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「神を知る方法~理性と信仰~」

聖書 第一コリント1:21,26-31

はじめに

今週木曜から松原湖バイブルキャンプへ行ってきます。

子どもたちが6名、大人が3名、そして埼玉から須賀めぐみ、あかり親子が参加します。福岡から一気にキャンプ場がある長野県には行けませんので、行きは愛知のクリスチャンプレイズチャーチに、帰りは大阪の茨木聖書教会に泊めていただきます。両教会とも二つ返事で宿泊の受け入れを快諾してくださいました。


祈りの課題として運転手たちのために、また子どもたちが車酔いや疲れから守られ、体調が万全でキャンプを過ごせるようにお祈りください。そして、特別な場所で特別な時間を過ごし、生涯にわたって大切な神との出会い、信仰や献身の場になるように祈り送り出してください。


私自身も小学、中学時代にキャンプに参加していました。その時、何かを決心したという記憶はないのですが、その時代の参加者から、今は多くの牧師が生まれています。少なくない影響があるのですね。このキャンプも聖霊が子どもたちのたましいに語りかけ、一人ひとりの生涯にとってかけがえのない、忘れえない信仰決心の場となることを願いつつ、備えています。



本日は第一コリントの手紙からみことばを味わいます。

先週、今週とヒックス宣教師家族に体調不良者が出たため、説教者が私となっていますが、よろしくお願いします。また、来週はKGK(キリスト者学生会)九州地区の河野勇也主事(かわの・ゆうや)主事がみことばを取り次いでくださいます。昨年から九州地区の主事としてご奉仕なさっています。ぜひご期待ください。



  1.  理性によって

本日はこの箇所から「神を知る方法~理性と信仰~」と題して学びます。神を知ることにおいて「神は霊です」(ヨハネ4:24)という点は重要です。神が霊であるとは、単に目に見えない存在であるということだけでなく、霊的=人格を持っており、モノではないということです。


もし、神が霊であってもモノであるなら、数値的、字義的なデータを得るだけで、知ったことになります。食べ物や植物だとそれで「知る」ことになります。「このプリンの材料は牛乳と卵と砂糖でそれぞれ〇〇グラムです」と言われれば伝わります。あるいは「チューリップはユリ科で春に咲く球根植物、たくさんの種類の色があります。香りはそんなに強くありません。ただし毒があるので犬が食べたら要注意です」と言われれば知ることができます。


しかし、神はモノではなく霊であり、また人格です。たとえば、私も人格をもった存在です。私の身長や体重、出身地や学歴、趣味などで多少知ることができますが、人格的な部分はコミュニケーションを取らないと知ることができません。「〇〇出身で、次男ですから◇◇な性格でしょう」と言っても、当てはまりません。私が心を打ち明けて話し、真実を教えないかぎり、私の人格的な部分を相手が知ることは決してできません。これを神に当てはめてみましょう。どのようにしたら神を知れるでしょう。

まず、神との対話ができなければ知ることができません。ただし、本物の神であり、その神がご自身について語ってくださらなければなりません。私たちの想像だけでは間違った神を作り上げることになります。


さらに大事なのは、私たちの聞き方です。対人でも失礼な態度でその人のことを知ろうとしたら、相手は心を閉ざします。たとえば、初対面で家賃や月収をずけずけと聞いたなら、相手は心を開いてくれませ。また、相手が誠実に答えてくれても「嘘でしょ」「あなたが言うことは信じられない」「考え事をしていたから、もう一度初めから話してくれる?」といい加減な態度で知ろうとしたら、互いに良い関係とはなりません。私たちが神を知るとき、神が心を開いて本当のことを言ってくださることと、私たちが誠実に知ろうとすることが大切なのです。


そのときに一番の障壁となるのが「理性」です。人間には理性が備わっています。理性とは物事を論理的、概念的に考え、判断する能力です。人間の理性がセンサーとなり、理にかなった正しい知識をとらえたり、物事を筋道を立てて決断する大事な働きをします。しかし、今朝の聖書箇所は「自分の知恵によって神を知ることがありません」(1:21)と明言しています。聖書は人間の理性を否定し、何でもかんでも盲目的に信じることを要求する?そんな印象を受けるかもしれません。

