福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「イエスは主!」

更新日:9月21日


聖書箇所:第一コリント人への手紙12章1-3節

本日からしばらくの間、第一コリント12章から始めて今年度の福岡めぐみ教会のテーマ聖句である13章13節「信仰と希望と愛・・・その中で一番すぐれているのは愛です」を味わってまいりたく願います。


Ⅰ.聖書のテーマ

1. 聖書のテーマとは?

まずはじめに質問します。「聖書のテーマは何」でしょうか。聖書は何について書かれていると思いますか?

 例:神、イエス・キリスト、愛、人の救い、十字架、信仰、創造論


私たちは、聖書を手に取る時ぜひ意識したいことがあります。それは聖書が「契約」の書であることです。聖書は旧約聖書と新約聖書に分けられますが、神による契約が新旧で分けられているのです。その分岐となるのは「イエス・キリストの誕生の前(旧)と後(新)」です。神さまは真実で力あるお方ですから、その契約・約束を決して破られません。必ず実行してくださるので、私たちが全幅の信頼を寄せてよいものです。そして、その聖書のテーマ(契約の内容)とは「神の国」です。そして、イエスさまの宣教の第一声が「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)です。イエスさまが知らせたいことは「神の国の到来」でした。実は、神による創造や神の愛、イエス・キリストの十字架と復活、愛や救い、信仰・・・・・・・と言ったすべてのものはこの「神の国」にかかわることです。


この天地万物はただ神の威厳を表したり自然を恐れたり楽しんだりするためだけではなく、神の国の素晴らしさ、豊かさがどれほどなのかを私たちが知り、味わうために造られました。

神の愛は、ただ私たちがただ個人的に愛され認められているとか、人の愛は信じられないけれど神さまなら愛してくれているような気がする・・・といった気休めではなく、神があなたを愛されていることで、あなたは神の国の一員として生きている、あなたは神の子どもとして生かされていることを味わわせるためです。


人の救いとは、誰から信頼されなかったとしても、神さまがともにいて、全部分かってくださるといった安心感ではなく、罪と滅びの世界の住人であった者が、神の国の住人として移し替えられることを意味します。ただ、個人のたましいが救われて天国に行くことではなく、地上にいるときから「神の国に生かされる」ようになり、存在自体が神の国のために用いられるようになることです。そして、死んだら終わりのむなしい世界、少しでも不幸であったら落ち込んでしまう比較の世界ではなく、神に救われて、神の国に生かされているという不滅の平安と喜びを抱いて進み行くことです。


2. 神の国に生きる私たち

これを適用すると、私たちは西区拾六町に集まった者たちではなく、「神の国」に集められた者であることです。このめぐみ教会の理念にも「キリストの恵みの福音をこの地に満たす(宣教、訓育)ことによって、神の国(みことばのご支配・交わり・奉仕)を形成し神の栄光(礼拝)を表すことです」と述べられています。神の国の「国」は土地や領土のことだけでなく、領域が重要です。つまり、誰がそこでの支配者であるのか。この視点から整理すると、神の国とは、神の支配が行き届いていること、となります。すなわし、神の国とは、神の言葉が大事にされ、説かれ、聞かれ、求められているかということです。私たちの教会はどうでしょう。神の性質が満ち溢れているところ。具体的には神の愛、恵み、希望、平安、慰め、悔い改めを喜ぶご性質が、私たちめぐみ教会に溢れているだろうか。クリスチャンであるあなた自身の内側から喜びが湧き上がっているだろうか。あなたがいる家庭や職場(領域)が殺伐とした雰囲気に支配されてはいないだろうか。もし、そのような状況に置かれたとしても、神の国に生きる者とされたあなたの根底は、神の御手によって支えられていると考え直すことができているだろうか。主の祈りで賛美しているように「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と天にある神のあるがままのご支配が、この地に現実にもたらされるように祈り、求め、味わっていくのです。礼拝に来て味わえるものは何でしょう。あなたに伝わり、浸透し、受け取っているものは何でしょう。ぜひ、神のご支配、ご性質があなたの両手いっぱいにもたらされますように。


Ⅱ.必要な知識

1. ものを言わない偶像

今朝の箇所の始まりで「あなたがたは異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました」(第一コリント12:2)と指摘されていました。聖書が教えているまことの神に出会うまでは、私たちは「ものを言えない偶像」の奴隷でした。寺社でも自然でも置物でも何となくありがたがってすがったり、祈ったり、飾ったりしていたかもしれません。しかし、彼らは決して口を開かない、ことばを発しない、約束もしてくれなければ、それを行う力などまったくない偽り・にせものです。人間はあらゆる知識や技術に長けています。人間より賢い生き物は他にありません。それでも、空の鳥や野の花より劣っているものがあります。彼らは神に造られたそのままの姿で養われ、飾られています。しかし、人間だけは神に造られたことを認めず、自分の考え出した論理で武装し、人に見せても恥ずかしくない(自慢だけできる)姿に変装し、むなしくも焦りつつ過ごしています。私たちが人生や生活に疲れたとき、空の星や鳥、浜辺や波、植物や動物に慰められるのはなぜでしょうか。それは、彼らが神に造られたありのままの姿で生きているからです。ただ人間だけが本来の姿から遠ざかってあくせくしています。人間同士のせめぎあいに疲れてしまいます。反対にお花や生き物にふれて癒やされたり、心拍数が落ち着り、生き返った気分にさせてもらったりします。日々の生活で忘れてしまったもの、遠くなってしまったものがそこにはあります。神の国喜びが欠乏しているのです。枯渇しているのです。だから「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈ります。ここに、神の国の潤いがもたらされるように、と。ものを言わない偶像は聞くこともできません。しかし、聖書を通して語ってくださる神は、私たちすべての祈りを聞いてくださいます。


