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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「福音はあなたを通して」

更新日:2023年6月14日


聖書:使徒の働き16章9-15節

 本日は「福音」シリーズ9回目、使徒の働き16章からです。今年の年間聖句マルコ1:15「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と年間テーマ「福音に生きる Life in the Gospel」にそって、福音について学んでいます。毎週聖書個所が違うところは少し目まぐるしく感じるかもしれませんが、テーマである福音をさまざまな書物から学ぶことで、福音のもつ豊かさを味わいたいと願います。そして、説教によって信仰がより豊かにされ、より福音に満たされ、より聖霊の力をいただいて、主イエスの大切な命令である大宣教命令のために私たち福岡めぐみ教会が用いられるようになることを願ってやみません。

1. 福音の出発

本日の聖書個所:使徒の働き16章から、福音宣教がどのように始まり、受け取られ、ひろがっていくのかを見てまいります。一つ目は「福音の出発(はじまり)」です。福音は出発する力、外に向いていく力、その方向をいつも持っています。主イエスがその初めの働きから「悔い改めて、福音を信じなさい」と言われたのも、信じた者から福音が次々と広がっていく、出発していくことを意図していたと私たちもイメージできます。新約聖書の中で「福音」という言葉はたくさん使われていますが、それに続くのは「福音を宣べ伝える」(マタイ4:23など=もっとも多い組み合わせ)、「福音を伝える」(マルコ1:38、使徒8:4など)、「福音のことばを聞いて信じる」(使徒15:7)、「福音を証しする」(使徒20:24)、「福音によって立つ」(1コリント15:1)、「福音を携えて行く」(2コリント10:14)、「福音をゆだねられている」(ガラテヤ2:7)、「福音の前進」(ピリピ1:12)、「福音のために戦う」(ピリピ4:3)、「福音を学ぶ」(コロサイ1:7)、「福音のために苦しむ」(2テモテ1:8)などと記されています。これらを見ることによって、福音の持つエネルギーを知ることができますね。逆は「福音を黙っておく」「隠す」「消滅させる」「聞かない」「信じない」「拒否する」「後退する」「戦わない」「苦しまない」といったものになります。もし、クリスチャンである方の中で、これらが自分に思い当たる節があれば、ぜひ今朝主の前に悔い改め、主によって新しくされ、福音を受け取り直しましょう。


しかし、福音が出発するときには、決して人間の発想や思いつき、奮起によって始まるのではありません。主から導きと力が必ず与えられます。それをいただいてから福音は出発いたします。そのことを一つ目で見てまいりましょう。

今朝の16章9節と10節。「その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」


この「幻」はただの夢とかではなく、神がそこに現れているはっきりとしたビジョンを示します。ぼんやり見えているとかではなく、その内容を思い出せることからもそのことが神からのはっきりとした、明らかなメッセージであることが分かります。ここの主語になっているパウロという人物は全部で3回宣教旅行に出ています。第一次は使徒の働き13~14章でおもにアンティオキアから現在のトルコ中間あたりを回りました。この16~18章はエルサレム(15章)から出発して、陸路で前回回ったアジア地方(ガラテヤ州等)を抜け、今いるトロアスという港町に滞在しています。そして、幻で立っているのはマケドニア人で、それは「マケドニアに渡って来て」(9節)とあるように、向こう岸にある町からの呼びかけでした。そのトロアスとマケドニアの間にあるのはエーゲ海です。それを渡るとアジアからいよいよヨーロッパへ上陸する、そんな記念すべき一歩、マイルストーンになるような地点です。彼らの叫び=「渡って来て、私たちを助けてください」との懇願をパウロが見聞きしたとき、すぐに仲間に知らせたようです。それで次の10節で間髪入れず「私たちはただしにマケドニアに渡ることに」しました。この行動力はすごいですね。彼ら全員が、福音は「宣べ伝えられるもの」、「あらゆる国の人々へ伝えられるべきもの」であることを理解していたように思えます。またそのために、主が示されたところに、そのまま従う姿勢(いさぎよさ、実直さ)をともなっている宣教チームだということが分かりますね。


マケドニアの人たちが「私たちを助けてください」と言っているのに対し、パウロたちは「彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信した」とあります。「助ける」=「福音を伝える」という直列の理解もとってもいいですね。誰もが福音のことばを聞いて信じてほしい、そのことがもっとも彼らの助けになることを知っていたからです。私たち福岡めぐみ教会のものの考え方、行事の決め方、予算の使い方も、これと同じでなければなりません。福音を伝えるために、私たちは行動します。誰のもとへ福音を伝えたらよいのか、私たちは祈ります。福音を味わい、分かち合うために、私たちは行事を企画します。本当にその人を助けるためには、救うためには、福音を伝えることだと、私たちは一致します。そして、福音を伝えるために、神は私たちを召し、この福岡めぐみ教会と用いてくださることを、私たちは確信します。


