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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「私たちの町で」

更新日:2023年8月9日


使徒の働き17章16-34節

 私たちの住んでいる日本で近代のプロテスタント宣教が琉球(沖縄)で開始されたのが1846年。今年で177年になります。しかし、日本はいまだ「もっとも福音を伝えにくい、受け入れられにくい地域」「福音が届いていない民族の一つ」として祈りに覚えられ、たくさんの宣教師も派遣されてきています。「福音」を知らない、届いていないとどうなるのでしょうか。現在は15~39歳の年齢層の死因のトップは自死です。昨年一年間で21,881人が自死されています。これは記録なので、行方不明者を含めるとさらに多いと予想されています。毎日およそ59名の方が自死している現実。11%の人が生まれなかった方がよかったと考えています社会。85%の人が生きる目的が何であるか、存在意義が分からないと答えているのが、私たち日本に住む者の隠せざる叫びです。


こういう社会の中で、教会の果たす役割、教会が福音宣教に励む理由は小さくありません。日本には福音が必要なのです。日本人には福音が必要なのです。この国に暮らしておられるあらゆる国の人々に福音を届けることが急務です。 ともすると、私たちは「教会に青年がいないから青年伝道をして教会を活気づけよう」、「このままだと教会の将来がない。だから若い人に福音宣教しよう」と考えがちですが、これはベクトルが反対です。そうではなく、青年に福音が必要だから、教会は福音を宣べ伝えるのです。若い人たちにも救いが必要だから、求めているから福音を伝えるのです。この考え方の刷新は、教団の前理事長を務められた廣瀬薫先生が機会があるたびに言っておられました。教会に青年が必要なのではない、青年に救いが必要だから福音を伝えるのです、と。


この社会の中で生きていて、孤独を感じ、絶望し、誹謗中傷から立ち直れず、死に追いやられようとしている人々がいます。闇の中を手探りで今日を何とか過ごし、確固たる望みを持つことなくこれからを生きていかなくちゃと自分を打ち叩いている人々がいます。それを満たすのは「福音」しかありません。


「神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ2:4)。その真理とは、この世界には神がおられること。この世界は神が創造され、今も支配しておられること。その神は私たち人間一人ひとりに目を留め、愛しておられること。神はこの世界にも、あなたの人生にも計画を持っておられ、祝福を与えたいと願っておられること。また、全宇宙の歴史を完成に向けて導いておられること。これらの「福音」を届けることは、存在価値や人生の意味を失っている人々に希望を、永遠のいのちを与えることになります。この世界は、人々は「福音」によって目ざめ、回復させられるのです。



1. この町の偶像とは


本日の聖書個所は使徒の働き17章です。聖霊を受けた使徒たち、聖霊を受けた教会がどのように福音宣教をしていったかという記録です。使徒たちはちゃんと用意された集会、整った場所、話を聞く気満々の人々に対して福音を伝えていたわけではありません。聖書朗読を開始した17章16節は「パウロはアテネで二人(シラスとテモテ)を待っていたが、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた」とあります。パウロの心が大きく動いた、揺さぶられた、震えたという記述です。その理由は「町が偶像でいっぱいなのを見た」からです。それから毎日人々と論じ合いました(17:17)。


さて、私たちの町はいかがでしょうか。普段歩いたり、自転車に乗ったり、車を運転したり、鉄道で移動したりしていますね。「この町の偶像は何ですか?」と聞かれたらどのように答えるでしょうか。分かりやすいのは神社や仏閣かもしれません。大宰府や〇〇神社、〇〇寺はすぐに思いつきますね。ただ、偶像はそれだけではありません。聖書では「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジプト記20:3)が第一の戒めとして記されています。まことの神以外のものを神のようにして拝み、心を寄せ、夢中になり、ささげ、ひざまずき、信頼し、祈ること。これを禁じています。それはまことの神の栄光が汚されることであり、私たちの本当の幸せにはならないからです。それゆえ、主なる神は聖書を通じて「わたし=唯一まことの神以外に」どんな神も持ってはいけないことや キリストなしで救いを達成しようとしたり、人生の意味を探そうとしたり、満足しようとすることを一番初めの戒めとして仰せられました。そして、まことの神以外を神とする第一戒の具体的な表れが、像を作ったりして拝む偶像崇拝(第二戒)となっていきます。そして、これらはさらに主の御名をみだりに(面白おかしく、恐れや敬意をなしに)唱えたり、礼拝の日をおろそかにする第三、第四の戒めへと続いていきます。ルターもすべての罪は第一戒から背くことで始まっていると教えています。


もう一度問います。「この町の偶像は何でしょうか?」 神社仏閣、銅像や地蔵のことだけを指しているのではなく、この町の人々は自分の存在意義、人生の意味をどこから得ているのでしょう。この町の人は、何によって自分が受け入れられていると感じるのでしょう。何が喜びでしょう。安心感をどこから得ようとしているでしょうか? 町で目につくものは何でしょうか。人々はどんなものに魅力を感じているでしょうか。何を求めて買い物をしているでしょうか。何に時間をかけているでしょうか。これらの時間、お金、意志は自由に使っているようですが、対象となるものにささげているのです。自分の時間、お金、自由をあるものにささげているなら、それがその人の偶像です。

