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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「神に向く」


聖書 マタイ1章18~21節

2022年、教会のこよみはアドベント(待降節)に入りました。教会は内も外もきれいに装われ、クリスマスを迎えようとしています。先週の週報コラムにも記しましたが、アドベントは「立ち起こる」の意味です。私たちの人生には何が立ち起こるか知りえません。もし、知っていたとしたらそれこそビクビクして生きた心地がしないものです。けれども、私たちクリスチャンには確かなことがあります。それは、キリストに出会う道を歩み始めているということです。神を知らずに生きていた、闇の中にうずくまっていた私たちにまことの光が到来しました。天から降られた救い主、キリスト。この方を仰ぎ見つつ、この地上から天を目指す旅路を私たちは行くのです。アドベント=アドベンチャーは闇雲な冒険ではなく、主と出会う冒険です。それだから、私たちは今日も恐れずに自分の位置を確認し、一歩ずつ前へ進みます。そうしてこれからアドベントを過ごし、クリスマスを迎えたく願います。


Ⅰ.人生に介入される神(18節)

  1.目の前がまっくらからのクリスマス

今年のアドベント、クリスマスは「マタイの福音書」から味わいます。その始まりは「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1:1)であり今朝の箇所の直前にも「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった・・・ダビデから・・・キリストまでが十四代」(1:16,17)と確かな系図をたどって「キリストの誕生」を記しています。もし、作り話であったらこうした系図は書くことができないものです。系図=人間の歴史を表すものの中に、キリストは来られました。しかも、突然来たのではなく、聖書に預言されている中で実現しています(参照:創世記3:15、イザヤ11:1など多数)。聖書はイエス・キリストを中心とした書物です。この方にいつも焦点を当てながら読み進めてまいりましょう。


「イエス・キリストの誕生は次のようであった」(18節)と系図から実際の誕生にまつわる様子が記される合図になっています。それはマリアとヨセフとの間に起こった出来事でした。彼らは婚約中、まだ一緒には住んでいません(結婚をしていない)。ユダヤの習慣として、婚約期間は結婚まで純血と貞操を守るため、二人きりで会ったり、過ごしたりすることは許されていなかったそうです。花嫁を迎えるための様々な準備期間(父の家の部屋作り、財産等)はおおよそ1年位。ヨセフはマリアのために結婚を楽しみにして準備をし、マリアも同様にヨセフとの結婚に備えてあらゆる聖さを求めながら過ごしていたとでしょう。そんなおり、突然戸惑いのニュースが飛び込んできました。マリアは自分が身ごもっていることを知らされたのです。その知らせ主は聖霊でした(参照:このあたりの経緯はルカの福音書1章)。今では子どもを授かってから結婚するのは珍しいことではない時代になっています。しかし、当時のユダヤ社会ではとんでもないことで、このことが公になれば男女とも石を投げつけられて殺される律法がありました(参照:申命記22:23)。それを反映するものとして、ヨハネの福音書8章には姦淫の現場で捕らえられた女性にだれが石を投げるのかで論争になっていますね。私たちにとってはあっさりと読めてしまう箇所にも、ここで「婚約していた『が』」と書かれているように、またマタイの福音書が初めに記すほど重要な出来事、戸惑いをもたらす事件としていることがわかります。目の前がまっくらになってしまいました。これが世界で初めてのクリスマスの始まりです。私たちが想像し、また祝っているクリスマスとは全然違いますね。すぐにケーキやプレゼント、イルミネーションを想像し、行動してしまう私たちにとってもアドベントの過ごし方、クリスマスの迎え方は大事だと再認識させられる出来事です。ただ、本当に何も考えることや悩みや不安がなくてクリスマスを過ごす人もいないでしょう。だから、クリスマスがまっくらな始まり方をすることは、私たちにとっても慰めです。心配事はない、自分は大丈夫といった虚勢を張ることなく、等身大で飾らず、生身の自分になって今日のみことばを味わいましょう。


