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「私の誇り」

執筆者の写真: 大塚 史明 牧師大塚 史明 牧師

更新日:2022年9月21日


聖書箇所:第一コリント人への手紙12章14-27節

私が福岡に来て一番驚き、そしてまた嬉しいことは「人から話しかけてくれる機会が増えた」ことです。東北と九州の違いかもしれませんが、近所の方、すれ違う人、買い物先の店員さん・・・どの方もあちからが話しかけてくださることに感激しています。そのとき、笑顔で挨拶をしてくださると、こちらも元気に返答します。ただ、最近はニコニコ話しかけてもらっていると思い準備をしていると、イヤホンで通話している場合も多くなりました。いずれにしましても、笑顔や挨拶は伝染します。なかなかそれを無視する人はいませんものね。

もう一つ、私たちは人から伝染するものがあります。それが「つぶやき」です。挨拶や笑顔も伝染しますが、「つぶやき」の伝染力・破壊力・瞬発力は挨拶以上に伝わります。想像してみてください、もしすれ違う人がブツブツ言っていたとしたら・・・きっとすれ違ったあとに「何をあの人はブツブツ言っているのだろう。感じ悪いし失礼しちゃう」と反応してしまうのではないでしょうか。そして、それを見られたあなたも「つぶやき」に巻き込まれてしまいます。噂話やヒソヒソ話、陰口も同じような力を持っています。 

今朝の第一コリント12章14節からも実は「つぶやき」に満ちています。ただし、人間同士の考えや心の動きだけで終わらず、聖書を通して神さまが語ってくださる箇所ですので、期待しつつ順に見てまいりましょう。


Ⅰ.現実と理想(14~21節)

1. 私たちの現実

今朝の始まりで注目したいのは「たとえ」で始まる節です。「たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」(15節)とあるのは、絵本のようにからだの部分の言い合いではなく、私たち=教会=クリスチャンの会話として登場しています。続く「たとえ耳が「私は目ではないから・・・」とあるのも同様です。足は手を、耳は目を、Aさんは「私はBさんとは違う」と言い、Cさんは「Dさんと同じにしてもらっては困る」とつぶやいているのです。これはよろしくありません。では、どうして足が手を毛嫌いし、耳は目をさげすむような状態になってしまっているのでしょうか。


一つ目の理由は、他の部分と比較しているからです。私たちは、人と自分とを比較している限り絶対にその人を歓迎することはできません。良いことをいっしょに喜ぶことができません。その人の働きや実績を受け入れたり、認めたりすることができません。そして、そんな時人はしかめっ面をし、口をとがらせ、目を合わせることができなくなります。ただただ自分とは違うということがしっくり来ていないと、人を見る目を狂わせ、自分の価値がわからず、つぶやいて生きるしかなくなってしまいます。

二つ目の理由は、他者の働きを尊重できないことにあります。自分の偉大さ、自分の大変さ、忙しさ、そして十分に認められていないという不満がたまっているので、他の人のことを褒める、認める、尊重することがかないません。あの人ばかりが感謝され、大事にされ、認められていることに我慢ができません。しかし悲しいかな、これが私たちの現実です。


2. 聖書は理想なの?

現実の対義語は理想です。私たちの現実をたどった後は、聖書が語ることを見てみましょう。ちゃんと聖書が答えを明らかにしています。「実際」で始まっている節に注目してみてください(14、18、20節)。それらは同じことを述べています。つまり「からだは多くの部分から成っているのであって、一つの部分からではない」ということです。これが「実際」なのだと繰り返し教えているのでした。「聖書なんて理想でしょ?」「神さまはいつも上から立派なことを言ってくるけれども、私の現実は違うんだから!」とつぶやきたくなる私たちなのですが、聖書は「理想はね・・・」ではなく「実際」と冷静に語るわけです。聖書は決して理想の書ではなく、実際の書です。そして、盲目的、感情的、一時的、自分本意な解釈や見方しかできない私たちに「実際」を教えてくれるのです。


そして、もう一つ繰り返されているのが「それで、からだに属さなくなるわけではありません」(15、16節)という表現です。これはいくらあなたがつぶやいたとしても、それで事実が変わるわけではないよ、ということです。単に私たちのつぶやきがわがままであり、聖書の実際から目を離していることの証拠にもなっています。


先ほど見てきた私たちのつぶやきの理由1つ目。それは自分と他者とを比較することでした。しかし、聖書の実際に聞くならば、賜物は私たちが比較し、競争し、つぶし合い、果たし合いのためにあるのではありません。賜物は「神から与えられる」ものであり、人それぞれいろいろな賜物が与えられているものでした。賜物を与えてくださった神さまをつまびらかにするために、神さまの素晴らしさを明らかにするために賜物を用いるのです。それが賜物の役割だからです。理由2つ目の他者の働きを尊重できないのも根っこは同じです。自分と同等か、自分が他よりも秀でている、感謝されていると満足していない限り、他の人を認める余裕は私たちにはありません。なんと心の貧しいことでしょうか。たとえそれが私たちの現実であっても、聖書の実際は「からだ全体があなたなのではない」「あなたがすべてではない」「あなたが世界の中心ではない」と語っています。この痛い実際に耳を傾けることで、私たちは矯正され、さらに正しい道筋へと導かれます。義への矯正をしてくださいます。参照第二テモテ3章16節


