聖書 ヤコブの手紙3章8-12節 |
はじめに
主の年、2024年から私たちは礼拝を式だけ、日曜だけ、会堂だけにするのでなく、礼拝を生活にしよう、月曜から土曜まで貫こうと意識して取り組んでいます。
大事なのは、そうしなければならないと思い続けることではなく、礼拝で味わっている神との近さ、祝福、造り変えられた感触、いただいた勇気、よしイエスさまのためにというあり方を日常の中でも失わずにいることです。礼拝で味わう祝福や献身の思いを日常でも続けることです。
ただし、数学の公式のように、礼拝で何かを学べばそれが自動的に生活に反映されるわけではありません。
この礼拝では霊的な優しい気持ちに包まれているのに、実生活では現実に引き戻されたり、苦手な人と接しなければならなかったり、プレッシャーのかかる役割を担わなければならなかったりするからです。
要するに、この礼拝の時間や場とは違う環境に送り出されると私たちは、ここで味わっていた神との親しさや従いたいという献身の思いが薄れてしまうのですね。これを打開しなければ、いつも礼拝と日常が切り離されたままです。ここで受けた恵みや熱をいつも逃がしてしまうことになります。
それが、私たちの悩みの一つではないでしょうか。そして、教会に行っても意味がない、やる気が長続きしない、なかなか成長しないとあきらめモードになってしまうこともあるかもしれません。
しかし、私たちが礼拝で味わうこの熱量を普段の生活の中でも見出す力を持つとしたら、今までとは変わってきます。
「聖書に書いてあることが、私にはこのように経験できた」とか「礼拝でのみことばが、生活の中で本当だなと思う出来事があった」というように結びついていくと毎週の礼拝はより活気があふれ、そこから始まる一週間はより楽しくなります。
礼拝に休まず来るとか、たくさんの奉仕をするとか、多くの聖句を暗唱できるという方向ではなく、生活の中で 礼拝と同じような神との交わりを持つ力、楽しみを養っていくことが真の成長だと考えます。その意味で、今朝のみことばは、私たち一人ひとりにとってチャレンジを与えてくれるものです。クリスチャンであるとは宗教活動を重ねることではなく、神の恵みを見つけて生きる存在だからです。
私たちはみな
この手紙を書いたヤコブはイエス・キリストの実の弟(参照:マルコ6:3、使徒12:17)です。ヤコブは「離散している十二部族に」(1:1)この手紙を書き送りました。いわゆる、ローマ帝国の各地に散らばっているクリスチャンたちを励まし、彼らの信仰の火を燃やし続けるために書いたのです。
今朝の3章に至るまでには「みことばを行う人になりなさい」(1:22)、「信仰も行いを欠いては死んでいるのです」(2:26)と強めの命令が並んでいます。イエス・キリストを信じているなら、それが行動や生き方に表れるのが当然であるという論調です。そして、信仰と行いとが最も顕著に表現されるのが「ことば」「舌」「口」であり、3章ではそのことがテーマになっています。
「ことば」に関して、まず一番気を付けなければならないのは「教師」です。教師こそ「より厳しいさばきを受け」(3:1)るのだからです(参照:ルカ20:46-47)。また、教師でない者を含んで、このあと教会全体に向けるかたちで「兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます」(5:9)と警告をしています。
ヤコブはとても厳しいことを言い続けていますが、実はこうも言っています。
「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。」(3:2)
・・・なんだかホッとしますね。ヤコブは「私たちはみな・・・過ちを犯す・・・過ちを犯さない人がいたら・・・完全な人」とまとめています。そうです、私たちは完全無欠ではありません。非の打ち所がない生活をやり切ることはできません。過ちを犯さないで毎日を過ごせる人はいません。たとえそれが一日でも、半日でも、3時間でも、いえ30分でも完全な人として過ごすことは誰にもできないのが正直なところです。
信仰に裏打ちされた行いが大切であり、特にことばには気を付けなければならないけれども、私たちはみなそれを完璧にはできない、というのが今朝のみことばに至る流れです。
それを補足するように3章3~5節では「くつわと馬」、「船と小さい舵」、「小さな火と森」と3つたとえを続けています。いずれも小さな部分が全体をコントロールし、全体に影響を及ぼすたとえです。