  2.小さなマリアに、私たちに

まずわかることは、マリアがこの出来事を知ったということです。それゆえここでは主語がマリアに置かれています。「マリアはヨセフと婚約していたが」とあるとおりです。ユダヤの慣習では10代半ばが適齢期とされていました(今のジュニアクラスの中高生たちと同じです!)。自立した女性、世の荒波に揺るがされない年齢や経験があるわけではありません。ましてやこのニュースをマリアは一人で聞き、聞かされ、明かされました(ルカ1:28-34)。聞きたくない事実、認めたくないニュース、なかったこととしてやり過ごしたい知らせです。百歩譲って自分は受け止められたとしても、ヨセフや家族にどのように伝えたらよいのか・・・・・・このことによってもたらされる障害は山ほどありました。なぜ、こうなったのか。なぜ、マリアだったのかは知ることができません。ただわかることは「聖霊によって身ごもっている」(18節)ことです。聖霊=神は、マリアの人生に介入されるお方だということです。すなわち、それは私たちの人生に介入されるお方ということでもあります。介入は強い言葉(否定的な、邪魔をされるというニュアンスを含む)かもしれません。しかし、運命に操られているのだから仕方ないと諦めるよりは、全然マシです。何と言っても、私たちに介入される神は暴君や気まぐれではなく、最善をなさるお方であり、悪を考えることがなく、ご自身の望みを実現する力があり、足元をすくわれることのない完璧なお方だからです。何かに取りつかれている、生まれた時代が悪かった、親が悪い、成育歴が悪い、先祖が悪い、仕方ないと色々な原因を見つけようとしても、それらに自分の身を握られているとしたらたまりません。平安や喜びや意味を見出すことなどできません。ただ唯一、私たちが平安をいだき、希望が持てるのは最善の神が私の人生を導いてくださっていることを認めるときです。その決断や時期を私たちはなかなか自分では持てません。自分の力で手繰り寄せることも、自分から「わかった!」と結論づけることもできません。ただ、神がマリアの人生に介入してその後も導かれたように、私たちの人生にも介入されて初めて私たちは神を知るに至ります。悪いことをなさらない神です。自分の身に起こってきたこと、今渦巻いている不安、ぬぐえない悲しみ・・・・・・そこにあるのは、神の介入の訪れではないでしょうか。嘆き、あきらめ、投げ出してしまう前に、私たちの人生に神が関わっておられることに目を向けてみましょう。


Ⅱ. 心の中に現れる神(19節)

  1.思い巡らしたヨセフ

次の19節は主語が「夫のヨセフは」に置き換わります。ということは、マリアがヨセフにその事実を告げたということです。まだヨセフには主の使いは現れていませんから、マリアが自分の口で告げたのです。とっても言いにくいことです。即座にヨセフに激怒され、シャットアウトされても仕方のないことです。聖霊によって身ごもった証明をすることも不可能です。ただ、マリアの口によって、聖霊によって知らされたことを伝えることしかできません。しかし、ここにすでに不安や戸惑いを分かち合う二人であったことがわかります。マリアが言い出せずにいたら、クリスマスは進展しません。神の計画はそこで頓挫、ストップしてしまいます。しかし、そうはなりませんでした。マリアは勇気をもって知らせ、ヨセフはそれを言ってもらえるような人物でした。そんな二人の良き関係があったことを18,19節の行間から知る思いがします。


ヨセフは何を聞いても動揺しない鉄の心を持っていたのでしょうか。いいえ、そうではないはずです。マリアにとっての衝撃は、ヨセフにとっても衝撃でした。マリアにとって辛いことは、ヨセフにとっても辛いものでした。思いがけない、突然の暗闇、奈落の底に落とされたような衝撃があったはずです。夫のヨセフについては「強い人であった」とは書かれておらず「正しい人」(19節)とあります。この「正しい」は罪を犯したことがないという意味で使われることはまれ(イエスさまに対してピラトが言った場面:マタイ27:19)で、他はバプテスマのヨハネ(マルコ6:20)、シメオン(ルカ2:25)、アリマタヤのヨセフ(23:51)など人に対して使われています。この「正しい人」は無罪性よりも、神の言葉を愛し、それを守り行う者を指す意味において「正しい人」なのでした。彼は神の前に誠実な人でした。


