聖書 ルカ4:14-30 |
はじめに
幼い頃、「気象衛星ひまわり」という言葉を天気予報でよく聞きました。不思議に思った私が父に「気象衛星ひまわりって何?」と聞くと、父は「地球の天気を調べるために宇宙に上がって雲の動きなどの情報を送ってくれるんだよ」と答えました。素直だった私は文字通り「火のついたひまわりが宇宙から地球の周りを回っているなんてすごい」と思っていました。それを聞いた父が「ひまわりはただの愛称だよ」と言ったので、私は真実を知りました。
私たちはイメージから来る思い込みをよくします。子どものころの疑問では「台風100号はとってもおおきいのだろうなあ(番号が大きいので)」とか「カップラーメンのかやくは火薬と同じ成分かあ」といった思い違いをしていた記憶があります。
さらに大学生のころファックス機が普及してきたとき、そのデモンストレーションを見た友人が「紙、送れてないやん」と真顔で指摘していたのも良い思い出です。
実は、こうした思い違いや勘違いは聖書の中にもたくさん登場します。特に、イエス・キリストについては当時から多くの人が思い違いをしていました。
その理由として「この人(イエス・キリスト)はヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)、「では、おまえは神の子なのか」(22:70)「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか」(ヨハネ8:57)など、主イエスを見てバカにしたり、「わたしと父とは一つです」(10:30)というイエスの発言を受けつけず、反発を覚えたりしました。もっとも致命的な思い違いは聖書を読んでもイエスが救い主であると信じないことです。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39-40)
今朝の聖書個所は、イエス・キリストに対して思い違いや重い腰を持っている私たちへのメッセージです。
主の教え
今朝ご一緒に見ていくのはルカの福音書4章中盤です。直前にはイエスの洗礼、荒野での誘惑があり、ここから宣教活動の3年半が始まります。イエスご自身であっても宣教は「御霊の力を帯びて」(4:14)始められました。神の国を宣べ伝えるのは、イエスの人間力や魅力、会話の上手さや人当たりの良さによってなされたのではなく、御霊によって導かれ、御霊に満たされ、御霊の力によってなされました。それによってイエスが生まれ育ったガリラヤ周辺一帯にその評判が広まります。
私たちの宣教や奉仕も同様です。ある人が宣教の働きができるのは、そこには聖霊が豊かに働いているからです。聖霊がその人に思いや力を与えて始められたからです。ある人が奉仕をしているなら、それは聖霊がその人に志と導きを備えられたからです。教会のための働きが続けられるのは、聖霊がその人に喜びや励ましを与え続けてくださっているからです。人間は弱いものですから、聖霊がともにいてくださり、聖霊の働きがなければ、宣教も奉仕もすることができません。最初はよくても長続きせず、次第に不満や疲れがたまり、はじめより悪い方向に向かってしまうことさえあります。もちろん、主は回復をさせてくださるお方でもあります。御霊は私たちを真理へ導き、真理は私たちを自由にします(ヨハネ8:32)。
では、私たちが聖霊に満たされるためにはどうしたらよいのでしょう。主イエスは何をすることからその働きを始めているか、にヒントがあります。
「イエスは彼らの会堂で教え・・・いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようと立たれ・・・預言者イザヤの書が手渡され・・・巻物を開」きました(ルカ4:15-17)。要約すると主イエスは安息日という礼拝の日に、会堂で聖書を朗読し、それにかかわる話をされたのです。
これは、今の私たちの礼拝と同じです。主イエスの宣教は礼拝から始まり、御霊は聖書からその働きを始められました。礼拝をささげる会堂で聖霊は豊かに働かれます。また礼拝に集う人々、聖書から神のことばを聞く人々に聖霊は臨まれます。神の国の働きはここから始まります。
「初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる」(イザヤ42:9)