その流れで「舌は火です。不義の世界です・・・からだ全体を汚し、人生の車輪を燃やし」(3:6)ますと記します。それほど、舌は恐ろしい勢いと悲惨な結末をもたらす危険なものです。人間はヘビも象も手なずけ、飼いならすことができるのに、自分の舌だけは制御不能なのです。
しかも、ヤコブはこれを各地の教会に宛てて送っていますから、「ことば」や「舌」はどの教会においても共通の問題でした。そして、私たちもこの問題を抱えています。私たちはみな、舌やことばにおいて過ちを犯し、傷つき、傷つけ、関係が破綻し、いっしょにいることに我慢がならなかったり、生きるのがつらくなったりします。
先週、宮崎で九州宣教区会議がありました。部屋の片隅に水槽があり、熱帯魚が泳いでいました。キムファンギ牧師の趣味だそうです。水槽には酸素を送るポンプ、27度に調節されるサーモスタット、水質を保つための草や石、コケを食べてくれるタニシが置かれていました。その中で喧嘩をしない組み合わせで数種類の熱帯魚が飼われていました。熱帯魚は無菌、無敵の快適状態でしか生きることができないので、キム牧師は毎朝安全が保たれているか水槽を管理し、熱帯魚たちを愛しておられました。熱帯魚たちはみな、清潔で安全な環境で過ごしているのが印象的でした。教会もそのように無菌状態、無敵状態であれば良いのですが、そういうわけにはいきません。
2. だれもいません
もし、誰のことも傷つけない人だけを教会に集めるとしたら、教会には何人残るでしょう。その答えは・・・ゼロ、誰も残らないが正解です。
「しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。」(3:8)
私たちが舌で失敗をしないようにする機械はまだ開発されていませんし、ことばで罪を犯さないようにする装置も発明されていません。そんな私たちでも一生懸命、神を礼拝しているのだからいいじゃないかと思いたくもなりますが、 ヤコブは続けて次のように書いています。
「私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。」(3:9)
教会には主をほめたたえることばがあり、同時に人間を呪うことば(極端な言い方ですが、ほめたたえるとの対比で 呪うという語を使っています)があるのです。
「同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。」(3:10)
賛美と呪いが同じ口から出て来るなんてことは「あってはなりません」と断言されています。直前に「舌を制することができる人は、だれもいません」とあるのに、ある時は賛美し、ある時は呪うなんてことは断じて許されないのです。
私たちは気分が良ければ賛美をし、気分を害してくる人を呪う(やっかいに思う)ものです。その時々で好き勝手なことを言うのが私たち人間の姿です。人間ってそういうものじゃないですか、と賛美と呪い問題を据え置きにしてよいものでしょうか。「人間だもの」と片付けてしまってはいけないのでしょうか。
人間を中心に考えたらそれでも良いのかもしれません。自分の気分によってどんなことばを発するか、機嫌よくふるまうのか、いじけるのか、優しくするのか、怒るのか・・・自分を中心に置いて考えれば気分からことばを発するのが当然です。 しかし、そのような生き方を褒めてくれるのは主ではなく、サタンです。サタンは私たちがそうして生きるのをどんどん肯定し、喜び、賞賛し、推奨してくれることでしょう。もっと毒を吐き出せばいいよとエールを送ってくれるはずです。実は、私たちにとって都合の良いことばは、神のみこころから一番離れている、ということがあります。私たちを認めてくれる存在はすべて善であり、受け入れてよいものとは限りません。むしろその逆です。
私たちにとって都合の悪いことこそ神のみこころだということがあるし、私たちを厳しくいさめる存在が私たちのいのちを助けることがあるのです。この個所はまさにそういうものではないでしょうか。
ヤコブがここで伝えたいことは、もう一生涯賛美しかしてはならないとか、絶対に呪いや負のことばを発してはならないということではありません。あるいは、賛美と呪いの両方をするような舌は抜いてしまうぞ、というエンマ大王みたいなことが言いたいのでもありません。賛美したと思ったら、次には不満やねたみが出て来る・・・自分はなんてダメな人間、なんていい加減なクリスチャンなんだろうと思わせて、もう教会に来る資格もないと思わせることではありません。
