聖書箇所:エペソ人への手紙1章1-4節 |
本日から「エペソ人への手紙」を礼拝で学んでまいります。私にとっても初めてエペソ書からの講解説教になります。神の声を十分に聴きながら、備えてまいりますので、ご一緒に新たな発見、悔い改め、キリストの素晴らしさ、救いの確かさ、教会の大切さ、実生活への励ましをいただいてまいりましょう。
パウロはエペソの教会に向けて、まず自分の紹介から始めています。彼自身は使徒の働き18章、19~20章にかけて少なくとも2年3ヶ月以上の間、エペソに滞在していました。この手紙は続くコロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙と同時期に、使徒の働き28章の最後にエルサレムで監視付きの家で生活していた(獄中)2年の間に書かれたと考えられています。パウロは、会えない現実において、この手紙によって自身が現地を訪問するように、自らの口で語るようにしてこの手紙を書き送ったのです。エペソ(正確には小アジアの複数の教会に回覧するものとして書き送られた)の教会の人々も、これを待ちわびていました。当時の教会もパウロを使徒(主イエスの弟子として、正統な教理を教える者)として認め、神の言葉としてこの手紙を聴きました。私たちも、今朝の礼拝において同じ臨場感、熱量をもってエペソ書に聴いて参りたいと願います。
Ⅰ.神のみこころ(1節)
1. 忠実な聖徒たちへ
「聖徒」と言われてイメージするのはどのような人物でしょうか。しっかりしている、汚れのない、場合によっては堅い人を思い浮かべるでしょうか。聖徒の語意は「取り分けられる」なので、ここでは神のために取り分けられた人という意味になります。バイキングビュッフェで色々並んでいるまでは、自分のものではありませんが、自分のお皿に取り分けると、それは自分専用の食物となります。同じように、私たちは神を知らない者から神を礼拝する者へと変えられました。それは「神によって取り分けられた私」であり「神専用とされた私」です。
なぜ「聖徒=神によって取り分けられた、神が取り上げてくださった」のでしょうか。パウロも自分が使徒とされたことを「神のみこころによる」と書き出しています。同じように、私たちも自分に聖徒としての見込みがあって、その可能性を見込まれてスカウトされたわけではありません。ただ、神があなたを取っておきにされたのは、神のみこころによると受け止めることが良いと今朝の箇所は教えています(このことについては、再度神の選びのところで味わいます)。
そして、その「聖徒」とは「キリスト・イエスにある忠実」な者だと並べています。この忠実は「信じている、信仰を持っている」という能動的な意味です。聖徒は「信じている」という行動を伴っています。「聖徒」が身分であるのに対して、「忠実」は行動です。身分があるからこそ、行動が付いてきます。その逆では決してありません。それはちょうど小学生がランドセルを背負うようなものです。ランドセルを背負っているから小学生なのではなく、小学生だからランドセルを背負って通学します。クリスチャンも、キリストを一生懸命に信じているから聖徒と呼ばれるのではなく、聖徒とされたのでキリストを主と信じ、またそのように行動します。それゆえ、エペソでも福岡めぐみでも、教会に連なる者はすべて聖徒です。この中に聖徒とそうでない人がいるわけではありません。神は、私たちすべてをご自身のために取り分けて聖徒としてくださいました。そのことに応えて、私たちはキリストへの忠誠を表して生きるのです。
2. それでも世にある聖徒
「聖徒」は神によって取り分けられた者ですが、依然としてこの世に生かされています。すぐさま天に引き上がられれば良いのですが、そうではありません。実に、この世に生きながら、身分は聖徒として神が預かっておられます。この地にいながらにして、聖徒として振る舞いなさい、ということです。ここに私たちの戦いがあります。世を捨ててキリストを考えることはふさわしくありませんし、キリストを忘れて世に埋没するのもふさわしくありません。まさに「地の塩」「世の光」(マタイ5:13,14)としてその使命を地上で全うするように励まされているのです。そのために、いつでも自分は「聖徒」であることと「キリストに忠実である」ことを思い出し、それを鮮明にして歩むように心がけなければなりません。みことばや祈り、礼拝はそのことをいつも思い出させ、あなたがふさわしい場所にいるように、場合によっては戻ってくるようにされるのです。私たちはみな聖徒、そしてキリストに忠実であることを表明して生きる者です。それがこの地にあって塩の役割を果たし、この世にあって光の役目をします。そうして、神の国は広がっていきます。
