聖書 使徒の働き1:8 |
新年度のテーマである「福音に生きる」シリーズでみことばを聴いています。1回目はマルコ1:15で主イエスの宣教の第一声、先週2回目はマタイ28:18-20で復活の主イエスによる大宣教命令、本日3回目は主イエスが昇天される直前、地上での最後の指示。こういうたどり方をしていくと、福音とはイエスさまが中心であることが分かります。そして、大宣教命令を果たすためには「父の約束を待ちなさい・・・あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と言われました。そのまますぐに弟子たちを遣わすのではなく「約束された・・・力」を受けるまでは待つように指示されたのです。
場所について細かく見ていくと、マタイ28章では弟子たちは「ガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った」(28:16)ところで大宣教命令を受けています。そして、先ほどのルカの福音書の最後ではべタニア(オリーブ山の東斜面、エルサレム市街とは反対側に位置)という場所、その続きとなる使徒の働きの初めは「オリーブ山」(使徒1:12)で弟子たちと会っています。主イエスは復活された後「四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られ」(1:3)てから「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい・・・間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるから」(1:4-5)と説明をなさいました。イエスさまは地上の最後で、弟子たちにはエルサレムという場所を指定し、父の約束を待つように命じておられます。使徒たちはそれぞれの職を捨て、家族と別れ、故郷を離れて主イエスに従って旅をしてきました。そして今、イエスさまはエルサレムにあるオリーブ山で最後の別れをしています。そして、このオリーブ山は「その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ」(ゼカリヤ14:4)というメシヤ再臨の場所として預言されています。御使いも「あなたがたを離れて天に上げられたイエスは・・・まだおいでになります」(使徒1:11)と告げており、ここから昇天するけれども、やがておいでになる特別な場所がこのオリーブ山であり、都エルサレムであることが分かります。ちなみに、オリーブ山は、主イエスがエルサレム入城へ出発するためにろばを備えておられた場所であり(マタイ21:1、ルカ19:37)、十字架の苦しみを前にもだえ祈られた場所です(マタイ26:30,ルカ22:39)。十字架の前に苦しみ、血のように汗を流しながら苦しみ祈られたこの場所で、今復活を果たしている。しかも、また来られる場所として選ばれたのがこのオリーブ山です。
そして、ここで主イエスは「また来るね」という約束の言葉とともに、父の約束である聖霊を待つように言われます。まるで、地上でイエスさまといっしょにいる代わりとして、聖霊が来られるからちゃんと聖霊を受けなさいと言っているようです。わたしはやがて見えなくなるけれど、大丈夫。聖霊は、わたしがあなたがたにしたようにあなたがたを励まし、確信を与え、力を与えるのだと言われます。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにます」(マタイ28:20)との先週の約束が、聖霊によってまさに成就する、実現するのだと言っておられるのです。弟子たちがイエスさまといっしょにしたときに抱いていた平安、喜び、確信が失われず、損なわれることのないように、聖霊が約束通り与えられる。イエスさまと入れ替わるようにして、地上で神の国の働きを進めるのが聖霊なる神です。
Ⅰ. 力を受ける
1. 主の約束
