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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「神を大きくするクリスマス」


ルカの福音書 1:46-56

はじめに ~アドベント第3週~


本日は、福岡めぐみ教会からめぐみ聖歌隊、トーンチャイムChime Timeのメンバーたちが佐賀バイブルチャーチに行っています。昨年に引き続きの賛美、宣教協力の機会が与えられ感謝しています。昨年は土曜夜から日曜午後にかけて雪が降り、交通手段を含め対処することが多く慌てふためていた思い出があります。


ただそのような中、運転手以外のメンバーは遠足気分で車外の雪景色を楽しんだり、写真を送り合ったり、お菓子を食べたりとホクホク顔で無事帰還したこともよく覚えています。とっても頼もしいですね!今年も佐賀の地で用いられることを祈りましょう。先週はシンガポールチームとトラクト配布をしてくることもできました。佐賀の地で福音の種がまかれ続けています。九州宣教区でも佐賀でのクリスマス賛美のため祈り、ささげてくださっています。


私たちも熱い賛美と礼拝をささげましょうね♪



 1. 急いで行く


先週の聖書個所では(ルカ1:26-38)、御使いガブリエルがマリアを訪れ、聖霊によって男の子を生み、その名をイエスとつけなさいと告げました。そして、マリアは「おことばどおり、この身になりますように」と答えました。「それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行ってエリサベツにあいさつ」(1:39-40)しました。


マリアは、突然自分が身ごもることを聞き、戸惑いましたが、同時にすぐ行動しました。同じように、思ってもみないタイミングで身ごもった親類のエリサベツ(マリアよりもずっと年上)に会いに行きました。それも「急いで」とありますが、マリアの住むガリラヤのナザレの町から祭司ザカリヤとエリサベツの住むユダの町(おそらくエルサレム神殿近く)は相当な距離があります。1日35キロくらい歩いて、3、4日かかるような位置関係でした(ルカ2:41-46参照)。それを「急いで行った」のですから、マリアはマラソン選手のように向かったのかもしれません。


そういえば、次章に出てくる羊飼いたちも「急いで行って」(2:16)飼い葉おけに眠るイエスさまを捜し当てました。マリアも、羊飼いも急いで行動しました。アドベントは私たちにもこのような積極性を呼び起こします。遠慮せず、控えず、神の恵みを求めましょう。

マリアがエリサベツのもとに急いで駆けた理由は何でしょうか。それはエリサベツがマリアと同じような経験をしている人だからです。聖なる母マリアといえど、何事にも動じず、達観しているわけではありません。マリアは動揺もするし、消えない不安をかかえていました。それで、御使いが「あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています」(1:36)と話したことを確認しに行ったのですね。


これは私たちも共感でき、マリアに親近感を覚える光景です。私たちも問題が生じたり、思わぬ状況に陥ると自分の状況を把握したり、自分自身を落ち着かせるために、同じような問題を持っていたり、同じような経験をした人を探します。そこで、アドバイスや解決方法、励ましをもらって状況を整理し、前に進むように行動します。


主は不安なマリアを落ち着かせるために、同じような経験をしているエリサベツを備えていてくださいました。主はエリサベツにもその身に起こっていることが救い主につながる、大変意味のあることなのだと教えてくださいました。同じように主は、私たちの周りにも慰め手、励まし手、支え手を備えていてくださいます。ぜひ、教会の交わりの中に身を置き、互いに分け合い、支え合い、祈り合う幸いを味わいましょう。そう、遠慮せず、時には急いで、積極的に♪


2. 主をあがめる


急いで行ったマリアがエリサベツと出会って歌ったのが、今朝の聖書個所「マリアの賛歌」と呼ばれる賛美です。


「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます」(1:46-47)


賛美の出だしは次のようなペアになっていますね。

A 私のたましいは 主をあがめ

B 私の霊は 神をたたえます


マリアはその口で賛美をしましたが、源は「たましい」であり「霊」です。口、頭、言葉だけではなく、たましい、霊、心、内側から主をたたえているということです。


たとえば地震の時は建物や地面が揺れますが、地上だけが揺れているのではありません。地面が揺れるのは、地下にある陸のプレートが動くからです。陸のプレートが動くのは、海の下にあるプレートが動くからです。地面よりもずっと下の層が動いているので、地上に地震としての現象が起こるのです。


同じように、賛美も口や手や身体だけが動いているわけではありませんね。そのもっと内側にある、たましいと霊が主にふれられ、主に向かうので賛美となるのです。

御使いの知らせに恐れ、戸惑ったマリアですが、そのたましい、霊が主をたたえるようにされたので、賛美することができるようになりましたが、マリアの状況はまったく変わっていません。ヨセフとの結婚前に身ごもることの戸惑い、周りからどんな反応をされるのか分からない不安はそのままです。何月何日に心の重荷がなくなる通知も受け取っていません。それでも、賛美できた理由は、マリアのたましい、霊に変化があったからです。


