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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「主は生きておられる」


聖書:ルカ24:1-9

イースターおめでとうございます。教会で、また世界中で祝われるキリストの復活祭。クリスマスよりもある意味重要なのがこのイースターです。なぜなら、このイースター=キリストの復活から永遠のいのちの確証、イエスがメシヤである確信、聖書のすべての預言の成就、弟子たちの福音宣教が始まったからです。本日は、最初にイエスさまの復活を目撃した女性たちの記事、次に復活の確かさ、最後に私たちへのチャレンジ(適用)という3つのポイントで見てまいります。


Ⅰ. 絶望と福音

  1. 墓の中で途方に暮れる

今朝の始まりにある「週の初めの日の明け方早く」(24:1)は今でいう日曜です。前の節23:56にある「安息日」は現在の土曜にあたります。イエスさまは金曜の午前9時に十字架につけられ(マルコ15:25)、正午には闇が全地を覆い、午後3時に息を引き取りました(ルカ23:44-46)。その光景は十字架刑を執行するローマ兵たち、それを取り巻く群衆、離れたところから見ていたイエスの知人たちやガリラヤからイエスさまについてきていた女性たちなどがいました。彼らは一様にイエスの死を目撃し、亜麻布で包まれ墓に納められる様子までを見届けていました(ルカ23:53-55)。これらは確かにイエスが死んで、葬られたことを記録しているものです。のちに見ますが、復活に見せかけようとした仮死状態(死んだふり)ではないことは、ピラトの「もう死んだのか」と驚いた様子や百人隊長がその死を確認していることからも明らかです(マルコ15:44-45)。またちゃんと三日後によみがえるとイエスが言っていたことを覚えていた祭司長、パリサイ人たちは弟子たちがそのからだ(遺体)を盗んで持ち出し、よみがえったなどと言わないように「しっかりと番兵をする」(マタイ27:65)要請が受け入れられ、そのプロの番兵(一説では16人体制の万全な軍隊を指す用語だと言われています)が監視し、墓は石でふたをされ、封印がなされました。死と葬りが確実であることの数々の証拠です。


こうしてイエスの死、葬りが確定したところで始まるのがルカ24章です。「週の初めの日の明け方早く、彼女たちは用意しておいた香料を持って墓に来た」(24:1)。前日夕方にイエスさまが墓に納められるのを「見届けた」(23:55)ので、その次になすことは遺体に香料を塗って腐敗や悪臭を防ぐ作業でした。しかし現場に行くと石が墓からわきへ転がされており、中に入ると主イエスのからだが見当たりません。それで「途方に暮れて」(24:4)しまいました。これがイースターの朝一番の出来事であり、人間の姿です。彼女たちは明け方早く墓についていますから、泊まっていた場所を出発したころはまだ真っ暗であったはずです。そして、今、墓の中で途方に暮れ、絶望している。自分たちの用意していたものはムダになり、計画通りに事は運びません。用意したものが有効に使われない。いったいどうなってしまったのか途方に暮れている。週の初めの日からうなだれている。これから何をして良いのか分からない。暗い時間から暗い場所に来て暗い顔をしている。墓=人生の終着点で途方に暮れている。こうした暗い場所、暗い顔、力なく立ちすくんでいるところに、素晴らしい知らせが届けられようとしています。イースターの知らせは、途方に暮れていた女性たち、途方にくれている私たちに向けて届けられようとしているのです。今が幸せでなくてもよい。これまでのことがすべて報われていなくてもよい。これから何をすればよいのか理路整然とわかっていなくてもよい。人生どうせ死んで終わり、お墓で終わりだとあきらめてしまっている自分がいてもいい。なぜなら、そこから神の物語は始まるのだからです。誰もが絶望している、誰もが途方に暮れている。しかし、それを終着駅ではなく、出発点にしてくださる。それがイースターなのです。


