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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「ともにいる幸い」(「福音」シリーズその23)


​聖書:詩篇133篇1-3節

神さまは私たちに何を求めているのでしょうか?その一つは「主をほめたたえること」です。先の一週間、あなたはどれだけ主をほめたたえましたか?直近の24時間で、どれだけ主に感謝しましたか?そう自問すると、驚くほど少ないのかもしれません。ユダヤ人は祈りのときに18の感謝を数えてささげるそうです。それが朝、昼、晩なので一日の感謝が54になります。しかもそれが毎日ですから一週間で216、一か月で1,620、一年で19,710になります!不平や不安ならマシンガンのように続けて口から出るかもしれません。感謝となると・・・急にかしこまったり、そんなにもないと口をとがらせてしまうかもしれませんね。しかし、驚かなければならないのは、私にはそんなに感謝することが起こらなかったということではなく、私はそんなに感謝する機会を持たなかったのかということです。


主に感謝し、ほめたたえることは、私たちを内側から強め、あらゆる環境や状況に置かれても悪の力や必要以上の落胆のとりでとなって守り、さばきの沼から引き上げてくれます。主は全世界、宇宙の主ですから、主の届かない領域はどこにもありません。ぜひ、感謝な出来事を一つずつ振り返り、周囲にもそれを伝えてみましょう。主をほめたたえることを自分から始めるのです。教会は感覚や居心地による一致ではなく、主をほめたたえることで一致する民の集まりを追求し味わいます。この礼拝、会堂とオンライン(各家)とになりますが、主がそのような一致をもたらしてくださり、実感できるものとなりますように。


1. ああ、なんという(1節)

今朝の詩篇133に篇は「都上りの歌」と表題がつけられています。聖書の時代、神の都エルサレムを目ざして各地から信仰者たちは旅をしました。少なくとも「年に三度」(出エジプト23:17、過越、七週、仮庵の祭り)は、各地からこぞって神礼拝のために旅をしました。バビロン捕囚以後は、各国へ離散したため年に三度エルサレムに上るのが不可能となり、年に一度の過越祭りや数年、あるいは生涯に一度はエルサレムでとそれぞれの生活や経済状況にゆだねられていたようです。詩篇120~134篇の15の詩はそんなエルサレムへ向かう際に朗読、歌われて愛されたもの(また、神殿で祭司たちが階段(※ミシュナ―によれば段数も15だった)を上る際に歌われたもの)でした。エルサレムの旅路や神殿に入る際にこれらの詩篇に合わせて調べが付けられ、レビ人が楽器を奏楽し、人々は暗記して歌いました。それは、主の前に出る準備です。主を礼拝するのにふさわしく身も心も整えていくのです。


それは一見厳しい準備のように思えますが、この詩篇は「見よ、なんという幸せ なんという楽しさだろう」(133:1)と歌い始めます!主を礼拝することは幸せをかみしめる最高の時なのです。主のために歌うことは、何よりも楽しい時間なのです。だから、人々は長い時間をかけ、多くの財産を注いで、神殿のあるエルサレムへと旅をしました。誰でも、幸せや楽しいことのためなら犠牲を惜しみません。本当にそのことが楽しければ、それらを犠牲だとも思いません。たとえば、釣りやゴルフが好きな人にとって、早起きは何のストレスでもありませんよね。料理が好きな人にとって、パイを作る時間は幸せでしかありません。あなたが主を礼拝するときに、同じような幸せを味わっているでしょうか。主を礼拝することに同じような楽しみを抱いているでしょうか。主に対する思いが幸せ、楽しさで満たされ、礼拝に対する姿勢が幸せ、楽しさに向かうものになることを自分自身にも常に与えられるようにと願ってやみません。


短い詩篇ですので、リズムが大事です。あまり説教でぶつ切りにならないように注意しないといけませんね。それで、「なんという幸せ なんという楽しさ」に続くことばを見てみましょう。それは「兄弟たちが一つになって ともに生きることは」です。聖書は神の民を家族として扱っています。それは、信仰の父アブラハムと結ばれた主の契約からすでに見つけることができるものです。


「わたしは、わたしの契約をあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす・・・あなたは多くの国民の父となる・・・わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。」(創世記17:1-8抜粋)


新約聖書にもこの契約が主を信じるすべての者に及んでいるとあります。

「ですから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子である、と知りなさい・・・ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。」(ガラテヤ3:7、9)

私たちが神の家族であることは、聖書に貫かれている救いのイメージの一つです。それで、今朝の個所でも「兄弟たちが」と歌い始め、私たちも教会では兄弟、姉妹と呼ぶことも慣習となっていますね。


