聖書箇所 エペソ人への手紙2章11~16節 |
ないないづくし(11-12節)
「ですから、思い出してください」で始まる今朝の箇所。それは「かつて」あなたはどのような存在であったのか、救われる前あなたはどんな気持ちを抱えて生きていたのかを「思い出してください」と始めています。救いについて考えるときには、「かつて」そして「今」「将来」という時間軸で整理できることもとても大きいものです。何度も繰り返して見ることですが、この「かつて」は2章1節からの「背きと罪の中に死んでいた者」「不従順の霊に従って歩み」「生まれながらに神の御怒りを受けるべき子」としての自分です。聖書を通して、あられもない自らの姿が映し出されるわけです。人の前では着飾ることができても、あるいは隠れることができても、神の前ではすべてがさらけ出されている。自分で自分を救うことができない。しかし、神が救い出してくださったのではないか。そのことを思い出せ。決して忘れるな。旧約聖書にも「あなたがたが切り出された岩、掘り出された穴に目を留めよ」(イザヤ51:1)とあります。主が私たちを切り出し、主が私たちを掘り出してくださったので、救いにあずかることができるのです。救いはいつも神から私たちの方向へ向けられています。私たちが救いの神を見出したのではなく、神が私たちを捜し出された。私たちが助けの手を伸ばして届いたのではなく、神が御手を差し伸べてくださった。私たちが天に昇ったのではなく、神が天から降ってくださった。救いの矢印は常に上から下へ、神から人へと向けられています。それを味わうために、今朝もどこから救われたのかを「思い出す」ように語りかけています。
「かつて」に当てはまるのは、「異邦人」「他国人」「望みもなく」「神もない者たち」(11,12節)でした。散々な言われようです。初めの「肉においては異邦人」とは、割礼の有無によるものでした。旧約聖書、アブラハムの時代よりイスラエルの男子は「割礼」(創世記17:10)を受けることがならわしでした。それは、神との契約関係に入ることのしるしであり、それがすなわち救いを表わすものでした。
ただ、この割礼は神に救われたことと、神との契約を結ぶしるし、神の律法を守り行っていることの証しでもありましたが、徐々にそれが選民(エリート)意識へと変化し、割礼があるかないかだけを重要視するようになりました。イスラエル人は「割礼」と「無割礼」を区別するようになり、無割礼の者を異邦人、あるいは犬と呼んだりもしました(詩篇22篇、マタイ15章、マルコ7章等)。新約聖書の時代になり、異邦人が救われるためには、主イエスを信じることと割礼を受けることによって救われるのだという争い、議論がありました(ガラテヤ2章、ピリピ3章、使徒15章など)。律法主義とか割礼派と呼ばれる人たちの主張です。彼らの見ているものは「外側」でした。割礼のしるしがあるか、ないか、それだけでした。しかもここで「人の手で肉に施された」に過ぎないものだと。本来、割礼とは「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない」(申命記10:16)と旧約聖書でも命じられているように、心の包皮、頑なさを取り去ることであったにもかかわらず、そのことを忘れ、外側のしるしだけにこだわり、外側のしるし=肉を誇ってきた歴史がありました。それで、今朝の箇所でも無割礼の者を「異邦人」と呼んでいます。神の国の民に対しての異邦人=救われない民という軽蔑が込められているのです。こうしたことが、教会の外からではなく、聖書を読み、神を礼拝し、交わりをともにする教会の中から出てきているのが悲しく、恐ろしいことです。私たちは、いつもこのことを自戒していなくてはなりません。教会の教えも、健全さも、交わりも破壊するのは内側からです。この異邦人に続いて他にも多くの言葉をもって、私たちの「かつて」の現状に迫っていきます。
「除外」「他国人」「望みもなく」「神もない者たち」(12節)。
「除外」はまさに当該しない、当てはまらない、ハズレだということです。「他国人」は「約束の契約について」言われている言葉です。救いの契約からは無関係、見知らぬ人であった。さらには「望みもなく、神もない者」と続けます。希望がなく、本物の神を持っていない。そう言い切っています。まことの神に出会うまでは、いくらその人が幸せだろうが、教会や聖書に対する必要を感じなかろうが実はそれは「望みのない」人生なのです。なぜなら、その人々やかつての私たちは「キリストから遠く離れ・・・この世にあって」(12節)生きていたからです。
旧約聖書にこんな有名な言葉があります。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた」(伝道者の書3:11)。特に、この後半部分「神は人の心に永遠を与えられた(置いた)」に着目しましょう。神は、私たちの心に永遠を与えられました。それは永遠への想い、死なないことへの憧れ、真に価値ある生き方の追求という形になって現れます。またその反対に死への恐怖(永遠ではなくなってしまうこと)に襲われたり、この世の成功のむなしさに気付かされることもあります。これらはすべて「心に永遠を与えられた」人間だからです。心が永遠なのに、この世のもので満たそうとするので苦しむのです。まさに「この世にあって望みもなく・・・神のない」(12節)状態です。それゆえ、私たちの心に永遠があれば、必要なのは一時的なもの、この世のものではなく、永遠のものです。それが「永遠のいのち=イエスキリストを知ること」(ヨハネ5:39)です。この永遠のいのちを持たないかぎり、私たちの望みない人生は続きます。神から遠く離れて真の祝福をいただくことのできない異邦人、他国人、除外された者としての人生が続きます。それはまっぴらごめんではないでしょうか。これまで、何が間違っていたのか。懸命に勉強してきた、真面目に生きてきた、怒られるようなことをできる限りしないようにしてきた、社会に通用する生き方をしてきた・・・しかし、「この世」に身を置いている限り、それは望みのない人生です。天に目を向け、キリストによって人生の嵐を静めてもらわない限り、神のない人生です。それらを「かつての人生」として決別し、真の平安をいただきましょう。
