福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「神の家族」

更新日:11月2日


​聖書 エペソ人への手紙2章17~19節

  1. キリストが来て(17節)

1.人間の知識の限界

聖書に記されている救い。その方向は常に「神から人へ」向けられています。

私たち人間からは神へは決して到達しません。まず、正しい、まことの神を見出すことができません。人間の知恵は素晴らしいもので、あらゆる事柄、あらゆる分野において発明し、探究し、理解し、ものづくりをし、生活や人生の豊かさに還元することができます。人間だけが世界中の食べ物を口にすることができます。また素材そのままではなく、美味しく調理することができます。出来上がったものを、見栄えのよい食器によそって食べることができます。食べる前にはスマホなどの写真に記録します。その写真も映えるように、エフェクトをかけたり、人にシェアして見せることもできます。さまざまな技術が発達し、学問の学び方も豊かになり以前は知らなかったことが分かるようになりました。


こうした人間の知識や学習の積み上げ、実用化の発達は素晴らしいですが、こと神に関する知識についてはからっきしです。人間は他のどんなことも知ることができ、また正しい道を判断することができますが、ただ神についての知識は間違ってばかりいます。日本や世界にはびこるたくさんの偶像がその証拠でもあります。たくさん神々がいるということは、豊かさの象徴ではなく、混乱のしるしです。どれが本物か見極めることができないので、次々と偶像や間違った教えが立ち起こります。パワースポット、パワーストーン、名付けるときの字画・画数、先祖ののろいへの恐怖、因果応報(カルマ)・・・実にさまざまな教えに惑わされて、少しでも平安が訪れるならとすがる思いで、それぞれになびいていきます。特に、昨今は「多様性」が重視されるので、「唯一の神」とか「偶像」とか「間違った教え」という考えは歓迎されません。それどころか、そんなことを言っているからダメなのだと否定や弾圧されることもあります。そのようなとき、まことの神、救いは「神から人へ」向かって来るのだということを思い出してください。以前、聖書が神の言葉であるということを見るさい、「神のことは、神ご自身が明らかにし伝えてくれなければ分からない」ことを学びました。例えば、私(大塚)のことは、私から話さなければわかりません。今朝、何を食べたのかさえ、わかりません。また、正直に本当のことを話さなければ、真実はわかりません。それで、聖書が「誤りのない正しい神の言葉である」という神からの出発点があることは、私たちにとって何よりの頼みになるわけです。次のみことばは、何とすがすがしいことでしょうか。私たちには神を知る知識に乏しいことを告白し、神のくださる言葉によって教えられる、まな板の上の鯉にさせていただきましょう。神を知ることこそ、私たち人間の大いなる喜びです!


「主のおしえは完全で たましいを生き返らせ 主の証しは確かで浅はかな者を賢くする 主の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ 主の仰せは清らかで 人の目を明るくする」(詩篇19:7-8)


2. 平和の福音

この「神から人へ」という矢印のおかげで、今朝の17節の描写も迫ってきます。「キリストは来て」という一語は、私たちに神が近づいてくださったことの幕開けです。暗やみに光が来られました。その方はキリスト。キリストは「平和を、福音として伝えられた」お方です。しかも「遠くにいたあなたがたに・・・近くにいた人々にも」 分け隔てなく。神は選り好みすることなく、またイスラエルだけを選び他の民族を見捨てたのではなく、「遠く」「近く」にいたすべての者に近づいてくださいます。しかも、さばきや怒りを振り下ろすためではなく「平和」をもたらすために来てくださった。それは民族間の平和ではなく、「神との平和」です。最初に見てきたように、私たち人間は混乱しています。知識が氾濫し、欲望は収拾がつきません。それは根本に「まことの神を知らない=神との平和を持っていない」からです。まことの神のかわりに神々を拝み、人間の知識に頼って神を拒絶しています。あわよくばまことの神を知りかけても「さばかれるのではないだろうか」「怖い方なのではないか」「人間の罪をそのままにするいい加減なお方」「頼りにならない」「信じても仕方がない」と間違った姿勢を取っているので、平安がありません。まさに罪の中にある人間は、平安がなく、みじめで、ずるく、真理以外のことで忙しくしています。本物ではないことのために心身をすり減らし、時間をそがれるので、生きた心地がしません。これが「神との平和(神を正しく知り、よい関係にあること)」のない人間の状態です。そして、今それが覆されようとしている。理由はただ一つ「キリストは来て」くださったからです。しかも恐れや不安をあおるような近づき方ではなく、「福音として伝え」てくださいます。キリストが来られたことが、福音=良き知らせそのものです。神から人は救いはもたらされます。キリストが来られたことを喜びましょう。そこには遠くも近くも関係がありません。誰もが「キリストの中に」入れられて初めて救われるからです。次でそのことを見てまいりましょう。