Ⅱ.神の選び
1. 恵みと平安と祝福(2,3節)
聖徒としての身分と役割は大きなものですが、その生き方は孤独な道ではありません。「主はご自分の聖徒を特別に扱われる」(詩篇4:3)お方だからです。聖徒としての日々には、「恵みと平安」(2節)があり、さらに「天上にあるすべての霊的祝福をもって祝福」(3節)がある日々です。恵みとは、こんな自分にもらってよいの?と驚くような贈り物です。平安は、このままでは危ない、いつもまでも疑いが晴れない、私の人生、私の決断これでよいのかな・・・といった不安に負かされないものが与えられるということです。さらに祝福は「天上にあるすべての霊的祝福」が注がれます。これら三つに共通するのは、私たち聖徒から離れないものであるということです。ダビデも「まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みとが 私を追って来るでしょう」(詩篇23:6)と讃美しているとおりです。私たちには、どんな窮地に追い込まれても神の恵みを見出し、どんなに心がすり減る経験をしても平安が包み込み、大きな問題や試練が立ちはだかっても天からの祝福は途切れることがありません。
2. 救いは神にかかっている(4節)
こうした人生に変えられた理由をここで記しています。それは「神は、この方にあって私たちを選」(4節)んでくださったからです。しかも「世界の基の置かれる前から」の計画であったと明かされます。私たちは、信仰に関しても自分の視点で考えがちです。どのようにしたら神を信じられるのか、神さまがいたら世界はなぜ悪に満ちているのか、すべては分からないけれどまず私が神を信じてみよう、私が信仰の道を選べば神は恵みを与えてくださるかもしれない・・・・・・これらはすべて私の視点、人間の考えです。
しかし、「神は・・・私たちを選んでくださいました」とあるのはこれとは正反対です。聖書は、神の視点で考えるように私たちに語りかけています。「あなたがたが選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたたがたを任命したのです」(ヨハネ15:16)と主イエスも教えておられます。私という人間の決断によって信仰は始まるのではなく、あなたという人間の決心によって救われるのでもなく、人間の信仰深さによって生涯信仰を守ることができるのではない。まったくその反対で、神があなたを選んでくださったので神を知ることができ、教会に導かれ、信じてみようと心が開かれ、神があなたを選び抜いてくださっているから信仰が守られるのだというのが、聖書の教える真実です。そして、聖書の真理は現実そのものですから、神に選ばれたからこそというのが今ここに集って礼拝をする私たちにもそのまま当てはまる真理です。
あなたは神に選ばれ、信仰が与えられています。これから信じる人も同様です。あなたの決断、決心の堅さによって救われるのではありません。救いが私たちの決断や決心、選択にかかっていたらそれこそ大変です。私たちは気分の善し悪しによって神を近くにも感じますし、遠くにも感じます。信仰が強く動いているときもあれば、なくなってしまったのではないかと思えるほど消極的なときもあります。教会にも行ったり行かなかったり、聖書も読んだり読まなかったり。こうした状態で、救いのことを考えてみても不安になるだけです。しかし、ここではそうした負の考えは必要ありません。なぜなら、あなたの信仰は神が選んだからこそ始まっているのであり、あなたの救いは神が選んだからこそ確実であり、あなたの信仰生活は、神が選んだからこそ最後まで守り通してくださるものだからです。こうして、私たちから「自分が選んで信じたのだ」、「自分がしっかり立っているから救われているのだ」という誇りやプライドが取り除かれ、「自分でしっかりしなきゃ」「こんな自分ではダメだ」というがんばりや焦りからも解放されます。