2. 敵意を倒すのは(13-15節)
「かつて」に続くのは「今では」(13節)です。そのかつての罪、背き、死、不従順、御怒り、異邦人、他国人、除外、望みなく、神のない状態から、私たちに「今」を与えてくださったのは主イエスです。「今ではキリスト・イエスにあって」(13節)という句を味わいましょう。キリスト・イエスが来られて、私たちに「今」があります。キリスト・イエスによって、私たちは「かつて」から救い出されました。この喜びをかみしめます。そのためにこの節がありますね。「かつては遠く離れていた」私たちを引き上げてくださったのは、キリスト・イエス。そして、そのイエスの「血によって近い者となり」(13節)ました。「血」は流されました。「血」はいのちでした(レビ記17:11)。いのちがささげられました。キリストのいのちによって「かつて」から「今」がもたらされました。
キリストがもたらした今を「キリストこそ私たちの平和です」(14節)と表現します。このキリストの平和を説明するのに、以下3つの動詞が続いています。①「二つのものを一つにした」、②「隔ての壁である敵意を打ち壊した」、③「戒めの律法を廃棄した」です。
については、11節からの割礼と無割礼、神の民と異邦人とで分けられていた二つのものが、キリストの救いによって一つにされることです。二つは分裂と隔ての象徴、1つは統合と和解の象徴です。
隔ての壁は、当時はこのエルサレム神殿に壁が設けられていました。ユダヤ人が礼拝する場所と異邦人が礼拝する場所が違っていたのです。神殿の中央には「美しの門」がありましたが、これはユダヤ人専用の門で、ここから出入りいました。しかし、異邦人はその美しの門を通ることは許されず、その左に異邦人の門が設けられていました。使徒の働き3章で足の不自由な人が美しの門の「前」に置かれていたのは、それ以上中に入ることができなかったからです。そして、ペテロとヨハネはそこから出入りをするユダヤ人であったので、彼は施しを求めたという経緯があります。そう考えると、二つのもの、二つの民の間にある壁はとてつもないものでした。絶対に超えることが許されない壁。必ず意識してしまう壁。もともとはなくてもよかった壁。失敗作ほど取り除くのは大変です。その隔ての壁を、キリストは「ご自分の肉=十字架」において打ち壊してくださいました。隔ての壁が取り除かれました。壁のない行き交いが可能となったのです。
またキリストは「戒めの律法を廃棄」されました。マタイでは「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」(マタイ5:17)と言われています。このことを矛盾するのでしょうか?そうではありませんね。マタイではイエスさまは律法は主の弟子が従うべきものとして示しておられます。このエペソでは、救いの手段としての律法を廃棄されたと言っておられるからです。律法を行うか行わないか、守っているか守っていないか、知っているか知らないかということで隔てられていた垣根としての律法は廃棄されました。誰も律法を知っているとか、律法を守り行っているということで正しさを測れなくなりました。まさに「律法は私たちをキリストに導く養育係」(ガラテヤ3:24)なので、救い主キリストが必要であるとわかるための役割を担っています。律法によっては自分の義を打ち立てることはできないと悟るのは、キリストは罪を犯すことのない完璧な人生を送られ、またそれができない人間のために十字架にかかってくださったからです。もう「~してはならない」「~しなければならない」という律法を見つめるのではなく、すべてを成し遂げられたキリストを仰ぎ見るのです。律法の文字を読んで覚えるのではなく、キリストの救いを知って受け取るのです。律法はすでに廃棄されました。
3. 新しい人(15-16節)
「かつて」と「今」を見てきました。そして、結びは「これから」を見ていきます。キリストは私たちを「新しい一人の人に造り上げ」(15節)てくださいました。まったく新しい創造として、二つであったのに一つとされました。隔ての壁があったのに取り壊され、律法に向かっていたのがキリストに向かうようになり、敵意を持っていたのが平和を持つようにされました。これが「新しい人」です。
「二つのものを一つのからだとして」生きるのです。今朝の11節からはずっと「あなたがたは」と複数形で語られています。この「からだ」は単数形です。それは複数の人々で単数、ひとつのからだを形成しているということです。「二つのものを一つのからだ」にされたからだとは、ひとり一人のからだではなく、皆で一つのからだとされた、つまりは「教会」を指します。そして、教会こそ隔ての壁を壊され、敵意が打ち負かされ、戒めの律法でさばき合わず、平和をもたらしているものでなければならないのです。
しかし、それで気張る、気負う必要はまったくありません。私たちを教会に集めてくださったのは主イエスです。私たちを一つのからだとしてくださったのは、主イエスです。この時代、この場所に神さまが特別な計画の内に私たちを集めてくださいました。生まれた場所も育った環境も違う、年齢も賜物も健康状態も違う、体力も人柄も性格も違う。しかし、それらは一切関係がありません。なにせ敵意さえ打ち壊してくださったお方がかしらです。妬みも比較もありません。敵意が存在しないからです。変な遠慮、気後れ、必要がありません。壁が取り壊されているからです。
何と言っても、自分と神との間にあった仕切り、大きな隔たりがキリストに十字架と血によってすべて取り払われました。この大きな壁が取り除かれたのです。それゆえ、私たちの間に壁をポコポコと作ってはいけない。感じさせてはいけない。それは人一倍気を使いなさいということではなく、皆が一つのからだとして、かしらなるキリストを主としていくことです。集めてくださったのは主です。だから、神さまが上手に用いてくださいます。みこころに信頼して、福音のためにともに労してまいりましょう。
<了>
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