ヤコブの強調点は、賛美をしていると思ったら他者を呪ってしまうほど、私たちの罪は恐ろしいということです。私たちは、なんと直しがたい気質を持っているのかと気づかせることです。また、神に対して誠実を貫けない弱さを持っていることを気づかせることです。自分の気分次第で神をほめたたえたり、人を陥れたりする定まりの欠いた、変わりやすい気質を持っていることを気づかせることです。
3. 賛美は上から
それがどれほど矛盾していて、あり得ないことであるかを、続く泉やいちじくの木のたとえで説明しています。甘い水と苦い水の両方を出す泉はないし、いちじくの木はオリーブの実をつけません。それなのに、私たちは神への賛美と人への呪いの両方を同じ舌でしているのです。「そのようなことが、あってはなりません」(3:10)が本当に重くのしかかります。
では、私たちはそのことに気づくだけで良いのでしょうか。気づいたところを直しましょう、やれる範囲で頑張りましょうというのはただの道徳、ただの習慣改善のススメです。それは福音ではありません。福音は神があなたのためにしてくださった救いの出来事です。福音とは神があなたのためにどれほど素晴らしいことをなさったのかを知り、味わうことです。
私たちは不義の世界のど真ん中にいたにもかかわらず、御国の喜びを歌うようになりました。私たちは自分が満足し、慰められなければ気がすまなかったのに、王なるイエスをたたえるようになりました。私たちはこの世の楽しみだけを探していたにもかかわらず、永遠の御国について歌うようになりました。私たちは舌やことばによって犯した罪の刈り取りをするのが当然であったのにもかかわらず、赦しの喜びを賛美するようになりました。
私たちは迷いやすく、優柔不断であったにもかかわらず、主が道を備えてくださると確信を口にすることができるようになりました。私たちは人に罪をなすりつけ、責任転嫁していたにもかかわらず、自分の罪を赦してくださいと悔い改め、静まることを知るようになりました。
これこそ、神が私たちのためにしてくださった良きこと、福音です。この福音を知ったからこそ、私たちは主を賛美し、神をほめたたえるようになりました。私たちは神のなさる素晴らしいみわざによって、変えられたのです。
主は「その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず」(第一ペテロ2:22-23)と証言されているお方です。唯一、舌を制し、罪を犯すことのなかったお方です。そして、このお方が私たちの罪をその身に背負いさばかれることによって、私たちは救われました。この方が打たれ、私たちは打たれずに済みました。この方が罰せられ、私たちは罰せられずに済みました。この方がさばかれ、私たちはさばかれずに済みました。この方がはずかしめを受け、私たちははずかしめを受けずに済みました。この方が刺し通され、私たちは覆われ、守られました。この方が釘で打たれ、私たちは包まれ、癒されました。そんなことをしてもらう資格はまったくない者なのに、主は無償で私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。
私たちが賛美できるのは、主がこの唇に賛美を授けてくださっているからです。私たちが手話で主をほめたたえることができるのは、主の素晴らしさを知らされているからです。以前は人生を嘆き、人を呪い、自分をさばいていた者が、主をたたえることができるようになりました。だから、私たちが賛美するようになったことは、救いのしるし、救いの訪れ、救いの喜びの表れです。
それでも他者を呪い、ねたみ、嫌味を言い、自分をさげすみ、人生を投げ出したくなったり、そんな言葉を発することがあるかもしれません。完璧な人はだれひとりとしていないのですから。その時、自分の罪にハッとし、それさえもまた赦しの対象とされていることを思い出してください。もう自分が罪に定められず、刑罰の対象とされないことを思い起こしてください。そして、自分がこのような赦しを恵みでいただいたのだから、他者(隣人、家族、知人、関りある人)に対して呪いではなく、祝福をひろげましょう。そのたびに、イエス・キリストから赦し、いのち、水をいただいてあなたが賛美の泉とされていく、あなたが永遠のいのちの水をもたらす者とされていく、そんなクリスチャンにしかできない使命を果たしていきたいと願います。
「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)
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