ぜひ、意識して町を歩いてみてください。人々を見てみてください。この町の偶像はいったい何だろうか。人々が時間を忘れて熱中しているもの。多大な犠牲を払ってでも続けているもの。やめられずにいるもの。大きな広告で人々を寄せ付けているもの。あらゆる手段で人々を魅了しようと誘っているもの。大きな声で占領しようと迫って来るもの。甘くささやくような声で近寄ってくるもの。人々の目の向かう先。人々の手がしきりにさわっているもの。人々の足が向かっている先。知らず知らずのうちに吸い寄せられているもの。パウロが歩き、見て観察したように、私たちもこの町でそのようにやってみましょう。そこから私たちの町での福音宣教が始まります。


2. 求めている心

 使徒パウロは「この町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚え」ました。この「憤り」とは怒るという意味ではなく、それが彼を福音宣教へと駆り立てるもの衝動でした。パウロの心がそこまで激動したのは、人々が偶像に捕らえられているのを知り、本当の神さまを知ってほしいからでした。パウロは、偶像に捕らわれている人々の心を福音で埋めよう、福音で解放しようと決めました。そしてこのアレオパゴス(当時の裁判所)で語り始めたのです。その場所は裁判所だったので、正しいことを言う、正しいことを告げるという大切な場所でした。福音を告げるときは、本当のことを言うのだ、これは本物なのだ、これが真理なのだという姿勢を持つことが大切ですね。


パウロは町を見て、歩き、人々と話して、彼らがどんな人で、何を求めているのかを知りました。そして、それらを切り口にして福音のメッセージを届けています。相手の現状、ニーズをよく知ってから福音を伝えています。アテネの町の人々の特徴は、①「あらゆる点で宗教心にあつい方々」(17:22)であること、②

「道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけた」(17:23)ことでした。アテネの町の人は宗教心にあつかったばかりに、その対象としていた神々の範囲がとっても広かった、たくさんのものを神として拝んだり、まつったりしていました。あまりに熱心なので、自分たちで意味が分かるものだけを神さまにするだけでは足りなかったようです。「知られていない神に」(17:23)とは、「他にどんな神がいるか知らないけれど、漏れてはいけないので知らない神を拝みますからどうぞよろしくお願いします」という意味ですね。そうして、パウロはその町を歩き、よく見て、人々をよく観察したうえで福音を語ったのです。


アテネの人々が求めているのは、自分たちが礼拝をする神です。この点で本当に宗教心にあついと思います。毎日論じ合った(17:17)とあるように、彼らは学ぶことに熱心でした。話が好きで、知識が好きで、「何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしてい」(17:21)ました。それで、彼らのあつい宗教心は、自分の興味、関心を満たすためにあったことが分かります。そのために神を知るのであれば、新しい神をどんどん教えてほしい。その内容は新しかったり、今まで聞いたことのないものであればなおよい。そうした知識で満たされることが彼らの願い求めであったようです。パウロはそれを知って、ならばと彼らが聞いたことのない「イエスと復活を宣べ伝えてい」(17:18)ました。


「何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」とあるのは、まるで、今日の私たちと似ていないでしょうか。毎日、TVは早朝から深夜までたくさんの番組があります。また、手元でyoutubeの動画を見ていれば、新しいことや知らないことを教えてくれます。1つだけ見て終わることがなかなかできません。次から次へとおすすめ動画が(頼みもしないのに)出てきます。指を動かすだけで見れてしまいますし、チャンネル争いもすることがなく家族にも邪魔をされないので没頭してしまいます。あまり意味のない動画であっても見続けてしまい貴重な時間や休みを費やし、吸い取られて、しまった~と後悔する経験もあるかもしれません。


これに対し、福音は変わることがないメッセージです。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」(へブル13:8)し、聖書のみことばから何一つつけ加えても取り除いてもならない」(黙示録22:18-19)とされるいわば古い、封印された教えです。これから量的に新しいものは決して発見されたり、加えられたりしません。旧約聖書だと、今から数千年前の書き物であり、それはアテネの人からとっても、私たちにとっても「古い」話しです。けれども、真理であれば、それは新しいものである必要はありません。ある病気を治す完全な薬やワクチンができたら、それを変えることは必要がないのと同じですね。私たちは「福音の変わらなさ」をしっかりと握っておきたいと願います。