神の前に正しい人、ヨセフ。それで考えたことはまずマリアのことでした。ヨセフの正しさは神にだけでなく、人を愛する面にもちゃんと注がれています。聖書も「ヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかった」と記します。杓子定規の正しさ、マニュアル通りに進めることよりも、マリアを愛すること、マリアを守ることを同時に考えることのできる正しさを持っています。神の前に何が正しいのか、私たちも目の前の人や出来事を無視して考えることはナンセンスだと教えられます。とにかく、ヨセフは彼女をさらし者にしたくなかった。ヨセフの正しさがそのような思いに至らせました。先ほど見たように、婚約中の妊娠は非常事態、殺されるほどの律法があり、社会的制裁を受け、罪人のレッテルを背負って生きていかなけばなりません。ヨセフが公に婚約解消をしたなら(当時は文書で公式に手続きをしたようです)、マリアは共同体の中で恥をさらされるのです。そのことを避けるために、ひそかに離縁することを考えます。そのように考えたあとで、彼は「思い巡らし」(20節)ます。ヨセフはよく考え、思い、祈り、待つ人でした。


  2.夢に現れた主

そんな彼のもとを「主の使いが夢に現れ」(20節)ます。ヨセフは心のなかでこれらのことを考え、思い巡らしていました。そこに、主の使いが現れます。それは、主が私たちの心を読み取っておられる、その考えること、逡巡していることをよ~くご存知であるということです。しかも、そのタイミングが遅れることなく(ヨセフが離縁を即断して、即座に行動していたら間に合わなかった!)、介入されています。主は私たちの心をご存知で、思い悩みを知っておられ、その助けのために遅れることなく訪れてくださるお方です。


この「夢」は私たちはどう理解したらよいでしょうか。聖書にはアブラハムやヤコブ(創世記15、28章等)に夢で主が現れる記事があります。その他にもヨセフやダニエルの夢の説き明かしなど夢に関する出来事が数多く記されています。もしかすると、私たちの夢にも現れて主が明確な語りかけをしてくださることかもしれません。ただ、もしそうだとすると「昨日の夢は本当だったのか」「夢で言われたことは神さまのマジな現れだろうか」と不安にならないでしょうか。「夢で主が現れてくださるなんていいなあ」と思ったりもするのですが、逆に不確かで、不安要素が増すものですね。それよりも、私たちには確かなことがあります。それが、その夢を記している「みことば=聖書」がここにあり、読むことができるということです。聖書は神の言葉です。神のメッセージを、私たちは会えるかどうかわからない夢の中よりも、聖書によってそのメッセージを聞くことができます。忘れても大丈夫です。もう一度読めばいいからです(そのとき、どのような言葉であったか、どの書物であったか、聖書のどのあたりだったのかは覚えておいてください♪)。しかも、ぼやけているのではなく、永遠に変わらない、堅く立つことばとして記録され、保存されていますから安心です。マリアが聖霊によって語られ、ヨセフは夢の中で出会った神との交わりを、私たちは聖書を通して、またこうして時と心をともにする礼拝の場によって果たしています。それは私たちと神との出会い、交わりの深まりにとって大変幸いなことです。


Ⅲ.確信へ導かれる神(20-21節)

   1.明確な指示

夢で現れた主の使いは、ヨセフに対して実に明確な指示を与えています。「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」(20節)とは、離縁しようと考えていたヨセフとは真逆の指示です。神さまは、時に(よく?)私たちの願い・考え・望みとは反対のことをなさいますものね!それは、はっきりと御心を示してくださるお方でもあるということです。生きておられるからこそ、私たちに関心を寄せ、ご自身との交わりに入れてくださるお方であるからこそ必要なときには、必ず御心を示し、伝えてくださいます。


