聖書 ルカの福音書 1:8-20 |
はじめに ~アドベント第一週~
本日から教会の暦はアドベントに入ります。
アドベントの期間はクリスマスを迎えるまでの4週間(4回の主の日)です。いきなりクリスマスを迎えるのではなく、その準備をし、心身を整えていきます。
アドベントの語源は「アドベニオー」(ラテン語)で、その意味は「立ち起こる」です。ここから「アドベンチャー(冒険)」という言葉も派生しています。これは、私たちにとても大きな気づきを与えてくれます。私たちの人生は冒険のようです。一歩先は何があるのか分からない、明日には何が立ち起こるのか知ることができないからです。人生は、まさに冒険であり、アドベンチャーです。
けれども、アドベントからクリスマスにつながるように、 この冒険の先には、救いが待っています。救い主、イエス・キリストにたどり着くアドベンチャーを私たちは歩んでいるのです。だから、心配ありません。一歩ずつ、自分のペースで進めて行けばいいのです。必ず、イエス・キリストがあなたと出会ってくださるからです。
※週報のコラムにもアドベントの意味を記しました。
ご参照ください。
さらに、この冒険は私たちが一方的に突き進んでいくものではありません。主イエスの方から、私たちへと近づいてきてくださるものです。しかも、遠い地や国からとか、お金をかけて来てくれたというレベルではなく、天の御座をおりて来てくださいました。栄光の神のすがたを捨てて、ご自分を無にして、私たちと同じ人間となってくださいました。引っ越しの一つや二つでヒーヒー弱音をあげる私たちです。主がとてつもない犠牲を払ってくださったことをじっくり思いめぐらしましょう。私たちと救い主が出会うために、イエス・キリスが私たちのところまで来てくださいました。
2023年のテーマ聖句は「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)です。
福音のニュースの始まりは「ここまでおいで~」ではなく「ここまで来たよ~!」です。
主が備えられたこのアドベントの時、まず私たちではなく、主の方から私たちに近づき、なんと目の前まで来てくださっている福音に驚き、感謝をもって福音を受け取りたいと願います。
1.用意される神
今年のアドベントの礼拝ではルカの福音書1~2章を開きます。ルカの福音書でイエス・キリストが誕生するのは2章です。イエス・キリストの誕生の前にこの1章があります。「福音書」はイエス・キリストの生涯を記録したものですが、それがイエス・キリストから始まらないで、その前の出来事からスタートしています。
その理由は、もったいぶっているのではなく、まさにこのアドベントのようにイエス・キリストの誕生の前に神がなさっておられる出来事を記す必要があったからです。神さまはご自身の働きをなすために準備されるお方です。神さまはいきなり奇跡だけを起こす方法を取られません。
たとえば、アブラハムには神は次のようにされました。まずその父テラから徐々に準備をし、カルデヤのウルからハランに移り住ませ、それからアブラハムを約束の地カナンまで導かれました。アブラハムの生涯は175年(創世記25:7)でしたが、その活躍が始まるのは70歳を過ぎてからです。
モーセは40年間王宮で育てられ、40年間荒野で訓練され、その後の40年間イスラエルの民を導く仕事をしました。つまり、全生涯の2/3がその準備にあてられたのです。モーセは、俺はもう埋没した、このままでいいやと思っていたかもしれませんが、それは神の準備期間でした。▶
ヨシュアは青年のころから数十年の間モーセに仕えつつ学び、そのあとリーダーとなりました。ヨシュアは90歳を過ぎてからリーダーを引き継ぎ、110歳まで民を導きました(ヨシュア記24:19)。リーダーとして活躍するよりも、その準備期間の方がずーっと長いことに気づきます。
今朝はルカ1章8~20節です。1章全体が大きなストーリになっていて、「ザカリヤ」という人物から始まります。彼は「ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の・・・祭司」(5節)です。当時、イスラエル神殿には約2万人の祭司がいたとされます。それが24のグループに分けられ、1週間交代で神殿の仕事をしていました(Ⅰ歴代誌24:7-19)。祭司の仕事の中でもっとも名誉なのは「神殿の中にある聖所で香をたく」ことです。朝と晩に毎日2回、神殿の中にある特別な場所である聖所に入り、いけにえをささげた祭壇の炭火をもち運び、香をたきます(出エジプト30:7-8)。香は、朝は太陽が昇ると同時にたき、夕ぐれにも煙を立ち上らせ、主を礼拝するしるしとなる重要なものでした。