 2. 生きている方


途方に暮れた彼女たちに発せられたのは「どうして、生きている方を死人の中に捜すのですか」(24:5)との御使いの知らせでした。用意した香料を抱え、墓の中で絶望する彼女らに「ここにはおられません。よみがえられたのです」(24:6)と告げます。墓の中にはいない、すなわち主はよみがえられました。主は死んではいない、なぜなら主はよみがえられたから。主は墓の中にはいない、なぜなら主は生きておられるから。絶望する必要はない、なぜなら主は希望を与えられるから。これがイースターに届けられた知らせ、福音です。


そして、これが途方に暮れる私たちに対しても、今も有効な良き知らせです。お墓が終着駅の生き方をしてはならない、むしろそこは始発駅です。なぜなら、主は死んだままではおらず、よみがえられたお方。主が墓にいないと途方に暮れていてはならない、なぜなら主は今生きておられるから。そうです、私たちは主イエスがまだ墓の中にいたら、それこそ途方に暮れるべきなのです。主が死んでしまったら、主が死んでしまったままであれば、希望はないからです。死んで終わり、墓の中で終わり、死の向こうには闇しかない。それは絶望を告げるものでしかありません。


しかし、主はよみがえられました。死んで墓に葬られたまあではおられません。よみがえり、そして、今も主は生きておられます。ふたたび死ぬことはなく、栄光のからだをもって永遠に生きておられ。るのです。それゆえ、聖書にある預言、みことばは、すべて今も生きておられる方がそのまま語っておられる有効な言葉です。死んだ人の遺言、偉大な講話ではありません。今も生きておられる方がそのまま直に語っておられます。みことばも、祈りも、賛美も、礼拝も、奉仕もすべて今生きておられる方だからこそ、私たちには手ごたえをともなった喜びとなります。決してむなしくはありません。


「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」(ルカ20:38) 聖書の中に登場するアブラハムと交わりを持った神は、今も生きておられます。モーセを呼び起こした神は、昔そのようにしておられた神ではなく、今も生きておられます。このとき、女たちが墓で見ることがなく、やがてよみがえったのをその目で見た主イエスは、今も生きておられます! あなたが礼拝している方はどなたなのか。聖書時代に活躍された偉大な方だからなのか。それとも今も生きておられ、栄光を受けるにふさわしいお方だからなのか。 あなたが賛美している方はどなたなのか。昔素晴らしいことをされた偉大な物語の神なのか、それとも今もあなたを生かし、全世界、全宇宙を支え動かしておられる生ける神なのか。あなたが祈るのはなぜか。大きな像に祈るのではなく、今実際に耳を傾けてその祈りを聞いてくださる、生きた神に対して祈っているからです。主イエスの復活は、議論や知識の対象として神を見るのではなく、具体的に今のあなたを生かし、助け、支え、慰め、励まし、力づけ、語りかけておられる神との出会い、関係、喜びをもたらすものとなりました。そうでなければ、頭で納得しているに過ぎない知識の中の神、昔おられたかもしれない神話や物語の神でしかありません。重要なのは、主イエスが今も生きておられることです。



Ⅱ. 主イエスの復活


 1. 知性を尽くして


 その生きておられる神が「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(ルカ10:27)と命じておられますので、体験や感覚や思い込みに基づいて主は生きておられるのだと思い込みなさい、信じ込みなさい、疑うことはやめなさいとおっしゃってはおられないこともまた大事なことです。私たちは「知性を尽くして」神を知り、神を愛するのです。それで、復活は弟子たちの作り話し、聖書のおとぎ話、事実なんかじゃないのではという復活に対する反論について紹介していきます。


復活は起こらなかったとの主張は、大きく分けると3つ挙げることができます。①番兵たちが持ち去った説、②弟子たちが盗んでいった(マタイ28:11)説、 ③本当は死んでいなかった(仮死)説に分けられます。


