聖書:ヨハネの福音書15章16-17節 |
礼拝説教は「福音」シリーズ本日で8回目です。今年はゴスペルハウスのスタートに向けてみことばによっても祈りによっても理解を深め、霊的な力をいただき、教会の一致や熱量をもって初年度の取り組みに入っていきます。天に帰られるイエスさまが地上における最後&最大の命令として「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)と使徒たちに語られたあの大宣教命令(The Great Commission)を、私たちも受け取り、遂行するのです。それが地上に教会が立てられた理由であり、地上の教会が向かうべき目的です。こうして、始まりと目的地を明確にしておくこと、そのつど確認することで、私たちはただの福岡めぐみ教会ではなく、主イエスをかしらとした「生ける神の教会」(1テモテ3:15)として、いのちを保ち、真の価値あるわざに貢献することができます。ぜひ、この主の日の朝にもう一度、教会の始まりと目的が大宣教命令にあることを確認しましょう。
イエスさまは、完全な計画をお持ちです。それで、イエスさまの宣教と教育は完璧なプランにしたがってなされていました。そうです、使徒たちまた教会が大宣教命令に着手し、果たすことができるように最初からプランニングされ、それ専用に最高のデザインがなされていました。唐突に「あ、そうだった」と告げたわけではありません。イエスさまが地上での公生涯を始められたとき「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われました。イエスさまは使徒たちや人々に福音を教え、見せ、届けておられたのです。それで、私たちも福音とは何か、その豊かさ、みずみずしさ、深さ、高さ・・を知り、学び、味わうのです。そのため今年は礼拝の説教を「福音」シリーズで計画し、本日が8回目です。イエスさまがたとえで「神の国とは〇〇のようなものです」と教えられたように、毎回の礼拝で、福音とは〇〇です、とさまざまな角度から福音の内容を見ていきます。そして、毎週みことばを聴き、分かち合い、繰り返し思い巡らすことで、福音理解を深め、積み上げことができるようにと願います。今朝の福音は次の3つです。①主に選ばれていること、②主にとどまること、③主の実を結ぶことです。
1. 主に選ばれ
本日はヨハネ15章からで「わたしはまことのぶどうの木」(15:1)で始まるよく知られた章の一つです。「父は農夫」(15:1)で「あなたがたは枝」(15:5)とはっきり教えておられます。その目的は「実を結ぶ」(15:2,4,5,8,16)と何度も繰り返し教えておられます。その始まりが「選び」です。
16節を改めて見てください。「あなたがたがわたしを選らんだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」。先のぶどうの木と枝のたとえから続いていますので、それをイメージする分かりやすいですね。枝は木から出ています。木が枝を生み、支え、伸ばしていきます。枝から木が生えたり、枝が木の幹を支えているような、逆のことは絶対にあり得ません。
それと同じように、あなたがたもわたしが選んだのだ、わたしから生まれたのだ、わたしが支えているのだと言われます。
この始まりの確認はとても重要です。私たちはこの世界のことも、自分の人生のことも、身の回りのことも、また信仰のことも「自分中心に考えがち」です。自然とその考え方が身にしみついています。出かける予定があるときに雨が降ったら不機嫌になります。ひったくりや泥棒被害にあえば恐ろしくなりますし、世界が自分の敵になったような気になり不幸な自分をあわれみます。自分の使っている道具がなくなれば、誰かが持っていったのではないか、と疑ったり、不機嫌になったりします。そんな考えがこびりついているので、信仰=神を信じることについても同じように考えます。「神さまなんているはずがない。いるなら見せてみろ」「奇跡が起こるなら信じてやってもいい」「この世界を創造したんだって?科学でも証明されないことを信じろなんてバカバカしい」「まだ自分では信じきれないんだよなあ」「いのちも人生も時間もお金も私のものだろ。私が努力してるんだから」と信じるまでにいろいろ悩んだり、考えたりしますし、それが普通です。また、信じてからも「神さまに喜ばれるようにしなくっちゃ」「教会の目があるからなあ」「あの人もやっているのだから、私も頑張らなくちゃ」「信じたのに、苦労や試練がなくならないなんて、神さまは意地悪だ」「奉仕したのに誰からも褒められない、やめてやる・・・」と不満をふくらませたり、「洗礼受けてもちっとも変わらない。私はヤバいかも」「天国に私の居場所なんてないかも」と不安を感じることだってあります。これも普通です。信仰についても「私が信じている」「私が信仰を保っている」「私が信じている神さま」と自分を基礎に置きがちです。なぜなら、私たちは自分中心でいることが基本だからですね。