はたして聖書は本当に人間の理性を捨てなければ、神を知ることができないと教えているのでしょうか。人間は知恵=理性によってこの世界を支配しています。猛獣が牙、鳥が翼を誇るように、人間は理性によってこの世界を治めます。命に危険を及ぼす自然災害や凶暴な動物、毒のある植物から理性によって守っています。


しかし、人間の理性によって神を知ることはできません。神から本当のことを教えられても、人間理性には「愚か」に聞こえるからです。世界のすべては神によって創造された、イエス・キリストは処女マリアから生まれた、イエス・キリストは死からよみがえった、十字架につけられ死んだ方こそ救い主だ・・・これらはことごとく、私たち人間の理性と対立します。もちろん、「心を尽くし・・・知性を尽くして・・・主を愛しなさい」(マタイ22:37)と言われていますので、神は私たちの理性を否定されません。それでも、もし理性だけで神を知ろうとするなら、間違った結論を出してしまうと警告しているのです。誰も素手で煮立った鍋をつかみません。ちゃんと鍋つかみ(手袋)をします。同様に、私たちが神を知るときには人間の知恵や理性によってだけではなく、正しい方法によって知ることが大切です。神は人間の理性には納まらず、納得することもできないお方です。神を知ることに終わりはありません。このことが、私たちに神を知ろうとする探求心をさらに与えてくれるかもしれません。



2. みことばによって

神を知る正しい方法は「宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされた」(1:21)と教えています。ここに私たちの理性への配慮がちゃんとあります。宣教のことば=聖書は「愚か」に思えるのです。しかし、それでいいのですね。神を知るのに最も重要な手段は、理性や知識、納得やおさまりではなく、みことばだからです。


「全部、聖書がわかったら信じます」「私には聖書を信じる勇気がありません」と遠慮される方がいるかもしれませんが、それは理性や知恵によって神を知ろうとしているからですね。自分で神の位置や範囲まで達しないと神を知ったことにならない、そんな神を信じると言うことはできないと不安に思う方もあるかもしれません。


神を知る唯一の正しい手段は、聖書です。神は聖書を通して語っておられます。人と人とが親密に語り合い、お互いを知るのと同じように、神は私、あなたと親密に語ってくださいます。決して機械的に受け入れろ、文句を言わずに信じろと無理に強いるのではありません。また神は、適当にはぐらかしたり、早く帰るように仕向けたりもされません。私たちが望めば望むだけ、神はご自身について教えてくださいます。私たちが何度忘れても、嫌な顔をせず語ってくださいます。また、神はすべての人に対して、同じように接してくださいます。

みことばが神について教えていることに注目しましょう。少し前の節に「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」(1:18)とあります。聖書が「十字架」について記録し、伝えるとき、それは「愚か」だと書いています。「十字架」はイエス・キリストの処刑道具です。イエスという神の御子は、十字架で殺されました。ある者は「そんなものを信じたって何にもならない、愚かなことだ」と笑い、ある者は「本当にキリストが死んだかは分からないでしょ」と批判します。これは理性で十字架を見て判断する場合です。


しかし、みことばは十字架の歴史的出来事とその意味を教えています。私たちは出来事としての十字架だけでなく、その意味が心に迫るので、イエスをキリストとして信じる者となったのではないでしょうか。


たとえば、私がここで両手を頭の上に挙げたら何を考えるでしょうか。ある人は「喜んでいてバンザイしているのだ」と考え、またある人は「うさぎの物まねだ」と考えるかもしれません。その答えは、私が「バンザイしています」とか「ウサギです」と言うまで分かりません。「十字架」も同じことが言えます。十字架を見ただけでは正確な意味を受け取っているかは分からないのです。十字架について、聖書が何と言っているかを聞いて初めて、私たちは十字架を正確に知ることができます。

「十字架はキリストがすべての人の罪を背負われたからだよ」「復活はその罪が完全に赦されたことの証拠だよ」とみことばが言っていることを聞かなければなりません。

このように理性と信仰は、互いが合わせて働きます。理性がなければ、十字架の出来事を知ることができません。また信仰がなければ、十字架の意味を知ることができません。それら両方があって、私たちは救いを確信し、喜び、感謝することができます。信仰のない理性はただの知識で何の力も喜びももたらしません。反対に、理性のない信仰は狂信であり、何を聞かれても答えることができない個人的感情にしか基づかないものです。