まず①番兵たちが持ち去った説について見ましょう。イエスさまが死んで墓に葬られたとき、石の封印がなされました(墓穴と石の間は粘土で埋められ、そこに王の印がなされていたと考えられます)。このときに番兵たちが監視するよう指示をうけます。この番兵はカストディアンというギリシャ語で、現在だと証券会社の証券を監視、管理する役職を意味する語になっています。不正や盗みがないように厳重に監視する仕事ですから、それはこのときの番兵たちも同じ任務を負っていました。しかし、この説は同じ聖書の中で否定されています。マタイ28章11節からは神殿に戻った何人かの番兵たちは祭司長たちから多額のお金をもらって「弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った」と言いなさい(マタイ28:13)とうその噂を触れ回るように買収され、「彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間で広まっている」(28:15)と記録されています。なんだ、聖書で否定しているから聖書を信じるのは非論理的・・・と思われるかもしれません。ただ、この説うぃ主張するにはおかしい点がいくつかあります。  まず、番兵たちが「自分たちが眠っている間に」と言うことは彼らにとってこの上ない屈辱であり、職務怠慢の恥をさらすことです。同じ新約聖書の中で囚人(パウロとシラス)を監視していた看守ですが、大きな地震で牢屋の扉が開いて囚人たちが逃げてしまったと思ったとき、看守は自殺しようとしています(使徒16:27-28)。それは、囚人たちを監視する自分の職務がまっとうできなったので命を捨ててそのお詫びをしようとする行動でした。自然災害(不可抗力)による脱出であっても、死罪にあたると考えた看守です。もし、囚人が逃げ出した理由が地震ではなく自分たちの居眠りであったら、なおのことです。番兵たちが不名誉をわざわざ自分にきせる行動、死罪にあたる行為をすることが不自然です。だから「多額の金」で彼らを買収し、そのように言わせ、またそうしたからこそ、彼ら番兵の命を守ったのが当時の腐敗した社会構造でした。権力者の言うとおりにすればたとえそれが犯罪や不正行為であっても、その者は守られ昇進する仕組みは、まるで現在の政治と同じです。また、番兵たちの工作であれば、イエスの遺体を出してしまえばこのあとの「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました」(使徒3:15)と死者の復活を宣べ伝えて苛立つことも、信者が増えて恐れることも「イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならない」(4:18)と禁じる必要もありませんでした。しかし、それができなかったのは、イエスの遺体がどこにもなかったからです。イエスの遺体(死体)を公衆の前にさらせば、宣教はそこで終わらせることができました。しかし、それができませんでした。主は死んでおらず、よみがえられたからです。だから遺体はどこにもありません。それゆえ、この説を知性によって考えれば考えるほど、「なし」であること、しかも「なしよりのなし」であることが分かります。もし番兵持ち去り説を支持するのであれば、私たちは自らの知性を捨てることになります。


 次に②弟子たちが盗んでいった説はどうでしょうか。これは十字架前と復活後の弟子たちの生き方を比較してみると分かります。弟子たちはイエスさまにつき従っていました。しかし、それも十字架の場面の前までです。つい三日前に弟子たちは全員がイエスを見捨てて逃げてしまいました。そんな彼らが番兵たちが目を光らせている監視体制をくぐり抜け、重く大きな石を転がし、イエスさまの遺体を持ち運んだとすれば大変な勇気です。そして、空の墓を証拠に、世界宣教に出て行き、ある者は殉教し、ある者は捕らえられ、ある者は島流しにあった・・・もし、イエスさまが死んだままの遺体であれば、弟子たちの信仰がこのようにV字回復することはあり得ません。ヨハネの福音書ではよみがえりのイエスさまに出会うまで、弟子たちはみないっしょに集まり、戸にカギを締めて隠れていたほど臆病で恐れに震えていました。イエスの弟子であった自分たちも同じように殺されるのではないかと恐怖におびえていたからです。。そんな弟子たちがイエスさまのからだを盗み出しに来ることは考えにくいものです。しかし、そこに復活されたイエスさまが現れたからこそ、弟子たちは復活が本当であることが分かり、外に飛び出し、イエスは主であることを公言し、宣教のために世界へ出て行きました。復活が本当であったからです。もし、自分たちが隠し持っているだけであったら、ここまで弟子たちが変わることなど決してありませんでした。弟子たちが復活を確信し、イエスの弟子であることを公言し、生まれ変わったように勇敢になっていることから、弟子たちが盗んでいった説は消滅します。弟子たちの変化こそ、主イエスが復活されたことが事実であることを証明しています。しかも一人ではなく残っていた11人全員が変えられたことは単なる思い込みや幻、幻想ではないことを立証するものです。


