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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「神の恵みに生きる」


聖書 マタイ25:14-30

はじめに

2023年の最後の日となりました。

一年最後の日を教会で始め、礼拝をささげて過ごし、神の祝福に送り出されて閉じることのできる恵みに感謝します。この礼拝は私たちによい区切りをつけてくれる機会となるでしょう。


  1. よかったことについて

主に感謝しましょう。思いつくだけ、数えてみましょう。ただ思うだけではなく、口に出したり書き出したりすると受け止め方が違ってきます。この年、主からこれほど良いものをいただいていたのだと新たに発見することになるかもしれません。感謝と賛美にあふれる歩みとなります。


  1. よくなかったことについて

自分は何を達成していたら満足していたのか、求めていたものは何だったのか、また何がまずかったのか振り返りましょう。すべての罪は神に対する反逆です。神への不従順はなかったでしょうか。


「神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください」(詩篇139:23-24)

みことばとともに、主の前に静まり、悔い改めましょう。主は聞いてくださいます。また、主は私たちの悔いた、砕かれた心を軽んじず、喜んで受け取ってくださいます。


さらに素晴らしいことは、私たちはいつでもやり直すことができるということです。この礼拝がそうしたものになるように願います。


  1. まだ残っている不安について

しかしながら、日付や年が変わっても、持ち越さなければならない不安や課題があります。それらを示されることは現実に引き戻されることではありません。むしろ、心配や思い煩いを主にゆだねるときです。主にゆだねるという営みを怠らないようにしましょう。


こうしてみても、礼拝は私たちにとって感謝、悔い改め、新生の絶好の機会です。


1. 神が任せておられるもの

私たちの今年の聖句は「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でした。「神の国」の喜びを味わい知るために、福音をテーマに一年間礼拝でみことばを聴き続けてきました。


今朝の聖書個所は主イエスが語られたたとえ話しです。テーマは「天の御国」=神の国についてですので、今年の締めくくりにふさわしい個所かと思います。このたとえ話、大きな枠ではマタイの福音書24‐25章がひと続きとなっていて、その中の話の一つになります。きっかけは、弟子たちが「あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか」(マタイ24:3)と主イエスに尋ねたことでした。そして、24‐25章でイエス・キリストはたくさんの話をされてから、弟子たちと最後の食事をされ、十字架へと向かって行かれます。


弟子たちは、これからイエス・キリストが十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活して天に昇るのを見ることになります。やがてその目で主イエスを見ることはできなくなりますが、聴いたこれらのみことばが彼らを支えるいのち綱となっていきました。弟子たちは、このたとえ話をただ日々の過ごし方とか日常の知恵としてではなく、世の終わりに向けていかにその人生を歩むべきかという重い指針として聞き続けました。

イエスを主とするならば、私たちの人生観が転換します。今日は3つの転換点をご一緒に見てまいりましょう。


1つ目は、主は私たちの人生に資源を与えておられるということです。人や動物や植物は、自分を生み出し、保ち、成長させてくれる資源がないと生存できません。また今は「情報」という資源がないとうまく立ち回りができません。日々の生活で損をしたり、将来に向けて必要なたくわえができずに困ったりするからです。


さらに土地や国も資源によって成り立っています。たとえば、中東だと石油が主な資源です。オイルによってそれらの国は潤い、人々の生活を支える資源になっています。また石炭や天然ガス、近年では電池に使うレアメタルはアフリカや中国から多く産出されています。その国や土地を豊かにしているのは資源です。


日本は石油の産出はほぼなく、化石燃料のほとんどを輸入に頼っています。これらを地球規模で考えて仕事や研究をされている方がこの教会にもおられますね。食料自給率も38%(2021年度)だそうです。ただ、四季に富んだ自然や昔からの建造物、それぞれの町で楽しめる食事など別のカテゴリーの資源を生かしていくことで国と人々とを支えています。では、神が私たちに与えてくださっている資源とは何でしょうか。

主イエスは「財産を預ける人のようです」(25:14)と話し始められました。長旅に出る主人がそれぞれのしもべに「タラント」を渡します。タラントは当時のお金の単位で「タレント/才能」の語源となりました。主イエスは「心の~」とか「精神的な~」とは言わずに「お金」に人生をたとえられました。これはとても興味深い点です。主イエスはお金にたとえて、私たちの人生観を変革なさいます。


