聖書箇所 エペソ人への手紙2章1~3節 |
Ⅰ. 死んでいた私(1節)
エペソ書のテーマは「和解(わかい:reconcile)」です。辞書の意味では「争いをやめて仲直りをすること。和睦(わぼく)。争いをやめる契約。円満になること」です。それは第一に「神との和解」であり、第二に「人と人との和解」です。私たちは神との和解を経て、人と平和をつくることができるようになります。それはまさに神に愛されていることを知って、自分を愛せるようになり、人を愛せるようになるのと同じです。そして、今朝はその「神との和解」を知るための前提の部分になります。それは、私たちは神と和解をしなければならない存在、状態なのだということです。和解の反対は「決裂、敵対(相手を怒らせる、苛立たせる:agitate,fight)」で、平たくいうと「関係が破れている、関係が壊れている、関係の破綻」です。それが神とあなたとの関係です。あなたと神との関係は破れている、壊れている、破綻している。とてもキツイですね。会社が経営破綻したら、それは救われようがありません。しかし、聖書が「福音=良き知らせ」(マルコ1:15)と言われるのは、その破れた神との関係が修復され、和解を実現するものだからです。再度申しあげますが、今朝はその前段階。あなたと神との関係破綻がどれほど深刻なものであるのかを知っていきます。これが福音を福音として受け取る、救いを救いとして受け取る正しい道順だと信じて、ともにみことばに心を傾けてまいりましょう。
1つ目は「自分の背きと罪の中に死んでいた者」(1節)です。1章7節を見た時、私たちは「救いに関しては死んでいる者」と学んできました。ただ池で溺れていて、自分の手で浮き輪をつかんだから救われたのではなくて、死んでいたのだ、と。だから完全に新しいいのちを与えられなければ、救われることがありませんでした。それをなしたのがただ「イエス・キリストによって」(1:5)救われたのが私たちです。それを改めて説明しているのがこの2章1節です。あなたは「自分の背きと罪の中に死んで」いました。もう少し詳しく訳すと「背きと罪のせいで」「背きと罪が理由で」死んでいたとなります。
「背き」は違反という意味で明確な違反の行為を示します。たとえば、立入禁止の線を超えてしまうような行為です。ただ学校や地域のルールであればやり直しや反省がききますが、深刻なのは神の戒めを破っているという点です。相手は神ですから、ごまかしがききません。完全に聖であられる方の前に、一度でも一ミリでも罪を犯したら、それはさばかれなければなりません。取り返しがつかない違反を犯しているのです。とてもヤバい状況にいるのが「(神への)背き」にある状態のが私たちであり、あなたなのです。
もう一つの「罪」とは、「的外れ」とか「基準に足らない」という意味です。先程の「背き」が明確な違反であるのに対し、こちらは義の基準に達していないという、たらなさゆえの不義です。これらのゆえに、私たちはもうほどこしようのない状態、瀕死の状態・・・なのではなく、もうすでに「死んでいた者」です。言うまでもなく、この死は「霊的な死」です。聖書は私たちが生きる、死ぬ、いのちということを「神との関係において」教えています。最初の人アダムも「その鼻にいのちの息を吹き込まれ」(創世記2:7)て「人は生きるものとなった」とあります。人は神との関係が豊かにむすばれていて初めて「生きるもの」となるのです。生物学的に生きている、身体が動いている、心臓が動いている、息をしているというレベルではなく、「神との関係において切れているか、結ばれているか」という霊的な意味で、人は「生きているか、死んでいるか」が分かれます。
そんなことを言われて抵抗を感じられるかもしれません。しかし、私たちは花瓶の花のようです。今は綺麗に咲いていても、今は不自由を感じていなくても、今は枯れるかも知れないなんて心配していなくても、根本が切れているので、決して永遠には生きられません。その根本とは、私たちと神との関係です。どれだけ今豊かな水があっても、花びらをつけていても、葉が青々としていても「やがては枯れてしまう」存在です。それは、永遠の視点から見れば「すでに死んでいる」状態です。相当マズイ状況です。絶望的です。果たして、ここから私たちが救われる道はあるのでしょうか。
Ⅱ. 不従順な私(2節)
