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「親しい交わり」(福音シリーズその16)

更新日:2023年10月4日


​聖書:マタイの福音書18:15-20

本日は「交わり」について学びます。交わりの反対は孤独(大事な意味での孤独もありますね)です。近頃は「ぼっち」(ひとりぼっちの略)とも言われます。「ぼっち」は、2010年以降から使われ始め、すっかり定着しているようですね。たとえば、「クリぼっち」と言えば「クリスマスはひとりぼっちで過ごす」の意味になります。あるいは「ぼっちめし」「ぼっちキャンプ」などぼっちが接頭辞になることもあります。さらに、この「ぼっち」は「一人だから気楽だ」という意味でも使われます。確かに、私たちは交わりがなければ生きていかれませんが、逆に交わりや人との関わりに疲れてしまうことも事実です。ずっと人といっしょにいるとエネルギー切れを起こしたり、作り笑顔をしすぎで顔面がひきつったり、早くひとりになりたい、家着(ジャージとか)で過ごしたいと思うこともあります。今朝は聖書が教える交わりについて学びましょう。私たちが交わりに生かされていることを喜べるような発見ができたらと願います。


1. 交わりの始め方

交わりの最小単位は2人です。1人では交わりはどうしたって成立しませんし、 始まることもありません。今朝の聖書個所マタイ18章15-20節、その始まりには「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい」とあります。面白いですね、聖書での交わりは「あなたに対して罪を犯したなら」というところから始まります!「だれかに気に入られたなら」とか「仲良くなるためには」「楽しい交わりを持つためには」というのが交わりの入り口ではありません。「兄弟(同じ教会にいるメンバー)があなたに対して罪を犯したなら」という深刻な状況から交わりが始まると教えているのです。私たちが「交わり」を持とうとするとき、「もし兄弟があなたに罪を犯した」ところからスタートする。交わりを始めために大事なことは、次の二つです。一つは断絶をしないこと、もう一つは自分の罪性を認めることです。


まず一つ目の「断絶をしない」ことをみましょう。主イエスによれば(ここはイエスさまが弟子たちに話しておられる場面ですね)、断絶しているところに交わりは始まりません。今は、電波の時代です。どこへ行くにしてもスマホがつながるか、ネット接続、wifi環境が生命線です。通常生活や余暇、緊急事態にも外部とつながっているか、連絡が取れるか、情報発信や入手ができるかが命綱です。もし、電波が断絶していたら、絶望的です。つながりがなければ何もできなくなるからですね。それほど、外部との断絶は絶望的です。


同じように、私たちが誰かと断絶してしまえば、それはいっさいの接続が絶たれていることと同じです。断絶しているところから交わりは決して始まりません。「兄弟があなたに対して罪を犯したら」というのは、むやみやたらに断絶してはいけないこと、また、「罪を犯される」ことが初期設定(デフォルト)なのだよということを教えられます。相手が罪を犯すからといって断絶し、関りを断つことは早すぎます。初期不良の品物のように、すぐに返品、もう二度とあの会社、あのサイトからは購入しないとしてはならないのです。なぜなら、交わりは品物とするのではなく、人とするものだからです。人と製品を同じように見て、人と品物を同じように扱ってはいけません。人は罪を犯しうる者であり、しかもあなたに対して罪を犯す者です。そして、交わりは、そこから始まるのだということをイエスさまは初めに教えておられます。