最後の可能性、③イエスさまは本当には死んでいなかった説はどうでしょうか。イエスは十字架で死んだと思われたが、実は死んではおらず死んだふりをしておられ、仮死状態から蘇生したというものです。それならば、墓から脱出するのも可能だろうという説です。まず、イエスの死については多くの者が目撃しています。それも遠くから群衆が見ていたというレベルのものでなく、間近にいる者らによってその死が確認されています。「イエスの正面に立っていた百人隊長」はイエスが息を引き取った瞬間を見て「この方は本当に神の子であった」(マルコ15:39)と言っています。間近で、正面から見ていました。その百人隊長とは部下に百人の兵士を束ねるリーダーです。戦国の熟練者です。目の前の者が死んだかどうかを正確に判断できるプロがイエスさまの死を証言しています。ピラトも死んだ報告を受け(正確な情報を王に伝える組織)、この百人隊長に再度確認を取っています(マルコ15:44-45)。虚偽を報告すれば罰せられますから、いい加減な報告をしたわけではありません。さらに、一人ではなく、複数の者がイエスの死を確認したことに関わっています。アリマタヤのヨセフはイエスの遺体を引き取り、亜麻布で包んだ人でした(ルカ23:53)。彼の職業は議員でしたから、人々の信頼を得ていなければならない彼がこの場において嘘を演出することは考えられません。さらに大勢の者(群衆、女たち)が墓に納めるのを見届けていました。また、これらを記録しているルカは「医者ルカ」(コロサイ4:14)です。医師としての専門知識、歴史家としての確実な証拠をもって書き上げました。現在でも死亡診断書は医師免許のある者が書くようになっており、素人が書いたものは無効です。ルカの福音書でイエスが息を引き取り、からだが下げられ、亜麻布で包まれ、岩に掘った墓に納められ、石で封印されたと記録しているのは確かなことです。また仮に蘇生したとしても、その人は衰弱しきっています。たとえば、山で遭難した人が発見されると、かなり衰弱した状態であり、まずは病院に運ばれ必要な手当てを受け、回復をはかります。このときのイエスのように誰から見ても死んだ状態から、それが仮死であったとして三日目に蘇生して立ち上がったとしても、すぐに一人で歩くことはできなかったでしょう。ましてや重い石(大人の男性が複数いないと動かせない)を転がすことは不可能です。それなのに墓から出られたイエスさまは、よく歩かれ(エマオ)、各地に移動され、食べることもなさいました。これは仮死状態からの蘇生であったと証拠付けることはできません。


さらには、復活の第一目撃者が女性たちであったことも大きな要因です。当時女性の立場は男性よりも弱く、小さく抑えられていました。裁判でも女性の証言は有効材料にならないとされていた時代です。もし、聖書がイエスの復活に信ぴょう性を持たせようと「盛っていた」ならば、必ず男性を第一発見者とし証言したことを記録したはずだからです。女性が第一発見者とするのは、わざわざその事実を不利にすることだったからです。この点からも大変ユニークで大胆な書き方を聖書はしています。それは盛る必要がなかったからです。


以上のように、私たちが知性を働かせるならば、イエスの死は本当であり、イエスの復活も本当であると結論付けることが妥当です。それを否定しようとすると、知性をわざと落とす仮説を持ってこないといけなくなります。復活しなかったと結論づける方にどうしても無理が生じてしまうのです。そして、信仰と知性とは両立するものです。それは、なかなか信じられない私たち人間にとって朗報、良き知らせとなりますね。簡単には信じられないけれども、よく考えると、復活は事実であることがわかるからです。その事実を土台に信じることを始めてみましょう。信じられないから仮説の上に自分の結論を植えつけるよりは、よっぽど理にかなっています。