主の順番は、聞かせる→告げる→新しいことを起こす、です。私たちの教会、礼拝、また一人ひとりの歩みも主のことばから始めましょう。そこに聖霊が働かれます。
ここはイエス・キリストが会堂での礼拝を導かれ、説教をする大変貴重な箇所です。どんな聖書だったでしょうか。それは「巻物」(ルカ4:17)であったことが分かります。新約当時(AD30年頃)の聖書の各書は巻物になっていました(スライド参照)。モーセ時代は石板、またパピルスという植物から作った板に記していましたが、この時代になると羊皮紙(羊ややぎの皮)に記され巻物状(スクロール)になっていました。有名な死海文書(羊飼いの少年がたまたま投げた石がコツンと壺にあったったのが発見の起源)はBC3世紀から書かれた物の集まりです。死海文書が洞窟から見つかったのは、ローマ軍に攻め入れられたとき、聖書写本を取り上げられないためだったと言われます。こうして神のことばは保持され、守られ、伝えられてきました。この時主イエスに手渡されたイザヤ書も完全版が見つかっていることに高揚を覚えます。
さて、聖書は写本によって(コピー機がなかったので)書き残され、数を増やしていきました。みなさんは写本の元になった古い方はどうしたと思いますか?実は、古い写本はゴミ箱に(!)捨てられました。理由は、より長く正確なものを後世に残していくためです。今私たちの聖書は一冊であり、各自で所有でき、データでも持ち出しができ、様々な言語で読むことができます。そのことでは聖書を字として受け取る以上に、主なる神が近づいてくださり、親しく語り、導いてくださるお方であることを私たちは体験しています。
2. 恵みの年
ではイエス・キリストが語った内容を見ましょう。18‐19節をご覧ください(イザヤ書61:1-2の引用)。御霊の力を帯びたイエスが「主の霊がわたしの上にある…主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた」(ルカ4:18)と語り出します。イザヤ書にある「油注がれた者」は「わたし」のことなのだと、その預言とイエスご自身とを結びつけておられます。旧約の言葉で「油注がれた者」は「メシヤ(=救い主)」を意味しています。そのことを踏まえるとこの語り出しのインパクトが想像できます。「あなた方が待ち望んだメシヤとはわたしである」と宣言されたからです。
それから救い主がどのような働きをするのかに展開します。救いの対象となるのは「貧しい人」「捕らわれた人」「目の見えない人」「虐げられている人」です。それぞれに「良い知らせ」「解放」「目の開かれること」「自由」を与えます。続けて「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」(4:21)と言い切ります。これを成し遂げるのは、今語っている「わたし」自身だと会堂にいるみんなに告げたのです。
これまでこんな聖書の語り方をした人はいませんでした。モーセであれ、イザヤであれ、人々に語るとき「主はこう言われる」としか言いませんでしたし、言えませんでした。
しかし「ここに書いてあるのはわたしのことです」と言える方が唯一おられます。それが主イエスです。なぜなら、メシヤはイエス・キリストだからです。実に聖書はこのイエス・キリストこそ救い主であることを告げるために書かれ、語られるものです。
このことを「主の恵みの年を告げる」(4:19)とまとめられています。これは単に「恵み(の年)」ではなく聖書が定める「ヨベルの年」(レビ記25:8-10)です。週の七日目が安息日として定められ、仕事を休み、礼拝して憩うように、奴隷も働き詰めではなく解放され、担保として取られた土地や畑も買い戻す権利が与えられます。その分、休む前の年に3倍の収穫を約束してもいます。これら奴隷や土地を解放する規定は、本来それらが人の所有ではないことを覚えるためです。また働き詰めで生きることから解放することです。まさに「貧しい人には良い知らせ」「捕らわれ人には解放」「虐げられている人を自由の身とする」今朝の箇所の実行命令です。そして、これらを実現するのがイエス・キリストであるというのがレビ記~イザヤ書~ルカの福音書とつながっています。負債は全額返済するまではずっと残り、支払い続けるものです。負債のあるまま両者の関係が回復し、リセットされることはあり得ません。払えなければ個人は破滅し、会社なら倒産です。主イエスこそ、あなたの人生を回復させ、まったく新しくしてくださる救い主なのです。
