書から同じ出来事を説教してくれたジョナサン宣教師も「まあまあのレストランを誰かに紹介しませんよね」とチャレンジしておられましたね。


主イエスは近づきにくいお方ではありません。お高くとまって、努力してたどり着いた者だけが会えるのでもありません。先着順で、あとの者は引き返すのでもありません。ジーザスはどんな人にも出会ってくださいます。


その証拠に、ここで屋根をはがした人々の行動に目がいきますが、それだけではありません。屋根に穴を開けるときには、ぽろぽろと渇いた泥や石ころが下に落ちたのです。最初は小さな穴だったのが、寝床を通せるぐらいの大きさにするためには、土砂崩れのような音がしたかもしれません。そして、その真下におられたのがジーザスです。主イエスはその頭上に泥や土をかぶられたのです。


これは主イエスが私たち人間の汚さ、泥、土、砂ぼこりをかぶってくださることを確信する場面です。十字架につけられる時、群衆から悪口やののしりを浴びせられ、兵士からはつばを吐きつけられました。これらは全部、人間の罪を背負う身代わりとしてのメシヤの姿です。ここで頭からつま先まで、全身土ぼこりにまみれながらこの人に出会ってくださる主イエスの姿。ここで大勢の人々が目の当たりにしたように、私たちも出会うのです。 



3. 罪を赦す権威

結びに、ここで何が起きたのか=主イエスが何をされたのかを見ましょう。まずイエスは「彼らの信仰を見て」(5:20)くださいました。これは、救いが本人の意志を無視して実現していくというよりも、信仰の友や教会の取り組みが用いられていくことを教えています(この後7章に出て来る百人隊長のしもべの癒やしでも同じことが言えます)。癒やされ、赦されたこの中風の人が「こんなはずではなかった!主イエスに出会う前の方がよかった」と叫んでいないことからも明らかです。彼は素晴らしい救いにあずかりましたが、そこで起点となったのは友人たちの信仰であり、働きでした。クリスチャンの兄弟姉妹が互いに力を合わせると、大きなみわざが起こるのです。主の教会の営みなので、主が力を現してくださいます。反対に、不信仰が渦巻くところに、主は「何も力あるわざを行うことができ」(マルコ6:5)ません。私たちが主に期待し、大きな信仰を持って労するなら、そこに主は働き、力あるみわざを起こしてくださいます。


その力あるみわざとは、ここでなされた中風の人の癒やし・・・ではなく「罪の赦し」です。ここで連れて来られたのはからだの麻痺した人です。当然、ジーザスの力が働けば癒しがなされます。しかし、ルカは医者であるにもかかわらず身体的な癒やしよりも、実に4度も「罪の赦し」と記して、私たちが着目するように意図しています。

一回目に「友よ、あなたの罪は赦された」(5:20)と言われると、すぐに律法学者たちが心の中でつぶやきました。「罪を赦す」ことは神の領域であり、それを主イエスが言うということは、神への冒涜だからです。「神おひとりしか罪を赦すことなんてできないのに、この人は自分を神としている。とんでもない不届き者だ」とあれこれ考えました。主イエスはそれを見抜いてもう一度「罪は赦された」と挑戦的に言われます。


罪を赦すことができるのは、その権威を有している人しかできません。たとえば、私が会社員であるとして、大変なミスをしてしまった場合、同僚は「大丈夫だよ」「次に同じミスをしなければいいんだから」と肩を抱いてくれるかもしれません。しかし、それ自体は励ましですが、してしまったミスが赦されたわけではありません。そのミスが赦されるために、私は上司や社長に謝らないといけません。いくら同僚や仲間が慰めてくれても、社長が「ダメだ!何をしてくれたんだ。おまえはクビだ」と言ったらそれでおしまいです。なぜなら、同僚にはミスを赦す権威がないからです。会社であれば社長や会長だけがその権威を持っています。


同じように、人間の罪を赦すことのできるお方は人間ではありません。その権威を持っているのは、ただ神おひとりです。

そして、その者こそこのわたしだと宣言しているのがこの箇所です。さらに、主イエスはここで罪を赦す権威を持っていることを証明するために、「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」(5:24)と言われ、その人は人々の目の前で立ち上がり、神をあがめながら帰って行きました。これはその人が癒やされた出来事ではなく、その人の罪が赦されたことが本当なのだということを現す出来事でした。


「起きて歩け」ということばどおりにその人が癒やされたように、「友よ、あなたの罪は赦された」ということばもそのとおり実行されるという証明を、主イエスはここでされました。主イエスが「罪を赦す権威」を持っておられる唯一の神です。だれでも、自分の罪を認め、この方の前にひれ伏すなら、罪の赦しが与えられます。このみことばを目にしておられるみなさんは、主イエスの声としてこのことばを聞き、受け取ってください。あなたが今日ここにおられるのは、罪の赦しを受け取るためです。


罪の赦しは、私たちの地上の生涯すべてを祝福する宣言です。ただ罪責感を背負うのではなく、人にはできない罪の赦しを成し遂げてくださるキリストへの信頼と感謝を抱いて生きるように変えられます。ぜひこの喜びを受け取り、この良き知らせを携えて今週もここから遣わされ、始めてまいりましょう。


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