このように復活は作り話、神話、デマ、嘘ではありません。もし嘘(復活伝説)であれば「大多数は今なお生き残っています」(第一コリント15:6)という当時の状況では不可能です。たとえば、「福岡めぐみ教会の牧師であった大塚史明は聖人で罪を犯したことがなく、死んで復活した」という話は、私を知っている人たちが生きている間は決して信ぴょう性をもって広まりません。なぜなら、そうではないことを知っている証人が生きているからです。もし、そのような話を広めたかったら、私の死後80年とか100年経過して、私のことを誰も知らない時代になってからでないと成立しません。このように考えると、主イエスの復活はそれを目撃した人たちの大多数がまだ生きている間に記録され、広まっていることは復活が事実であることを知る重要な要素ですね。



Ⅲ. 復活のみことば


 1. 思い出せ


  さて、これまで私たちの知性を働かせて復活が確かであることを見ました。とても回り道をしましたが、それをシンプルにするとみ使いたちが「主がお話しになったことを思い出しなさい」「彼女たちはイエスのことばを思い出した」(24:6,7)とある通り、私たちは聖書に記されているみことばはそのまま信じるに値するということです。聖書が真実である、みことばをそのまま受け入れること。それが知性にかなうことであり、救いに至る知恵を持つことになるからです。なんだかんだ考え、検証し、回り道もするけれど、結局は聖書が揺らぐことはない、新たな事実が出て来てひっくり返されることはない、草はしおれ、花は散るけれども、神のことばである聖書は永遠に堅く立つ(第一ペテロ1:24)。天地は消え去るがわたし(主イエス)のことばは決して消え去らない(マタイ24:35)。このところに戻ってくるのです。これが信仰の原点であり、根拠です。


 信仰は聖書にある神のことばを信じることです。このときの女性たちが「イエスのことばを思い出した」ように、語られたみことばは必ず実現するのだと信じることです(参照:ルカ1:45)。途方に暮れた女性たちは、主イエスのみことばを思い出して、我に返りました。私たちも同じことができます。週の初めの日から暗い顔つきで立ちすくんでいる・・・礼拝からみことばを吸収し、そこから行きます。これから進むべき道はどれなのかわからない・・・みことばを思い出してそこに立つのです。人生の終着駅は結局みんな一緒、死んで墓で終わりとなんともむなしくなる時・・・「わたしはいのちのパンです。信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47-48)と地上や墓の先にある永遠のいのちがあると心に火が付きます。それは、みことばがなければ始めることのできなかった人生、みことばがなければ存在しなかった自分、みことばがなければ持つことのできなかった喜びです。



 2. 走り出せ


主イエスの復活を受け入れると、聖書の読み方、受け取り方がまったく違ってきます。主イエスはご自身で「三日目によみがえる」ことをたびたび話しておられました。そして今やそれが現実となっています。もしよみがえらなかったのであれば「私たち(クリスチャン)はすべての人の中で一番哀れ」(第一コリント15:19)です。うそ、でたらめを信じていることになるからです。しかし、主イエスはご自身で言われたとおりに、三日目に復活されました。ということは、この方の言われることはすべて本当だ、ということになります。イエスさまが教えられた永遠のいのちとほろびの話は本当です。イエスさまが告げられた放蕩息子の話、父の愛、しもべに報いてくださる主人のたとえ話は本当です。わたしを信じる者は死んでも生きるのですという宣言は本当です。この世の終わりに人に惑わされないように気をつけなさいという警告は本物です。イエスさまのことばはすべて真実であり、真理であり、本物です。それがこの復活という事実によって保証されるのです。


このあと、女性たちは復活の出来事を告げに弟子たちのところへ走り出しました(マタイ28:8)。主イエスの復活の知らせを運び届けたのです。そして、その知らせは駆け巡り続け、私たちのもとへ届きました。その知らせをここで止めてはなりませんね。そんなことをすれば、福岡めぐみ教会の名前がすたれます。私たちも、ここから走り出すのです。「主はよみがえられました」「主は復活されました」「主イエスの言われることはすべて本当です」「主は今生きておられます」「主は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。主は永遠に生きておられます」「私の主は、今も生きておられる主イエスです」「主は言われました。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません」「御子を持つ者はいのちを持っています」 私たちは、この福音を知らせるためにここから走り出します。イースターの喜びがあなたにありますように。そして次の方にあるように!!


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