イエスさまはこの後すぐに昇天されます。次に会うときは、世の完成のとき、再臨なさるときです。もう弟子たちといっしょにいることはできません。しかし、「父の約束である聖霊」が来ようとしています。実は、イエスさまはこの聖霊について「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になる」(ヨハネ16:7)とまで言われました。イエスさまが去って聖霊が「いつまでもともにいてくださる」(ヨハネ14:16)ことは、実際にイエスさまといっしょにいるよりも素晴らしいのだと言っておられるのです。その後イエスさまはトマスにも「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」(ヨハネ20:29)と言っておられます。イエスさまは、弟子たちや私たちに人間の弱点、弱さをよ~く知っておられるお方です。見えないものよりも見えるものに信用し、惑わされることをよくご存じです。しかし、人間が見えるものに信頼を置いていると、それが見えなくなった場合、信頼することができなくなる、信頼していた対象を見失ってしまうという弱点があります。弟子たちも、このことを悟ることができずに、風が強ければ恐怖に包まれ、食べるものがなければ責任の押し付け合いをし、見えているもの、そこにあるものを数えて失望するという失敗の連続でした。しかし、この助け主が来られるならば、その人は見るところではなく見えないところを土台として歩き始めます。イエスさまを間近に見ることがなくても、ともにおられる確信はますます大きくされていきます。まさに、弟子のペテロがこの聖霊を受けた後に「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています」(Ⅰペテロ1:8)とクリスチャンたちに手紙の冒頭で書き送っているほどです。私たちの信仰とは、自分の力や信じる決意、実感している手ごたえではなく、「神にかかっています」(Ⅰペテロ1:21)。私たちは、約束をしてくださっている神に信頼するのです。ただの約束でもなく、ことばでもなく、約束のことばを発しておられる神が信頼に足る方なので、信じることができるのです。まさに、先週の権威と約束で学んだように、私たちは神の約束に生きる者です。現実を見て失望する者ではありません。あたりを見回して嘆き悲しむ者ではありません。自分の力を養って安心する者ではありません。ただ、神の約束を信じて歩む者です。「世の終わりまでいつもあなたがたとともいます」は神の約束なので、現況は心細くても約束を選びます。「試練とともに脱出の道も備えていてくださる」と約束してくださっているので、試練の穴にもぐりこまずその先の出口を見て行くことができます。「あなたがたを捨てて孤児にはしません」と主が約束されているので、つぶやくよりも祈ることができます。
2. 人間の力ではなく
弟子たちの時代だけでなくそれから今に続く世界の歴史において、主の臨在を実現させるのが聖霊です。私たちがどこにいても、主の臨在、主がともにいてくださる平安を与えてくださるのが聖霊です。世界のどの国や民族の人々にも主の臨在、主の御手が差し伸べられることを実現なさるのが聖霊です。見えるものに左右され、科学や数値の証拠にこだわり、知識や理論の頭に価値を置く私たち人間が、目には見えず、霊において、みことばの約束に基づいて生きる者とされる幸いを、聖霊は成し遂げてくださいます。この世に生きる者にとって、誰が見たことのない方を信じることができるでしょうか。見てもいないのに信じられる人がいるのでしょうか。目に見える証拠を出すことができないのに神は信頼できると断言できるのでしょうか。論理的に証明できないのに、聖書にある出来事や主の復活は確かなのだとうなずけるのでしょうか。それは、世の中の常識で測ったり、自分の知識や力で考えたりしも踏ん切りはつきません。ただ、偽りのないまことの神を見つめることででしか、信仰を始めることはできません。聖書がその神の口から出た真理であると受け取ることででしか、信じることはできません。そして、それは人間の力、常識、踏ん切りでは無理だからこそ、神である聖霊の助けによってのみ可能なのです。私が信じられるようになったのは、聖霊なる神の働きによるものです。世にあるものを追い求め、それに囲まれて満足して生きていた私に、それでは空しいのだと気づかせてくれたのは聖霊です。一度きりの生涯、本当にしなければならないことが分からずにもがいていた私に聖書を開かせてくれたのは聖霊です。信仰の目を開き、信仰の力を注ぎ、確信を与えてくださるお方こそ聖霊です。見えるものから見えないものへ信頼の対象を変えること。それは聖霊のみわざです。目に頼り、耳に頼り、しるしに頼り、知識に頼る人間にはできません。「あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるため」(Ⅰコリント2:5)、聖霊はあなたに働きかけてくださいます。確信が足りないと感じている方は、ぜひ聖霊が確信を増してくださるように祈ってください。まだ全然ん信じられない、信仰からは遠くにいると思っている方は、聖書の約束をそのまま子どものように受け入れることができるように、ひと言でもいいから祈ってみてください。「風は思いのままに吹きます」(ヨハネ3:8)とあるように、聖霊も風のように働かれるお方です。とらえどころがありません、自分でもタイミングや信じる気持ちの起こし方は分かりません。しかし、風が吹いているところに凧揚げをすると、見事にはばたき、ヨットも帆は風を受けて進みます。私たちには風を吹かせることはできませんが、凧揚げやヨットの帆を調整することはできます。ぜひこの場におられるあなたのヨットの帆を合わせてみてください。