Ⅱ. 神との交わりに入れられ(18節)

「キリストは来て・・・平和を、福音として伝えられました」(17節)。そのキリストがもたらしてくださったことがここ18節に書かれています。「私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができる」(18節)ようになりました。これは1節の中に「キリスト、御霊、御父」といわゆる三位一体の神が記されている箇所です。いつも私たちは礼拝の結びに「頌栄」を賛美しますが、そこで「父なる神と御子なるイエスと聖き御霊のひとつなる主に」と三位一体の神をたたえています。そのもととなるような箇所がこの18節ですね。


また気づことは14,15,16節にも繰り返されているように「二つのものが一つに」という表現です。エペソ書のテーマである「神との和解」はこの「二つのものが一つにされた」ことで繰り返し表現されています。「二つ」は争い、分断、混乱、平和のない状態を指します。それ以上の三つ、四つも同じことですね。そして、それらの反対が「一つ」です。これは平和があり、調和が取れており、争いのないまとまった状態を指します。まさに、キリストが来られたことで、すべての隔ての壁が打ち壊され、人間の力わざによる律法の義による救いも破棄され、キリストがすべての人の救い主となられました。それは、キリストの罪なき生涯と十字架につけられた肉、十字架で流された血によって証明されます。もはや、私たちは自我同士のぶつかり合いではなく、キリストにより頼むようにされます。自分の行いを誇るのではなく、キリストの贖いを誇るようになります。他者を見下したり、比較したり、落ち込むのではなく、キリストを見るようにされます。

これらは「キリストが来られた」ために、私たちが体験できるようになった平和です。あんなにこだわっていた自分の義から解放された。確信のもてなかった救いについて、キリストのおかげで救われることが分かった。壁を作って自分を守っていた必死さから、分け隔てなく近づいてくださったキリストに心が持っていかれた。これらはすべて「神との和解」「神との平和」があなたにもたらされた確かなしるしです。


教会は、この神との平和を実感し、体験し、自分のものとして楽しみ、死をも乗り越えてしまう平安を体感する交わりです。ただの建物、週一度集会に向かう、拾六町のリバーサイドとしか考えていないのであれば、実にもったいないことです。おざなりで、いやいやで、義務感が漂っているなら、それは本当に申し訳ないことです。なぜなら、神との交わりを楽しみ、神との平和に胸をなでおろす主の日でありたいと願います。


よく三位一体を説明すること、理解することが難しいと言われます。私たち人間には、知識に限界があります。特に神についての知識には混乱しか持ち合わせていないと最初に学びました。神から教えられるのでなければ、まことの神について、神の真実を知ることは決してありません。そして、その神ご自身が三位一体について、このところで明かしてくださっています。私たちは、聖書の教える範囲で神を知ることが求められています。それ以上踏み込まなくてよいこと、詮索しなくてよいこと、考え出さなくてもよい。聖書に記された中で、十分に神を知り、満足することができるからです。私たちが神についてすべて知るようになったら、それは人>神であり、神をより小さくしてしまうものです。しかし、このお方は天地万物を造られ、永遠から永遠に生きておられ、何にも支えられることなく存在するお方です。私たちには測り知ることができない、大きく、広く、高く、深く、偉大なお方です。知り尽くすことがない、という点で、私たちはもっと神を喜び、誇ることができるようになります。人間の構図は三位一体を「1+1+1=3」だから、神が父、子、聖霊であるならば、そのうち2つは神ではない、と主張してきました。これは、人間の頭の中に神を閉じ込めようとする考えから来ています。しかし、神は永遠=無限のお方であるならば、三位一体の神は「∞+∞+∞」なので「3∞」とはならずに「∞」であるはずです。それこそ深遠で、私たちの計算式には当てはまることのないお方です。神が偉大だからこそ、そうであるべきです。