さて、この兄弟たちが「一つとなって ともに生きること」とは、まさに礼拝に向かう都上りの道すがら歌われ、実感されたものです。それは、物理的に共同生活をしている幸いではなく、ともに同じ目的地へ向かっている状態を指しています。実際、この都上りの歌はとても多くの人といっしょに歌われました。神殿での祭り、礼拝が行われるタイミングに合わせて多くの人がエルサレムを目指して旅をしていたからです。イエスさまが12歳のとき、両親と過越の祭りのために行ったエルサレムで離ればなれになってしまいました。イエスさまは神殿にいたのですが、両親がそれに気づかずに帰り始めていたからです(ルカ2:43)。一日たってからそのことに気づいた両親は捜し回りましたが見つからず、エルサレムまで引き返します。それでようやく三日後にイエスさまが宮で教えておられるのを見つけました。「三日後」にようやく両親はイエスさまを発見したのです。それは、とても多くの人が祭りの時には神殿にいるので、その周囲もめちゃくちゃ混雑していたことが分かります。


ここの「兄弟たちが一つになって ともに生きること」とは、本当に多くの人々と神の家族を形成しているのだという実感があふれています。それは「なんという幸せ なんという楽しさ」と自分の内側にしみこむように賛美しています。今朝も聖書は私たちが迷うことなく礼拝者としての幸いと楽しさをつかむように呼びかけています。神に出会う道を、信仰の仲間とともに上っていけるのはこの上ないしあわせなのです。あなたのとなりに礼拝者がいることはとてつもなく幸せなことなのです。あなたがそう思うように、となりの人もそのようにあなたを通じて幸せを味わい、楽しさをかみしめています。私たちの礼拝は、この詩篇を書き写したものではないでしょうか。それぞれの生活の場は違っても、目ざすところは神の都なのです。今朝もそれぞれ一週間の旅路を経て、ここへとたどり着きました。ぜひ互いを受け入れ、ねぎらい、歓迎しましょう。ともに主をたたえることが「ともに生きること」ともされています。大げさでなく、礼拝の場において、神の家族の一員であることに気づき、「あ~、生きててよかった!」とため息をつけるようであると素晴らしいと思います。「なんという幸せ なんという楽しさ」とお互いに向けて感嘆し合いましょう。


2. 上から注がれる祝福(2節)

続く2節では、その幸せ、楽しさ=神の祝福を「油」でたとえています。「それは 頭に注がれた貴い油のようだ。」(2節)。 この「頭」とは大祭司であるアロン(cf.出エジプト30:30、レビ8:12等)の頭のことで、それに注がれる油が貴いと言っています。なぜ、貴い油なのでしょうか。祭司とは神と人とを仲介し、つなぐことがその職務です。礼拝や祈りが神に受け入れられるものとなるように、人々が持ってくるささげものを注意深く観察し、神のことばどおりであるかどうかを確認してささげたり、香をたいて人々の祈りを神にささげたりしていました。それは、聖なる務めなので、神が任命した者しか就くことができません。人間が勝手に決めることが許されないのです。最初の祭司がモーセの兄、ここに出てくるアロンです。以来、アロンとその家の者が祭司を務めました。祭司は「油注ぎ」がなされるのですが、祭司に任じられた者しかあずかることが許されない特別な祝福のしるしでした。それゆえ「貴い油」なのです。


しかし、祭司だけが神の祝福を受けるのではありません。祭司は神と人とをつなぐ務めのために召されていますので、その祭司が授かった祝福は、人々へと注がれていくのです。それが次の表現に込められています。


「それは 頭に注がれた貴い油のようだ。 それは ひげに アロンのひげに流れて 衣の端にまで流れ滴る」(2節)。祭司アロンの頭に注がれた油は、ひげをつたって実に衣の端(足先)までに渡るのです。

(※スライドの図「祭司の全体像」、「胸当て(12の石)」を参照)

当時の祭司は衣服から身に着けるもの、また頭髪やひげまで細かく指定されていました。それは、その身なりが祭司っぽくなるようにということではなく、すべて神のことばの指定とおりにするという理由からです(参照聖句:出エジプト記28、39章)。それが「聖である」からですね。図を見ると、白い装束、青服、エポデと呼ばれる胸当てのついたチョッキのようなもの、被り物や飾り帯をしています。祭司は頭をそってはならず、ひげを伸ばしてその両端を切り落とさないようにみことばで指定されています(レビ記21:5)。今朝の油の描写は、頭から注がれた油がこの「ひげ」をつたって、下へ流れ出て行く様子を表しています。少し不潔な(?)イメージを抱いてしまうかもしれませんが、祭司に注がれた油が下につたっていくために「ひげ」は重要な通り道であったことが分かります。

そうして頭、ひげとつたった油は、胸当てを通って、実に衣の端まで「流れ滴る」(2節)のです。それは相当な量を示していますね。衣の端までいってなおポタポタと流れ滴るほどの油の量です。それこそが「祝福」です!神から選ばれ、召され、定められ特別な祝福を注がれた祭司の油は、そのまま流れてきてすべての民へと注がれていきます。だれもこの祝福にあずかれない人はいないということです。


となりの図を見てください(胸当ての12の石の図)。これはイスラエルの12部族を表す石で、その種類と配列も決められていました(出エジプト39:10-13)。はっきりと「これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個であった」(39:14)と記されています。そうですね、すべての神の民が祝福にあずかり、そこからもれる者はだれ一人としていないということなのです。神の祝福は祭司の頭、ひげ、衣のえりと下へ、下へ流れしたたるように、私たちにまで届いているのです。頭の一点から衣の端まで、選ばれたたった一人の祭司からすべての神の民へ。神の祝福が注がれない人、領域はどこにもありません。神の祝福とあわれみとは尽きないことを受け取りましょう。


