聖書 ローマ人への手紙12:1-2 |
はじめに:本物にフォーカスする
「ひまわり」という花があります。見たことがない方はおられないほど有名で、すぐにイメージすることができる植物ですね。(➡スライド①)
ひまわり(向日葵)は名前のとおり、太陽を向いて育ち、花を咲かせます。広大な土地にひまわり飢えたひまわり畑は観光名所になっています。すべてのひまわりが太陽=同じ方向に顔を向けているところに魅力を感じるからかもしれませんね。
もし、太陽光をさえぎると、ひまわりはどうするのでしょうか?そうなるとひまわりは他の光の方へと顔を向けるそうです。この習性を利用して、今は植物や野菜は太陽のあたらない場所や屋内でもLEDなどの光をあてて育てることができます。私たちも、季節や気候変動、自然災害に関係なく一年中植物を楽しんだり、野菜を食べたりする恩恵にあずかっています。ひまわりは太陽が当てられなくても、他の光が当てられれば、その光に顔を向けて育っていくのですね。
これは私たち人間にさらに大切なことを教えているのではないかとも思います。
次のみことばをご覧になってください。(➡スライド②)
「すべての人を照らすまことの光が、
世に来ようとしていた」(ヨハネ1:9)
「まことの光」とはイエス・キリストのことです。このまことの光はすべての人を照らす光です。すべての人はまことの光であるイエス・キリストによって真に生かされ、いのちをおう歌できるのです。
しかし、先ほどのひまわりのように、まことの光ではない光に向いていたとしても、私たちはそれなりに生きもし、育ちもし、花を咲かせもするでしょう。ただし、まことの光ではないので、全部が「それなり」です。お飾り程度には人生を楽しめるかもしれない、一時的には人生を肯定的に感じ、目的を果たしているかのように感じるかもしれない。けれども、まことの光に照らされ、向いていないかぎりそれははかない人生でしかない。
そして、聖書のみことばは、私たちが作り物の光に向いてしまわないように、時に厳しく警告をし、時にハッと問いかけ、時に優しく招きの光を射しこませます。今朝の礼拝をもって、私たちもまことの光に向くひまわりであるのかを探られ、必要であれば悔い改め、向き直りましょう。
1 ささげる礼拝
今朝開いています聖書ローマ12:1-2は私たちが毎週ここで(また、オンラインで)ささげている礼拝について厳しい問いかけをしている箇所になります。「あなたがたにふさわしい礼拝」というのがある。あなたは「ふさわしい礼拝」をしているだろうか、という問いです。急にこんなことを言われると、ドキッとしますね。背筋が伸びたり、目を前に向けたりするかもしれません。
ただし、みことばを聞いてそのように姿勢が変わったり、ハッとしたりすることはとても良いことです。先ほどのひまわりのたとえのように、「私はまことの光の方に向いているだろうか」と考え始めているしるしだからです。
聖書の聞き方で二通りがあります。一つは聖書の問いかけを知り、自分はもうダメだと思う聞き方。もう一つは、聖書の問いかけに、自分は全部できていると思う聞き方です。私の友人の牧師で、牧師になる前にその人とそのお兄さんとある聖会に出たそうです。そこでは「もし、将来牧師になりたいと思っている人がいたら、次のことをよく考えてみてください。それでも自分は牧師になりたいという思いがあるならば、ぜひ神さまに応答して献身してください」と呼びかけがあったそうです。そこで語りかけられた内容は「こういう人は牧師にならない方がいい」、「このような人が献身しても主の教会にとって➡
迷惑だからやめたほうがいい」と言われるくらいに厳しいものだったそうです。そして、その集会後にお兄さんは「自分は全部だめな方に当てはまる。自分が献身して牧師になるなんて無理だ。信徒として教会に仕えよう」とうなだれたそうです。もう一方の弟は「全部自分ができている方に当てはまっていた。ますます牧師になる確信が与えられた」と答えたそうです。その方は今も牧師として歩んでおられます。またお兄さんも信徒として教会に仕えておられます。
さて、ここで問われている「ふさわしい礼拝」とはまず「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」(12:1)という命令です。
これを聞いて「え?礼拝って受けるものなんじゃないの?」「礼拝って恵まれるために行くんじゃないの?」「まずメリットを示してくれないと、こっちは動けないよ」と感じる方がおられるかもしれません。表向きはそんなこと言ったり表情に出したりできないけど、心の中ではずっとそう思ってたとかもあるかもしれません。
そうですね、礼拝はまず「ささげる」のです。それこそ「私たちにふさわしい礼拝」だからです。神のことばがこのように規定していますので、まずは真摯にこのことについて耳を傾けていきたいと願います。 ➡➡
「あなたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げ」ることこそが、礼拝。礼拝とはまず私たちがささげるものであること。それも献金とか祈りとか賛美とかではなく、「あなたがたのからだ」です。この「からだ」という語は、身体的な意味だけではなく、心を含めたからだ全体=あなた自身を指す語が使われています。
礼拝は、あなた自身の心を主に向けること、からだを神さまのために使うこと。ただいるだけじゃない、目だけじゃない、耳だけじゃない、声だけじゃない、文字だけじゃない。神に心もからだも向けること。それもチラッと見せるだけじゃなく「献げなさい」とあるので、一部や一時では決してない徹底ぶりです。裏返すと、これは私たちがまやかしの光、作り物の光に身をささげないようにするための配慮です。徹底して、神に向きなさい。神こそ私たちを生かし、養い、あわれむまことの光だから。聖書において厳しいな、強い言い方だな、別の可能性や逃げ場もないなと思う時は、それほど神さまが切に願っておられるのだといさぎよく飲み込みましょう。私たちの全部をささげなさいと言われる背景には、神さまが私たちの全部を引き受けてくださるということがあるからです。
「死んでお詫びをする」生き方ではなく「生きて神を喜ばせる」生き方をする。それを毎週の礼拝で整えていただく。ささげるから始まる祝福の人生があるのです。■
2 いただく礼拝
「ささげなさい」の次は、礼拝でいただく恵みです。ひまわりが太陽に向いて育ち、花を咲き広げるように、私たちがまことの光である主にすべてを向くなら、いただくものがあります。しかも、私たちが「ふさわしい礼拝」をささげると、主なる神は私たちのささげものにふさわしいより以上のものを恵んでくださいます。神さまは私たちの礼拝、献身を覚えてくださり、認めてくださり、受けてくださり、また報いてくださるお方です。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。」(マタイ25:21;23)
ここから分かることは、神はキチキチに計算する神ではないということです。むしろ「気前がいい」(マタイ20:15)ほどに、対価に見合ったのとちょうどの報いではなく、いつもそれ以上のものを報いてくださる、恵み深いお方。
では、私たちが必死にささげるこの礼拝で、どんな恵みをいただくというのでしょうか。それには2つあります。
1つは、イエス・キリストのすばらしさが分かることです。
この世に生きる私たちにとって、イエス・キリストほどすばらしいもの、価値ある宝、喜びの出会いはありません。
イエス・キリストはまことの光、世の光で私たちが闇➡ を歩むことがないようにしてくださいます(参照:ヨハネ8:12)。イエス・キリストは良い羊飼いなので、私たち一人ひとりの名前を呼んで大切にしてくださるお方です。私たちの先頭に立って、牧草と泉のある場所へと導いて率いてくださるお方です。私たちにいのちの危険が押し寄せたときは、ご自分のいのちを投げ出してくださるお方です。私たちは、礼拝に没頭し、この身をささげるとき、このすばらしいイエス・キリストにはっきりと出会います。そして、それは必ず私たちを鼓舞し、支えるものです。どんなに興奮する舞台や感動する映画を見るよりも大きな力を、私たちは毎週の礼拝で体験しています。
もう1つは神を喜び、祝うことができるようになることです。「これで充分かな」「大丈夫かな」「自分は救われているかな」という不安げな礼拝から、大胆に神を喜ぶ、救いを確信する、これから生かされていることに感謝する思いがたくさん与えられます。
旧約時代から礼拝では、多くの動物がいけにえとしてささげられてきました。幕屋や神殿の礼拝では牛、羊、山鳩、やぎ、小鳥、穀物が祭壇に載せられ、切り裂かれ、焼き尽くされ、ささげられました。それは、人間の罪をそれらに着せて(転嫁)いたからです。人間がその罪をつぐなえばよいのですが、それでは救いがありません。礼拝において、いのちが犠牲にされる、血が流される。➡➡
それにより、自分の罪が赦されることを確認するのです。(参照:へブル9:22)それは厳粛で、また次に新たないけにえを用意していかなければならない礼拝でした。それはいつも罪の意識が思い出させるものでした。なぜなら、動物のいけにえは完全には罪の赦しをもたらすものではなかったからです。毎回いけにえを繰り返しささげることで罪が赦されるのですが、それは毎回罪が取り除かれていないことを意識させるものでした。罪を意識するので、毎回いけにえを用意し、ささげるのです。
