聖書箇所 エペソ人への手紙2章8~10節 |
1. 神の賜物(8節)
エペソ書のテーマである「和解」、今朝もここを確認して始めましょう。「和解」とはそれまでの関係が精算されて仲直りすることです。「神との和解」を考えるとき、私たちはそれまで背きと罪の中に死んでいた者からキリストとともに生かされる者となり、不従順の霊の奴隷であったのがキリストとともによみがえり新しいいのちをいただき、神の御怒りを受けて当然の者が天上でキリストとともに座らされるようになりました。もはや、以前の私たちと神との関係ではないのです。この「和解」は「救い」を言い換えたものです。もはや私たちは神と和解させられたということは、私たちは「救われた」という意味になります。この2章でも5節「あなたがたが救われた(完了形)」とあるのを先週見ましたし、今朝もこの8節で「あなたがたは・・・救われた(完了形)のです」とあります。それが大変重要なので、繰り返し、また様々な言葉をもって説明をしています。
神との和解。神による救い。もし、神さまが「あなたが救われるためにはイエスを信じるだけでは不十分だ。信じたなら、あなたの品性を磨き、良い行いを積み上げたら救ってやろう」と言われたとしたら、いかがでしょうか。もし、そうであれば私たちは神と和解をしていませんし、神との平和を持ってはいません。いつ蹴落とされるか分かりませんし、救いを達成できるのかも不確かだからです。父なる神の顔色を見て、つとめて良い子でいなければなりません。教会に通うのも救われるため。奉仕をするのも良い行いを積み重ねるため。人に笑顔で接するのも自分の救いの達成のため。それでは生きた心地はしません。喜びどころか恐れが生じます。
「かつては・・・神の御怒りを受けるべき子らでした」(2:3)という立場から変わったので「和解」「救い」と言えるのだということをぜひ覚えておきましょう。これはいくら繰り返し聴き、いくら繰り返し覚え込ませてもよい教理です。そのことを今朝の始まりの8節でも「恵みによって救われた」ことと、それが神からの賜物=贈り物であることを説き明かしています。
救いは神からの贈り物です。それは、イエス・キリストを見ると分かるようにされていきます。罪なき神のひとり子が肉のかたちを取って人となられたクリスマス、悪魔の試みにも負かされることなく、一つの罪も犯されなかった生涯、全人類の罪を背負って耐え忍ばれた十字架、罪の代価をすべて支払われ三日目によみがえられたこと・・・これらはすべて「キリストが何をなされたのか」です。
英語でWWJDという言葉が1990年代に流行し、今はすっかり定着しました。これはWhat Would Jesus Do?(もし、イエスさまなら何をなさるだろう・どうするだろう)の略で、主に私たちが愛の道に歩むように励ますための言葉です。ある神学者はこれにかわって次のように提案しました。What Has Jesus Done?
(イエスさまは何を成し遂げられたのだろうか)。WWJDは「こんなとき、イエスさまならどうするだろうか」と時制が未来にあります。聖書に書かれたイエスの姿から、これからの自分の行動を導いてもらうという場面です。それに対して、「イエスさまは何をなさったのだろうか」は時制が過去にあります。そして、神の賜物としての救いを理解するときには、「イエスさまが何をしてくださったのか」と過去にしてくださったみわざに重点を置くことが大切です。なぜなら、私たちの救いはイエスのみわざに100%かかっているからです。主イエスの義と死が、私たち罪人のためであったことを信じ受け入れることによって、それが私たちの救いとなるからです。たとえば、洗礼を受けたあと、私たちがどのような行いをするか、どんな成長をするか、何回教会に行ったか、どれだけ聖書を覚えているかはまったく関係がありません。主イエスが何をしてくださったのかが救いの根拠なので、私たちの品性や行いはまったく関係がありません。
しかし、救いが神の賜物であるからには、それなりの態度が必要です。贈り物としていただくのにふさわしい姿勢です。それが「あなたがたは信仰によって救われた」とある「信仰」の意味になりますね。ルターはこれを「空っぽの手」と説明しました。ただ何もない私たちはその手を空にして、キリストの義を受け取るのだ、と。それは手段であって、根拠ではありません。救いの根拠はすべてキリストにあり、私たちの信仰はその救いを受け取る器です。中身が大事であり、すべてです。信仰が立派だから救われる、他よりも違うから義と認められるというものでは決してありません。
2. 自慢の崩壊(9節)
救いは空っぽの手を差し出して、キリストの義のみわざを受け取ることだというのが8節の主旨でした。続く9節では、その反対のことを打ち消して、救いを説明しています。
「(救いは)行いによるのではありません」(9節a)。このことをわざわざ付け足すのは理由があるからです。それは、私たちは行いによって誇りやすい存在だからです。しかも、救いの根拠として自分の行い、生き方、功績を持ち出しやすい性格を持っているからです。それは「だれも誇ることのないためです」(9節b)と続くことからも明らかです。ただキリストによってのみ救われ、私たちの行いではない。このことをはっきりと理解してから、先程の信仰との関係を考えます。「信仰」と「行い」の違いは明らかです。それは何もしないか、何かをするかの違いと言えます。では、「信仰」と「行い」の共通点は何でしょうか。え、違うものなのに共通点があるの?難しいでしょうか?
