top of page

福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「キリストの香りを」


聖書 Ⅱコリント2:14-17

はじめに

今年の教会テーマ「福音に生きる」は、この11-12月をもって一区切りとなります。「福音=良き知らせ/Gospel=Good News」として聖書をともに読み、味わい、自分自身や教会に受肉していくことに取り組みました。この喜びの知らせを聞いて、私たちの内側(心)や外側(言動や表情)に、変化はあったでしょうか。


私個人では、3つあります。

1つ目は「罪が赦されること」の大きさに気づいたことです。礼拝での福音シリーズ(3月始まり)で、イエスさまに従うことに重点を置いてきました。それは、このお方が何よりも誰よりもすばらしいお方だからです。私たちの生涯をささげる価値のあるお方です。その根底にあるのは「イエス・キリストが私の罪を赦してくださったから」だと今年のシリーズを通して教えられてきました。そして、その罪の赦しは、私の気持ちがどれだけそれを感じているとか、地上の生き方にどのくらい影響があるとか以上に、天の御国に私の名が書き記されていること(ルカ10:20)だからすばらしいのですね。私が見て、感じていること以上のすばらしいことが、天の御国では起こっているし、用意されていることを思う時、まさに福音=良き知らせだなあ!と喜ばずにはいられません。



2つ目は「福音を伝えたい」思いが与えられたことです。今までなかったわけではありませんが、改めて朝ごとに「主よ、今日私は福音に生きます。福音を伝える人と出会わせてください。それがどんなチャンスであっても、私が福音に生きる者であることを証しできますように」と祈り、確認するようになりました。やるべき仕事とかスケジュールよりも、まずこの思いを確かめ、一番先に来るようにディボーションを持ちました。目に見える変化は少ないかもしれませんが、内側に新しくされている喜びがいつも注がれることは、とっても感謝なことです。


3つ目は「賛美する喜び」です。これも今までなかったわけではありませんが(言い訳みたいでごめんなさい♪)、自分の趣味も変えられた年でした。「私はあらゆるときに主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ」(詩篇34:1-2)のみことばが語られてから、私の心は「主を賛美することで、私は本当に嬉しいんだ」という思いでいっぱいになりました。そのときから、好んでいた音楽のデータを消去し、主をたたえる賛美ばかり聞くようになりました。また夜は音楽がないと寝つけなかったのですが、何かを聞かなくても寝られるようになりました。これらは私個人への恵みです。みなさんお一人おひとりにも、主のわざがなされていることでしょうね。


1.キリストは勝利

今朝の聖書個所は「しかし」で始まっています。その前まではこの手紙が宛てられたコリントの教会が罪の行為に苦しんでいたからでした。キリストの信者となった者たちの間であらゆる不品行や食べ物に関する議論、礼拝や食事の交わりの秩序が乱れる問題が生じていました。

「聖書にそんな問題のある教会のことが書いてあるの?」「クリスチャンって争うの?」と驚かれるかもしれませんが、そうなのですね。


教会は「問題が一つもないところ」ではありません。

クリスチャンは「聖くなった人」のことではありません。


よく紹介されるこんな笑い話があります。

ある人が「もうこの教会は嫌です。問題が山積みですし、人間関係も複雑で居心地がよくありません。先生、どこかに問題のない教会ってありませんか?」と牧師に相談しました。すると、その牧師は「心配ありませんよ。世界中を探しても、問題のない教会なんてありません。そして、もしそんな教会があったとしても、すぐに問題のある教会となります。なぜなら、あなたがその教会に問題を起こすようになるからです」と答えたというお話です。


では、この人の問題とは何でしょうか?▶


それは、この人が「自分は罪人」であるのを忘れている点です。「みんなが罪人」「他の人には欠点や非がある」ことはわかっても、自分自身のうちに罪があること、自分こそが問題を起こす可能性のあることを考えていません。すると、その人自身が問題となってしまうのです。


これは例を出せばすぐに想像できます。

今朝の礼拝室の温度が冷たいとしましょう。そこで私が「だれか暖房をつける人はいなかったのですか!」「私にセーターをもって来る人はいないのですか!」「そもそもこの建物の造りが・・・」「神さま、なんで四季を作ったんですか。地球が回るからいけないんだ・・・」と叫び始めたら、気持ち良くありませんよね。これは、私が自分には罪がないと思っているから出てくる発言です。


罪は自分が義であると思い込ませます。自分が正論を言っているし、その権利がある唯一の存在だと思い込ませます。罪は相手のことが見えません。正確には相手の悪い部分はよく見えるけれど、相手を抱えている本当の弱さや悩みを見ようとはしません。また、相手の弱さを見ても愛のある言葉ではなく相手をさげすみます。自分の評判はさがらないように、巧妙に非難、批判します。


問題のある教会が問題なのではありません。教会は問題のない所だという思い込みを考え直しましょう。▶▶

では、なぜそんな問題ある教会が存在するのでしょうか。教会へ通うのにどんな魅力があるのでしょう。今朝の聖書個所の始まり14節を見ましょう。「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え・・・」(2:14)


まず、問題のある教会に対して「神に感謝」しています。それは「神はいつでも、私たちをキリストにある凱旋の行列に加え」てくださるからです。この「凱旋の行列」は戦いに勝った王が自国に戻ってくるときに行ったパレードです。王は戦利品をかかげて無事に戻り、人々は歓喜して喜び迎えます。大勝利のイメージがここにはあります。「キリストによる」とあるとおり、その勝利をもたらしたのは、イエス・キリストです。