Ⅱ. 福音を届ける
1. 聖霊が注がれ
聖霊を受けると、人は「力を受けます」(使徒1:8)。それは「地の果てまで、わたしの証人となる」力。いつでも、どこでも、誰にでも「私はクリスチャンです」「私の主はイエスです」「救い主イエス・キリストは素晴らしいお方です」と証言する者となる、またそのことを明かすことができる力をくださるという約束です。聖霊は「福音」を私たちに思い起こさせ、「福音」を語る者とし、「福音」を届ける者として力づけてくださいます。このように聞くと、聖霊は強いクリスチャン、伝道が好きなクリスチャン、証しをよくしているクリスチャンに臨んでいるんだな・・・自分は違うな・・・思い切って証ししたこともないし、そんな勇気も場面もないし、力が与えられていないんだろうな・・・そのように自己を診断する方もおられるかもしれません。しかし、「イエスは主です」と告白することのできた方には、そのときからずっと聖霊が臨み、注がれ、内に住んでいてくださいます(ローマ12:9、1コリント3:16)。「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)とあります。「一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そしてみな一つの御霊を飲んだのです」(Ⅰコリント12:13)とバプテスマに授かったときに、確実に御霊も授かったことが記されています。エペソでもすでに与えられた御霊によって一致が保たれている励ましがありました(エペソ4:3)。これらはすべて、私たちがすでに御霊を受けている証拠、聖霊が注がれていると確認することのできるみことば・聖句です。
そうです、イエスは私の主ですと告白しているあなたにはすでに聖霊が注がれています。だから、福音があなたの中だけで終わることは決してありません。聖霊はあなたに力を与え、福音を証しする機会を必ず与えてくださるお方だからです。クリスチャンになって一度も人に自分がクリスチャンであることを言ったことがない、あなたがクリスチャンであることを教会以外の人は誰も知らない、教会の案内を他の誰にも見せずに引き出しにしまっている・・・こういうことがあればぜひ聖霊が今あなたに教えてくださいますように。聖霊が今あなたを目覚めさせてくださいますように。今日から聖霊があなたを奮起させてくださいますように。あなたの内に住んでいる御霊が強くされ、大きくされますように。聖霊に関しては、イエスを主と告白したときからその人の内に住んでくださること、またイエスさまが再臨なさるまで孤児にすることなく決して離れて行かないことが約束されています(ヨハネ14:18)。その一方で、私たちがこの聖霊に鈍感であってはならないともたびたび警告されています。「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ5:19)とあり、この消してはなりませんは英語では「火を消す」「急冷する」(quench)という意味です。御霊の火を燃やし続けること。熱心であること。敏感であることが求められます。
私たちは、今いっしょに礼拝をしていますが、これから始まる新しい一週間はそれぞれの場所で過ごします。だれもあなたの後をついていって、チェックしたり、こういう場合はこうするのだよと教えたり、勇気を出して!今よ!と励ましてくれる人はいません。それは、人間同士ではなく、あなたの内に住んでおられる聖霊がしてくださるからです。聖霊が、あなたとともにいて、主イエスの弟子としての力を与え、主の弟子としての考え、言葉、行動を教えてくださいます。聖霊がコーチのようにあなたが神の国の福音のためになすべきことを示し、それができるように励ましてくださいます。
