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「神の前に立つ日」


聖書 エペソ人への手紙5章21~33節

本日はいつもより少し長い節になりますが、夫婦(今朝の順序は妻と夫)を一つとして区切りを持った方が適切だと考え、エペソ5章21-33節をごいっしょに見てまいりましょう。

韓国の研修会に参加した際に、講師の牧師が次のように話されたのを覚えています。「聖書を読んで苦しいのは、その意味が分からないからではありません。その意味が分かるからこそ苦しいのです」 聖書が意味不明だから理解に苦しんだり、腹を立てたり、もう読まなくてもいいとするのではなく、むしろその意味が明瞭だからこそ、命令がよくわかるからこそ、自分の心に突き刺さる(かんにさわる)からこそ、聖書を苦々しく思うのではないですか?という投げかけでした。これはとても印象に残っている言葉です。今朝の個所もその意味が分かるからこそ、無理難題だと感じたり、理想ばかり言われてもと不快に感じたりするかもしれません。しかし、聖書はあなたに重荷を負わせるためではなく、重荷を降ろさせるために語られます。心の耳を開いて、神の御声を待ち望みましょう。


Ⅰ. 聖書の教える結婚

  1. 創造の秩序と召し

この5章31節に創世記2章24節からの引用がなされていますので、聖書にある初めの結婚からみてまいりましょう。聖書は神のことばであり、私たちの人生観、世界観が真理に基づいて作り上げられていくために有益です。それはときに、今の時代の価値観、世界観とはかけ離れているようにも思われることが多々あります。しかし、そうした衝突や葛藤を覚えるときにも、必ず聖書の教えていることを重んじるように習慣づけたいと願います。聖書にある聞きたくないことを聞くことが大事になってきます。


聖書の一番はじめの書物、創世記は神が天地万物を創造された記事から始まります。そして、人は「男と女に創造され」ました。この世の秩序として夫婦はなくてはならないものでした。そして、その夫婦関係が正しくあることは、神が「非常に良かった」と評された状態に含まれていることです。反対に、夫婦の秩序が乱れているとき、聖書の教えから離れたり、逸脱しているときには、夫婦関係は苦いものになり、また人生やこの世の流れも混乱、混迷したものになります。昨今は日本でも離婚率が35%(2019年度の厚労省調査による)とのことです。価値観が違ってわずらわしければ離婚すればいい・・・それが当たり前の風潮にあって、今朝のみことばが語りかけることを正面から聞きとめる者でありたいと願います。ただし離婚歴のある方や独身者を責める教え、個所では決してありません。なぜなら、神は回復の神であり、それぞれの賜物、導きがあるからです。そして、聖書はすべての人に向けて書かれていますので、この個所にしても夫も妻もそして単身者も子どもも「ともに読むこと」が求められています。そして、聞く者には必ず恵みと祝福が注がれます。これを前提にして進んでいきます。


創造主なる神は、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ」(創世記1:28)との召しを、夫婦に向けて与えられました。男だけでもなく、女だけでもなく、これは夫婦で応えていく召しであることがわかります。良い夫婦関係の中で、神から管理を託されたこの地はよく治められていきます。もちろん、夫婦である者だけがこの地を治め、増やす役割を担っているわけではありません。すべての造られた者が生み出されたこの地で神からの召しに応えて生きる存在です。そして、その役割を担うものとして、神は初めから夫婦を大事な単位の一つとして備えられました。結婚し、夫婦関係に同意する者同士は「ふたりは一体となる」(創世記2:24,エペソ5:31)と言われるほどです。心もからだも完全に一つとなった関係がここに誕生しています。

もともと、エデンの園を耕し、守るのに「人がひとりでいるのは良くない。ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:18)とありましたから、結婚・夫婦関係によって、より良く神に仕え、神の御心を行いながらこの地をよく治め、耕し守るという仕事に充足し楽しむことができます。それは、神の知恵による秩序なので、非常によく、理にかなったことでした。


  2. 罪による破壊

しかし、その良い夫婦関係は長くは続きませんでした。罪によって破壊されてしまったのです。その罪とは、創世記3章にあるように、神による統治を嫌い、自分たちで判断していくのだという自我、欲によってでした。自立は良いことかもしれませんが、神を差し置いて、自分が、自分たちがと人間が前に出てはなりません。罪は本質的には神への反逆です。