みなさんに、幻はあるでしょうか?主が見せてくださる幻はあるでしょうか。はっきりとこれをしなさい、この人のために労しなさいと告げておられる人はあるでしょうか。私たち人間はおくびょうですから、もしそのような人がいたら、ぜひ他のクリスチャンにシェアしましょう。「私は〇〇さんに福音を伝えるように示されています。ぜひ、伝えられるように祈ってください」と。他の人に言っておくと行動力が伴ってきます。また、私たちは忘れやすいですから、主から示された方がいたら、ノートにメモ・記録しておきましょう。その人のために祈り続けましょう。幻が現実になるまで、そのノートはあなたを励まし続けてくれます。行動すれば自信がついてきますし、やっていないと背中を押してくれます。あなたのそばで「助けてください」と懇願している人はいないでしょうか。あなただから福音を届けることのできる人がどれだけいるでしょうか(思いめぐらし数えてみましょう)。福音を聞くことがなく生涯を送る人がいないように、私たちも渡りましょう。


2. 福音の入り口

夜に幻を見たパウロは仲間たちにそれを伝え、一同は神からの導きであることを確信し、海を渡ります。トロアス、中継島であるサモトラケを経て、ネアポリスからピリピへ。そこで数日間滞在します(12節)。ここで興味をそそられるのは、どうやって行ったか、どこへ寄ったか、何日過ごしたのかが正確に書いてあることです。通常は、出会いの場面だけを記せば感動的、衝撃的なはずですね。たとえば、「すぐにトロアスを出てピリピへ行くと、なんとそこに私たちの話を聞きたいと待っていた人から声をかけられた!」のように。しかし、このとき「私たち」として帯同していたのは、この使徒の働きの著者ルカ(ルカの福音書も記した)です。彼は医者であり(コロサイ4:14)、このような書物を書く歴史家でもありました。その彼が、直接的な出会いだけでなく、自分たちの航路、滞在期間、立ち寄った場所を書き残しています。きっと大事なこととして、これを省いてはならないと考えた末です。なぜなら、福音を伝える機会は、このように回り道や何でもない日を重ねながら、ようやく与えられたりするものだからです。パウロたちの宣教旅行といえども、毎日毎日、会う人会う人に所かまわず福音を伝えていたわけではありません。イエスさまもそうでした。歩きながら、ご自分の近くに来る者と過ごされました。ある場所では人々の不信仰のゆえに何も力あるわざを行うことができなかった(マルコ6:5-6)ことさえもあります。


ここでも、14節には「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた」とあるように、神さまが備えてくださっている人がいます。私たちも同様です。毎日、福音を伝えるチャンスがあるわけではないかもしれません。何週間も、何カ月も、または何年も待たされることがあります。なかなか勇気が出ない、タイミングが悪いかな、相手の気持ちがまだ整っていないかなと二の足を踏むことがあると思います。けれども、それが普通です。パウロたちも幻をみてすぐに出発したにもかかわらず、ネアポリスという町を通過し、ここピリピでも数日を過ごしていました。この間、特筆すべきことが起こらなかったということです。それでも、ルカが書いたのは、そうした祈りの期間、何も起こらないけれども福音を伝える人と出会うまで待つ期間があるからです。その間、決して落胆せず、また伝えることを忘れず、確信を冷やさずに持っておくこと。それこそ、福音を伝える側が持つべき姿勢ではないかと教えられます。


11節でようやく「安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われる川岸へ行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした」とあります。安息日は礼拝の日です。そして、その礼拝は「町の門の外」で行われていました。町の中心ではなく、門を出てからさらにその外側にある。彼らが足を踏み入れたその場所は、まことの神が敬われる土地ではなかったことが分かります。町の中心部や目立つところにはない。しかも、祈り場があると思われる川岸なので、礼拝や集会をする建物も持ってはいませんでした。そんなひっそりと静かな川岸で集まり、祈りを持つことがその土地の神を敬う人たちの礼拝であり、礼拝場所でした。そこに居合わせたのが「リディア」です。彼女の出身はティアティラ市でそれはアジア州にあります。そして、彼女の商売は「紫布の商人」でおそらくビジネスのためにピリピにも拠点を持っていたと考えられます。ティアティラとピリピはローマの植民都市の中で裕福な町で、彼女はそこで仕事のできるキャリアウーマンでした。「紫布」はとても高価で(当時、金よりも高かった)、価値あるせいたく品(ローマ人の着るひらひらの上着の素材)、それを扱ってブイブイいわせていたのがこのリディアです。