しかし、今朝の16節ではイエスさまは真逆のことを言っておられます。「わたしがあなたがたを選びました」。福音によれば、信仰も宣教も、主があなたを選んでおられるのだという真理があるのです。こっちの方が真実なのです。まさに
「ああ、あなたがたは物を逆さに考えている」(イザヤ29:16)とある通りです。私たちにとってはにわかに信じがたく、愚かに聞こえるのですが、みことばが真実なのです。私たちは愚かで、主は賢いのです。私たちが不確かで、主は確かなのです。私たちが選んだと思いがちなのですが、主が私たちを選ばれたのです。これは本当に驚くべきことです。主が私たちを選んだということは、私たちは自分で自分のことを判断したり、何か良い材料を探したり、理由を探したりしなくてもよい、そうすべきではないということですね。「私は完璧じゃないから」「陰ではひどい人間です」としり込みしても、イエスさまは「そのことは知っているよ」「あなたが一人の時にどんな人間かも知っているよ」と言われます。そして、その上で「わたしがあなたがたを選びました。任命しました」とかぶせるのです。それで、ようやく私たちは知るのです。イエスさまは完璧な人を選ぶわけではないことを!イエスさまは仕事のできる人だけを選んで、そばに置き、仕事を任せるのではないことを!イエスさまはこのあと弟子たちがみんな見捨てて逃げてしまうことをご存知でした。弟子たちがつまずいて、失敗し、恐れに震え、逃げ隠れするのを知っておられました。それを知っているから「お前は信用ならない。仕事もできないから、選んでおかないよ。」とはおっしゃらないのです。あえて弟子たちに「わたしがあなたを選んだんだよ」と最後の晩餐を囲んだあとに言われます。それは、後になって弟子たちが自分が選んだ、自分が信じている、自分が保っている、自分がためになるという人間的な自信、自覚、手ごたえ、覚悟で信仰や宣教の働きをするのではないことを徹底的に砕くためです。その基礎の上には何も建物を建てないようになさいました。まさに、枝が木を離れて成長や実を結ぶことを考えないようにさせるためです。木につながってこその枝であることを思い知らせるためでした。
実に、イエスさまの自由な選びとユニークで完璧な計画の中で、弟子たちはそばに置かれ、選ばれていたのです。それは、私たちにも同じことが言えます。この中の誰もが秀でているから、選ばれているわけではありません。有能な人物が牧師になっているわけでもありません。むしろその逆です。牧師の集まり=変わった人の集まりと言えるほど、ユニークで変な者です。神さまは、私たちそれぞれの出来不出来、完全さ、有能さに頼るようなことは決してなさいません。イエスさまは、不完全な者をも選び、大事な任務に派遣してくださるお方です。本当に有能であるのはイエスさまだからです。
最善の環境で、最新の機器しか使えない医師は最高の医師ではありません。どんな所であっても、古い道具であっても、難病を治すことのできる医師が最高の医師です。その医師は道具や環境に頼らないからです。そのような腕前を持っていてこそ、名医です。イエスさまも同様です。私たちの出来不出来、素質、資質、状態に左右されず、用いることのできるお方です。それは、考え、計画し、選び、用いる神さまが素晴らしいお方だからです。この方が「わたしがあなたがたを選んだ」と言われるのですから、このみことばをそのまま受け取りましょう。
2. 主にとどまり
その選びを具体的にするのが「わたしにとどまりなさい」(15:4,5,6,7,9,10節)という命令です。主が選ばれたのですが、私たちにもなすべきことを告げてくださいます。この命令はたくさん繰り返されていて重要なことは分かりますが、そのイメージは変な感じです。ぶどうの木が枝を支えるからこそ、枝はその木にとどまることができるのではないでしょうか。枝の方で頑張って木にとどまるというのは、始まりの選びとは正反対のように思います。自分たちで頑張りなさい、というように聞こえるからです。ここは一体どのように理解したらよいのでしょう。