共通するのは、信仰も行いも救いの根拠(原因、要因)とはならないという点です。その意味で、8節の「神の賜物」はその「信仰さえも神の贈り物である」ということを言っているのです。信仰とは、キリストに100%よりかかることです。それは、生まれながらの人間にとっては愚かなことです。抵抗を感じます。もっと自分でやれるし、やっていることを認めてほしいと強く思うものです。百歩譲って行いによって誇ることがないにしても、信仰の手を差し出すことは自分の謙虚な態度と思いがちです。「自分は神の前に正直になり、罪を認めます。行いによっては自分を救うことができないこともわかりました。だから、主イエスを信じることによってあなたに近づきます。見てください、この謙虚な姿勢を!」と思っているとしたら、それはもはや私たちの行いであり、自分を誇ることです。私たちは信仰でさえも、自分の功績、自分の徳を高めていることに位置付けがちなのですね。そして、罪人を愛してくださるという神の愛を知らないので、どうにか誠実な態度をもって神に近づかないといけないと考えがちです。
結局のところ、それは私たちに人間が罪を悲しんだり、後悔したり、誠実な態度を見せることで、はじめて神が赦してくださる、悔い改めた罪人を迎え入れてくださるのだという勘違いをしているからです。「救われるために真面目にやりますから義と認めてください」「一生頑張りますから救ってください」と言っているようなものです。それは、私たちの誠実さや熱心さが根拠になって、神の救いを受け取ろうとする誤った考え方です。私たちが威張って空っぽの手を差し出すなら、それは傲慢な態度であり、罪です。私たちの誠実さ、罪に対する悲しみ、今後の生き方の決意が認められて救われるのではありません。私たちの信仰が立派だから、他の人よりも謙虚な信仰だから救われるのでもありません。私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったキリストによって救われるのです。
問題は、私たちの行いとか信仰の立派さではなく、イエス・キリストのみわざに同意するか、しないかです。先週見たように、神は憐れみ深く、愛に大きく、慈愛に富み、恵み豊かな方であるので私たちの代わりにキリストを十字架につけ、その流された血によって罪をお赦しになられました。このことに信頼します。よりかかります。そうすると・・・私たちの誇りは取り除かれます。信仰・信頼は努力を除去するからです。頑張って愛されようとか、頑張って認められようという焦りから解放されます。神は、その信仰さえも私たちに与えてくださいました。罪人である私たちが、自らの罪を認めて神の前に出ることなど、本来は考えられないことです。何とか自分の頑張りで埋め合わせたり、他と比べることで落ち着かせたり、なかったことにして気を紛らわしたり、そんなことを考えずに生きてきたからです。
信仰は知らないこと、信じてもいないことを無理やり飲み込むことではありません。信仰は①事実の知識、②事実の意味への同意、③信頼が含まれています。
事実を知るとは、私が罪人であること、その私の罪のためにキリストが十字架にかかってくださったことを知ることです(これは聖書、礼拝から知ることができます)。
事実の意味への同意とは、私の罪はすべてキリストが背負われ処分してくださったことに同意することです。
信頼とは、これらの事実に自分のたましいをお任せしてもよいと、救いは保証されていることに信頼することです。
3. 神の作品(10節)
本日の結びです。救いは信仰によるのであり、行いではない。それを受けて「良い行いに歩むように」(10節)となっています。これまでの流れからすれば、ちょっと待った!と言われそうな展開ですが、神さまはエペソ教会の人たちに、この流れこそ知っていてほしいと願われているようです。今は「切り取り」が流行っています。私たちも「救い」から「罪の赦し」だけを切り取って、その後はどうでもいいんだ、何をしてもいいんだとなるのはみこころではありません。救いの全体を表わすのに、9節までで終わらず、この10節が続いていることを大事にしていきましょう。