まだ悪い知らせは続きます。「背きと罪の中に死んでいた」ことを2節では「(悪い)霊に従って歩んでいました」(2節)と言い換えます。「死んでいた」から「歩んでいた」と。霊的には死んでいても、歩むことができます。しかし、それは神とともに歩むという人生ではありません。恐ろしいことにそれは「罪の中」を歩む人生であり、「この世の流れに従って」歩む人生であり、「空中の権威(空中であって天上ではない)を持つ支配者」に従う歩みであり、「不従順の子らに働いている霊」に従う歩みです。真に意味のある歩みではありません。胸を張って分かち合える歩みではありません。まことの光に照らされたらひとたまりもない歩みです。不義があり、ごまかしがあり、敵意があり、裏切りがあり、隠し事があり、ズルい歩みです。こうした歩みをしている者が前節で言われていた「死んでいた者」と同一人物なのです。まさに、神に救われるまでの人間は「死んだ者のように生きている者」です。
――死んだ者のように生きている――
私自身がそうでした。少しこの教会でも証しをする機会がありましたが、私はクリスチャンホームに生まれました。教会で出会った両親が結婚をし、私も胎内にいるときから教会で育てられました。小学生までは喜んで集っていましたが、中高生になると徐々に教会から足が遠のき、部活や友だちを理由に教会から距離を取るようになりました。それでも、教会の人々の視線は感じていました。「よく来たね」とか「待ってたよ」とかけてくれる声や視線がくすぐったかったり、邪魔に思ったり・・・・・・大学生になって、親元を離れるといよいよ教会とは関係のない日曜を過ごせるようになりました。それから学生時代、社会人と6年間、教会、礼拝、聖書、クリスチャンとは無関係の日々を送りました。そんなある日、突然私は心の中に焦りが起こってきて、このまま生きていくことができないようになりました。何が理由かは分かりませんが、それまで自分が望んでいた生活(働いて、好きなことに没頭し、バイクに乗り、友人もいる)に満足できなくなり、それどころかどのようにして生きていったらよいのかまったくわからなくなってしまったのです。
そんなとき、すがるようにして手を伸ばしたのが両親がプレゼントしてくれた聖書でした。そこには「眠っている人よ目を覚ませ(起きよ)。死者の中から起き上がれ。そうすればキリストがあなたを照らされる」(エペソ5:14)というみことばが目に飛び込んできました。まず心に刺さったのは、自分が「眠っている人」であり「死者」であると言われている箇所でした。それまでの自分はまさに「好きなことをしているけれど本当の満足をエられていない」「生きているけれども生きた心地がしない」まさに「生きていても死んでいる者」でした。その原因が分からずにいました。このみことばに出会うまでは。しかし、このみことばによって自分がキリストに対して生きていないかぎり、本当の意味で生きてはいないんだということを分からせてもらいました。
まさに「罪の中にあってこの世の流れに従い」(2節)思うがままに生きていた私は、神から離れていたので、本当の意味では生きてはおらず、それゆえに満たされた思いも平安も、永遠のいのちもないままに生きるしかありませんでした。それはまさしく生きながら死んでいるというむなしい状態です。そして、そこから救ってくださったのはイエス・キリストでした。
私たちは生きていても死んでいることがあります。死んでいても生きてしまうことができます。ダメだとわかっていてもしてしまう。道を踏み外していると気づいていても進んでしまう。そんな自分の姿に気づくとき、私たちはへこたれます。しかし、そのように打ちひしがれ、砕かれるのは新しいいのちが与えられる機会です。この世の流れ、空中の権威、不従順の霊に従って歩むしかなかった自分に、天を見上げて生きる道があるのだと、いのちの道があるのだと引き戻してくださる救いの機会です。むなしいものを神としていた、頼りにならないものを目的としていた私たちを、あなたを、自分を救い出そうと導かれるまことの神がおられます。あなたを救ってくださる方がいる。そうではないと罪の道から引き戻してくださる方がいる。死んでいた者を救い出そうと計画してくださる方がいる。死んだ者にいのちの息を吹き込ませよう、悪の道から立ち返らせ、義の道に、神の栄光に役立つものにしようと目を留めていてくださる方、手を差し伸べてくださる方がいる。暗闇にいればいるほど、神の足音に耳を澄まし、射し込んでくる福音の光を仰ぐ者として踏みとどまりたいと願います。
Ⅲ. 御怒りを受けるべき私(3節)