これは「とどまる」の意味を知ることが助けになります。今、ぶどうの木と枝でイメージしていると思いますが、これは本来「主とあなた」の関係を教えるためのものです。主は私を、あなたを選んでくださいました。主の自由な選びに基づいているので、あなたは自分自身を見るのではなく、選んでくださった主イエス・キリストを見ることが何よりです。この方に存在意義も選ばれた理由もあるからです。それは面接資料や成績、特技に基づくものではなく、主の自由な選びとこれからどんなことがあっても見損なわない、切り捨てない偉大な愛に基づいてのことです。神は愛であられるので、こちらの状態ややってしまったことにがっかりして愛することをやめにしたり、気持ちが冷めて愛を翻すことは決してありません。だから、私たちは安心して神の愛、選びに自分をあずけることができるのです。
しかし、そのことさえも、自分の理解や感覚に左右されがちです。聖書を読めている間は、確信が持てる。教会に来れているから、救われていると言える。奉仕や神についての働きをしているから、平安がある。これは頑張って枝が木にくっついているイメージと変わりません。
このところで「わたしにとどまりなさい」と繰り返されている「とどまる」は【それ以外のところでは生きられない】という意味を持っています。これは私たちの告白です。自分がどのような状態なのかを、よく把握しなさいということですね。決して「とどまる」ことが私たちの側で主につながっていなければという行いや頑張りではないのです。あなたのやる気があることはいいことです。無理やり連れて来られたり、イヤイヤ引っ張って来られるよりも、やる気に満ちて主のもとへ行くことは、主も喜ばれることでしょう。しかし、「わたしにとどまりなさい」とは、あなたのやる気だけが支えとなっていてはいけません。詩篇でも「私をささえてください。そうすれば私は救われ、いつもあなたのおきてに目を留めることができるしょう。」(Psa.119:117)と信仰者は祈っています。それは私のやる気ではなく、主に支えていただくことこそ、私の拠り所ですと平安が持てるからです。
実際、私たちは一番大切なものは自分で抱えません。銀行に預け、金庫に保管し、信頼できる人に預けます。本当に大切なものは、自分で保ち、管理し、守ることができません。人間とは何と言う皮肉な存在、非力な存在なのでしょう。そうであるならば、私たちが主にとどまるという信仰の決心や継続の保証についてはいかがでしょうか?自分のやる気にかけてやる、ということでいいでしょうか?それよりも、ぶどうの木であり、幹である主にお任せした方が幾倍も良いのではないでしょうか?神さまにお委ねする、主にとどまるということのスケールを間違って想像しないようにしましょう。
たとえば、地球をゴルフボールとすると、太陽は人間の腰回りくらいの大きさになります。太陽系は37キロ、銀河系は10億光年の大きさ、広さ、スケールです。
私たちが信仰や主にとどまることを自分の理解ややる気で考えているなら、それはゴルフボールの中であれこれやりくりをしているにすぎません。本当はそれ以上のものがいくらでも存在するのに、です。神さまは宇宙を創造し、支配し、治めておられるお方です。銀河系よりもはるかに偉大なお方です。単純に大きさではなく、愛にも知恵にもスケールが桁違いなお方です。この主にとどまることが、主につながっていることが、私たちの自由を奪うことになるのでしょうか?いいえ、私たちは主に従えば従うほど、自由を味わうのです。主にとどまればとどまるほど、大きな世界へと導かれるのです。小さく偏屈で頑固な私たちには最初から見通せないので、わかりません。従わないと、わからないのです。とどまり続けないと、味わえないのです。そして、このスケールの神さまにとどまる、つながっていることがどれほど素晴らしい生き方なのかを知って行くのです。とどまり続けないと、このことは分かりません。主にとどまるとは、主のスケールの大きさに身をゆだねることだと覚えましょう。
3. 主の実を結ぶ
主の選び、主にとどまることに続いて、最後は「主の実を結ぶ」ことを学びましょう。選ぶ、とどまるに続いて意外な言葉でしょうか。「それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため」(15:16)です、と。
ここで「実を結ぶ」とたびたび言われてきたことが、どういうことなのか明らかにされてきます。それは、弟子たちが「行って」実現することです。私たちが「行って」農夫である主が豊かに働かれ、実現することです。私たちのクリスチャンとしての内実とか内側の成長(だけ)ではなく、「行って」こそ見ることのできる実を結ぶために選ばれ、とどまるのでした。