このあと24節を見るとヨセフが主の命じられたとおりにしたことがわかります。彼は、自分の願い、慎重に思い巡らしたことと違った御心が示されたとき、聖霊に従いました。ここにも「正しい人」の決断を見ることができます。「正しい人」とは、知識や経験、物知りの性質から正しい判断ができる人のことではありません。「正しい人」とは、神の御心を聞き取り、それに従う決断ができる人のことを指すものです。「正しい人」ヨセフがマリアのことで衝撃を受けたのは単に人の目にマズいことになってしまったことが問題なのではありません。重要なのは、二人が律法の背き、神の祝福をいただけない人生へと放り出されることになってしまったからです。正しい人の悩みは、いつも主の前に自分がどうあるかを考えます。マリアが自分の知らないところで、主の前に汚れた者あったらそれこそヤバい、絶体絶命だと考えていました。そのヨセフの迷いを、聖霊は取り去ってくださったのです。それによってヨセフは、マリアが聖霊によって身ごもっていたのであり、神の前に罪を犯したわけではないことを信じることができました。これから一生涯この秘密を守らなければならない、マリアはどうなるだろうか、産まれてくる子は十分なケアを受けられるだろうか、婚約がダメになった自分の将来はどうなるのか、今までしてきた準備が無駄になる、社会的立場の変化・・・そういったものをすべて背負う覚悟でいたヨセフを、聖霊は解放してくださいました。神に委ねるということをもって、自分の重荷、思い巡らしているぐちゃぐちゃしたものを神に預けなさい、神に信頼してみなさいとチャレンジされたのです。

このように神の声や指示を受けられるヨセフがうらやましく思うかもしれません。実は、私たちにも同じ聖霊が働きかけてくださいます。三位一体の神、聖霊は永遠なるお方です。昨日も、今日も、これからとこしえまで変わることがありません。死ぬことも消えることもなく、生きて働いておられます。ここで読んでいるのと同じ聖霊が、私たちに働きかけてくださるのです。そして、聖霊は特にみことばと祈りにおいて働かれます。私たちがみことばの意味を明らかにし、私たちの罪を照らし、悔い改めへと導き、わかったという喜びを与え、孤独のときにはかたわらにいてくださり、祈れないときにはうめきとともに祈って支えてくださり、不安なときには「天の父よ!」と叫ばせてくださいます。ヨセフは、聖霊によって自分の考えていたことから聖霊が語られることへとその決断を変えました。それまで「思い巡らしていた」(20節)ことから「主の使いが命じたとおりに」(24節)彼の心が変わったのです。正しい人ヨセフは、聖霊に従いました。私たちも、祝福の道は聖霊の導き、語りかけ、教えてくださることに従うことです。


そして、重ねて言いますが、ヨセフは夢でそのことを告げられましたが、私たちはさらに確かな預言の言葉をこの聖書のうちに持っています。みことばに親しみ、聖霊の導きをいただき、自分の心のうちにあることを注ぎ出しながら、神の御心にかなった道を選びましょう。その歩みは、このアドベントからクリスマスに向けて始まっています。マリア、ヨセフのたどった道を、私たちも歩むように導かれているのです。


  2.罪からの救い

聖霊は「マリアを妻として迎え入れなさい」という命令だけでなく、なぜそうするのかと理由も教えてくださいました。21節は3つの未来形が続いています。「・・・男の子を産みます・・・名をイエスとつけなさい・・・罪からお救いになります」とあるこれら3つの動詞はすべて未来形です。神が言われる未来形は「必ずそうなる」という実現をともなう宣言です。聖霊なる神は、思いとどまっていたヨセフに現れ、この道を歩みなさいと明確な指示を与え、それがどうなるかを指し示してくださいました。そのゴールは「この方がご自分の民をその罪からお救いになる」(21節)こと。神はご自分の民が罪にとらわれ、死の陰の地に座り込み、滅びゆくのを黙って見ておられませんでした。まさに「胸熱(むねあつ)」の愛をもって、ひとり子をお遣わしくださったのです。神の愛から始まっているクリスマス。ぜひこの方とその愛から目を離さず、アドベントを歩みましょう。神は救いの計画をご自身だけでやってしまわれず、ヨセフとマリアを選ばれたように、ここにいますひとり一人に御声をかけ、手を引き、用いてくださいます。喜びをいただいた者として、クリスマスの喜び、救いの喜びを伝え広めてまいりたいと願います。   <了>

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