「背きと罪の中に死んでいた者」(1節)が、これからは「神の作品」(10節)として生きていく。「実に」と書き出すのは「まさにこのことのため」というニュアンスがあります。救われて終わりではない。救われた者がいかに生きるようになるのか。それこそ「キリストとともに生かしてくださいました」(5節)の意味が出てくるのです。この「神の作品」の特徴を見てまいります。
特徴の1つ目は「キリスト・イエスにあって造られた」ことです。これは文字通り「創造する」(参照:ローマ1:20)という意味です。神は、私たちを人間として創造されました(創世記1―2章)。無から有を生み出す、神にしかできない創造のわざ、知恵、技術、力をもって天地万物を造られました。そして、もう一つの創造をここでなさっています。それは、私たちをキリスト者に創造するというみわざです。救いは全面的に神による恵みです。そして、さらに救われた者は「神の作品」として創造され、生み落とされ、この舞台で活躍することを願われているのです。それで他の箇所でも「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(第二コリント5:17)と言われています。キリストによる救いを受け取ることは、私たちが新しい者に造り変えられるということです。それまでとは違う生き方、考え方、思い、言葉が与えられます。神による新しい創造として、刷新されたからです。以前は楽しかったものがむなしいと感じるようになり、以前は痛みを覚えなかったことに気づいて涙するようになり、以前は快楽だと思っていたことにストップがかかるようになります。ま、私は幼少期から通っていた教会へ、救われた翌週に行ったとき、人々の顔が輝いて見えました。この人たちはこんな良い表情をしていたのか!と驚いた記憶があります。それは、彼らがその週からにこやかになったのではなく、私が新しくされたからです。以前分からなかったものが分かるようになり、以前見えなかったものが見えるようになりました。これらはすべて「キリストにあって造られた」神の作品の特徴です。
特徴の2つ目は「良い行いに歩むように」なることです。神に造られた作品は「良い行い」をします。この良い行いは、救われるかどうかの判定材料にはなりません。救われる条件にもなりません。この良い行いは救われた者、神の作品としての歩みだからです。ただし、「歩む」とあるように、この神の作品はロボットのように動くのではなく、私たちの能動的な行動が伴うものです。そして、さらにその良い行いを、神はあらかじめ備えてくださっています。これはガイドの役割ですね。キリストによる救いを受け取り、神の作品として新しく造られた者は、神があらかじめ備えられた良い行いの方向へ足を踏み出し、ことごとくそれらを行っていくのです。ただし、決して誇ってはなりません。他人と比べてもいけません。なぜなら、行いに基づく救い、行いに基づく自信はすでに取り去られているからです。自分の行いを基礎にした人生の建て方ではなく、キリストにある新しい人生を歩んでいるからです。一気には変わった自覚が出て来ないかもしれません。変化がなかなか実感できないかもしれません。しかし、それは「歩み」だからです。ゆっくり、ゆっくり進みます。ゆっくり、ゆっくり変えられていきます。ゆっくり、ゆっくり変化を実感できるようになります。
私はそれで、両親と家庭礼拝をするようになり、教会のキャンプで奉仕するようになり、朝だけでなく夕方の礼拝に出るようになり、神学校に行くようになり、(結婚をし)、未知の土地東北、岩手県で教会開拓をするようになりました。また、気づいたら今後は福岡に来て教会に仕えることができています。これはゆっくり、ゆっくり歩んできた結果です。また、外側や環境の変化ではなく、内側ではじっくり考えたり(これでもです!)、スポーツでは自分がメインじゃなくてもいいと思うようになり、人の喜んでいる表情が何よりのご褒美になりました。これらはすべて神の賜物であり、信仰さえ私に与え、守り、導いてくださった主のおかげです。これからも神の作品として「歩み」を続けていきたいと願います。
<了>
Comments