二つ目は「自分の罪性を認める」ことです。一つ目が「人に罪を犯される」ことだったのに対し、二つ目は「自分が罪を犯す」存在であり、その性質も実績もあるということです。交わりは、相手に罪があり、自分にも罪があるというところから始まるのですね。そうでないと、健全な交わり、健全な関係を築くことはできません。たとえば、「いつも悪いのは相手で、私はちっとも悪くない」と考えている人がいれば、そんな人と正常な関係を築くのは困難です(私自身がこのような高慢さ、プライドがあることを告白します)。「どちらが正しいか」で争うほど、神経をすり減らすものはありません。そのような人と付き合うことは、息が詰まり、ビクビクしながら過ごさなければならないので、身も心も休まりません。岩手にいたころ、児童公園の入り口にさまざまな注意書きがあるのを見て妻と笑いつつも驚きました。花火やたき火の禁止、ゴルフ禁止。ここまでは理解できます。そして、バット、ボールの使用禁止、サッカーボールをフェンスに当てないこと、犬の散歩禁止、自転車禁止、大声で騒ぐことの禁止・・・ここまで禁止を並べられると、もはや公園で何をしたらよいのか分かりません。じっとベンチに座って静かにしているしかないのです。


これが人間関係であったらどうでしょうか。公園の張り紙のように、私が首から「こんな人はお断りです」と禁止事項(たとえば、1分以上話を続ける人禁止、趣味の合わない人禁止、欠点を言ってくる人禁止、差し入れのない人禁止)をぶら下げていたら、決して交わりを持とうとはなりませんね。自分は正しく、他者は間違っている。自分には罪を認めないが、他者は罪深い。そういうところから交わりは始まりません。逆に言えば、自分の罪を認めるところから、交わりは始まるのです。自分の罪深さをわきまえてこそ、他者が「あなたに罪を犯したとき」に断絶せず、そこから真の交わりを始めることができからです。ぜひ、人と関りを持つというときに、人も自分も罪を犯す存在、罪性のある存在なのだということを認めてみましょう。


2. 二人の交わり

では、「罪を犯した」人と始まる交わりは、どのように展開していくのでしょうか。まずは「行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります」(18:15)と続きます。「行って二人だけのところ」を確保します。それは、相手に恥をかかせることから守るためです。今は「さらす(晒す)」時代です。暴露系youtuberが職業になっている時代です。誰かの秘密、ゴシップ。特にそれが罪であればそれを暴露したくなる、広めたくなる習性を人は持っています。他人の罪を知りたいという欲求があります。そして、他者の秘密は、自分にとって最も得になるように利用したくなります。たとえば、相手をやり込めるとか、お互いの立場を逆転させるようなときに、一気に秘密をあばいたり、罪のリストを掲げたりするのです。

しかし、それは交わりにおいてはやってはならない方法だと、今朝、イエスさまは語っておられます。「行って二人だけのところ」でその罪を取り扱うことが重要です。それは相手を守ることであり、優位になろうとする自分の高ぶりや支配欲を手放すことです。罪を犯されたのに、自分の優位性や主張を捨てることは難しいかもしれません。けれども、いつか自分が相手に対して罪を犯し、その罪をどう扱ってもらいたいかを考えるならどうでしょうか。自分がされたら困るやり方、激怒するような話し方、素直になれない状況を作ることは避けるべきだと分かります。そうして、まず「行って二人だけのところ」で罪を取り扱うことがどれほど大切な手順かを知るのです。