お金の特徴とは何でしょうか。お金は私たちにとって身近なものです。毎日の生活もお金でやりくりし、将来についてもお金で計算して、目標や安心を数値化します。たとえ算数は苦手でも、お金だとちゃんと計算します。お正月になるとお年玉をもらう(あげる)人がいらっしゃるでしょう。食材をもらうよりも、お金の方が単純に嬉しいものです。それはお金が私たちの生活に直結していて資源として豊かにし楽しませてくれるからです。


ただ、このたとえ話しのポイントは私たちに与えられている財産を数値化することではなく、それらが「預かりもの」という点です。主は私たちに人生という資源を「預けて」おられるのです。つまり、お金の返済には誰もがシビアなように、私たちはいつの日か主に報告し、お返ししなければなりません。そしてこれが私たちに必要な人生観です。人生は、主からの預かりものであり、決して自分の所有財産ではありません。



2. 神に忠実であること

2つ目は、人生を自分に預けてくださった主に忠実であることです。今日の個所では「よくやった。良い忠実なしもべだ」(25:21,23)という表現が二度繰り返されています。良いしもべは自分勝手な方法や解釈によって預かりものを使うのではなく、主人の心にそって大切に管理し、運用します。私たちも主からの預かりものである人生を神のみこころに従って管理し、運用するようにチャレンジを受けています。


このたとえ話では、主人がしもべ「それぞれの能力に応じて」五、二、一タラントを渡して旅に出ます。とてもいさぎよく、センセーショナルです。「神さまってみんなに平等には与えないんだ!」と驚きます。一見、神からすべてが平等に与えられた方がいいと思います。はたして本当にそうでしょうか。私はある時まで「みんなが自分と同じような性格で生きていたらいいのになあ」と考えていました!これは「みんな自分と同じであれ」という傲慢ですね。他の人のオリジナリティや良さをまったく認めず、受け付けない恐ろしい考えです。今はそのことを悔い改めていますから安心してくださいね。

神さまは決して平等ではありませんが(目鼻立ち、家柄、記憶能力、器用さ、運動神経など)、一人ひとりに十分で固有のタラントを与えてくださっています。

ここでのポイントは神の不平等さを訴えることではなく、私たちが自分に与えられたものに対して忠実であるかです。自分の持ち分に対してはいかなる攻撃も誘惑もはねのけることができるか?と問われているのです。


3人のしもべの行動をたどりましょう。最初の2人は「出て行って、商売をし」(25:16)、もうけを出します。彼らはすぐに動き出し、迷いや躊躇なく生きています。ハングル講座で習った「クルッセヨ~(どちらでも)」は禁句です♪ 3人目のしもべもすぐに行動に移している点では同じですが、その内容があまりにも違います。彼は「地面に穴を掘り、主人の金を隠し」(25:18)ました。預かり金に手をつけず、穴掘りに励んだのです。


その理由として、このしもべは「ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。それで私は怖くなり・・・あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました」(25:24-25)と言っています。しかし、これは彼が勝手に考えた主人の心でした。彼は、主人が取り立て屋のようにひどい人であると知っていたと一方的な見方をし、それに基づいて行動したため、主人の意図とは正反対の行動を取ってしまったのです。


私たちも同じ失敗をします。「あの人はこのように思っているに違いない」と疑ったり、「私、絶対嫌われてる」と勘ぐってふさぎこんだりします。逆に「あなたがそんな人だとは思わなかった」と自分の想像を下回って落胆することもあります。相手の本音を聞き出すことが恐かったり、わざわざ確認するのも気が引けて関係が疎遠になったりすることもあります。余分な詮索は本来の道から足を踏み外す大きな要因になりえます。


二タラントの人がすぐに仕事に取り掛かったのは、彼が預かったものに対してひたむきだったからです。もし彼が五タラントの人と比べたとしたら、劣等感にさいなまれ、やる気を失っているはずです。また一タラントのしもべに対して威張っていたかもしれません。