主なる神は、創世記2章でまず夫であるアダムに「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(2:16-17)と命じられました。この神のことばと関係を守ってこそ、交わりは祝され、平安があり、生きがいややりがいが増し、喜んで生きることができました。


しかし、サタンはまず妻であるエバにすり寄って誘惑します。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」(3:1)と。ここでエバはすぐに答えています。しかも「園の中央にある木の実については、あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」(3:3)と神のことばを間違って、曲げて答えています。しかも、この命令はアダムが聞いたことで、エバは直接は聞いていなかったものです。それでも、エバはアダムに相談したり、確認したりせず、すぐさま蛇に対して答えています。しかも、それは誤りのある間違った答えでした。「ふさわしい助け手」として備えられたのに、ここでは「ふさわしくない助け」をしてしまっています。見事に、夫婦関係に亀裂が入っていくのでした。


対するアダムはどうでしょう。創世記3章で蛇と女のやり取りがありますが、夫であるアダムは3章7節で「ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた」とあります。アダムもそこにいたのです。遠くではなく「ともに(すぐ横、となり、そばに)」!これは「アダムの沈黙」(ラリー・クラブ)という著書にもなって考察されていますが、夫・男性のひきょうな罪の姿が見事に浮き彫りにされています。アダムはエバが間違ったことを蛇に対して言っていることを聞いていたのに訂正しなかった、エバが食べるのを止めなかった、エバが本当に死んでしまうかどうか毒見させた(!)などの指摘もなされるほどです。これはアダムがまったく責任を果たしていない、ズルい姿です。本来、自分と一体であるエバを他人のように見ていて、守るどころか危険にさらしています。


この出来事を通して、非常に良かった夫婦関係はとたんに壊れ、互いの信頼関係を損なってしまいました。これが初めの結婚・夫婦関係であり、ここからすべての人が生まれていますので、すべての人は罪をもって生まれ、またすべての夫婦関係は壊れている=不完全なものとなってしまいました。そして、壊れた夫婦関係(レメクと妻たち、アブラハムとサラ、ダビデとバテ・シェバ、ソロモンと側女)が、壊れた親子関係(イサクと子どもたち、ダビデと子どもたち)となり、壊れた兄弟姉妹関係(カインとアベル、エサウとヤコブ)となり、壊れた社会関係(ソドムとゴモラ)となります。


これは、私たちの現在の結婚、夫婦関係も同じように壊れていることを教えています。世の中に完全な夫婦関係のカップルはいません。いくら「ベストカップル賞」「ベストファーザー賞」「ベストマザー賞」で表彰されたとしても周りにステキに見えている、見せているだけでどの家庭も不完全で壊れたものです。そして、問題は自分の夫婦、家庭、家族だけではないのだということです。これが問題であり、また慰めにもなりますね。誰も問題のない家庭関係で生まれたり、育ったり、生活している人はいないのですから。


  3. 妻への命令

聖書が創世記3章から罪の始まり、死の始まり、破壊の始まりを告げるのはあまりにも酷ですが、そこから黙示録まで分厚いのは、壊れていることを告げるのが目的ではないことを表しています。聖書は罪と死の現実を告げると同時に、回復と救いの書です。不完全な私たち、不完全な世界にあっていかに神によって回復されていくか、いかに益ある人生を築いていけるかを教えてくれるものです。ここから、妻に対して、夫に対してエペソは展開していきます。それはキリストの福音でしか回復できないものです。今朝の5章21-33節で完全な結婚・夫婦関係のモデルは芸能人カップルではなく「キリストと教会」が最高のモデルとしています。「私は、キリストと教会を指して言っているのです」(5:32)。ここがもっとも大事なポイントです。ここの個所では夫はキリスト、妻は教会です。


22-24節までは、妻・女に向けて書かれています。「自分の夫に従いなさい」(5:22)で始め、「すべてにおいて夫に従いなさい」(5:24)と結びます。「夫に従う」ことがすべてという書き方をしていますから、そう読み、そう聞かなければなりません。ただし、ただ夫に従えというのではなく、そこにはどのように従ったらよいのかということと、なぜ従わなければならないのかということもまた明記されています。