しかし、彼女の特徴は「神を敬う人」(14節)でした。人生において何が大切なのか、この彼女の説明だけでもわかります。お家を二つ持っていることが自慢ではない。高価な商品を取り扱うことのできるスキルや二つの都市で拠点を持てるほどビジネスで成功することが大切なのではない。彼女のモットー、足の置き場所は「神を敬う」ことでした。ユダヤ人ではない彼女が神を敬うようになった経緯には、ユダヤ人との出会いがあったはずです。アジア、ヨーロッパの都市にいながら=偶像に囲まれながら、唯一まことの神を礼拝することに関心を寄せていたのです。


そんな彼女を含めた「集まって来た女たちに」パウロは福音を語りました。女たちとはそこに男性がいなかったという意味です。当時は、エルサレムでは神殿で礼拝が行われていましたが、神殿のない異国では男性10名がいれば集まって礼拝をする場所(シナゴーグ)を開くことが認められていました。しかし、このピリピには女性しか神を敬う集まりがなかったので、彼女たちは町の門の外の川岸で祈りの時を持っていたのです。少し人間的にはがっかりしたような小さな集まりです。町に集会場所さえなく、当時社会的に影響力を持っていた男性もいない。わざわざ、海を渡って急いで来た結果がこの数人の女性たちでした。そこで、パウロは福音を語りました。それが、主が幻で見せてくれたことへの答えだったからです。マケドニア人が立って「私たちを助けてください」と言っていたことの答えだったからです。どんな小さな集まりであっても、屋外であっても、屋内であっても、パウロは福音を語りました。なぜなら、福音はすべての人に宣べ伝えられるものであり、その人の永遠の行き先を決める大切な知らせであり、力があるからです。自分の中にとどめておく、かくれる、今日はやめておく・・・そういうことは福音にはにつかわしくなく、ふさわしくありませんでした。


リディアはパウロの話を聞いていました。そのために、主がしてくださったことがあります。「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた」(14節)のです。いったい、どのように話したら、初めて会ったリディアがパウロの話をよく聞いてくれるのでしょうか。面白い話から始めたのでしょうか。ピリピ地方の方言で親しく話したのでしょうか。色々想像したくなる場面です。


ここから、2つのことを受け取りましょう。1つは、福音を語るとき、主が働いてくださるということです。パウロはただ話をした(13節)=福音を宣べ伝えた(10節)とあるだけです。しかし、福音をストレートに語るからこそ、そこに主は働いてくださいます。福音がすべての民族、全世界、あらゆる人々に伝えられることは神の御心(願っておられること)だからです。だから、神さまは福音が伝えられるところに豊かに働いてくださいます。もう1つは、福音を聞くとき、神さまが心を開いてくださるということです。聖書を読んでもわからない、学んでもいまいちピンとこない、礼拝のメッセージもチンプンカンプン・・・そんなときもあるかと思います。しかし、だから自分はダメなんだ、素直に信じられる人は幸せだが自分は違うと結論付けないでくださいね。どうか「神さま、これから聖書を読みます。よく分かるように導いてください」「神よ。今日の礼拝説教、この私が理解できるように牧師が上手に話してくれますように(!/冗談です)」、「神さま、今日は私が信じることができるようにしてください。この心がオープンになるようにしてください」と祈ってみてください。自分で信じようと思ううちは、肩に力が入って硬直するように、心も堅くなってしまうかもしれません。まだクリスチャンではない方にお勧め(お願い)します。どうか神さまが礼拝メッセージを聞くとき、聖書を開いて読んでみるとき、またクリスチャンと話すとき、その真理が分かるようにしてくださいと祈ってみてください。


3. 福音のひろがり

 主によって心開かれたリディアに変化が起こりました。パウロの語った福音を受け入れ、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたのです(15節)。あとで見ますが、おそらくこの「家族」の中には夫や男性が入っていました。小さな川べりでの出来事が、彼女とその家族のたましいを救う大きな出来事につながっていったのです。また、注目したいのはここでもっと大きな物語が展開していることです。このピリピは、パウロらにとって(聖書の中で)初めてのヨーロッパでの宣教です。それまではアジアで福音宣教をしていたのですが、ここでヨーロッパ宣教の門が開かれたのです。その門を開いたのは、たった一人の女性であるこのリディアでした。彼女が入り口となって、この後ヨーロッパ全体へ福音が広がって行ったのです。