教会に来てまで虚勢を張るのは大変なことです。しっかりしているフリ、頑張って保つ生き方、良いクリスチャン像を自分の中で作ってそれに合わせること・・・・・・ぜひ、こうした偶像をめぐみ教会から排除していきましょう。神の選びは変わることがありません。ちょとやそっとあなたが揺れ動いたとしても、神の救いはビクともしません。そのことによって、再び立ち上がることができます。もし、私たちが自分の信仰の強さ、信仰生活の立派さにより頼んでいたらしんどいことですし、失敗や罪を犯したら二度と立ち上がることもできないかもしれません。こんな私は教会に行けない、皆に合わせる顔がないと気持ちも足も遠のいてしまうことでしょう。ぜひ、神の選びと神の救いの確かさを互いに確認しながら、神を誇りといたしましょう。神の選びにすがりましょう。
Ⅲ. 神の目的(4節)
1. 聖なる者として
神の選びはただ救われたことだけで終わりません。むしろそれはスタートで、確固たる目的があります。それは私たちが①聖であることと、②傷のない者として御前に立つようになるためです。神の壮大な計画は世界の基の置かれる前(天地創造)から、神の国の完成までに渡るものです。私たちが選ばれ、救いにあずかった目的は最終的に神の前で聖であり、傷のない者として立つためでした。
まず、1つ目の「聖なる」ですが、最初に「聖徒たち」と言ってくれているのにもかかわらず、最終目標も「聖なる」者であるという点に驚きます。旧約聖書では「あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖であるからだ」(レビ記11:45、他には19:2,20:7-8)とあり、新約聖書でも「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」(第一テサロニケ4:3、他にはヘブル12:14、1ヨハネ3:3)があるように、聖書を通じて神の私たちに対する願いは一貫しています。ご自身の聖さにあずかるように私たちも自身を聖なる者としていくことです。私たちは地上から天の御国を目指す旅人です。それまでは一足、また一足と旅路を進めるように、少しずつ少しずつ聖なる者の完成を目指して歩を進めることになります。
これが本当なのは、私たちの実生活を見てみるとわかります。クリスチャンといえども、すぐさま全部の性格や生活が変わるわけではありません。以前はすぐキレていたのが我慢強くなった、人をさばいてばかりいたのが赦すことが(時々)できるようになった、すぐに諦めていたのが祈るようになったなどの変化が起こってきます。それでも完全にはなりません。何をされても怒らず、どんなことも赦し、何事にも動じない・・・・・・そんな品性の完成はまだまだ先です。それでも、神に選ばれ聖徒とされた私たちは、日毎にキリストへの忠誠を減らすことなく、前進(漸進)していくことを期待されています。
愛の反対は無関心と言われます。神のこうした期待はあなたに向けられたこの上ない愛の表れです。主の愛に応えてまいりましょう。
2. 傷のない者として
「聖なる」とペアのようにして「傷のない者」と続けて言われています。神の前に立つためには、神の基準値に達していないといけません。そうではないものは滅ぼされます。実に、私たちが選ばれ救われたのは、神へのいけにえとされるためです!え!?私は神のいけにえとなるために赦されたの?神に供えられて終わってしまうの?と思うかもしれませんね。
罪のいけにえとしては、キリストがすでにご自身をささげてくださいました。その打ち傷によって、私たちは救われたのです。その意味で罪のさばきとしてのいけいえはすでにささげられました。キリストの十字架は、完全な罪のいけにえとしてのささげものです。そして、私たちが「聖なる、傷のない者」としてささげるのは、滅ぼされるためではなく、神の栄光のためです。
神の栄光を現すために。これ以上の高い目標はありません。これ以上の価値ある目的は存在しません。対人間であればいつか忘れられます。生涯の目的を据えるなら、裏切られない方に照準を合わせた方がいいです。自分の時間や知性、行い、生き方、考えを費やすなら、絶対に報いてくださる方のためにささげた方がよいです。神に不用品や傷ありのものは差し上げられません。同じように、自分の心身を傷のあるままで神に差し出すことははばかられます。実に、キリストが血を流し、いのちをかけて救い出してくださった者として、今度は私たちが神専用にされた者として、自身を聖めて、御前にささげることに誉れを感じたいと願います。私たちは、この目的のために最高の礼拝をささげ、より神に近づき、より主イエスを愛し、隣人に駆け寄り、赦し、愛します。始まったエペソの手紙をともに丁寧に聴き、その通り応えてまいりましょう。
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