聖書:ルカの福音書 6章1-11節
1. 安息を与える
今朝の聖書朗読箇所には6回「安息日」とあるように、テーマは「安息」です。もし、あなたが今人生に余裕がないのであれば、安息を知らないからかもしれません。安息は家庭、家事、仕事、学校すべての領域において大切で欠かせません。プールで2,000mの潜水が誰もできないのと同じように、安息なく生きていれば息切れし、燃え尽きてしいます。倒れなくても、安息が不足すると自己中心になり、怒りやすく、焦りやイライラを貯めてしまいます。安息を得ないで頑張ってもいいことが一つもないのですね。今朝はこの安息を得ることから始めましょう。
「安息」の言葉の意味は「休む」「やめる」「離れる」です。聖書で登場するのはとても早く、創世記「神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた」(創2:2)と出てきます。歴史の始まりの天地創造から、やめること=安息を欠かせないものとして主が備えておられることがわかります。さらに「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされ」(2:3)ました。主は安息日を祝福されています。その熱量は創造の六日間、天地万物を造られた偉大なみわざを行ったのと同じです。それほどの熱量で「祝福された」のがこの安息日です。私たちはこれに与らなければ、真の祝福を得ることは決してできません。礼拝よりも用事を優先し、上の空でいたら、主の祝福を逃しています。
神を見上げる礼拝に、祝福と安息があります(これは聖書を読んだり、説教を聴くとよく眠れるという意味ではありません♪)。主イエスは「目を覚ましていなさい」(マルコ13:13)と何度も警告されています。ぜひ目を覚まして、この時を過ごしましょう。
今朝の箇所では、主イエスが安息日にした二つの出来事で非難されています。安息日には様々な規定があったのですが、それを守らない行動を主はされました。「これまでのルールと違うことをしているから」です。
現代だと「ブラック校則」が理解の助けになるかもしれません。制服の着方、髪色、運動時の飲水禁止など非論理的な決まり、ハラスメントや命を危険にさらすような規則があります。本来は子どもらしさを身につけ、規律を設けて皆が過ごしやすくするためだったのが、「ルールだから」「そう決まっているから」と盲目的に従わないといけなくなります。そして、一度支配的な雰囲気が作られてしまうと、それを問い直し、変革していくことはとても大変です。賛同者は少なく、反対者が現れるものです。
この日、主イエスは弟子たちと麦畑の穂を摘み、手もみして食べられました。これが労働にあたると攻撃したのがパリサイ人です。しかし、弟子たちはルールブックで規則を守っているか、破っているかを確認するのではなく、主ご自身とともにいるので、最高の安息を持っています。
主イエスはご自身で「人の子は安息日の主です」(ルカ6:5)と宣言されているように、安息を与えることのできる方は安息以上の存在です。食事よりもメニューを考え、調理をし、食事を作って出してくれる人の方が偉大なのと同じことです。それなのに、パリサイ人たちは自分たちの作り上げた規則、守って来た伝統こそ正義だと誇るあまり、肝心のイエス・キリストを理解できず、殺意を覚えるほど敵対する者となってしまいました。
私たちの聖書の読み方も教えられます。もちろん、聖書を読むことは大切です。しかし、重要なのは「主とともに生きているか」ということです。「文字は殺し、御霊は生かす」(2コリント3:6)からです。知識として暗唱聖句をたくさん覚えていることよりも、主がおられる確信を持っていることの方がもっと大事です。そのためにはただ聖句を覚え、ただ身体は礼拝に来ているだけでなく、みことばと信仰を結びつけましょう。主イエスが「安息日の主」と言われるのであれば、信仰をもってこのみことばを受け止めることです。このお方により、私は真の安息を味わうことができるのだとへりくだり、期待しましょう。自分のがんばり、神のいない世界で突っ走るのではなく、神の招きに応え、神の領域に入りましょう。自ら手に入れようとするのではなく、神が与えると約束し、待ち構えている祝福をいただきましょう。安息は獲得するものではなく、主から与えられるものだからです。
2. いのちが吹き返す
では、安息が何をもたらすかを見ましょう。イエスと弟子たちは安息日に麦をもいで食べましたが、これは生命を支えるためでした(申命記23:25には鎌を使わなければ他人の畑から摘んで食べることが許可されています)。主イエスは、ダビデとその家来が空腹になった時、本来は祭司だけが食べられる供えたパンを食べたではないかと言われました。それはいくら律法で祭司だけが許可されていたとしても、主イエスがここで実例として挙げておられるので、これが御心だと教えています。