けれども五タラント、二タラントのしもべは口をそろえて「私に・・・預けてくださいました」(25:20,22)と言っています。お互いの額を比べることなく、それを預けてくれた主人だけを見つめています。これが忠実なしもべの姿です。預けられ、ゆだねられたものに対して不平不満をもらしていはいないか。いつも比較の対象を見つめてそれが気持ちよく動くことを妨げてはいないか。小さき物、弱き者を鼻で笑ってはいないか。この私に大切な財産を預けてくださっている主なる神に忠実でいることを気にかけていたいと願います。



3. 大胆に生きること

3つ目は大胆に生きることです。忠実であることと似ていますが、ぜひペアにして覚えてみてください。大胆に生きるとは、踏ん張りをきかせることです。持ち場から離れない、簡単に人の言葉によってくじけない、そういう図太さをもって生きることです。そうしないと、主のしもべとして生き抜くことはできません。


私たちにとって、今の時代をクリスチャンとして生き通すことはとても難しい時代です。「食事前に祈るんだね」とからかわれる。「初詣に行かないで礼拝に行くだけで物足りるの?」「なんでみんなやってるのにいっしょにやらないの?ちょっとくらい空気読んでよ」とあなたが主に従うことを良しとしない意見や空気感があります。その中で信仰を取り下げず、大胆に生きるのです。


青年伝道の働きをされていた先生が「今の学生は桃世代です」と紹介していました。桃は傷まないようにクッション材で包装されています。落としたり、乱雑に扱ったりするとすぐに傷みます。そしてその部分はちゃんと黒くなります。だから、一個ずつ丁寧に扱ってあげないといけません。「今の学生たちはまさに桃のように傷つき、傷みやすい存在なので、細心の注意をもって接しないといけません」と話されていました。はたして、これで主のしもべとして生き抜く大胆さを身に付けさせることができるでしょうか?


主イエスは過剰なケアはなさいません。弟子たちが自分の足で立ち、自分の意志で主に従うことを選び取っていくことを願っておられます。そのために助け主聖霊を送ると約束されました。だから、このたとえ話でも主人は気前よくその財産をしもべに預けたら、長旅に出て行きます。そして、そのしもべが労苦し、それで得たものを分かち合う再会を楽しみにしておられるのです。


それぞれ五タラント、二タラントを稼いだしもべたちはいったいどのように主人のいないこの期間を過ごしていたのでしょう。のんきに「恵み~」とか言って適当に過ごしていわけではなさそうです。なぜなら、相当のもうけを出しているからです。そのためには、それぞれ汗をかきながら働きました。分からないことがあればもがきながらやりとげました。いつ主人が帰ってくるのか知らされていませんから、いつも気を抜かず目をさましていました。そうやって互いに良い影響、刺激を与え合いながら稼いだタラントだったのではないでしょうか。


それとは対照的に、一タラントのしもべには同調する人がいなかった模様です。もし、一タラントのしもべのように主人を恐れて、ただ地面に埋めて待つだけの人生がうらやましく見えていたら、他の2人もそうしたはずです。

けれど、「何もしないで埋めておくのええなあ~」と働きをやめてしまった者はいませんでした。

なぜなら、そこにはほかの人を巻き込む魅力がなかったからです。そこにはほかの人を勇気づける喜びがなかったからです。私たちクリスチャンの交わり、教会の歩みはこの五タラント、二タラントの人たちが互いに良い影響を与え、感化させ、エネルギーをまき散らしていたようなものでありたいのです。


主人は彼らを迎えるのに「主人の喜びをともに喜んでくれ」(25:21,23)と労っています。主人は清算の日を楽しみにしておられました。主人はその働きぶりを評価することを大事にしておられます。主人はしもべたちの労苦を喜んでくれています。ただし、主人は彼らの金額ではなく、彼らの忠実さをほめたことを忘れてはなりません。大胆に生き抜いた彼らのことを誇りに思い、喜んだのです。それに対して、一タラントのしもべにはことさら厳しいさばきをくだしておられます。泣いて歯ぎしりしても天の御国に入るのには遅いと宣告されています。


私たちの人生そのものが神からの預かりものです。ゆだねられた莫大な資源を生かしましょう。私たちはこの生涯を、神のしもべとして忠実に歩むことが求められています。ただ主だけを見上げて全力で応答しましょう。私たちはこの生涯を主のしもべとして大胆に生き抜くことを期待されています。どこまでもしぶとく、時にがめつく、互いに励まし合って終わりの日まで生き抜きましょう。


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