今朝、∞(無限大)であり、永遠である三位一体なる神との交わりに身を浸らせましょう。心をどっぷりとその中に浸らせましょう。すべての重荷をおろし、私たち人間からではなく、神から近づいてくださる躍動感を味わいましょう。私たちのところに来てくださる神に身をゆだねましょう。


Ⅲ. 神の家族とされる(19節)

それで今朝の結びは「こういうわけで」(19節)とまとめるように書き出します。「一つとされる」ということを「神の家族」という言葉で表しています。そして、聖書の特徴として、それを明確にするために否定語「○○ではない」ということで表しています。「他国人ではない」、「寄留者でもない」。神の民から除外されている他国人ではなくなりました。人生の目的がわからずにもがきさまよう寄留者ではなくなりました。そこから救われて、「聖徒と同じ国の民」にされました。それは、「キリストが来られた」からです。何をしたわけではない、ただキリストを仰ぎ見て受け入れたからです。キリストにつなげられて、多大なる祝福を受けました。以前は遠くにいた者の、近くにいた者も、キリストによってこの変化がもたらされました。キリストによって救われるためには、それ以前の生き方も、実績も、ポイントも関係がありません。


例えば、自分の人生を電球で表わすとどのくらいだと思いますか?15ワット、60ワット、100ワット・・・いや私はLEDとか答えますでしょうか。もちろん、そのような違いがあるかもしれません。それでも、みなで一斉に太陽の前に出たらどうでしょうか。どちらが明るいか、強いかはまったく関係がなくなります。太陽の光の前ではどんなものも小さく、みみっちく、比較が関係がなくなります。

私たちは、何によって、誰によって救われますか?自分でしょうか。他のできる人に寄りかかるでしょうか。それは電球のわずかなワット数の違いを比べて浮き沈みするようなものです。そうではなく、本物の救い主に救っていただくことがより確かです。確実です。あなたを他国人から神の民とし、寄留者から永遠の土台に立つ者としてくださったのが、私たちが寄りかかってよい神です。

私たちはみな罪人ですから、救い主が必要です。私たちはみなたましいの救いに関して無力ですから、救い主が必要です。そして、私たちにとって、それぞれの神、救い主がいるのではなく、すべての人を救うまことの救い主は「ただお一人」です。イエス・キリスト。このお名前が告白され続けてきました。このお名前によって祈られ続けてきました。この方のお名前が呼ばれ続けてきました。

私たちみな、同じ方を救い主と崇めます。逆の方向から見ると、ただお一人の救い主イエス・キリストが私たちを集めてくださいます。それを一言で表したのが本日のタイトルでもある「神の家族」(19節)です。


昨日、長女の進路について説明会(リモート)に出ました。今、世界の人口比で大学に行ける人のパーセンテージはたったの1%だそうです。ちなみに、日本は本人が望めば100%大学進学が可能です。だから、ある教授は「大学を卒業した者は、地球市民として(大学に行けない)世界の人々に仕える義務がある」と教えるそうです。私たちも同じ義務(ミッション)があるのではと、問われました。日本で福音教が開始されてザビエル来日から473年、プロテスタント宣教は176年(琉球宣教)になります。そしてクリスチャン人口は1%(以下)。主の日の礼拝をささげる民は0.5%以下とも言われます。私たちは、神の民、神の家族としてこの99%に伝える使命があるのではないでしょうか。礼拝の顔、主の日を過ごした後の生活、職場や家庭、地域での表情、振る舞い、本日午後から出かけるトラクト配布。私たちの義務感や小さな視野にこだわっての働きではなく、神の家族としての大きな使命と用いていただける喜びをかみしめながら出て行きましょう。私たちは、世界中のクリスチャンとともに神の家族を形成しています。ただの福岡めぐみ教会ではない。拾六町の教会ではない。私たちは、地理的にも歴史的にも世界のすべての教会とともにある神の家族です。世界宣教がすぐ目の前にあります。神はすべての力を与えてくださいます。神はご自身に頼る者の祈りを喜んで聞き、あわれんでくださいます。今朝、このお方により頼み、日本では先に1%の神の家族にさせていただいた特権を分かち合いましょう。今こそ、伝家の宝刀を抜くときです。いつまでも秘密兵器で終わらないように。同じ救い主、イエス・キリストを見上げ、イエス・キリストをかかげて進み行く人生をともにいたしましょう。          <了>


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