もう一つの特徴は「知られていない神」にささげる祭壇があったことです。パウロはここから、本物の神さまは「天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません・・・人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのです」(17:24)と語りました。神は人が作った物には住んでおられない、姿かたちにして仕えたりする必要もない、地蔵のように雨や雪をしのぐ傘も前掛けもいらない。それどころか、神がすべての人にいのちと息を与え、見えるもの見えないもの、時代、土地を与えておられるのだと告げます。神はすべてのものの創造主であり、歴史の支配者であり、全地の所有者であり、私たちには万物を恵みとして与えてくださっているのだと言ったのです。使徒パウロは、アテネの人たちに、新しいことだけを追い求めて面白おかしく過ごすことをやめ、ぼんやりとしか分からない偶像に仕えるのをやめ、まだ知らない神がいるとおびえるのをやめ、ご自身をはっきりと示してくださるまことの神を心に据え置くことを語っています。私たちが作り出した神ではなく、私たちを造ってくださった神を、この世界を造られた神をほめたたえましょう。


3. 福音を伝える

 パウロは、福音をどのような気持ちで伝えたでしょうか。いやいやながら語ったわけではありません。自分では信じてもいないことを話したわけでもありません。パウロは、アテネの人たちに福音を語れることがとっても嬉しかったと思います。その機会を神に感謝しながら、語ったのではないでしょうか。それはアテネの人たちが聞く初めての福音だったからです。今まではいろいろな神々の話を聞いたり、新しいことで満足したり、知らない神を迎え入れたりしていたところに、ようやく「本物の神さまがおられるよ」「まことの神はただお一人ですよ」「もう知らない神に縛られる必要はないのですよ」と知らせることができるのですから、とっても嬉しかったはずです。それは、パウロ自身も福音に誇りを持ち、それを伝えられることに喜びを感じ、生涯をかけていたからです。


その結果はどうだったでしょう。残念なものもあれば嬉しいものもあったようです。「このおしゃべりは、何が言いたいのか」「彼は他国の神々の宣伝者のようだ」(17:18)、「死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは、「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」(17:32)と色々ありました。拒絶されたり、笑われたり、あざけられたり、意味不明!と相手にされなかったり・・・これが聖書に記してあることです。その意味はどうでしょうか。彼らの反応はパウロに対してではなく、パウロが語った福音に対する反応です。ですから、私たちが福音を語るとき、それに拒否反応を示されたり、もういいやと去って行かれたり、次また聞かせてねと同じことをまた話すようになったりと様々です。けれども、あなたが拒絶されたり、人格を否定しているわけではないことを覚えておいてください。きっと福音を語れば、嫌な思いや失敗だなと感じることもあります。それでも、やめたりしないでください。失格者だと思ったり、不得意だからやめようと思ったりしないでください。聖霊が働くと、必ず福音を受け入れる応答をしてくれる人、時が来ます。


この章は「ある人々は彼につき従い、信仰に入った。その中には、アレオパゴスの裁判官ディオヌシオ、ダマリスという名の女の人、そのほかの人たちもいた」(17:34)と結ばれているのは、何よりも励みになりますね。使徒パウロが福音を語ったからこそ、受け取り拒否をする人もいれば、受け取る人もいました。恐れて福音を語らなければ、あざ笑われることもありませんが、福音を受け入れて救われる人も決して起こりません。使徒パウロにとって福音を伝えることは「負い目」(ローマ1:14)であり「ぜひ福音を伝えたい」(1:15)と心に決めていることでした。借金やローンは、背負っているのは大変なことですが、それを返済してどんどん額が減っていくのが快感になるそうです。私たちも、福音を伝えることは義務ではありませんが、やればやるほど快感になるのではないでしょうか。やってみないと分かりません、味わえません。失敗してもそれは自分のせい、あなたのせいではありません。私たちは誰が信じて、誰がまだ受け入れないかが分からないので、あらゆる人々に福音を伝えます。それは、私たちが判断することではなく、聴く相手の心を開き、私たちの語ることに心を留めるようにしてくださるのは神さまの領域です。そして、その神さまはすべての人が福音を聞いて救われることを望んでおられるので、必ず救われる人を起こしてくださいます。結果は主にお任せして、私たちは福音を伝えることに専念いたしましょう。その勇気も機会も聖霊なる神がくださいます。


通りすがりや闇雲に伝えよとは言われていません。パウロがアテネでの待ち時間を利用し、町を歩き、人々を観察し、話かけて始めたように、私たちもまずこの町をよく見、よく歩き、人々が何に心ひかれているのか、何に忙しくしているのか、何をかなえたいと頑張っているのか、どんなことで悩んでいるのかを知るように人と会話し、交わりを持ち、関係を築きましょう。その中で、福音を伝えるきっかけ、チャンス、しるしが与えられるように祈りましょう。その時は必ず来ます。


主よ、ここから遣わされていく私たちに、今週福音を伝える機会を、出会いを与えてください。福音を伝えるとき、相手の心に届くことができるように、目の前の人を大切にすることができますように。福音を伝えたとき、さまざまな反応があります。遠慮されても必要以上にうなだれたり、もうしないとあきらめたりすることがないよう支えてください。私たちが生涯のうち、一人の救いに携わることができるように、このしもべたちを主のご用のために使ってください。


私たちは福音宣教のために用いられる教会、クリスチャンであることを祈り願います。この町が福音を必要としています。

「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」(ヨハネ14:31)


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