1つの祭司グループには1,000人ほど祭司がいました。香の当番を順番に回しても、70年以上かかります。 祭司として働く期間は30~50歳の間でしたので(民数記4:47)、一生祭司をしても、順番が回ってこないこともザラでした。こんなにたくさんの祭司の中で、誰がするのか決めておられましたから、当番のくじが当たるのは、すごいことでした。▶▶
では、くじが当たる秘訣があったのでしょうか。ぜひ、ザカリヤに教えてもらいましょう。秘訣を見つけるために6節と8節に注目してください。
「(ザカリヤとその妻エリサベツは)二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を、落ち度なく行っていた」(6節)、「ザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていた」(8節)とあります。いつ、くじが当たるか分かりません。生涯回ってこない可能性だってあります。それでも、ザカリヤ夫妻は「神の前に正しい人」であり続けていました。ここで分かることが2つあります。1つは、必ずくじに当たる方法や自分の願ったタイミングで順番が来る方法などないということです。もう1つは、いつも神の前で過ごすという秘訣です。
2 揺さぶる神
さて、ザカリヤが香をたいて祈っていると、そこへ主の使いが現れます。ザカリヤは喜びません。「取り乱し、恐怖に襲われ」(12節)ました。私はいつもこの個所を不思議に思っていました。祭司として神に祈りをささげ、そこへ御使いが来てくれたら嬉しいことではないでしょうか。もし、自分だったら「ああ、私にも現れてくださった!」とか「まじで御使い、来た~」と両手をあげて喜ぶかもしれません。
けれども、今日のメッセージを準備する中で、教えられたことがあります。それは、ザカリヤ(と妻のエリサベツ)が「神の前に正しい人で、すべての命令と掟を、落ち度なく行っていた」(6節)ほどに、主なる神を恐れて生きる人であったからこそ、主の使いの出現に取り乱し、恐怖を感じたということです。
何とも思っていない方に出くわしても、驚いたり、感謝したりしません。来て当然だと思っているものが出てきても慌てません。しかし、ザカリヤは神の偉大さ、聖さを知っていました。神は恐れられる存在であることをわきまえ、日々ひざまずいていました。だからこそ、ここでタジタジになるほど恐れおののいたのでしょう。突如現れた御使いに「あ、ガブリエルさんだ~」と軽々しく言えないのは、礼拝者の正しい姿勢だと教えられます。 ▶
私がよく黙想する聖句があります。
「主は ご自分を恐れる者と親しく交わり その契約を彼らにお知らせになる。」(詩篇25:14)
主は「ご自分を恐れる者と親しく」してくださいます。主を喜ぶこと、父と子のような親密さを持ち、信頼しながらも、主を恐れることにもたけていたいと願わされます。
ルカの福音書1章ではザカリヤとマリアとに御使いが現れ、同じように「恐れることはありません」(13、30節)と言っています。御使いの務めは、主からのメッセージを伝えることです。ここでは「この良い知らせを伝えるために遣わされた」(19節)と言っています。それはザカリヤと妻エリサベツとの間に男の子産まれることでした。
しかし、ザカリヤは、「良い知らせ」を信じることができませんでした。「神さまは聞いてくださらなかったなあ」、「子どもは御心ではなかったのかも、その証拠にもう私たち夫婦は年を取っているし・・・」と決めていたかもしれません。この祈りはもう祈らなくていいとあきらめていたかもしれませんし、そうしてあきらめた祈祷課題をたくさん倉庫の中にしまっていたかもしれません。ザカリヤはすぐにその知らせを受け入れられませんでした。神の前に正しく歩んでいたザカリヤでも信じられないことがありました。これは、私たちにとっては驚きであり、慰めです。聖書に出てくる祭司、信仰深い人であっても疑ったのですから。▶▶
ザカリヤには取り扱われなければならない部分がありました。それは人間の常識で神を考えていたところです。人間の理解できる範囲で神のことばを受け入れていたところです。何の落ち度もなかったザカリヤですが、彼にはもっと神が偉大であることを知る必要がありました。自分の考え、年齢、常識と神の知らせが衝突したとき、ザカリヤは「信じることができません」と言いました。ルカは、イエス・キリストの誕生の前に、このザカリヤのことを記録しています。そして、私たち一人ひとりに、ザカリヤと同じ問いを投げかけるのです。
