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「神を意識して」


聖書 ルカの福音書3章7-15節

はじめに

先週水曜日の夜、大分県沖(豊後水道)を震源とした地震がありました。その直前、携帯電話に緊急地震速報(警報)があり、アラームが鳴り響きました。私が東北にいたころは、ひんぱんに地震があったのである程度慣れていましたが、九州に来て2年が過ぎ、地震への警戒が薄れていました。自分でも意外なくらい、警報の通知音に心身が反応していました。


そして、これが本来の警報の役割であり、効果であると思いました。緊急の知らせに対して鈍感になってしまったら、その意味はありません。まさに聞く耳をもって聞くのが警報です。そして、聖書も同じです。聖書は、今日のあなたに対する神からのメッセージであり、永遠のあなたに対する神からの緊急速報です。自分ととなり人の身を守るために警報を注意して聞くように、聖書のメッセージも同様の姿勢で受け取りたいものです。決して慣れてしまうことがありません。




先週からルカの福音書シリーズが始まりました。バプテスマのヨハネは、その時代の人々に緊急性をもって語りました。それは地域の人々がこぞって罪を悔い改め、バプテスマを受けに来ていることからもわかります。いわば、人々はヨハネのメッセージを聞いて「このままではまずい!」、「ヤバいことになる!」と危機を感じたのです。だから人々は罪を告白し、バプテスマを受けるという行動を起こしました。


私たちにも、同じみことばが語られています。それは、ヨハネの時代の人々と同じように、今の私たちにも緊急の知らせとして聞かせ、行動を起こさせようとする神のことばです。この身に刻むようにして、今朝の礼拝をともにいたしましょう。そして、主が語られることに、この身を従わせていきたいと願います。


緊急の知らせ

先週は、バプテスマのヨハネが荒野で叫ぶ者の声として宣べ伝えた箇所でした(3:1-6)。今週は、具体的にヨハネが何を語り、彼のもとにどんな人々が集まって来たのかがわかる個所です。ヨハネのメッセージはとても厳しいものでした。7~8節をご覧ください。


「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(3:7-8)


まず「まむしの子孫たち」と呼びかけています。想像できる通り、これは決してほめ言葉ではありません。聖書の中で「まむし」や「蛇」(参照:詩篇140:3、マタイ23:33は二つがセットで出ています)は神のさばきを受けるもの、人々にわざわいをもたらすものとして記されています。これと同じ時期を記録しているマタイの福音書によると、この呼びかけは「大勢のパリサイ人やサドカイ人」(マタイ3:7)に向けられたと詳しく書かれています。ヨハネは、なぜこんな厳しいセリフで話し始めているでしょうか。集まって来た人に対する第一声であれば、私なら「ようこそおいでになりました。お待ち申し上げておりました。」と人々に聞いてもらいやすい話し方をしますが、ヨハネは真逆です。しかし続きを読んでいくとわかりますが、それで人々が離れることはありませんでした。

ヨハネのメッセージはとても厳しいものでしたが、聞いた人々はもっと知りたいという思いを起こしました。それは「差し迫る怒り」から自分たちは逃れることができないかもしれない、という危険を人々が察知したからです。これがヨハネのメッセージのさわりです。


私たちは昨年からずっと「福音」に焦点をあててみことばを聞き、教会の歩みを進めています。福音が、どうして良いニュース(good news=gospel)と呼ばれるのかを知る必要が私たちにはあります。福音の良さを知るために、まずは悪い知らせがなされます。この悪い知らせは、たとえば、あなたの病がどれほど深刻な状況なのか告知されるようなものです。


「差し迫る怒り」とは私たちへの神の怒りです。「福音」は神の怒りから始まり、その恐ろしい結果からあなたを救い出すために、イエス・キリストが人となり十字架につけられたと展開していきます。この教会でも愛唱されている教会福音讃美歌359番の2節後半に「十字架の苦しみ 御神の怒りを その身に負われて」と主イエス・キリストについて歌っていることを胸に刻みたいものです。


ヨハネは「斧もすでに木の根元に置かれて」(3:9)と描写し、怒りの執行がすぐそこに迫っていることを人々に想像させ、緊急な状況にあると知らせました。


では、何が神の怒りを受けるほど良くなかったのでしょうか。

ヨハネは『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません・・・神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができる」(3:8)と続けました。最初の『 』は群衆(パリサイ人、サドカイ人)が普段から自慢していたことです(参照ヨハネ8:39)。自分たちのことはアブラハムの血を引く子孫であるとし、そうでない人を「異邦人」と呼び、律法を守れない人を「罪人」とさげすんでいました。自分たちだけが正統な神の民であり、律法をよく知り、守り行う者であるという線引きをしていました。「われわれ特別だと誇り、自慢していたのです。


