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「見捨てない神に」

執筆者の写真: 大塚 史明 牧師大塚 史明 牧師

聖書 詩篇71:5-9

はじめに

新しい年を迎え、私たちは礼拝の生活を身につけることに焦点を置いています。私たちが会堂を飛び出しても主を礼拝し、日曜午後からも主を賛美し続けることで、礼拝の生活が身についてきます。


1/7礼拝の「賛美を求める神」のところで、神が私たちの賛美によって栄光をお受けになることを学びました。神によって造られたすべての被造物が、創造主である神をほめたたえることにより、すべては調和し、秩序が保たれ、平和がもたらされます。まことの神を賛美することによって、この世界はより美しいものに変えられていきます。道端のたんぽぽ、ふと横切っていくしらさぎ、海に浮かぶ島々、雪化粧をした山々、たわわに実った民家の大きなみかん・・・どれも素晴らしいとしみじみ感じます。それらの被造物が、神のご性質や神の永遠の御力を現しているからです。


「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません」(ローマ1:20)


自然界はその存在や生き方を通して、神がおられることがはっきりと示しているので、私たちは感動するのです。

では、私たち人間はその存在と生き方を通して、神を賛美しているでしょうか。


たとえば、良いことがあったら神を賛美するのであれば、その機会が訪れたときにしか賛美しません。そのような賛美は、やかんに触って反射的に「あつい!」と言うのと同じ、反射の賛美です。もし、賛美に値しないような不快な出来事、悲しい出来事が続けば、いっこうに賛美がなされず、神に対する沈黙か無視状態が続くことになります。これでは礼拝の生活は充実していきません。


礼拝や賛美の生活を身につけるためには、良いことや感謝できることへの反射の賛美とは別の面があることを知り、取り組むことが必要です。それは、私たちが積極的に主に栄光を帰すという賛美です。たとえ自分の生活に嬉しいことがないときにも、神の偉大さや変わらないご性質をほめたたえるのです。


私たちが礼拝の生活をするためには、積極的な賛美、ささげものの賛美が大事です。本日は、賛美の理由を見つける旅をしてまいりましょう。


1. 生まれたときから

今日は詩篇71篇から、私たちがいつでも主を賛美する理由を3つ取り上げていきます。私たちがいつでも主を賛美する理由、その1は「神が私たちを存在させてくださったお方だから」です。それが6節に記されています。

「私は生まれたときから あなたに抱かれています。あなたは私の母の胎から取り上げた方」(71:6)


これは、神さまがあなたを取り上げた助産師という意味ではなく、あなたを組み立て、いのちを持つ者として存在させてくださったという意味ですね。この方以外にすべてのものの起源はあり得ません。そして、いのちを創造されたお方を私たちは賛美するのです。神は、無から有を生む唯一のお方です。人間がこの宇宙や地球がどのようにできたのかを神ぬきで考え、論じるときは必ず「あるもの(有る)」から始まっています。宇宙のちりが竜巻のように大きくなって飲み込んで銀河系ができたとか、ビッグバンが起きて地球ができたとか、雷によって生物が誕生したなど・・・それらはすべて「すでにあるもの」を前提とした考えです。空間や物質、熱やエネルギーもないところからは何も生まれないので、なぜ「あるもの」が存在したのか、その起源やいのちについて話し始めることができません。それで近年、「ダークマター(暗黒の物質)」という仮説が立てられ、無から宇宙が誕生するための理論を模索している段階です。

しかし聖書は、神が無からすべてを創造されたと告げます。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、見えるものからできたのではないことを悟ります」(へブル11:3、他の参照箇所は詩篇33:6,9)


神がいのちの創造主であることは、私たちにとってどれほど大きな感動、そして賛美をもたらしているでしょうか。新年3週目の礼拝、今朝も頭の体操をしましょう。


いのちの創造の反対は、偶然と死です。本来、私たちは神によっていのちが創造され、見渡す限りのすべてが神の創造であることに感嘆し、賛美し、礼拝するように造られました。しかし、いのちの創造主を認めず、見失うと偶然と死の世界に住むことになります。


偶然と死の世界では、あなたが賛美する理由も、賛美の対象もありません。あなたが偶然生まれたのであったら、誰のおかげでもなく、誰への感謝も必要ないからです。冷静にこのことについて考えてみると、ゾッとします。もし、すべてのものが偶然存在するなら、すべてはたまたま壊れるかもしれないし、この先どうなるかもいっさい分かりません。世界にそんなダークサイドがあるとしたら、いつ自分もそちら側に落ちるかと不安で仕方ありません。

さらに、あるものから偶然進化して次のものになり、また偶然進化して次のものになり、また偶然進化して人間が存在するに至ったとしたら、あなたが生まれる前に、無数の死があったことになります。偶然と死を前提としてあなたが生きているとしたら、それは恐ろしく、背筋も凍るような世界です。自分の存在に自信も価値も見出せませんし、あなたことを気にかけたり、大切に思っている存在など誰もいないことになります。


いのちの創造の世界は、これとは反対です。あなたはいのちを造られる主によって存在するようになりました。自分の出所をはっきりと知り、本来つながるべき方とつながって生きることができるようになります。「私はどこから来たのか?」という人間の根源的な問いに対する答えを持つことができます。


このようにして、創造主なる神によって造られたいのち。生み出されたあなた。与えられたいのちを、創造主なる神に向けて燃やす。それがこの礼拝であり、賛美です。そして、この日曜礼拝だけにとどまらず、礼拝の生活、賛美の生活を歩み出すのです。