どのような実なのか。この節の前後を見ると「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」(15:14)、「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます」(15:17)とあります。まず、私たちはキリストの友となること。また互いにキリストの愛で愛し合うこと。これが見える実です。そして、その実が今いる者たちだけで、その内側だけでまとまっているだけでは不十分です。少し後の17章に「あなたがわたしを遣わしたように、わたしも彼らを世に遣わしました・・・彼らのことばによってわたしを信じる人々のために・・・あなたがたわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです」(ヨハネ17:18,20,21)と「行って」の先に期待されているものが何なのか祈られています。主イエスは弟子たち、私たちが「行って」、イエスが神の御子救い主であることを世が信じるために遣わされるのです。
「福音」は主が自由な愛によって私たちを選んでくださっていること、私たちは主の選びに根拠を置いて、新しい人生を始めます。
「福音」は主の愛にとどまることです。この方を離れては生きていかれないことを日々味わうのです。神の愛のスケールの大きさ、深さを知ります。
「福音」は行って実を結ぶことです。この主の選び、主の選びを土台にした人生を知らない方がおられます。そこへ行くのです。この主の愛の大きさを知らずに孤独に生きている人がいます。そこへ遣わしてもらうのです。
さらに「実が残るようになるため」(15:17)に注意を向けてみましょう。それは信じる人が起こされるようにすることと、その人が残るようにすることが大切です。アフターケアまでよく考え、しっかり取り組むこと。新しく来られた方に声をかけ、よくおいでくださいましたとあいさつを交わすこと。一度来会された方々が次に来られるようにフォローアップすること。来会歓迎はがきを送ったり、連絡先を交換して次にお誘いすること。入門クラスが入口だとしたら、信じた後のクリスチャン生活や神の国の価値観、この世でのふるまいについて学ぶクラスや機会をもつこと。これから、ゴスペルハウスをスタートするにあたって、多くのチャレンジがあることに気づきます。それら一つひとつが「行って実を結び、その実が残るように」とのイエスさまの託してくださっている使命に貢献するためです。
最後に「任命」(15:16)について短くおさらいしましょう。「あなたがたを選び、あなたがたを任命しました」と選ぶと並行して「任命しました」と付記されています。この語はその前の13節にある「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(15:13)の中にある一つの語と同じ言葉です。それは「捨てる」という語です。この他の個所では10章の良い牧者のたとえ話で使われています。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」(10:11)。そうです、「わたしがあなたがたを任命しました」とは「わたしはあなたがたのためにいのちを捨てました」と同じ意味に取れるものです。これは決して偶然とか間違いで宛てられたのではなく、よくこの意味をくみ取るようにとの主の計らいです(Morris, p.600)。
キリストがいのちを捨てて私たちを立ててくださいました。キリストがいのちをかけて成し遂げられた使命がありました。友のためにいのちを捨てること。これが私たちの任命ミッションです。友のためにいのちを捨てる。互いに愛し合う。主イエスがそのようにされたから、そのことにどれだけの価値があるのか私たちは知ることができます。迷っても、難しさを感じても、友のためにいのちを捨て、互いに愛し合うこと。これにまさったやるべきこと、価値あることは他にはありません。選ばれた私たちは、キリストにとどまり、行って実を結び、実が残るためにいのちを捨てる、生涯をかけたいと願います。福岡めぐみ教会は主が流された尊い血によって買い取られた神の教会です(使徒20:28)。私たちが、この方のいのちを無駄にせず、一粒の麦として地に落ちて死に、そして豊かな実を結ぶ主の約束の命令にすすんで従う群れでありたく願います。
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