ルカ4章の記事を思いだしてください。主イエスが荒野で試みを受けられたすぐ後、安息日の礼拝に参加されました。手渡されたのは旧約聖書のイザヤ書の巻物でした。そこから主イエスは「捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ」(ルカ4:18)と宣言され、まさにそのみことば通りのことが、ここで起こっています。それまで規則集として聖書が読まれていましたが、キリストによって正しい理解へと導かれていきます。見えなかった目が、主イエスによって開かれていくのです。キリスト抜きで聖書を読み、理解しようとするなら、それは間違った読み方、解釈をしてしまうと言うことです。聖書はキリストを通して読まれるべきものです。聖書の全体と中心はイエス・キリストだからです。
本物に解説してもらえるのは何と幸い、興奮することでしょう。物まね番組で本人が後ろから登場するパターンがあります。そうしたことを思い浮かべると、イエス・キリストの登場と宣言のインパクトが伝わってきます。
また、別の日には右手が萎えた人を安息日に癒やすのかをじっと見ていました。安息日に色々なことをしたら訴えるためです。そんな彼らに対し主イエスは、律法にかなっているのは悪ではなく善を行うことであり、いのちを滅ぼすのではなく救うことだとおっしゃいました。神の与える安息は、試験に通過してホッとするようなものではなく、あなたのいのちそのものの息を吹き返します。ちょっといい感じになるというレベルではなく、まったく新しいいのちに生まれ変わり、動き出すのです。実際、ここで主イエスによって起き上がり、手を伸ばすことができるようになったその人は、もはや以前の手ではなくイエスによって新しくされた手として生き始めたはずです。主と出会い、力あるそのみことばによって以前の自分から生まれ変わりました。聖書はその出来事そのものを記すことで、その場にいなかった者たち、遠く離れていた者たち、またこれから信じようとする者たちが同じようにキリストを信じられるためにあります。聖書を生きた証言として読むことができるのです。聖書で主イエスが語っていることは、今あなたにも語られています。神が語られているなら、この礼拝で応答するべきです。
3. 安息を求める
最後に、今朝の安息日の論争はどんな流れ(文脈)で書かれているかを思い出しましょう。直前の5章は、新しいぶどう酒と皮袋のたとえを話されています。そして、今朝は「人の子は安息日の主です」と言われています。どちらもイエス・キリストが主として訪れていること強調していますね。主は新しいぶどう酒のようなお方です。私たちはそれをお入れする新しい皮袋でしょうか?主は安息について教えるだけでなく、安息日の主です。あなたはこの方からの安息を受け取っていますか?
キリストはご自身についてはっきりと宣言なさいました。
もう少し人々の注目を集めてからとか、パリサイ人たちとの距離を詰めて話を聞いてもらいやすくなってから「わたしは主です」と切り出してもよかったかもしれませんが、そうされませんでした。宣教の初めから、ご自身こそ神の御子であり、ご自身に権威があることを宣言しておられます。そんなことを言えば、当然反発したり、つまずく者だって出てきます。けれども、イエスさまはご自身を隠したり、ごまかしたりされませんでした。はっきりとご自身が主であると宣言されています。主イエスがこう宣言してくださらなければ、救われる人は起きませんでした。主は戦ってくださっているのです。主はリスクを取って行動し、語ってくださっています。それは世が救われるためです。そのためにご自身を犠牲にしています。
天の御座を捨て、人となられ、すべての苦しみにあわれ、福音を宣言されました。誰が信じるかわからないし(例:ヨハネ6:44)、誰も信じないかもしれないし、誰かは信じたけれども裏切るかもしれない。そうやって人々の目を見て語り、御国の福音を告げてくださいました。
私たちは、この安息が必要なのではないですか?ひたすら人に気を使い、自分自身で正解を出さなければともがき、人生の意味も喜びも見失って埋もれてしまっているならば、イエス・キリストの福音を信じてみませんか?
主は恐れにもおくびょうにも勝たれた方です。悪魔のわざを打ち破られた方です。罪も死も打ち破って勝利された方です。このみことばがあなたの信仰と結び付けられるとき、あなたには主の安息が与えられます。新しいいのちが与えられます。今日、それを受け取るために、主の前に出ましょう。
みことばがあなたに語りかけているのは何か。神の民は礼拝のとき、全焼のいけにえをささげました。それは部位ごとにささげていきながら、やがてすべてをささげる方法です。一気に全部ではなく、この部位、あの部位と問われてそれに応答し、汚れた部位は捨て、示された部位は主にささげていくのです。あなたが本物と生きるとき、真の安息が与えられます。この安息を求めて、本気で礼拝をささげ続ける私たちでありたいと願います。
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