二人だけの時と場所が作れたら、それから「指摘」します。罪を指摘することはとても難しいことです。この「指摘する」は他の新約聖書の個所では「責める」(2テモテ4:2)、「戒める」(テトス1:9)、「懲らしめる」(黙示録3:19)、「明るみにだす」(エペソ5:11)と厳しいことばで訳出されています。なんだ、二人っきりのところで相手を責めるのか・・・と思いがちですが、そうではないようです。ここで教えられていることは「相手を責める」のでも「相手を問いただす」のでもなく、「罪を明るみにだす」ということだからです(たとえば、英訳聖書では「相手の罪(過ち)を彼に見せなさい」(NAS)となっている)。しかも命令形で記されていますから「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、あなたは兄弟と二人だけのところで罪だけを指摘しなさい」という教えです。それが良き交わりを築くポイントです。そして、それがイエスさまから教えられなければ、聖霊の助けによらなければ、私たちには難しいのです。つい相手に対して「何をしてくれているの!」「どうしてあなたはいつもそんな言い方しかできないのですか!」「もう顔も見たくない」と「相手を責める」ことを中心にしてしまいます。これでは罪の問題は解決されないまま、相手は必要以上に傷つき、両者の関係はこじれ、交わりどころではなくなります。そしてお互いに「あの人は厳しい。怖い」「あの人はダメな人だ。ちっとも悔い改めない」とそれぞれの人格を否定してしまい、断絶します。これは、交わりのあり方としては良くありません。私たちは、ここで教えられているように「相手」ではなく「罪」を指摘し、明るみに出すことに努めます。それは、簡単なようで難しいのです。罪を犯されると、感情が高ぶり、冷静に物事を見たり、振る舞ったりすることが難しくなります。声が大きくなったり、指が震えたり、緊張したり、顔が赤くなったりします。罪を犯した人の顔を見ることもできなかったりします。けれども、そこで罪(行為)だけを取り上げることで、罪を犯した相手の尊厳を守ることになります。そして、尊厳が守られる人はその相手に対して心を開くことができるようになります。正直になったり、素直になったりすることができ、和解や回復がなされるのです。反対に、罪を犯したその人の人格ごと否定されれば、罪を犯した人は、指摘してくる人に対して心を開くことはできなくなります。しかし、自分が罪を犯したとしても、その人がその罪だけを扱い、罪を犯した自分のことは受け入れてくれていると感じるとき、それは主にある交わりの大きなスタートになります。


虫歯になってしまったとき、お医者さんが「不摂生ですね。あなたがそのようだから、歯は悪くなったのですよ。もうダメな人ですね、あなたは」と言ったとしたら、もうそのクリニックには行きたくなくなりますね。反対に「それは大変でしたね。相当痛むでしょう。よくここまで我慢なさいました。まずは、痛んでいる箇所を治療しますね。しかもできるだけ安い方法で、保険適用の治療をします。そして、これからこんな痛い経験をしなくてもいいように歯の磨き方を練習してみましょうね。そうだ、特別に高い歯ブラシをプレゼントしますよ。今日からはそれをもって歯磨きをしてみてください」と言われたら、目はハート、その医師に感謝しますね。それは、その歯医者さんがあなたではなく、あなたの患部だけを取り扱ってくれたからです。そして、その痛みを抱えているあなたの大変さに共感し、そこから解放する方法を示してくれ、やる気まで与えてくれました。


イエスさまも、罪ある人々に対して同じようになさいました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(マタイ9:12-13)と言われたとおりです。イエスさまの前に出た罪人たちは、罵倒されたり、人格否定や攻撃をされたりしませんでした。その苦しみを聞き、どうなりたいかを聞き、手を置き、福音を伝え、癒されました。そうして罪赦された人は、喜んでそこから遣われていきました。


イエスさまは、あなたにも同じようにしてくださったお方、してくださるお方です。実にあなたの「罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)として、この世に来られ、あなたとの交わりを回復させてくださいました。同じように、私たちも主にしてもらったように、兄弟があなたに対して罪を犯したなら、その人の罪を明るみにして扱い、その人の尊厳を守り、関係を回復させ、いよいよそこから交わりを始める「二人」になりたいと願います。

3. 教会の交わり

交わりは「二人」から始まり、17節にあるように「教会」へと広がります。はじめに見たように、交わりの最小単位は「二人」です。そこから「二人または三人」(18章16節、20節)と広がっていきます。「教会」は「二人」の交わりがさらに広がっていったものです。なぜなら、一人が全員と交わりを持つことは、人間である私たちには不可能に近いからですね。一人が全員と、一人が全員と、というものではなく、二人でも三人でも、という交わりがあるのが教会のすがたです。教会とは、小さく、親しい交わりがいくつもありながら、ひとつのキリストのからだを形成しているところ。


