聖書 詩篇123篇1~4節 |
Ⅰ. 神との絆(1-2節)
1. 毎週と毎年の違い
新たな年が明けました。私たち人間にとって、こうした区切りが毎年与えられていることは恵みでもあります。今年はちょうど元日が日曜となり、このように2023年初日に礼拝に集えますこと感謝します。日本では多くの方がこの日初詣に向かいます。その人数は過去最高でおおよそ9800万人(2008年)とも言われています。日本の人口のほぼ8割以上が初詣に足を運んでいることになります。この福岡県では大宰府神社へ例年200万人を超す参拝者があるそうです。その人々の目的は「願いを聞いてもらうこと」ですね。一年の初めに「今年は〇〇になりますように」と神々(いないですが)に向かい祈願します。そして、もっとも聞いてくれそうなご利益のある神社を選んで参拝します。無礼をしないよう作法を守り、賽銭を投げ入れます。そうすると、願いを聞いてもらえると考えるからです。また、お守り(一年間だけ有効という決まりがある)、絵馬(願いを言葉にすると届きやすくなる)、ダルマや熊手(幸せをかきあつめてくれる)、おみくじ(指針をもらう)を買い、それからの一年間それらによって守られることを信じて帰宅します。こうして並べるだけでも、縁起担ぎ、語呂合わせによる気休めの気がしますね・・・
初詣で「昨年はこういうことがありました。ありがとうございました」とだけ言って帰る人はまずいません。ただ、人々は拠り頼むことのできる存在を求めていることは確かです。自分ではどうしようもできないからこそ、神々に祈り身や精神を清めて神々の前に出ようとします。その姿勢は大事なものですが、ただその対象がまことの神に向くことを知らないのです。祈ればいい、聞いてくれると評判の神社へ行けばいい、歴史や由緒(それが神話であっても)があれば大丈夫・・・こうして惹かれる神々のところへ行きますが、それが本物の神であるのかを真剣に考えたり、検証する人はまれです。ましてや、初詣の帰りに「今年は何を願いましたか?」と聞くインタビューはあっても「あなたの願いについて、神さまはどのように答えられましたか?」と聞き返すインタビューはありません。つまり、初詣は一方的なのです。こちら側からの願いを一方的に聞いてもらい、それで終わりです。これが多くの日本人が慣れている神々との付き合い方=関係です。一年に一度でいい、自分の願いを聞いてくれる神々でいい、そのために祈りと賽銭ぐらいはする、ちょっと遠方でも出かける程度です。
聖書に記された神は、これらとは対照的です。礼拝は毎年ではなく毎週ありますし、願いを聞かれるだけでなく、(聖書によって)語られる神であり、 一方的ではなく、私たちと関係を持ち、交わりを持ってくださる神です。この関係の深さ、濃さを面倒くさいと感じるか、あるいは心強いと感じるか。初詣は年に一度に対し、教会での礼拝は毎週もちます。それは頻度の問題ではなく、神との関係を表すものです。神との距離、神との関係は浅く持つのか、深く持つのか。ぜひ、この場に身を置く者として思索してみてください。
2. 絆 きずな と ほだし
それは絆が「きずな」と読むのと同時に「ほだし」と読むのとも似ています。たとえば、犬を散歩するときにリードを持って出かけますね。そのリードは飼い主と犬との絆(きずな:離れがたい結びつき)です。この関係があるからこそ、お互い強い結びつきをもち、放れずに、安全な場所を歩いて回ることができます。リードの手ごたえは、互いの関係を確認する心地よいものです。
しかし、犬は同時に好奇心旺盛で、クンクンと草むらを入って行ったり、他の犬に強い興味を示したりします。それで、犬は自分の行きたい方向へひっぱりますが、そのとき邪魔になるのがリードです。引っ張られる飼い主にとっても、不快に感じるものです。この時のリードは「絆(ほだし:馬の脚にからませる縄、手かせ、足かせ、妨げ)」の役割になります。二人の間にリードがあるからこそ、犬は自分の行きたい方向へ行けず、飼い主はその抵抗が邪魔に感じます(時に強く引っ張られてケガすることもあります)。
こうして、二人の関係を象徴するリードがあるときは「きずな」となり、またあるときは「ほだし」になります。そして、このリードは神と私たちとの関係を教えるものにもなります。年に一度のゆる~いリードで過ごすのか、あるいはそのリードが時々ほだしに感じたとしても、揺るがないきずなの関係を神と持つのか。私たちはどのような関係を神と持つべきでしょう。自分のしたいことをし、行きたいところへ行くことこそが人生と考え、それを逐一聞いてくれる存在を神とするのでしょうか。それとも神が自分に願われることは何か、神が自分を導かれるのはどこか、神にその声を聞かせてくださいと一年を始めるのでしょうか。