主の弟子たちは、お互いを監視し合って福音宣教をしませんでした。毎月会議を開いて活動報告と活動計画を話し合い、それぞれになすべきことを確認したりはしませんでした(大事な時には会議をしましたが=例:使徒15章)。それでも、12使徒は誰もさぼることなく、福音のためにそれからの全生涯をささげました。理由は、聖霊です。各自が聖霊に敏感であり、示された神のみこころに従ったからです。私たちも、このときの弟子たちと同じ聖霊が注がれています。イエスさまがいなくなっても力を失わず、以前はイエスを否定し、逃げていた者が、大胆にイエスは主であると宣教し、捕らえられてもひるむことがないほどに生まれ変わったのは、弟子たちが聖霊を受けたからです。それと同じ聖霊が、私たちにも注がれています。「御霊は一つ・・・信仰は一つ、バプテスマは一つだから」(エペソ4:4-5)です。聖書時代と今とでは違う御霊がおられるのではありません。主の弟子たちと私たちとでは力が違う聖霊が与えられているのではありません。「同じ御霊」が注がれています。主イエスを実際に見ていた人たちをそれ以上に強めた聖霊。主イエスを見なくても喜んで全世界へ出て行き、証しをさせた聖霊。あなたが「イエスは主です」と告白できるようにし、信仰を抱かせてくださったのは、弟子たちが受けた聖霊と同じ方です。
2. 聖霊に満たされる
ここまで「聖霊」→「弟子たち」→「福音宣教」という流れで見てきましたが、聖霊を受けた者がすぐに、すべて福音宣教へプッシュされるわけではありません。使徒の働きでも事あるごとに「すると皆が聖霊に満たされて」(使徒2:4)「ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った」(4:8)とあるように、聖霊を受けるだけでなく、「聖霊に満たされる」ことが注意深く書いてあります。先に学んだエペソ人への手紙でも「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と命じられていました。御霊が注がれいることと、御霊に満たされる状態でいることとは別のこととして読むことができます。弟子たちやクリスチャンがいつもなりゆき任せ、自分のやる気次第、状況が許すならという姿勢でいたなら、御霊はわずかにあるだけで、使徒の働きにあるような神の国の働きをすることはできません。
私たちの内側に障害物があれば、御霊は私たちを満たすことができません。あなたの内側に何かさえぎるものがあれば、御霊はあなたを満たすことができません。種蒔きのたとえ(マルコ4章)で、実を結ばないのは、種の成長を茨がふせいでしまうからだとイエスさまが教えておられました。その茨とは「この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望」(マルコ4:19)であり、時には人への過度な配慮、自分が傷つくことへの恐れ、場の雰囲気を読みすぎる・・・ことがあるかもしれません。聖霊を受けて終わりではない、聖霊を受けているから福音宣教ができるようになるわけではない。聖霊に満たされることを求めましょう。聖霊で満たされているからこそ、そこからあふれる力、喜びが伝道となっていくからです。誰も、義務感から伝道していたらうまくいきません。トラクト配布も必死の形相で猛烈な勢いで配ったり、こわばった顔でしていたら受け取る人も少ないでしょう。しかし、その反対に喜んでやっていたら自然と相手の心も手も開かれて受け取ってもらえることがあります。それは聖霊に満たされてこそ、出てくる笑顔であり、喜びであり、力です。
どうしたら聖霊に満たされるのでしょうか。喜びにあふれ、力が増し加えられるのでしょうか。それは、主との交わりを持ち、深めることです。主がどのように愛してくださっているのかを味わっていることですね。どんな罪を犯しても私の名前を読んで、戻って来ることを期待していてくださる主。神さまにも人にも喜ばれないことをしてしまったときも、そこでプッツンと関係を切ったり、ぷちーんとキレて以前の約束をなかったことにはしない主。私たちの悩みを聞き、努力を認め、うめきを聞きとってくださる主。迷い出た一匹の羊のように私のことを捜しだし、喜んで抱えて群れに持ち帰ってくださる主。疲れた私の足を洗い、きれいにしてくださる主。恐怖にさいなまれている私の代わりに、ゲツセマネで祈ってくださる主。身代わりに死ぬほどの愛をもって愛してくださる主。このような主を思い起こし、主の愛をいただくとき、私たちは聖霊に満たされ、喜びにあふれ、力がみなぎり、福音を届ける働きをしたい、させていただきたい、そのために時間も賜物も使いたいと願うようになります。ぜひ、聖霊で満たしてくださる主と深い交わりをしましょう!!