3. 裾野(横)にひろがる祝福(3節)

続く3節では「それはまた ヘルモンから シオンの山々に降りる露のようだ」と「露」(他にはミカ書5:7)にたとえられています。わざわざ地名が記されているので、具体的なイメージをつかむことができるようになっています。イスラエルの地はほとんどが荒野です。豊かな緑や水源はめったにお目にかかれません。実に荒涼とした地があたり一面に広がる場所を、神さまは「約束の地」として指定され、導き入れられました。ここに記された「ヘルモン」はイスラエルの最北部に位置する山でその標高は実に2,800メートルあります。突出して高い山がヘルモンでした。雨季と乾季がはっきり分かれているイスラエルですから、乾季(おおよそ5~10月頃)にはまったく雨が降りません。けれども、その地にはたくさんの果実が実を結び、旧約時代から「乳と蜜の流れる地」(レビ20:24など)として祝福を受けていました。それは「露」のおかげです。実際に雨が一滴も降らないのに、昼夜の寒暖差によって「露」が発生するので、果実はそこから十分な水分を摂り、その実をならせるのです。その意味から、イスラエルでは特に「ぶどう」は渇いた地にプルプルと潤う実をつけるので、神の祝福そのものを表すしるしとされてきました。油もぶどうも神の祝福のしるしです(例:ヨエル書2:19)。人々は渇いた季節にたわわなぶどうがなること、またみずみずしいその実に驚きと感謝をもって受け取り、味わいました。


補足になりますが、イスラエルに精通した先生から伺ったのは、イエスさまの最初のきせき(しるし)のことです。ヨハネ2章のカナの婚礼でイエスさまは大量の水を最上のぶどう酒に変えられました。人々はそれを味わい、特に給仕の者たちはそれが水から変えられたぶどう酒であることを知っていました(ヨハネ2:9)。それはただ奇跡をおこなうイエスさまがすごいという以上に、水からぶどう酒に変えられたこの方こそ、まさに神そのものであると給仕で手伝った者たちは分かったというしるしという意味があるのだそうです。まさにこの方がメシヤです!と震えるような感覚だったのではないでしょうか。

その「露」はもっとも高い山であるヘルモン山にもおり、さらにはちょっとした丘にすぎないシオンにも同じようにおりているというのがこの3節の描写です。それは、誰にも分け隔てなくもたされる神の祝福をたとえています。上から下へと注がれた神の祝福は、広大な地にも均等に広がり渡ります。今朝、礼拝をささげている私たちにも、同じ祝福の露が注がれています。あなたはこの露をいただいて、どんな一日、どんな週、どんな生涯を過ごすでしょうか。どのような実を結ぼうと願うでしょうか。


最後に、1節と3節の始まりと結びを見てこの祝福を味わいましょう。

「兄弟たちが一つとなって ともに生きることは」(1節)

「主がそこに とこしえのいのちの祝福を命じられたからである」(3節)


「兄弟」のところでは、同じ主を礼拝するもの、同じ道を歩む民として「なんという幸せ なんという楽しさ」であるとみてきました。さらに、この詩篇の作者をみてください。表題には「都上りの歌。ダビデによる」とあります。ダビデは、家族や兄弟の争いやねたみ、ともに生きることのむつかしさを経験した王でした。ゴリヤテに立ち向かう時、一番上のお兄さんからは馬鹿にされ、ののしられました。末っ子のダビデが王とされたことを歓迎する兄弟たちばかりではなかったかもしれません。また、サウル王家との争いは、彼に生涯つきまとう悩みの種でした。逃れても追って来る敵意であり、謙遜になっても相手に伝わらないもどかしさの連続でした。そのダビデが、神殿での礼拝に向かうときにはこう歌ったのです。「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは」。 日頃の争い、まとわりつく悪、うまくいかない関係・・・それらのものに囲まれているのは、ダビデも私たちも同じでしょう。しかし、主を礼拝する途上では、そのことがわきに置かれていく。神からの祝福を一身に浴びるので、世のしがらみから解放されていく。いっさいを忘れることのできない弱さを持つ私たちに、神を見つめてみよ、神を仰いでみよ、神だけを礼拝してみよ、神に賛美を向けてみよ!と促してくれるのがこの詩篇です。


また、それは一時的なものではなく「とこしえのいのちの祝福」です。誰も得体のしれないもの、価値がはっきりとわからないもの、いいかげんなものに全身全霊を注ぐことはできません。それどころか、時間やお金のこれっぽっちも奪われるのは不本意に思います。しかし、ここには「とこしえのいのちの祝福」が約束されています。今はこれにだけ集中すればよいのだ、今日はここに集えばよいのか、生涯をこの方にかけてもよいのだと、神さまの保証付きで招かれています。


今朝、上からの祝福をいただき、どこまでもその祝福を流していく道の始まりとしましょう。この神の家族と共に、豊かでいのちあふれる実を結ぶ旅を続けたいと願います。


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