これは、面と向かって言われたらたまりません。一対一で「世界はあなたが中心に回っているのでない」と改めて言われたら立つ瀬がありませんね。しかし、この礼拝、福岡めぐみ教会の礼拝を見てください。あなただけでなく、隣に座っている人、前後左右の人、大人も子どももいます。いっしょに聖書から聞けるのは、この神の家族がいるからです。そこで互いに受け止め、そこで互いに受け止め、いっしょに教えられ、また手を取って成長していきます。素晴らしい交わりに身を置いていることに感謝しましょう。


Ⅱ.みこころと組み合わせ(18,22~24節)

1. 「神は」(18、24節)に着目して

さらに聖書の語ることに入っていきます。次に見たいのは「神は」で始まる節です。それは次に挙げる2節です。「神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました」(18節)、「神は、劣ったところには、見栄えよくするものを与えて、からだを組み合わせられました」(24節)。


先週見た「御霊は、みこころのままに」(11節)の箇所ではこのみこころが「熟考する」という意味だと確認しました。今朝ここにある「神のみこころ」はまた別の言葉で「願い」「意思によって」という意味です。神が意思をもってなさったことは「からだの中にそれぞれの部分を備えられた」ということです。「備えた」は「定めた」(使徒1:7)とも訳されていて、換言すると「神さまはたっての願いで、この福岡めぐみ教会にあなたを備えられた。あなたがここでしっかりとその部分となって働くように定められた」となります。よく「教会に導かれて」と私たちは話すことがあります。もちろん実際には私たち自身が足を運んでここに集ってはいますが、それこそ神のご意思、おぼしめし、導きによってここにいる、クリスチャンとなった、礼拝に集っているということがここで書かれていることです。あなたが生きていること、ここに集っていること、聖書によって語られていることは、神の意思によるものだと知らされるとき、私たちは「イエスは主です」「イエスこそ主です」と素直に告白できるのではないでしょうか。


2. 組み合わせられた私たち

さらにもう一つ神がなされたこと。それは「神は、劣ったところには見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられた」(24節)ことです。福岡に来て、私たち家族が目につくのは整骨院の多さです。道路ごとにあるのではないかと思えるほどです。先週は

「あるある整骨院」というのを見つけて、思わず写メしてしまいました(盛岡の知り合いの整骨院の人に送ってしまいました)。整体師はからだのつくりをよく知っています。筋肉や骨、関節、筋の組み合わせをよく知っていて、さわってどこが傷んでいるのか調べたり、どのように治療するのかを決めることができます。それは本来の状態と現状の問題をよく知っているからです。


ここで言われていることも同様です。そして、主治医が神さまなので間違いがありません。失敗もありません。実に、神がこのからだのすべてを、また細部まで造られたのです。人間からは弱く見える部分、劣っている部分、見苦しい部分があるように思えます。それが自分に当てはまっていたりすると落ち込んだり、憤慨したりします。しかし、神はそのことを「みこころにより」成し遂げてくださいました。弱く、劣って、見苦しい部分をなくてはならないものとし、見栄え良いものでおおい、格好良く補ってくださるとあります。その「組み合わせ」こそが、神のみこころであり、ご意思であり、絶妙なところなのですね。私たちが自分の思い通り、思惑通りではないとつぶやいて、うなだれたとしても、そこに聖書は切り込みを入れ、「神がみこころによってこの部分を定められた」ことを思い出し、「神の意思によって組み合わされた」ことに気づかせてくれます。このようなことを聴き続けることで、私たちは神の言葉によって生かされることが徐々になじんできます。聖書が永遠に立つ真理の言葉であるなら、私たちが古びず、落ちぶれず、やさぐれず、新しくされ、目が開かれ、心が耕され、みこころを知ってあらゆることを神に尋ねるようになり、神に信頼して歩めるように変えられます。私たちが新しく生まれるのは、心が刷新されるのはただ神の言葉によってのみです。そんな最高の営みを今朝もご一緒していることに、牧師として喜びを禁じえません。


Ⅲ.“ともにいて”こそ(25~27節)

1. 分裂なく配慮する

今朝の結び25~27節にまいりましょう。からだに多数の部分があるのは=教会に多くの違った人がいるのは、「分裂がなく」「配慮し合うため」(25節)です。26節ではそれにかぶせて言い換えていて「一つの部分が苦しめば・・・どもに苦しみ・・・・尊ばれれば・・・ともに喜ぶ」とあります(参照:ローマ12:15)。つぶやいて、比較しては決してできないことです。


実は、この「部分」という言葉には「音符」という意味もあります。楽譜の読める人は、同じ高さ、同じ長さの音符が並んでいたらそんな曲に魅力は感じることはありません。それぞれ違ってこそ、調和(ハーモニー)が取れます。違った音符があるからこそドラマティックな展開が生まれます。これは、私たち教会も同じことが言えるのです。みなが同じであれば、何の魅力もありません。神さまが違うように配置されました。


2. 「ともに」はからだの醍醐味

前に出ている絵は「モナリザ」です。ただ、これは原画コピーではなく、たくさんの人の顔写真で作られたモナリザです。教会もたくさんの人がいます。皆が違っています。しかし「ともにいる」ことでキリストのからだを形成しています。私たちは「ともにいて」キリストのからだを現し、怪我を修復し、支え合って成長していくのです。


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