理性は、すべてを判断しようとする本質を持っています。しかし、「理性の最後の手続きは、みずからを超えることがらが無限にあることを認めること」にあるのです(パスカル)。もし、すべてを理性で判断しようとするなら、神について、永遠について、救いについて間違った答えを出す危険があります。それらは自分を超えたものなので、本来、理性(自分の頭)では知り尽くすことのできないことがらだからです。そしてみことば(聖書)は、神について、永遠について、救いについて神が語られたものです。理性には反しないけれど(悪を善とは言わない)、理性を超えたところにみことばは挑戦してくることを知っておきましょう。神は私たちよりも大きく、賢いお方です。たとえ、私たちには愚かに思えても・・・



3. 選びによって

結びに、どうしたら理性と信仰を両方バランスよく働かせて主を信じることができるようになるのかを考えましょう。26-31節をご覧ください。「自分たちの召しのことを考えてみなさい」(1:26)から始まります。どうして自分が信じるようになったのか(あるいは、他の人が信じるようになったきっかけ)をよく振り返ることから始めるように教えます。


そして「人間的に見れば知者は多くなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません」(1:26)と続きます。ここで着目するのは「ない」ものです。神を知る信仰と知恵、力、身分は関係がないのです。「兄弟たち」と呼びかけていますから、これはあなただけでなく、となりにいる人、教会の皆さんがそうでしょう、周りを見渡して確認すれば分かります、という調子です。


これら「ない」ものの反対は「この世の愚かな者を選び・・・弱い者を選び・・・取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれた」(1:27-28)です。神は愚かで弱く、取るに足りない無に等しい者を選ばれました。自分の愚かさ、弱さ、足りなさは、理性やプライドが許しません。いやしい気持ちを

持たないで自分の愚かさや弱さや欠けを認めることはなかなかできるものではありません。

何かしら、私たち人間の側に理由を置こうと考えるからです。ここで気づくのは「この世の」という言葉です。この世では愚かで、この世では弱く、この世では取るに足らず見下されている者。そうです、「この世」において私たちは絶えず愚かさに責められます。「そんなことも知らないのか」と馬鹿にされます。この世において私たちはいつも弱くされます。「あの人はたくさんお金を持っていて、苦労もしていない」と自分の弱さを呪います。この世で私たちはいつだって取るに足らなくされます。「私なんていなくなったって構わない」と自分自身の価値さえ見下します。


しかし、神はこういう私たちを「この世」から召し出してくださいました。そのことを「よく考えて見なさい」(1:26)というのが神からのチャレンジであり、これこそ福音です。これまで私たちの理性、私たちの世界、私たちの尺度(ものさし)で生きていて、もがいていました。愚かさ、弱さ、軽べつ、恥にまみれて過ごしていました。親ガチャ、顔ガチャ、時代ガチャと思い通りにならないことにどうにかケリやあきらめを付けようと努力してきました。福音は、こうした「世」から私たちを選び出し、神の国と神の義に生きる者としてくださいました。この世で上手に生きるよりも、神の栄光を拡げるために生きるように目標を変えてくださいました。

キリストは、この世に神の国と神の義を打ち立てようとしておられます。みことばを受け入れると、神の国と神の義が私たちの人生の目的だと知るようになります。はじめは理性によってはねのけていた聖書が示す生き方に、信仰を抱くと聖霊が働き、神の栄光のために生きることに賛同するようになります。


神はこの世の強さ、知恵を恥じ入らせ、打ち倒します。この世に、本当に私たちが人生をかけるべきものはありません。最後の節にあるように「誇る者は主を誇れ」(1:31)と生きるようになります。これは主にありったけの自信/確信を置くという意味です(put one’s confidence in)。


私自身の救いについて、主は生まれる前から計画を持って進めてくださいました。私がむなしい生き方をしていても、その計画は中止されず、私が失格者となって除外されることもありませんでした。クリスチャンホームに生まれたことも、そのことを邪魔に思ったことも、自分の夢を追いかけたことも、人生の目的に迷いこんだことも、すべて主が準備してくださったとわかり、神の偉大さ、救いの素晴らしさ、そして自分の愚かさに気づきました。皆さんにもそれぞれの導きがあるでしょう。福音によってこの世から神の国に生きる者とされたことを繰り返し確認し、その喜びと祝福を伝えてまいりましょう。


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