しかし、それではならないとヨハネは告げました。彼らに決定的に欠けているものがありました。それが「悔い改め」です。先週の矢印の図を思い出してください。悔い改めることがなければ、人は誰も罪の赦しを受けることができず、神の救いを見ることもありません。悔い改めとは、それまでの考えを変え、行動を変えることです。彼らにはそれがありませんでした。いつも「自分たちの父はアブラハムだ」と言い続け、自分たちが神の怒りの対象であると考えたことはありませんでした。しかし、悔い改めない人には素晴らしい計画は用意されていません。これは恐ろしい知らせです。それゆえ、どうしても警告しなければなりません。福音は常に、緊急のニュースとして伝えられ、受け取られる必要があります。

2. どうしたらよいのでしょうか

ヨハネが「まむしの子孫たち」と語り始めたことで、人々はそのヤバさ、緊急性をガチで感じ取りました。その証拠に、続く10,12,14節で不安になった人々が、かわるがわる「私たちはどうすればよいのでしょうか」とヨハネに助けを求めています。ルカは私たちはどうしたらよいのでしょうか」という表現をよく使っています(ルカ10:25,18:18,使徒2:37,16:30,22:10)。この問いは救いに関わる大事な質問だよ、とルカは示しています。


ここでは群衆、取税人たち、兵士たちが立て続けに「私たちはどうしたらよいのか」と同じ質問しています。「私たちはアブラハムの子孫だ」と威張り、その生き方を変えようとしない一部の人たちとは真逆です。「私はどうすればよいのでしょうか」は、自分が何かをしなければならない不安を抱いていないと出てこない言葉です。


神の迫り来る怒りに対して、このままの自分では危険だと感じています。神の怒りは理解できたけれども、ここから何をしたらよいのかわからないから教えてくださいと言っています。足らない自分、御怒りを受けるべき自分の罪がちゃんと認識できています。そうでないと、「私はどうしたらよいのでしょうか」という問いは出てきません。私たちはいつ、この問いを発したでしょうか。


本屋に行くと、どのような願いを人々が求めているかわかります。昨今のベストセラーを調べると、話し方、投資、老い、トランスジェンダー、低収入の暮らし方、多様性、外国語習得、世界史に関するものが上位です。漫画は「転生したらスライムだった件」、「転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます」、「おかしな転生 最強パティシエ異世界降臨」など、私の幼少期からは想像できない複雑な世界観のものが人気です。永遠のいのちとか罪の赦し、神の怒りを逃れるためにとかあなたには救いが必要!といったタイトルの本はありません。


それは人々の関心がそこに向けられていないからです。日本人の幸福度は高くなく(世界51位、韓国は52位)、報道の自由度も年々低下(68位)、20-39歳の死因の第1位が自死です。人々がもっとも求めている(注意を向けている)ものが、話し方、投資、多様性であるというのが現状です。本当にそれでよいのか?という危機感を、私たちクリスチャンは持たないといけないところに来ています。


すべての人には福音が必要です。その人が第一に求めていないとしても、福音を聞いてもらうことが必要です。足りないもの、欠けているもの、本当に満ち足りるもの、永遠に平安を与えてくれるものが何なのか知らずに、わからないでもがいている人が多くいます。


私がこの教会に来て2年が経ちました。今の私と妻、また家族がこの地で主を礼拝し、ともに過ごしていられるのはみなさんの祈りと支えによります。そのことを心から感謝しています。私にとって、この教会の自慢は「友人に福音を伝えることができた」、「知り合った方にトラクトを渡せた」、「今日これから〇〇さんに会います」、「伝道のためにこういうことを計画しました」、「〇〇さんの救いのために祈ってください」、「祈ります!」という会話に満ちていることです。福音の前進のために、教会の一人ひとりが奮闘していることは、牧師にとって大きな励まし、喜びです。こうでなくっちゃ!という芯をとらえている感があります。