2. まことの神についての知識

聖書を通して語る神に出会うと、その神をこうしてともに礼拝すると、まことの神と偶像の神との違いがはっきりと分かるようになります。私たち人間にもっとも必要なのは科学技術や言語や医学、健康の知識ではありません。私たちに必要なのは神についての知識です。いつわりではなく、まことの神、ものを言わない偶像ではなく、生きておられる神についての知識です。そして、神以外の分野では知識や情報を収集し、必死に行動するのに(家電や食料品やマスクを買うときなど)、神についての知識に対しては、驚くほど盲目です。なんでも信じられたらいいとか、だけどキリスト教にだけは絶対に入らないとか、冷静さを失って決断してしまいます。私たち人間に必要な知識は神についての知識です。ぜひ、神について正しく確かな知識を求めましょう。それは人間が考え出し、作り出した神ではなく、私たちとこの世界・宇宙のすべてを造られたお方から教えられるものです。ものを言わない偶像ではなく、私たちに言葉をもって語りかけてくださる神。私たちに必要な知識がここにあります。私たちは聖書を通して神を知るようになります。人間関係のこじれ、人生の問題解決、仕事のバイブルとして聖書があるのではありません。聖書の最大のテーマは「神の国」であり、必要なのは「神についての正しい知識(真理)」です。この神を知ることが第一にあり、それから私たちの日常生活、人生設計、諸問題への指針が与えられていき、正しい判断ができるように助けてもらえます。


Ⅲ.聖霊によって

1. イエスは誰?

さて、その「神の国」で鍵となるのが、「イエス・キリスト」です。聖書ではイエスさまのことを何と呼んでいるでしょうか。あるいはあなたはイエスさまのことを何と言いますか(質問ばかりでごめんなさい)?  

例:偉人、預言者、先生、罪人の友、ダビデの子、王・・・・・・

    

今朝の箇所では「あなたがたに次のことを教えておきます・・・御霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」(第一コリント12:3) 


「イエス・キリストは誰か」「あなたはイエス・キリストを何と言いますか?」といった質問に対するもっとも端的な答えは「イエスは主です」となります。今朝の聖書箇所の第一コリント12:3とともに、ローマ10:9、ピリピ2:11も開いて覚えておいてください。私たちが「イエスは主です」と告白することが、神の国に生きる者の特徴であり、偶像崇拝に囚われていた人生との違いです。もはや、人生の意味や生涯の目的の主は「私」「私自身」「あの人のせい」「世間から見ると」「この世の基準では」と言ったことから考えません。「イエスは主です」「私の主はイエス」と告白することで、人生の主権はイエスさまが握ってくださっていると考えられるようになります。私の人生の主権はイエスさまにある。イエスさまが、私を神の国の住人とし、私を見捨てず、「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主が私に救いの衣を着せ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださる」(イザヤ61:1,10)約束を必ず果たしてくださいます。イエスが主なので、必ず私たちを導いて「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを」(イザヤ30:21)かけ続けてくださいます。私たちの人生は、あなたの人生は、主がどなたであるかで変わってきます。あなた自身は、自分の人生をうまく導けるほどの力も知識も自信もないかもしれません。あなたの人生をいつも最優先に考え、永遠に守ってくれる親や家族、友人は見つからないかもしれません。ものを言わない偶像ならなおのことです。しかし、あなたの人生の操縦桿はイエスさまが握っていてくださいます。天と地にある万物の主であり、歴史の主であり、すべての権威をお持ちであり、聖書が証ししている神の御子イエスがあなたの主となってくださるのです。これにまさる福音はありません。


2. 聖霊によって

では、最後にどうしたら「イエスは主です」と言えるようになるのでしょうか。信じられる人はいいけれど、自分はまだそこまで至らないと遠慮したり、クリスチャンって簡単に信じられていいなあと遠巻きに見ている人がいるかもしれません。自分だって信じられればいいんだけどとその時を待っている人がいるかもしれません。私たちが「イエスは主です」と告白し、信じられるよういなるのはただ一つ、それが「聖霊」によるものだからです。聖書がわかったわけでも、信心深いわけでも、格好つけているわけでもありません。


「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません」(第一コリント12:3)とある通り、あなたを告白へと導くのは「聖霊」です。取り憑いて、言いたくないことを言わせるのではありません。信じる気もないのに、「イエスは主です」と言ってしまった。ああ、嫌だなあ。自分にはまったくそんな気はないのに、、、と不自然でぎこちなく信じ込ませるのではありません。

聖霊は、あなたに聖書のことばを語ってくださるお方です。聖霊は、あなたを教会へと導いてくださるお方です。聖霊は、あなたを教えてくださいます。聖霊は、何か聖書の言葉が気になるなあと思い出させてくださいます。聖霊は、あなたが「イエスは主かあ」と忘れないようにその心をノックしてくださいます。聖霊はあなたが信じられるように助け、信じて告白したあなたを守ってくださいます。一歩踏み出すあなたを励まし、それが間違いではないよと教えてくださいます。


「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(ローマ14:17)


私たちの主はイエスさまです。あなたの主はイエスさまです。私の主はイエスさまです。私たちはイエスを主と賛美します。礼拝でこの主イエスとお会いします。イエスさまに私をささげます。イエスさまの語りかけを聞きます。イエスさまの招きを受け取ります。私たちにいる一人ひとりが、礼拝においてイエスさまとお会いすることができますように。「私の主はイエスさまです」と心で信じ、告白し、救われますように。人生の重荷をおろし、イエスさまを主としてお委ねすることができますように。わたしといっしょに行こうとともに歩んでくださるイエスさまに付いて行くことができますように。


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