私たちは神によって造られた存在です。自分から神々を作り出すのではなく、神に創造された者として、造り主を忘れないようにと願います。
Ⅱ. 目を上げて(1-2節)
1. 天に向かい
今朝の詩篇123篇(今年は2023年で123篇、来年の初めは詩篇124と考えています)は「都上りの歌」と表題が付いています。これはエルサレム神殿を目指して遠くから(バビロン捕囚によって散らされていたユダヤ人)礼拝のために都を目指す際に繰り返し口ずさまれた詩歌の位置づけです。
その旅路でまず言われているのは「目」についてです。「私は目を上げます」(1節)から始まり1~2節で計4回「目」が使われています。目は自分と対象物とを測ることができる重要な役割を果たします。それでその目がまず「あなたに向かって」(1節)います。この「あなた」は「神」ですね。「あなたに向かって 目を上げます」とあるので、その位置関係は私たちが下で、そこから神に向かって目を上げる構図です。しかも、どこまで目を上げればよいのかと言うと「天の御座に」までです。それはどこまでも高くを見上げなさいと言うことですね。神は至高のお方であること、私たち人間の限度、限界で考えたり、とらえたりしてはならないということです。この地上にも神を納めることはできない。この地上のどんなものも神の代わりになるものは存在しない。この地上から見えるどんな大きなものよりも神は大きい。この地上から見上げるどんな高いところも神の足台になっている。だから、想像以上に、信仰をもって天高くを見上げます。思いを天に高く上げます。
たとえ、自分が見放されている、自分になんて神さまは目を向けてくださらないと思える最悪な状況だとしても、です。なぜなら、この詩篇123を歌っている人は、自分が低い所にいるからこそ、天の御座におられる神に目を上げているのだからです。私たちは、自分の状況に影響されて、神認識さえもそれに引っ張られてしまいます。今置かれている自分の状況からは神がおられることとか、神が最善をなさるとか全然思えない。だから神を礼拝するとか神に祈るなんて無意味だ。そんな気持ちにもならないと考えます。それは人間誰しもが持つ傾向です。この詩人も例外ではありません。人生とってもうまくいくから天の御座におられる神と対等目線でいられる!なんてことは決してないのです。この詩人(おそらくダビデとされます)は、目を上げなければならなかった。そんな状況に置かれていた。けれども、そこに沈黙も沈没もせず、そこから天を見上げます。神を仰ぎ見ます。
また、自分の気持ち・テンションが低いから神を見上げない、そんな気力ないなあ、疲れているなあと感じる者にとっても、ここは慰めであり励ましです。どこからでも見上げるべきお方だからです。自分と同じ地平、はかりで神を考えないようにしましょう。神はどこまでも高く、だれよりも大きいお方です。限界をもうけずに仰ぎ見る信仰をいただきましょう。
2. しもべの視線で
こうした果てしない距離がありつつも、どのように呼びかけているでしょうか。「究極者」「至高の存在」「私がまったく及ばない方」「最高の殿様」などではありません。実に、その呼び名は「あなた」です。天と地に分け隔てて住まいながらも、その関係はとっても近く、親しい。これが神と私たちとの関係です。
また「しもべたちの目が主人の手に」「仕える女の目が女主人の手に」(2節)と極めて密接な、生活に密着した関係であることも強調しています。特に、しもべ(この聖書の時代には奴隷は多くの人の仕事であったようです)は、主人に対して尊敬のまなざしを持ちます。反抗的、敵対心を抱いていてはしもべの仕事が務まりません。また、聞くだけでなく従う心(従順さ)が伴っていなければなりません。従うつもりのないしもべはどんな用事も任されることはありません。また、いつも主人の声、手に注目して指示に備えます。いつでも準備ができていなければなりません。
初詣で自分の願いごとだけを伝えて帰っていく光景とはまったく逆になります。目を上げ、主のなさることを待つ。目を開け、主の語られることを待つ。そして、聞いたならば従って動く。こうした神との正しい関係、位置取りをするように記されています。これはとっても窮屈なことでしょうか。神に聞き従うことが求められる礼拝の生き方。もし、暴君のような存在から「ただ私の言うことに聞き従え」と言われたら、それは恐怖ですし、窮屈、逃げ出したくなります。しかし、聖書の教える神は「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを先代まで保ち、咎と背きと罪を赦す」(出エジプト記34:6-7)お方です。神には罪がなく、悪を考えたり、指令したりすることをなさいません(できません)。