2. 今も

私たちがいつでも主を賛美する理由、その2は「私たちを今日にいたるまで守っていてくださるお方だから」です。今朝の詩篇の5節と7節に着目してください。そこには「あなたは私の望み 若い日からの拠り所」、「あなたが私の力強い避け所だからです」とあります。


これらが表わしているのは、どんな状況でしょうか。共通しているのはすべてピンチの状況だということですね。「望み」は現状よりも良いことを願うことです。今は実現していないことを期待することです。~してほしいと強く願うことです。それはつまり、今置かれている現状がつらいからです。


「拠り所」は、頼りや支えとするところです。またそれは自分を支えるものを欲しているということです。つまり、自らが揺らいでおり、大丈夫だとあてにできるようなものがない、心もとない状態だということです。原語では「信頼の対象」を意味する語が使われています。何かにすがっていたい、誰かによりかかっていたいと切望するほど、自らが弱い所に立っています。


「力強い避け所」からは、差し向ってくる攻撃を防いでくれる場所を求めていることが分かります。原語ではシェルターです。自らを守ってくれる存在を欲するのです。

この詩篇には表題が付いていませんが、ある神学者(カルヴァン)によると、息子アブサロムの謀反にあったとき、荒野へ逃げて避難したときにささげた祈りではないかとされています(参照:第2サムエル記15-16章)。


ダビデは自分の息子にその座を奪われようとしています。そのことに薄々気づきながらも、ダビデ王は息子であるアブサロムが立ち直り、更生することを期待していたので、強く指導することはありませんでした。そうしているうちに、ついにアブサロムはダビデの他の子どもたち(王を継承する可能性のある者)を殺し、年数をかけて助言者や民衆を自分の味方につけて、父であるダビデ王を裏切り、勝手に自分を王としました。それを知ったダビデ王は、自分の首が狙われるのは時間の問題だと悟って、都から出発するのです。


ダビデにとって、息子アブサロムの謀反は決して起こってほしくない出来事でした。自分は傷つき、アブサロムもこのあと命を失います。自分の家族に裏切られる痛み、自分の子育てを後悔してもしきれない悔み、王でありながら周囲を固めることのできなかったふがいなさ、築いてきたものを手放さなければならない危機が一気に重なっています。ただ逃げるしか道がない状況において、この詩篇が声に、祈りに、そして賛美になって残されています。

主こそが望み、拠り所、力強い避け所。順調なときにだけ賛美するのではないことを教えられます。恐れの中で、味わうことができる主の力があります。助けを呼び求める中で、祈られる祈りがあります。迷う中で、進むべき道に導かれていることがあります。暗やみの中で、見つけることのできる光があります。


絶望と思われる大変な状況の中で、この詩篇を祈り、賛美するほど、ダビデは主に一番の望みを置いています。人生がうまく運ぶこととか、家族にいっさい不和がないとかそういうことで「主は私の望み。主は私の拠り所」と言っているのではありません。ダビデの賛美は、砂をかむような経験、自分や他の人では癒せない心の傷、やり直すことのできない後悔の数々を抱えている私たちに、今、こうしてともに賛美せよと促してくれています。人や世に裏切られたと思って生きて来たけれど、それは人や成功に望みを置くのではなく、ただ主に望みを置くために通らされた道であったと、今、ここで告白をしましょう。


3. これからも

私たちがいつでも主を賛美する最後の理由は、「主がこれからも私を見放さず、見捨てないお方だから」です。いのちの創造主に感謝し、今日までの守りに感謝し、そしてこれから年をとっても、衰えても感謝し、賛美していく。礼拝の生活、賛美の生活は生涯にわたって続いて行きます。ここまでやったらあとは流してよし・・・なんてことはないのですね。


今朝の結びの節は次のようになっています。

「年老いたときも 私を見放さないでください。私の力が衰えても 見捨てないでください」(71:9)


これまでは「望み」、「拠り所」、「避け所」あるいは「あなたに抱かれています」、「賛美しています」とすべて言い切っていますから、ここでも「見放しません」、「見捨てません」でもよさそうですが、「~してください」と嘆願を2回続けています。それは、全面的に主にこれから先の責任をゆだねているからですね。


もし、私たちの信じる強さや折れない心にしたがって、神さまが私たちをつかんでいてくださる、あるいは手放してしまうかが決められるのであったら、ガチで困ります。救いが自分にかかっているとしたら、しかも年を重ねて色んなことに自信が持てなくなってきたらなおのことです。最後の一文「私の力が衰え果てても」は、尽き果ててなくなるという意味です。「自分の力が1%も残っていなくても、私を見捨てないでください」と祈りをささげています。自分の記憶力に自信がなくなっても、神さまが覚えていてくださることを私たちは賛美できます。時間に迫られているときにも、このような的を射た祈りで主と交われます。


主は、あなたのいのちを創造され、あなたの誕生を望まれました。あなたを偶然や死が前提の世界に置かれませんでした。あなたがいのちの創造主につながっていることのゆえに、賛美をささげましょう。


主は今日まで、あなたを養い、支え、試練や逆境や理不尽な出来事を通してでも、ご自身に望みを置かれるように導いてくださいました。持ち場を離れることになっても、近しい人に裏切られることがあっても、主は私たちが逃げ込むことのできるお方です。荒野からでも賛美をささげましょう。


主は、私たちにその力がなくなっても見放さないお方です。私たちがよろめいても、見捨てないお方です。主ご自身で私たちの手を握っていてくださるからです。生涯、このお方に向けて礼拝を、応答の賛美をささげましょう!


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