まず、妻は夫に「主に従うように」(5:22)従うべきです。これは夫がどういう人であるかということに基づかないで従え、ということです。「夫が意地悪をしたから私もやり返すわ」「夫が謝ってくるまで洗濯や食事はしてやらないでおこう」という罪を捨てて従いなさい、です。なぜなら、夫の性格や言動に基づかないで「主に従うように」とあるからです。同じ夫婦関係についてペテロも記しています。そこには「たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって(従いなさい)」(第一ペテロ3:1)とあるほどです。ここには夫婦でクリスチャンの方も、妻だけがクリスチャンの方も(夫だけがクリスチャンの方も)おられます。どの夫婦形態であったとしても無条件に「あなたの夫に従いなさい」です。条件を付けてはなりません。優しいから、クリスチャンだから、私だけ我慢するのは許せないから・・・それらいっさいを除外して、ただ「主に従うように」夫に従うこと。しかも嫌々ながらとか恩着せがましくではなく「無言のふるまいによって」なしなさい。夫を見ていたらできません、やりたくありませんが、主を見てそうする、そうさせてもらうのです。


なぜ?それは「夫は妻のかしら」(5:23)だからです。神によって立てられた秩序は「夫が要であり、夫に権威がある」というものです。妻はそれゆえに従います。キリストが教会のかしらであり、教会=からだの救い主であるように、夫はその妻のかしらであり、いのちをかけて守ってくれる存在であり、その責任を担っているからです。だから、妻は夫が守ってくれることに信頼して、夫が動いてくれることを疑わず、ゆだねて従う。そこに壊れた夫婦関係の回復があり、素晴らしさが現わされていくのです。人間レベルで、普段の夫婦のめがねで夫を見るとそれはまったく同意できないことかもしれません。夫のダメな点、至らない点、従うに値しない点が多々あるからです。しかし、主を見なさい。「主に従うように」夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであるのと同じように、あなたの夫に従いなさい。そう力を込めて主は語っておられます。


  4. 夫への命令

夫たちはこれを聞いてどうでしょうか?ビビってしまうでしょうか。自分がかしらであり、良い意味でハキハキとリーダーシップを執り、妻のいのちを守ります。「夫たちよ・・・妻を愛しなさい」(5:25)。妻は無言のふるまいで、夫の言動や性格によらず、主に従うように従うことが求められていました。夫は「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように」妻を愛します。妻を愛するは、自分を献げること。献げるは「相手のために自分を与える」という意味です。キリストは私たちがまだ弱いときに死んでくださいました。私たちがまだ罪人(神を知らず、求めもしない)であったときに死んでくださいました(ローマ5:6,8)。愛することに条件をつけていません。相手の状態がどうであれ、自分を与える。ある牧師が愛することを「喜んで相手のために損をすること」と語ってくれたことがあります。妻が弱い器であることを認め、完全ではないことを受け止め、憎むことも、軽んじることもせず(5:29)、むしろ「養い育て」(5:29)ます。はじめのアダムとエバのところから続く罪は何であったでしょうか。エバが正しく神のことばによって誘惑に対処していないところを見過ごしたことでした。夫はクリスチャンであってもなくてもその妻がみことばに従うことができるように、みことばを守ることができるように支え導いていきます。神を忘れさせ、みことばに従えなくしようとする罪や誘惑から妻を守ることです。もし、そうしないなら、妻の信仰を軽んじていることであり、その妻を愛せてはいません。壊れた夫婦関係を放置し、もっと悪化させてしまうことになります。神のそばにいてこその夫婦、神のことばに従ってこそ祝福を受ける夫婦だからです。


そのためには「ふたりは一体となる」(5:31)の奥義(明らかにされた秘めごと)が鍵です。夫は妻を別個のものとはせず、あたかも自分自身であるかのように思い、接し、愛すのです。妻は夫にとって大切な存在でも、宝物でもありません。妻は夫にとって自分自身です。自分が生きるために、自分を守るために、自分を養うために気持ちが働くように、妻が身体的に弱い存在であり、感情的に傷つきやすい性質があり、社会的に(もしかすると男性よりも)弱く軽んじられる立場に置かれることを理解して、ともに暮らします。しかも、妻は「ふさわしい助け手」として造られたのであって、便利屋さん、小間使い、お手伝いさん、黙ってニコニコしていて身の回りのことだけしてくれたらいいと決めつけることはもってのほかです。妻が夫の犠牲になるのではなく、むしろ夫が自分の身を犠牲にして妻を守り、接し、愛さなければなりません。そのためには妻の感情の起伏、身体的変化(それは小言になって表れることもあります)を敵対視し、妻を守り、よりそう責任を放棄してはなりません。妻を放置して、一人で部屋に避難したり外へ退避して憂さ晴らしするのではなく、自分のからだのように一体となって過ごします。