 福音をとどめているのは何でしょうか。いえ、誰でしょうか。もしかすると、私が、あなたが福音を拒んでいるので、その次につながっていかないのではないでしょうか。 例:ボトルネック>>瓶(ボトル)の注ぎ口のように、ある部分が狭いために、それまでの流れを止めてしまい、以降は流れが極端に悪くなること。 

これが福音宣教にも通ずるかもしれません。そして、その流れを止めているのがまず自分の内側にないか、謙虚に探られたいと願います。


 そして、福音は伝えなければならないものではありません。それでは自分の義務感、あせり、嫌々とか無理にということが出てきます。そうではなく、福音の素晴らしさを知ると、自分の中ではとどめられなくなって、あふれるものです。だから、まず十分に福音を味わいましょう。じっくり自分の中に浸透させ、醸成させ、発酵させ、それから膨れあがるもの、湧きあがるものをもって福音宣教に向かいます。主のくださる福音はそのようなものです。


 最後にこのルディアとその家族に起こったこととまたその地域に起こったことを見て結びます。パウロの語る福音を受けいれた彼女は、バプテスマ(洗礼)を受けます。古い自分に死に、新しい自分に生きる。自分の罪はすべて処分され、永遠のいのちが与えられる。これまで罪の奴隷であったのが、これからは義の奴隷(神のしもべ)として生きていく。これまでは自分が中心であったのが、これからはキリストが主となる。そんな変化が起こったとき、彼女の家族も救われバプテスマを受けました。それは、彼女が福音を自分だけのものにしなかったからです。自分の家族にも同じように伝えたからですね。そして、それは彼女と家族だけに限りませんでした。


 「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」(15節)。これは、パウロたちを迎えることで、彼女の家を教会にしたということです。それまでは川岸で集まっていたのが、これからは彼女の家がそのまま神の家となりました。事実、このあとパウロとシラスは町に騒ぎを起こしたと訴えられ、牢に入れられてしまいます。そのとき、奇跡がおこって牢の扉が開きました。囚人たちを見張る看守は、自害をして責任を取ろうとしますが、パウロたちは逃げることをせず、変わりに福音を伝えました。そうして主イエスを信じた彼とその家族はバプテスマを受けます。それからパウロとシラスが次に向かったのはリディアの家でした。「牢を出た二人はリディアの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから立ち去った」(16:40)。リディアの家は、一時的ではなく主を受けいれたその日から、家の教会となりました。そして、すでに「兄弟たち」がそこにいたことから、女性たちに加え、男性たちも救われていったことが分かります。その始まりは、一人の女性、リディアの信仰決心でした。そこから彼女とその家族、そして地域の人々の教会として用いられ、さらにはそれがピリピにある教会として各地に発展していきました。そして、その後このリディアの家の教会を含むピリピの教会は、パウロの宣教旅行を支援し(ピリピ4:15-16)、協力者のエパフロデトを派遣し(ピリピ2:25)全世界への福音宣教のために活躍しました。

今日のまとめです。

1 福音は出発する特徴があります。外へ向かう力があるのです。あなたが福音を伝えたいと願っている人はどなたでしょうか。どうかノートに記し、名前をあげて具体的に祈りましょう。主が福音を伝える機会を与えてくださるように、自分から祈りましょう。


2 福音には入り口があります。ただ闇雲に、街宣車のように伝えればよいものではありません。相手に伝わるように伝えます。イエスさまが神の立場を捨て、天からくだり人となって仕えてくださったように。パウロが海を渡り、町の外に出て、川岸の数名の女性たちに語ったように。目の前の人にいつでも語れるように備えましょう。買い物や運転の際に、傲慢な態度でいてはその人に伝えることはできませんものね。どうか主が働きやすいふるまいをいつも心がけましょう。


3 福音はひろがっていきます。詰まらせることのないよう、自分がボトルネックになってはいないか点検しましょう。あなたを通して、また、あなたの家を通して福音がひろがっていくようにイメージしてみましょう。リディアの家の教会、また私たちのこれからのゴスペルハウスが福音宣教のために用いられますように。

私たちも、家も、生涯も主の良い知らせのために用いていただけるなら幸いです。福音のために生きる教会であり続けましょう。


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