それゆえ、神に聞き従うことは最善であると信頼することができます。また、聖書に啓示される神は「あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる」(イザヤ30:18)お方です。神の本質は「あわれみを与える」お方なので、決して私たちをむげにしたり、奴隷のようにこき使ったり、しいたげることはなさいません。もちろん、ご自身の快楽のために人間をタダ働きさせることもなさいません。なぜなら、「神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならない」(へブル11:6)からです。信じなければならないと強く言われているのは、神が「報いてくださる方」であることです。私たちが信じるべき神は、忠実なしもべには必ず報いてくださるお方であるということです。神に従うことで、無駄にされることはありません。神を見つめることで無視されることは決してありません。
Ⅲ. あわれみを願って(3-4節)
1. さげすみがいっぱい
それで、この詩篇123篇の中盤は「あわれんでください」と連呼しています(3度)。あわれみは、神のご性質と行動を表す語です。3節で「あわれんでください」と二度繰り返していますが、それはただあわれみという性質・気持ちをいただきたいだけではなく、何らかの助け・行動を求めている場面です。新約聖書でもイエスさまに駆け寄った人が「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」(ルカ17:13)と声を張り上げています。そして、彼らは具体的にイエス様によって病が癒されました。こうした場合に、「あわれみ」という語を聖書は使っています。
では、いったい主のあわれみによってどのようなことをしてもらいたいと願っているのでしょうか。3節には「私たちは蔑みでいっぱいです」とあり、4節にも「安逸を貪る者たちの嘲りと高ぶる者たちの蔑みでいっぱいです」とあります。これは注意深く読まないといけない個所です。まず、主に自分のたましいをあわれんでほしいと願い出ています。年の初め、主に願うのは自分のたましいの聖さなのでした。なぜなら、自分のたましいは「蔑みでいっぱい」(3節)だからです。これは「軽蔑」「取るに足らない無価値なものにされる」という意味です。人は、その尊厳が保たれなければ生きていかれません。誰も罵詈雑言、罵声を浴びて反骨心は抱いたとしても、本当の意味で元気が出る人はいません。また、軽蔑の目で見られてホッとする人はいません。心が痛み、きしみ、生きる力を奪われていきます。
さらにその蔑みが「安逸を貪る者たちの嘲り」と「高ぶる者たちの蔑み」のゆえにいっぱいになっていると4節で続けています。実は、ここで願っていることは、自分のたましいが人への軽蔑心でいっぱいだから助けてください、あわれんでくださいということではなく、神を信じ、神を礼拝し、神に仕えて生きる自分の姿を見て、世の人からは思いっきり蔑まれ、軽蔑され、あざ笑われているという構図になっています。神に聞き従うことの価値や誇りを踏みにじられてとっても悔しい思いをしているのですね。自分ではどうにもならないほど心がくじかれているのです。それほど、神に対して誠実に生きようと必死であるというのがこの詩篇を歌う人の姿です。つまるところ「あいつは神さま、神さまといってバカのように言っているけれど、それが何の得になるんだい?」「世の中、もっとうまくやっていく方法があるのになあ、聖書だ、祈りだ、献金だなどと自分だけ聖人気取りでいるんじゃないよ!」「もっと最適解まで最短距離で行った方がよくない?」と蔑まれ、笑われているのです。これがクリスチャンに向けられた視線であり、言葉です。決して世の中から褒められ、評価され、うらやましく思われるものばかりではありません。
しかし、そう周囲から言われるほどに、神にまっすぐな生き方だとも言えます。変に人に取り入らず、へつらわず、気の利いた言葉や態度で取り繕わない。大事なときには、はっきりとこの人が神に従っているということが分かる言動をする。それでこそ、人々に蔑まれ、有害だ、要注意人物だとにらまれるのです。誰も、無害、無気力な人を攻撃したり、警戒したりはしないからです。
周囲に蔑まれるくらい、神に対して本気になってみませんか?
周囲から笑われるくらい、神に対してまっすぐに生きてみませんか?
年の初めは、決意の心を与えられる絶好の機会です。
今日の礼拝を起点として、天にまっすぐ目を上げ、しもべのように主の言葉に聞き従い、必ず報いてくださるお方についていきましょう。
了
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