だから、もし二人か三人の間の関係がこじれてしまったら、17節にあるように「教会」に、つまり他の人たちに助けに入ってもらいなさいと教えられています。ちょうどからだの小さな部分が痛むと、全体が痛むのと同じように、二人の交わりが壊れかけていたら、それは全体をきしませることになります。それで、もし二人または三人で抱えきれなくなったなら、教会で祈ってもらい、和解のための努力をし、対話を重ね、「教会の言うことさえ聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」(18:17)という段階になります。これは相当の努力を教会全体でしなさいということですね。二人か三人では無理でも、教会全体でその重荷を担うなら、誰かの言うことは聞き入れるかもしれないからです。そうして、教会全体の交わりは形成されていきます。「何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」(18:18)とあるのは、教会の交わりについての教えです。二人か三人で罪を犯した人を聖書の教えに立ち戻らせることができなかったとしたら、すぐ除外するのではなく、次は教会でその人の悔い改め、回復のために取り組みなさいという順序です。そして、それでも本当にダメなら、彼を異邦人か取税人のように扱う。それは教会の交わりから解くということです。それは単に地上の交わりを解くだけではなく天においても解かれることであるから、十分慎重にする必要があります。先の16章でペテロに対しても同じことを言っておられます。そこでは「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」(マタイ16:18)。そうです、教会の交わりとは、天の御国と同じ意味を持ちます。これは今年の聖句「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)の神の国とも同意ですね。私たち教会の交わりとは神の国そのものが現れている。ここに厳粛さと喜びがあります。


神の国は、人が支配せず、イエスさまがご支配なさいます。人が罪を暴露するところではなく、責め立てるところでもなく、イエスさまの愛と赦しによって回復させられ、交わりが生まれているところです。そのことが今朝の結びの節にはっきりと記されています。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(18:20)。


二人の交わりも、教会の交わりも「わたしもその中にいる」交わりです。この「その中に」とはかろうじてイエスさまがそこに加わっているとか、端っこのほうに気づいたらいたというものではなく、他では「真ん中に」(18:2)と訳されている言葉です。つまり、イエスさまが真ん中に、イエスさまが中心におられる交わりこそが真の交わりであり、親しい交わりです。それは、二人でも三人でも教会全体でも同じです。つねに、私たちの真ん中にイエスさまがおられる。


あなたに罪を犯した兄弟姉妹がいたら、二人きりでその罪を指摘するのですが、そのときにもその真ん中(間)には、イエスさまがおられる。そうでなければ、私たちは本当の罪の解決、赦し、和解、交わりを持つことなどできません。三人の交わりでも、四人でも、五人でもその中心はイエスさまです。もし、一人ずつ自分が主であったら、二人でも争いは絶えません。三人ならもっと激しくなり、四人、五人と主人がふえればそれはもう戦争です。しかし、私たちにあるのは共通の主、たたお一人の主、イエス・キリストです。ですから、二人でも三人でもそこに神の国が統治されます。四人でも五人でも、教会全体を見ても、主はイエス・キリストただお一人ですから、そこに平安があり、賛美があり、祈りがあり、赦しがあり、和解があり、喜びがあり、交わりがあります。私たちが召されているのは神の国に生きるためです。それぞれ自分の国を打ち立てるために召され、集められているのではありません。誰か人間の言葉に従ったり、人間の顔を恐れたり、人間のさばきによって治められる必要は1ミリたりともありません。すべては主が中心、イエス・キリストが主だからです。私たちの交わりのすべてがイエス・キリストを中心とした交わりに変えられると、人との会話が楽しくなり、罪の問題は解決され、互いに弱さを認め合い、ともに成長し、新しくされる喜びに生きることができます。そして、ゴスペルハウスの交わりによって、この地域に福音を満たしていくビジョンに従って歩んで行くのです。さあ、今週も!


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