Ⅲ. 祈る教会となる
1. 心を一つにして
このときの弟子たちは、イエスさまから「父の約束=聖霊を待つように」(使徒1:4)に命じられました。どうやって待つのか?それは祈って待つことです。それから弟子たちはみな「いつも心を一つにして祈っていた」(1:14)とあります。私たちは使徒の働き2章の五旬節の日に聖霊が降ることを知っているのですが、弟子たちは「あと〇日で聖霊が降る」とか「五旬節の日に聖霊が臨まれるから遅刻しないようにしなきゃ」などとは知りませんし、言っていませんでした。いつかわからないけれど、いえ、いつかわからないからこそ祈ったのです。いつかわからなくても、約束だから祈り倒しました。神さまは、約束を必ず守り、果たしてくださるお方だからです。
福音宣教の働きは祈りから始まることを教えられます。福音を届ける力は聖霊が与えてくださいます。その聖霊が降るのも、聖霊に満たされるのも鍵は祈りです。今、私たちは「100日祈祷」を始めました。まだしっくり浸透していないかもしれません。先の教会総会(2/26)でゴスペルハウスのスタートを決議しました。めぐみ教会にとって初めての取り組みです。主がこの会堂だけでなく、私たちの家々を福音宣教の拠点とし、神の国を拡げてくださるようにと願ってのことです。次の会堂を建ててから宣教を始めるのでは遅いからです。教会堂に来られる人は限られているかもしれません。距離的なこと、時間的なこと、行ったことがない、敷居が高い・・・など様々な理由があるでしょう。しかし、それらは私たちが福音宣教をしなくていい理由にはなりません。福音宣教が難しいから待つのが最善策というわけではありません。主が示してくださったゴスペルハウスを通して、今から、ここから、着手することのできる宣教の働きがあります。そのことを決議しました。そして、今年度は「福音」をテーマにみことばを聴いていきます。聴いて、実践していきます。ただ学んで知識を蓄えることが目的なのではなく、福音の素晴らしさを知り、それを発揮するためです。
このゴスペルハウスのために祈ります。100日祈祷をして祈りを積み上げていきます。先週の主の日3/19から始めましたから、6月末まで祈ります。期間中、祈りのカードを更新します。また個人や家庭だけでなく、教会やグループで祈れるように機会を設けていきます。私たち、祈る教会になりましょう。このときの弟子たちが即座に祈り始め、祈り続け、百二十人ほどの(1:15)グループを作って祈ったように、私たちも祈りましょう。祈りによって神の国の訪れを告げ知らせることができるからです。祈りによって心が励まされ、私たちは一つにされるからです。祈りによって力が与えられるからです。祈りによって福音を届けたい人、待っている人が示されるからです。祈りによって、どのように福音を届けたらよいのか、その方法も示されます。ただ機械的に決まったや誘い文句を繰り返すだけでなく、相手に伝わる方法、伝わることば、伝わる仕方で福音を届けられるように祈りは教えてくれます。自分の中で終わらせていてはダメなんだと、燃えるものを祈りは与えてくれるからです。今はできないけれども、必ず機会は与えられると祈りは準備をさせてくれます。弟子たちに「さあ、行きなさい!」ではなく「祈って約束の聖霊を待ちなさい」と言われたとおりに、まず私たちは祈りましょう。そして、みこころが示されたなら、すぐに従いましょう。
また、祈るときには聖書を開きながら祈ってみてください。聖霊はみことばとともに働かれます。聖霊はみことばを通して力を注がれます。聖霊はみことばを照らし、私たちを正しい道筋へと導かれます。そうするとみことばが与えられ、具体的な人、方法や時が示されます。できたら、祈りのノートを取りながら毎回祈りの課題、項目を書き加えたり、みことばを記したりしてください。答えられた祈りがあれば、答えのしるしをつけ、継続して祈ることは強調線を付けて神との交わりの記録を作ってみてください。今年度の私たちめぐみ教会は祈る教会になります。祈る民になります。祈る群れになります。祈るグループになります。祈る人になります。そして、聖霊によって福音の輝きを見るようになり福音の素晴らしさを味わうようになり、福音の喜びにあふれるようになり、いただいた力で届けていきましょう。イエスさまは弟子たちを二人ずつにして遣わしました(ルカ10:1)。互いに励まし合いながら、互いに誘い合って福音に生きま
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