もう一つ下へ向かう階段があります・・・・・次節には「自分の肉の欲のまま生き、肉と心の望むことを行い・・・生まれながら御怒りをうけるべき子ら」(3節)とあります。これが神から見た私たちの偽らざる姿です。3節の書き出しは「肉の欲のまま」「肉と心の望むことを行い」と私たちの姿があります。不従順の霊に従ってひたすら生きる、そういう姿です。私たちにはそういうことが思い当たる経験があるかもしれません。しかし、実のところ、これを書いているパウロは誰よりも律法を知り尽くし、神の戒めを守り行うことに関しても非の打ち所のない人物でした。神の前に真面目な生涯を送っていた人物です。行いにおいては責められることのない完璧さが彼にはありました。それでも、そんなパウロがここで「かつては自分の肉の欲のまま生き、肉と心の望むところを行い」と記しているのは、お世辞ではなく、彼の心からの告白です。なぜなら、良い行いであっても自分の肉により頼み、自分を誇るものであるならば、それは「欲」そのものだからです。
私たちは、「肉の欲」と聞くと、わかりやすく悪い行い、わがままで、欲求に任せた行いのことを想像すると思います。しかし、私たちは正しい行いや善い行いをもって、自分を誇ったり、安心させたり、他者をさばいたりするものです。行いだけ見れば、それは良いことかもしれませんが、その動機、あるいは自分や周囲にもたらしている結果を見ると、悪い影響を及ぼしたり、苦い思いをさせることもたくさんあります。また、肉や心の欲は良いものに変装して近寄ってくるので、自分でもその恐ろしさに気づかないこともあります。私なんかは、そうした弱点を持っています。自分の正しさや自分の生き方をあまり疑わないので、良くありませんね。ここで記されているところの「生まれながらにして御怒りを受けるべき子」(3節)という宣告を正面から聞かなければならない存在です。
パウロが意識しているのは、人前での行いや善行の多さではありません。それが問題であれば、人一倍自分を律し、厳しくあり、行いを積み重ねればやがて解消することができるでしょう。しかし、神の前では「御怒りを受けて当然の者」「生まれつき神のさばきを受けて当たり前の自分」であることを認めていました。
なぜ、律法バリバリ、行いバリバリのパウロがそのような思いに至ったのでしょうか。それは「イエス・キリストが十字架にかかられた」からです。イエス・キリストが地上に来られた理由は「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た」(マルコ10:45)からです。ここで言われている「神の御怒り」を受けられたのは、まさにイエス・キリストであったということを知ったからです。十字架にはそのような意味があったのだということを知らされたからこそ、パウロは自分の行いを誇ることはいっさいムダであると思うようになりました。もし、自分の知識や行いを誇るようになれば、それこそキリストをムダにすることだからです。イエス・キリストを切り捨てるような、その十字架の死をムダにするようなことはしたくない。できない。なぜなら、本来私たちが受けるべき神の御怒りをその身にすべて受けてくださったからです。ここに愛、神の愛があります。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(第一ヨハネ4:10)。
神の御怒りと神の愛とはコインの裏表のようなものです。私たち人間には整理して理解することはできないかもしれませんが、事実、神は御怒りをくだすことと、愛することとを実現してくださいました。私たちの生まれながらの罪の性質、これまで犯してしまった思いと行いと言葉による罪、死をもってさばかれなければならない罪からの報い。このことを、私たちではなく、御子イエス・キリストにおいて処分してくださいました。神ご自身がその心を引き裂き、断腸の思いで御子を十字架につけ、ひとり子から十字架を取り除いてくださいと祈られても、私たち多くを失うことよりも御子を死に渡すことを決断なさいました。私たちは、こうした神の愛を受けています。実際に、神はたぎるような熱い思いを注ぎ、身がちぎれる痛みを味わい、流してもぬぐえない涙を流し、切実で叫ぶような祈りを祈り、理解される者は一人もおらず、当然の報いを受けたまでだとあざ笑われ、罪を背負って死ななければならない滅びの恐ろしさを引き受けて、十字架についてくださいました。それほどまでに具体的で、それほどまでに熱く、それほどまでにリアルな神からの愛を私たちは受けているのです。この愛をいただいたなら、私たちはもはや自分ではなく神を誇るように変えられます。御怒りを受けてくださったこの方こそ、あなたの救い主です。イエス・キリストの十字架を見つめて、本物の愛と救いを受け取りましょう。 <了>
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