  5. 福音による回復

ここまで聖書の初めからの結婚、罪によって破壊された夫婦(親子、兄弟姉妹、社会)関係、妻と夫への命令を見てまいりました。罪によって破壊された関係の深刻さ、妻と夫への命令内容とその厳しさがわかりました。これから問題となるのは、その命令がどのようにまっとうされていくか、聖書に従って行くことで夫婦関係は本当に良くなっていくのか、それを実行することが可能なのかです。理想はわかっても現実はそううまくいかない。もっと現実に即して、譲歩するとか、あきらめて過ごすとか・・・しかし、それでは壊れた関係を放置することになります。少し良くなるきざしがあっても、また仕事や健康や年齢、感情の変化によって浮き沈みの繰り返し・ループ状態になるのは目に見えている。


聖書が福音(良き知らせ)と呼ばれるのは、ただこうしなさい、あれはいけないと道徳的に指示するからではありません。罪や壊れた関係の問題を直視させ、夫婦それぞれへの命令を示すだけに終わらないのです。ここから夫と妻の互いの要求、必要が満たされていくように、神が示してくださっている道を尋ねていきましょう。


ポイントとなるのは、夫も妻も、その命令の責任を誰に対して負っているのかということです。夫に従うという命令を、妻はその夫に対して負っているのですか?妻を愛しなさいという命令を、夫はその妻に対して負っているのですか?いいえ、決してそうではありません。夫は妻を愛せよという命令を「キリストに対して」負っています。妻は夫に従いなさいという命令をキリストに対して負っています。


「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」

「主に従うように、自分の夫に従いなさい」


夫が妻を愛するのは、夫がキリストの愛に満たされ、キリストに対して自分を献げ愛することによってなされます。

妻が夫に従うのは、妻がキリストを敬い、キリストの足もとに座り、キリストの御声に聞き従うことによってなされます。

それで、今朝は21節からひとまとめにしました(22節には動詞がないので、21節の「互いに従い合いなさい」の続きとして22節の妻への命令を見ることができるからです)。


「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」(5:21)があって、初めて妻は夫に従うことができ、夫は妻を愛することができます。お互いが「愛」や「従うこと」を「求め合う」ならば、事態は深刻になり、殺伐としてきます。「夫が自分を愛してくれないから従えない」「あんな夫の態度を許して、敬うなんてできるわけがない」となります。また「妻が従順じゃないから愛するなんてできやしない」「俺の言うことを聞く前に小言をいう妻を愛せよなんて無理言うな」となるからです。これは、お互いに愛することや従うことを「求め合う」「要求し合う」ことからくる過ちです。そして、相手ができた分だけ自分もしてあげる、相手がこうしてくれたなら自分もこのくらいしてあげられるとギブ・アンド・テイクの関係になってしまいます。これではいつまでたっても壊れたままで、関係の回復は見込めません。


夫は妻を愛する責任を「キリストに対して」それも100%負っています。

妻は夫に従う責任を「キリストに対して」これも100%負っています。

「キリストと教会」がその回復の完全なモデルです。この世の示す方法によってではありません。お互いが罪人であり、弱さを抱え、不完全であるのに、その不完全な相手に完全な愛、完全な従順を求め合うなら、結果はぶつかり合い、ののしり合い、冷戦です。自分の弱さだけ例外で、相手の弱さを攻撃する泥沼生活を繰り返さなければなりません。


相手が命令に従うことを要求するのではなく、自分がキリストを愛し、キリストに従うことを求めましょう。それは、キリストが私を、あなたを、自分を愛してくださったこと、ご自分のいのちを献げてくださったことから始まります。このキリストの愛に応えて、キリストを愛し、妻を愛する。キリストに従って、夫に従う。壊れた関係を回復させ、救ってくださるのはこのお方、イエス・キリストのほかありません。


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