聖書 エペソ人への手紙3章1~6節 |
エペソ書は今朝から3章に入ります。前の2章では、私たち人間が神とどのようにして和解したのか、また神と和解した者は、人との和解にも生きることを学びました。具体的には、私たちはみな罪の中に死んでいた者であり、自らの力では自分を救えず、罪過の重みに沈んでいた者でした。しかし、あわれみ豊かな神は、罪人をそのままにはしておかれず、御子イエス・キリストを天から地へと送り、十字架につけ、罪と御怒りのすべてのさばきを御子の上にくだされました。私たちはただその身代わりの死を受け入れることによって救われました。神が神と人との間にあった罪の仕切りを廃棄してくださったのです。また、それを信じる者たちの集まり=教会もユダヤ人や異邦人、律法を知り守る者と律法を知らずに生きてきた者たちとの間にあった「隔ての壁」を打ち壊し、敵意を取り払ってくださいました。これこそ、聖書が初めから約束していることであり、今後も伝え続けるべき教えです。その土台の上に教会は建てられ、成長し、築き上げられていきます。私たち福岡めぐみ教会も、聖書の教えを愛して聞き従い、キリストの十字架を鮮明にし、互いの間に自分も受け入れてくださった主イエスの愛によって愛し合う交わりを実現し続けていきたく願います。そして、3章からは次の話題、使徒パウロ自身の証しが始まります。
Ⅰ. 囚われの人生(1-2節)
1. 囚人となったパウロ
実は、このエペソ人への手紙を書いているとき、パウロは囚人として捕らえられていまいた。それで「獄中書簡」と呼ばれています。他にはピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙を含めた4つが獄中で書かれた手紙として知られています。使徒の働き21章でエルサレムにおいて捕らえられたパウロは、裁判を経て、監視の兵士が付いた家でおそらく鎖にもつながれながらの生活をします(使徒28:16,20,30)。いったい、何をしたからそんなことになってしまったのか。この3章では「こういうわけで、あなたがた異邦人のために・・・囚人となっています」(3:1)と書き出します。「うん、私パウロが囚人となっているのは、異邦人であるあなたがたのためなんですよ!」と切り出すのです。これはとても迫力のある文章、言葉だったと思います。私たちはなかなか面と向かって「今、私がこんなにみじめなのはあなたのせいなの!」とか「あなたのせいでひどいめにあっている」とは言いにくいものです。家族には言えるかもしれませんが、それでもお互いに傷つきます。そんな強烈なことをパウロはここで言っていますが、まだ手紙は前半部分、全体で6章あるうちの半分も行っていません。それは、このようなことを言っても、プチンと切れない関係があったということです。なぜでしょう?
それは、パウロが異邦人であるエペソのクリスチャンたちに対して怒ったり、怒鳴ったり、責任を取れと迫っているわけではないからです。このとき、パウロは自分のことを「キリスト・イエスの囚人となっています」と書いています。その前に「私パウロは」と言う時、それはとても強調していることを意味します(例:ピレモン19,第一テサロニケ2:18など)。嘘は言わないよ、本心からだよということですね。パウロは自分が囚人となった状況を異邦人たちのせいにしたり、八つ当たりをせず、ただイエス・キリストとの関係で考えています。人間の現実においては、鎖がはめられ、自由がきかず、納得がいかない状況です。しかし、そのことをなしておられるお方がいることを決して忘れていません。それで、パウロは「私はローマ帝国の囚人です」と言わずに「私パウロは、キリスト・イエスの囚人です」と言っています。パウロにとって、生涯のうちに起こるすべての上には「主」がおられるのです。このことも、あのことも「主がおられるからこそ」起こった出来事。このことも、あのことも「主が許しておられるがゆえ」に降り掛かった出来事。そのくらい、パウロの生涯にとって、主との出会いは決定的でした。それまでの考え方をしなくなりました。それまでの見方をしなくなりました。どんな状況、境遇に置かれたとしても、そこでは「主が主権を握っておられる」ことを忘れない。私たちは、自分が何に囚われているのか探られる気持ちがします。いつも他者のせいにするなら、自分の願望や嫉妬、悔しさに支配され、囚われているのかもしれません。何かにつけて嘆いて諦めてしまうのであれば、主よりも小さなものに囚われているのかもしれません。しかし、私たちが「主に囚われている」のであれば、そこには光があり、希望があり、強さがあり、しぶとさがあり、他者に八つ当たりをしないさわやかさが浮き上がってきます。そして、それは主を証しすることになり、他者を励ますこともできるようになります。主に囚われることは私たちの救いです。なぜなら、主は私たちよりも賢く、私たちの考えよりも広く、私たちの思いよりも高いお方だからです。このお方に囚われるならば、私たちはつぶやき、不満、叫びから守られるのです。