イエス・キリストの十字架は、この罪の意識=完全な罪の赦しはまだなされていない、罪の赦しのためには毎回いけにえをささげなければならない・・・といった罪の意識が無限ループする礼拝から解放してくれました。罪の赦しのために完全ないけにえがささげられたので、もはや私たちは罪が赦されるためのいけにえはささげる必要がなくなりました。人間の罪の赦しのために動物の血ではなく、本物の人間の血、しかも罪のないイエス・キリストの血が流されたからです。
それゆえ、の礼拝のメインは私たちが神の救いのみわざをほめたたえることです。「あなたがたのからだを生きた聖いささげ物として献げなさい」とは、罪の赦しやつぐないのためにささげたり、奉仕したりするのではなく、ただ主の救いを感謝し、賛美するためです。■
3 いい調子
ささげる礼拝、いただく礼拝を見てきましたが、私たちは今週もここ教会から各地へと遣わされていきます。教会ではみことばを近くで聞いても、世ではみことばが遠く感じ、なかなか響かないかもしれません。教会や礼拝で兄弟姉妹とで励まし合えても、1週間が始まればすぐにいつもの生活スタイルに逆戻りしてしまう。せっかくリセットしてもすぐに巻き戻ってしまうような、礼拝での決意や変化が長続きしない感覚。そんな場所にうずくまりそうな私たちを思ってか、聖書は2節へと続きます。
「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」(12:2)
ここから、私たちは「この世」と「神のみこころ」の2つの間で迷うのかもしれません。しかし、礼拝の喜び、力が持続するように2つの命令形に注目しましょう。
1つ目は「この世と調子を合わせない」ことです。この世の型枠にはまらないという意味になります。パウンドケーキは混ぜ合わせた材料をケーキ型に入れて焼き上げます。今、私たちは礼拝でよく練られた状態です。この世のケーキ型に入ってしまうと、どうなるでしょう。➡ 世の圧力、世の熱を受けて、いつのまにか焼きあがってしまいます。カチカチになって、それを崩すのにまた一苦労。礼拝の生活を続けていても、毎回リセットの繰り返しで、成長や変化を感じ取れない。意味がないように思えて自分に嫌気がさしてしまう。そんな落胆を味わう方は少なくないでしょう。
それに歯止めをかけるように、私たちに「この世と調子を合わせてはいけません」と命じます。世の圧力、熱を受けて型にはめられて無力化されてしまわないように、2つ目には積極的な命令が続いています。
「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」
これは積極的な命令なので、私たちは受け身でいるだけではありません。私たち自身と神さまとの協働作業になります。私たちは、礼拝で自分の心を刷新します。スマホでアプリをアップデートするように更新するイメージですね。みことばで示された自分の弱さ、古い部分を神さまの前にあらわにして悔い改め、更新プログラムのボタンをしっかりと押すことです。「今日はまだいいや」、「また更新表示が出てからにしよう」、「いや、更新プログラムなんて出てない」と先延ばしにするのはいいことではありません。まず、自分自身でその心を刷新するボタンを押す。今日、神の前に新しく生きると約束します。➡➡
そして、神さまは私たちを「変えて」くださいます。くどく訳すと「変えられ続けなさい」となります。更新ボタンを押した私たちを、神さまは変え続けてくださいます。
礼拝においてまことの光に心も身体も向くので、それに続く生活でも心と身体の向きが変わります。さらに、この「変える」は、チョウがさなぎから変わるときに使われる語でもあります。それはちょっと感じが変わったねとか、以前とは印象が違うといったぼんやりと微妙なものではなく、完全に以前とは違う性質を持つ者としての変化です。クリスチャンにも、この変化はちゃんと現れます。
私たちはもっぱら「神のみこころは何か」ということに関心を持つようになり、12:2の結びにあるように①何が良いことで、②神に喜ばれ、③完全であるのかを見分けられるようになります。言いかえると、私たちは神を愛するようになる(ピリピ1:9-10)。地にあるものではなく、上にあるものを求めるようになる(コロサイ3:2)。神を知って起きている変化はそれほど大きく、明らかで、絶対的なものです。ですから、礼拝を軽視しないでください。自分の内に起こっている変化を大切にしてください。あなたが神の前に礼拝をささげ、これから神の前に生きていくことを、主は大喜びしてくださいます。あなたが生きていてこそ、神の喜ばれるささげものとなります。主の前に生きる者を、何よりも尊く扱ってくださいます。■
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