マリアのたましいと霊にあった変化とは何でしょうか。 すぐ前に「聖霊があなた(マリア)の上に臨み」(1:35)、「(エリサベツは)聖霊に満たされた」(1:41)という個所があります。聖霊に満たされることは状況が変わることより、もっと大きなことです。聖霊に満たされたのでエリサベツは胎内の子とともに喜んで躍り(1:44)、聖霊が臨んだのでマリアは賛美をしました。聖霊が二人のたましいと霊を変えたのです。


マリアは状況が変わったからではなく、たましいが変えられたので主をたたえました。ぜひこのポイントにねらいを定めて、私たちも祈りましょう。状況が変えられることよりも、まず私たちのたましいが聖霊で満たされることを祈りましょう。障害が取り除かれ、問題が解決されることよりも、私たちの霊が聖霊であたためられ、聖霊におおわれ、聖霊により新しくされることを求めましょう。

「私のたましいは主をあがめ」の「あがめる」の原意は「大きくする(magnify)」です。マリアは、ここで「神を大きくします」と賛美しています。人間は目が悪くなると拡大鏡を使います。拡大鏡を通すと、見たい部分が大きくされます。これと同じ原理をここで適用することができます。そうです、私たちがもっともっと神を大きくすること。神を拡大すること。神をデカ盛り(♪)にすること。これが「主をあがめる」ことです。


聖霊に満たされると、神がより大きくされます。自分を困らせている物事や問題に取られるスペースよりも、神に信頼するスペースを大きくしてくれます。主をあがめるとによって、状況に対する嘆きや不安を追い出すことができます。主を賛美することによって、私たちは問題の中で主はすべてを支配しコントロールし、そのご計画のために益として用いることができるお方だと知るのです。


私たちが神を大きくすることができますように


3. 小さな者への大きなこと


神を大きくすることと「対(つい)」になっていることがありあります。主をあがめ、神をたたえたマリアは続けて次のように賛美しています。


「この卑しいはしために目を留めてくださった」(1:48)

「力ある方が、私に大きなことをしてくださった」(1:49)


神を大きくすることは、自分を小さくすることです。主をあがめることは、自分の小ささ、無力さを認めることです。神をたたえることは、自らが謙遜にされることです。


マリアは自分のことを「この卑しいはしため(しもべ)」と告白しています。卑しいとは「身分の低い」という意味ですが、これは社会的とか人間的に身分が低いことを指すものではありません。これは「主との関係において自分は小さい」ことを言い表しています。神に対して自分は何も誇れない、神と自分は対等ではないことを認めている態度です。マリアは「こんな大事なことなのに、自分には事前に相談してくれなかった」、「神さまは突然無茶なことを言って従えとか言ってくる」とひねくれ、嫌味から「はいはい、どうせ私なんてどうでもいい小さな存在です」と吐き出しわけではありません。心から、神をあがめ、神の大きさに感嘆し、そのお方の前では自分は「卑しいはしため」であると賛美したのです。

しもべにとって、嬉しいこととは何でしょうか。それは主人がいつも見ていてくれること、自分を認めていてくれることです。マリアはそのことが嬉しくてたまらなくなり喜んで「この卑しいはしために目を留めてくださった」と賛美しました。つまり、自分が神に選ばれている存在なのだという真理を知って、大喜びしたのです。


神にとって、あなたはどんな存在でしょうか。神があなたを創造された目的は何でしょうか。あなたには、神からどんな使命が与えられているのでしょうか。


マリアは神を大きく仰ぎ、大きく賛美します。それで次のようにも歌っています。


「今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」(1:48)

「主のあわれみは 代々にわたって・・・及びます」(1:50)


マリアは自分のことを指して「どの時代の人々も幸いな者と呼ぶ」とたたえているわけではありません。そうであれば自分を大きくする賛歌になってしまいますものね。そうではなくマリアはここで、これから神を信じるすべての人に向けた幸いを歌っています。ここでマリアが神を大きくし、自分を小さくしたときに味わった喜びを、これから後、どの時代の人々も同じように味わうことの確信です。


辛い状況にあったとしても、あなたに目を留めていてくださる神がおられる。外側から圧力をかけられたとしても、内側からは信仰が湧きあがってくる。そんな確信と励ましがどの時代の人々にも与えられると賛美しています。


主のあわれみも代々にわたって及びます。マリアは何の経験もない少女でしたが、すべての人の救い主を宿す大役を任せられました。こんな小さな者が大きな神のみわざに用いられるのだと驚いたのです。主はマリアに目を留め、マリアに託し、マリアを守り、マリアを用いてくださるからです。同じように、主は私たちに目を留め、大事な働きを託し、それができるように守り、永遠のいのちのために用いてくださいます。


神はこんな小さな者に大きなことをしてくださるお方です。マリアにされたように、私たち一人ひとりに大事な使命を与えてくださっています。あなたが家族や隣人の救いのため祈ることは尊いことです。あなたが誰かに声をかけること、誰かの話しを聞くこと、誰かに具体的な手助けをすること、福音を伝えることは大きなことです。

私たちを主のお役に立つ者として呼び、託し、守り、用いてくださるお方を、たましいからあがめ、たたえ、賛美いたしましょう!


神が私たちに目を留めてくださっていることほど

大きなこと、偉大な真理は他にない


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