2. 神の恵みを忘れないパウロ
こうして異邦人伝道のために、囚われの身となったパウロですが、それは「私に与えられた神の恵みの務め」(3:2)と続けます。そのせいで不自由になり、宣教旅行さえも閉ざされたのに、これは「神の恵みの務め」と言うのです。詳しく訳すと「神の恵みの管理人」となります。パウロにとって宣教することは「神の恵みをしっかりと管理すること=神の恵みを受け流さない、ムダにしない」ことでした。伝道は神が私に託してくださった恵み。証しは神さまがあなたに与えてくださった名誉ある機会。その足は誰かにトラクトを届けるために健康にしてくださっている神の恵み。その声は神を高らかにほめたたえるために備えてくださった神の恵み。そう受け止めてこそ、私たちは力みなく礼拝、伝道、奉仕ができます。やらなくちゃではなく、神の恵みの機会。させられているではなく、神の恵みの機会。それを一瞬たりともムダにしないで管理していく。まさにこれは神の恵みをいただいていくことですね。
Ⅱ. 明かされた奥義(3-5節)
1. 聖書における「奥義」とは
次の3-5節には「奥義」という言葉が各節ごとに3回出てきます(原文では3,4節。5節は代名詞)。その奥義とセットになっているのは「啓示」(3,5節)です。「ミステリー」の語源にもなったこの言葉ですが、私たちのイメージは「謎」「分からないこと」というものではないでしょうか。英語でも「暗い」「理解や説明ができないもの「正体不明なもの」という意味です。それに対し、聖書における「奥義(ミステリー)」は「明らかにされたもの」という意味です。それが「啓示」とセットで使われていることからもわかります。「啓示」も「それまで隠されたものが明らかにされること」「包まれていたベールを外す」という意味です。そのため、聖書で「奥義」という言葉に出会うときには、「閉じられた、分からないこと」ではなく「開かれた、明らかにされたこと」という意味で読んでみてください。
そして、そのことをパウロも念を押すように「先に短く書いたとおり」(3節)、「それを読めば」(4節)とたびたびエペソの人たちとやり取りをしていたことが分かります。それはパウロが「キリストの奥義をしっかりと説き明かす人物である」ことを知ってほしいからですね。その奥義とは、2:20にあるように「使徒たちと預言者たちに啓示され」ていて、それが共通の土台になっているのだといいます。誰も聖書を勝手に解釈したり、独自の解釈をすることはやるべきではないし、そうであれば健全な教会は建ちません。パウロも神からの啓示によって奥義を理解しました。使徒たちや預言者たちも御霊によって啓示された福音を受け取り、それを語り告げるのです。主なる神は、私たちに明らかにしてくださるお方です。
2. 奥義を分かち合う
さらに、この奥義は明らかにされるだけでなく、パウロ自身が書いて、エペソの人々が読んでとあるように、人から人へと伝えられていくものです。せっかく明らかにされたものを、また隠してしまってはならないのです。「明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします」(マタイ5:15)と主イエスが言われたように、明かされた奥義はそれを受け取ったクリスチャンによってこうこうと照らされ、次の人が知るようになります。実は、教会はそのようにして宣教を続け、世界各地、どんな歴史の中にあっても建ち続けてきました。それは流行に乗った教えだからではなく、不変・普遍のみことばの奥義が始まり・土台となっているから、教会はどの地域、どの時代にも耐えることのできる存在として建ち続けてこられました。
(以下、先週の説教で伝えきれなかったので、ここに再掲載します)
主イエスが「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」(マタイ16:18)と言われたときには、これはペテロという個人の上にではなく、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」(マタイ 16:16)という正しい信仰告白の上に教会を立てると宣言なさいました。もし、これがペテロ個人のことであれば「わたしはペテロの上にわたしの教会を建てます」と言われたはずです。しかし、原語でもちゃんと「ペテロス」「ペトラ」と使い分けておっしゃっていますから、ペテロと岩とは別であることを主イエスは意図されています。「いいか、わたしの教会とはペテロという個人の上ではなく、ペテロが告白した「イエスこそ神の子です」という御霊が言わせてくださった信仰告白という岩の上に建てるよ」と教えておられるからです。私たち福岡めぐみ教会も明かされた奥義、パウロや使徒たちや預言者たちに伝えられた奥義と同じ土台の上に建っています。そして、それはこれからも変えてはならないものとして、もっとも大切にします。