主なる神は、常識では測れないお方であり、私たちが考える以上に偉大なお方です。イエス・キリストを迎えるために、妨げているあなたの常識を取り除きなさいとチャレンジしておられるのです。もし、あなたの常識の中で納まる神であれば、それはもはや神でも偉大でもありません。それはあなたが作り上げた偶像です。神はそんなところに納まるはずがないし、そうあるべきではないのです。
私たちの中にある神さまのイメージが崩されるのは良いことです。さらに偉大な神と出会うからです。私たちが現実に失望しても、神さまをさらに求めるようになるなら、それは良いことです。自分の年齢や性質、限界を感じて「もうダメかな?」と思い始めるのは、良いことです。新たに神と出会うことになるからです。■
3 沈黙させる神
ザカリヤに、神が偉大であることを知るために、御使いは一つの試練を与えます。「見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです」(20節)。
ずっと落ち度なく、祭司として、信仰者として完璧だったザカリヤにとって、変なかたちで皆から注目を集めることになるのは、きっと恥ずかしいことでした。自分としては受け入れられない姿だったかもしれません。しかし、主はこのような方法でザカリヤを導きます。
口がきけなくなり、話せなくなるということは、外部との交流ができなくなることです。1章62節では「身振りで父親に尋ねた」とあるので、ザカリヤは話せなくなるだけでなく、外部からの声も遮断されていたようです。そうすると、ザカリヤの中には、このとき主の使いから受けたメッセージだけが繰り返されることになります。しかも、それは「ザカリヤよ、なんでお前はそんなに頑ななのだ。不信仰め!」というさばきや責められるメッセージではありません。ザカリヤの中で繰り返し再生されたのは「良い知らせ」(19節)です。ザカリヤは強制的に「福音」だけを聞くようにされたのです。私たちが教会に導かれているのにも、主の配慮と願いを感じますね。▶
この良き知らせは、ただザカリヤとエリサベツとの間に男の子が生まれることだけではありません。その生まれてくる子がなす働きについて、多くの説明がなされています。まず、その名はヨハネと付けられます。そして「エリヤの霊と力で、主に先立って歩み・・・父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意する」(13-17節、参照マラキ4:5-6)者となります。
生まれてくるヨハネの使命は、人々がイエス・キリストを受け入れ、信じるようになるための準備をすることです。そのポイントは2つあります。1つは「立ち返る」ことであり、もう1つは「用意する」ことです。
「立ち返る」は、他では「立ち直る」(ルカ22:32)、「連れ戻す」(ヤコブ5:2)とも訳出されます。間違った所から離れ、正しい道へと体を向けるのです。アドベントは、私たちは今の自分が揺さぶられ、不必要なものを捨て、福音のことばに向き直る機会です。いよいよ私たちは福音に夢中になりたいと願います。
「用意する」は、救い主キリストを迎える用意です。新しい家具を置くために部屋にスペースを開けるように、キリストを迎える用意をするのです。恐れで縮まった身体を伸ばし、常識でこりかたまった心をほぐしましょう。▶▶
ザカリヤは沈黙させられました。ザカリヤはどんなことを思ったでしょうか。「自分たちはもう年寄りなので子どもをあきらめていたのに、神さまはあきらめていなかったのか」、「自分たちではもうムリだと思っていたのに、神さまは、見限ってはいなかった。自分がこの年になるまで、神さまはずっとずっと準備されていたのか」とその人生が神さまに導かれていたことに、胸が震えたのではないでしょうか。ザカリヤは沈黙によって、神の偉大さ、計画の完璧さ、神の時の美しさを味わったに違いありません。
私たちも沈黙して過ごしてみましょう。ただ黙るだけでなく、沈黙によって得るものがあります。
「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」(詩篇62:1)
私たちが沈黙してこそ聞ける福音があります。私たちが黙ってこそ、確信を持てることがあります。そうです、私の救いは神から来ます。どんなに古ぼけても、衰えても、自信がなくても、揺れ動いても大丈夫です。「救いは神から来る」ものだからです。自分の力によらない、自分の知恵によらない、自分のタイミングによらない、自分の自信の強弱によりません。「救いは神から来る」のです。沈黙して待ち望みましょう。沈黙して聞きましょう。ただただ、福音だけがあなたを包みますように。ハレルヤ 主に栄光!■
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