福音を伝えたい思いは、私たちの内に自動的に起きてくるものではありません。一人ひとりに聖霊が臨んでくださらないと、何も始まりません。人間の力や知恵で始まったものは長続きせず、実が残りません。人間的には時間が惜しかったり、遠慮が先に立ったり、勇気が出ないこともあるかもしれませんが、主がともにいてくだされば不思議と心が整えられ、力や方法が与えられます。突然、相手から「福音を教えて」、「クリスチャンになったきっかけは?」、「どうしてそんなに落ち着いていられるの?」と聞かれることもあります。そのときのため、私たちはいつでも用意をしておきます(参照1ペテロ3:15)。主が求めておられるのは、行けと言われたときに行ける用意のあるしもべです。


3. 日々、キリストを待ち望む

最後に「私たちはどうしたらよいのでしょうか」と質問しているのがどんな人たちなのかをみましょう。特徴はこれらの人たちが、これまで救いから除外されていた人たちという点です。


おそらく群衆の信仰生活とは、年に一度「過ぎ越しの祭り」を祝うために神殿へ行って礼拝すること、日に3度祈ること、家で律法を教え合うことでした。普段、神殿の中にいるのは群衆ではなく教師たちでした。しかし、そんな彼らが、ここでは前に出てヨハネに質問しています。神の国が群衆に近づき、訪れています。ヨハネからの答えは、下着や食べ物を分け与えなさい、です。悔い改めにふさわしい実は宗教行為や律法の暗記ではなく、日々の生活で実現させるものだと教えたのです。


ザアカイの場面(19章)を見ても分かるように、取税人は罪人と見なされ、嫌われていました。群衆が取税人といっしょにいることはあり得ませんでした。それが驚くことに、ここでは群衆が取税人といっしょにいます。新しいことが起こっているのです。ヨハネは取税人には、決められて以上には取り立てないことが悔い改めの実だと教えます。仕事を誠実にすることは、神の前に受け入れられる喜ばしいことだと教えています。彼らにとって悪習慣を断ち切って新しいスタートをする機会です。


兵士たちも人々を支配するヘロデ側に立つ仕事ですから、群衆から敬遠されていたことでしょう。また、交代制の勤務のゆえに律法の要求を守ることができませんでした。その兵士たちが群衆と一緒になって救いを求めています。真の悔い改めが起こるときには、普段の階級や住みわけ、生まれ育ちは気になりません。神の前ではすべての者が悔い改めなければならないからです。悔い改めの必要がない人種、仕事、身分の人は誰一人としていません。ヨハネは兵士に、力ずくで奪ったり、脅したりしないように命じます(普段、当然のようにしていたということ)。それまでの兵士の生き方とは真逆の方向に進むように告げたのです。


悔い改めにふさわしい実は、私たちにも同じチャレンジを与えます。あなたの生活はどうか?主に従う者としてそうではない人とはっきりとした区別があるか?仕事に取り組む姿勢はどうか?が同じことをやっているから私も・・・というのは悔い改めない取税人と同じです。上司の言うことは絶対だから・・・とちょっとした不正に目をつむるのは悔い改めない兵士と同じです。この世にフィットした人物でいるのか、それとも神の前に受け入れられる生き方をするのか。それは悔い改めの有無ではっきりと表されます。しかし、本当に恐れるべき方を恐れ、本当に従うべき方に従いたいと願います。決してムダではなく、あなたに損をさせない主人に仕えるべきです。言っていることが昨日と今日とで変わることのない、真実な方に従うべきです。そのような方は、主なる神以外にはいません。群衆も、取税人も、兵士もそれまでの生き方を改めることを要求されました。それが迫り来る怒りから逃れる悔い改めのふさわしい実だからです。


悔い改めて主に従うことには、リスクが伴います。職場で人と違った生き方をすることには勇気がいりますし、同調するように圧力をかけられたり、仲間外れにされることもあるかもしれません。けれども、神の怒りを受けるリスクに比べれば、この世で背負うリスクは小さなものです。まさに「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません」(マタイ10:28)。神が真実な方であり、私たちのたましいをお任せするのにふさわしい唯一の方であることは、殉教者たちが証ししています。地上では、行く先や将来がどうなるか、私たちにはわかりません。しかし、神の御国では、私たちは確実に主イエス・キリストとともにいることになります。それがわかっているので、この地上の歩みも主の御手にゆだねることができます。よくしてくださらないはずがないからです。永遠に神の子どもとしてくださった方が、この地上でいい加減なことをしたり、私たちを失望させるはずがありません。本当に幸いな者とは、悔い改めてたましいを主にゆだねる者です。


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