3. 心の目を開いて
こうしたメッセージを聞いて、人々はどのように応答したでしょうか。「これは素晴らしいニュースだ。この方が救い主か。さあ私も信じよう」と言った・・・とは書かれていません。「人々はみなイエスをほめ・・・恵みのことばに驚いて」(4:22)いません。なぜならイエスが「ヨセフの子」だったからです。それは「ここで話しているのはヨセフの子にすぎないのになんだこの本物感、なんだこの威厳」という驚きでした。恵みのことばに喜んで信じたのではありません。というよりも、信じられませんでした。それは人々がイエスをただ「ヨセフの子」としてしか見ることができなかったからです。
私たちは「イエスさまがお話されている時代に生きていたかったなあ」「イエスさまを実際に見られたら一発で信じるのになあ」と聖書の時代の人々をうらやましく思うことがあるかもしれません。しかし今朝のこの箇所にあるのは実際にイエスさまを見て、その声を聞いた者たちの反応です。そうした人々に向かって、主イエスは23-27節で辛辣な厳しいことばを語っています。まとめると、いつの時代も預言者の近くにいる人々は、預言者とそのことばを信じないということです。旧約聖書のエリヤ、エリシャの時代も、神のみわざが現わされたのは異国の地であり、神のしるしや癒しにあずかったのは異邦人のやもめや将軍でした。
それは預言者の近くにいた人たちが真剣に聞くことがなかったからです。そうした現象がここでも起きているのだと主イエスは語っています。しかもこのことは、主イエスの働きの最初期です。イエスは人々に期待されていたところから働きを始めたのではありません。人々が熱狂し、待望し、歓迎しているところで活動開始されたのではありません。だから、御霊の力を帯びていく必要があったのだと思いませんか?
私たちも同様です。あなたがクリスチャンであることは、もしかしたら誰にも言わないでも一生を送れます。あなたがクリスチャンだと表明する場面をずっと避けて過ごすこともできます。あなたが主イエス・キリストを信じる行動をしないまま天国へ行くこともできます。ただ、それであなたがクリスチャンである意味を全うしているでしょうか。それがイエス・キリストがいのちをかけて救い出してくださった愛に応えている生き方でしょうか。
もし私たちが無風を望むなら、それがかなえられるでしょう。しかし、もはや私たちは聖霊の導きも力も満たしも味わうことがありません。いつも自分が安全な居場所にいるためにひたすら根回しをし、自分で自分を守らなければいけません。毎日面倒ややっかいなことにできるだけあわないようにして、傷や痛みを味わわずに済むように必死にならねばいけません。
それは聖書に対しても、救い主に対しても同じです。主イエスに神のことばを聞いた異邦人だけが救われたのだと言われた人々は、このあとイエスさまを崖から突き落とそうとしています。まるで火曜サスペンス劇場の殺人場面ように恐ろしい光景です。しかしこれが私たちの持っているおぞましさなのです。捕らわれからの解放、盲目からの癒やし、虐げからの自由を受け取ることよりも、自分の主張、考え、立場は絶対に譲らないことを選ぶのです。
それほどイエスを主と信じることは難しいことでもあります。聖霊が働いてくださらなければ、誰一人としてイエスを主と告白するに至りません。ただし確証しようとしても、働いてくださる聖霊を目で見ることはできませんが、私たちには聖書の証言という土台の上に信仰を築くことの確かさがあります。たとえば、進化論やビッグバンは聖書以上の奇跡を信じていることになります。創造主がおられ、その方の全知全能とことばのゆえに全世界、宇宙が造られたと信じることは馬鹿馬鹿しく思えるかもしれませんが、このことを否定するほうがさらなる奇跡や偶然の重なりが何億年も続いたと信じないといけなくなります。それだけに主イエスご自身が語ることを信じることが、いかにシンプルで、理にかなっているかという答えに導かれます。もし、少しでもその気持ちがあり、この礼拝前より少しでも確信や励まし、気づきが与えられたなら、それは聖霊が臨んでいるしるしです。主よ、感謝します!!
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