Ⅱ. ともに・いっしょに(6節)
1. 福音は進み続ける
その奥義は「福音」と言い換えられて6節が始まります。神さまの啓示、教え方は一度に全部ではなく、一つひとつの段階を経て、やがてすべてのことを教えてくださいます。もともと、アブラハムへの約束は「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3,17:5)であり「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、すべての異邦人が、あなたによって祝福されると前もって福音を告げ」(ガラテヤ3:8)とあるように、すべての国の人々が救われることを啓示していました。それでも、まずアブラハムを選び出し、イサク、ヤコブ、イスラエル民族、そして異邦人と約束(契約)が広がり続けました。旧約聖書時代にも、たえず在留異国人や異邦人がその周囲にいて、彼らの中から救いにあずかった者もたくさんおります(例:ラハブ、ルツなど)。
そう、福音は進み続けるのです。コップに水が注がれてやがてあふれるように、福音は人から人へと伝えられ、この地域からあちらの地域へと伝えられて、すべての造られた者に宣べ伝えられます。その一人、その教会にと私たちは今朝選ばれているのですね。あなたに福音を伝えてくれた人のことを思い起こしましょう。だれが、いつ、どのようなかたちで福音を伝えてくれましたか?またすぐに福音に応答した方は多くはないことでしょう。それでは、あなたに福音を伝え続けてくれた人はだれであったでしょうか。あなたにそのような機会が訪れ続けたのはなぜでしょうか。私の場合は両親がクリスチャンでした。教会学校で教えてくれた婦人たちがいました。いっしょに悪さをする教会学校の仲間がいました。また、複数の宣教師との交わりがありました。たったひとりでも教え続けてくれた中高科の信徒の壮年がいました。祈り続けていた両親がいました。そうして、ようやく私の心に福音が届き、応答したのです。この私で福音が止まることがなくてよかったと思います。この世界最大のプロジェクトに関わることができて、人生まことに良かったなと思います。
2. 祝福が3連チャン
その福音がなせるわざは、ユダヤ人も異邦人も「共同の相続人」「ともに同じからだ」「ともに約束にあずかる者」(3:6)になるということです。これはすべて接頭辞(単語の頭)に「ともに・いっしょに」という言葉が付いている特別な語です。特に「同じからだ」はクリスチャン作家しか使わない単語だそうです。福音は、すべての者を「いっしょの相続人、いっしょのからだ、いっしょの約束」にあずからせてくれるものです。これは不公平でしょうか?これまで律法を暗記し、守り、行ってきたユダヤ人も、そんなことは知らないで偶像礼拝に熱心だった異邦人も、いっしょにされてしまう・・・・・・不公平でしょうか。神さまは、これまでの努力を無視するのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。神さまはすべての人をえこひいきせずにご覧になってくださっています。
実は、2章のはじめに戻りますが、私たちはみなが「自分の背きと罪の中に死んでいた者」(2:1)でした。「この世の流れに従い・・・不従順の・・・霊に従って歩んでいました」(2:2)、さらに「生まれながらに御怒りを受けるべき子ら」(2:3)でした。私はともに罪人だったのです。いっしょに滅んで当然の存在でした。それが、いっしょに救われました。なぜ?イエス・キリストの十字架と復活によってです。恵みによってです。信仰によってです。主イエスの十字架がすべての隔ての壁、敵意、優越感、劣等感を廃棄されました。それらはもはや立ちはだかりません。何の意味もなしません。ただ、イエスを主と信じる者ことだけで救われるからです。いっしょに相続人となり、同じからだになり、同じ約束に守られるのは、すべての人がただ主イエスによって救われていることのしるしなのです。教会内でもひそかな争い、優劣の競い合い、比較があってはたまりません。ぜひ、神の国の喜びと祝福を映し出す福岡めぐみ教会でありましょう。それはあなたなしでは実現できません! <了>
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