つまり、教会はキリストによる勝利をいつでも喜ぶことができるからこそ、感謝するのだということです。問題のある教会にキリストの勝利がもたらされるからこそ、すばらしいのですね。たとえ他者の罪に気づいたとしても、そこにキリストの勝利が現わされるからこそ相手を断罪し、関係を破壊しません。自分にある罪に思い悩むとしても、キリストが獲得してくださった勝利を受け取ることができます。問題があり、罪人の集まりだとしても、キリストの勝利があるからこそ絶望や毛嫌いをせず福音が輝く教会に望みを置きます。■


2 アロマ・デ・キリスト(キリストの香り)

さて、王の勝利を祝うパレードで見世物になるのは戦利品です。王が獲得した相手国の宝物や捕虜などを引き連れ、歩いて見せるのが凱旋パレードです。


キリストによる凱旋の行列の場合、そこに歩いているのはだれでしょうか。実は「私たち(クリスチャン)」なのですね。キリストは罪に対して勝利することにより、私たちを捕虜として獲得されたのです。ちょっと変な感じがしますか?ちょっと整理してみましょう。


この手紙の前には「死は勝利に呑み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(第一コリント15:54,55)と記されています。これはキリストが十字架にかけられ死なれた三日後に復活されたことを表します。キリストは復活することで死に勝利されました。死は、キリストが打ち勝った敵であり、打ち破ったとりでです。人はみな、この死という敵に翻弄されておびやかされ、ひとたび死のわなにかかればみなが奴隷になります(参照:へブル2:15)。「私なんて死んだってかまわない」「どうせいつかはお墓に入るんだから」「あいつなんて死んでしまえばいい」という考えや叫びは、私たちが「死」に支配されている証拠です。イエス・キリストは「最後の敵として滅ぼされるの、死です」(第一コリント15:26)というみことばを成就されました。▶

こうして見ていくと、キリストが勝利されたのは「死」であることが分かります。そして、その「死」から解放されたのが私たちです。キリストの凱旋の行列が、最後の敵である死から解放された「私たち」をキリストの戦利品として見せて歩いている。そんなイメージです。


神はいつでも、この勝利の行列に私たちを加えてくださいます。死の恐怖、罪のわなにかかってうなだれてトボトボと歩くのが私たちではなく、キリストがそのいのちを身代わりにして救い出され、喜びの歓声の中を行進するのが私たちなのです。私たちは死から引き離され、キリストの勝利にあずかった者です。


そのことを「私たちを通してキリストを知る知識の香り」(14節)、「神に献げられた芳わしいキリストの香り」(15節)と続けて表現しています。私たちは、キリストが勝利され獲得された戦利品(良い意味で)であり、かつ「香り」です。それは「いつでも・・・いたるところで放つ」かぐわしいアロマだと大胆に告げています。


考えてみてください。「香水」は高級なものです。香水は、自分の香りを決める大事なものなので、慎重に選びますし、それなりの対価を支払います。選びに選び抜きますし、気に入ったものであれば、街中にその香りをふりまくでしょう。▶▶

あろうことか、イエス・キリストは私たちを、この私、あなたを「キリストの香り」としてご自身の身に付けてくださるというのです。そして、私たちは「キリストの香り」として、この世に遣わされているのです。お店に陳列されている香水とその瓶のように。


私たちは「救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも・・・キリストの香り」(15節)であり、「滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香り」(16節)です。人にいのち=救いを意識させ、人に死=滅びを意識させる強烈な香りです。


私たちはクリスチャンとしての自分をどこで香らせるのか選ぶことはできないし、選ぶべきではないということです。まさに「いつでも・・・いたるところで」キリストの香りとして置かれるのです。この世にはさまざまな人がいます。イエス・キリストという言葉を聞いただけで嫌悪する人。教会に行っていると言うだけで距離を置く人。また、クリスチャンに親近感を持ってくれる人もいれば、トラクトを快く受け取ってくれる人もいるでしょう。しかし、誰が受け入れ、誰が拒むか分からないからこそ、いつでも、どこでもキリストの香りを放っておくのです。無臭であるなら、透明クリスチャンであるなら、人はいのちの香りさえもかぐことができません。■


3 いったいだれが?

と、ここまでくると尻込みしてしまうでしょうか。私でなくても他の誰かがいい香りなんじゃないかなあ、と。そんな心配を見通すように続くのはこんな言葉です。「このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょう」(16節)。 「いったいだれでしょう」と私たちに共感してくれるようなつぶやきですね。ただ、聖書でこうした疑問文が出て来ると、すぐにそれを打ち消す言葉も続きます。


「恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。決してそんなことはありません」(ローマ6:1-2)というパターンです。ここも同様です。「ふさわしい人は、いったいだれでしょう。」ときて「だれもいませんね。だからやらなくていいのです」とはなりません。「ふさわしい人は、いったいだれでしょう。私たちは・・・誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです」(17節)と結んでいます。


「いったいだれ」→「あなただよ」というホットラインが聖書にはちりばめられています。無理だよ~と思うことこそがあなたのミッションであり、場違いだよ~と引いてしまいたくなるところがあなたの居場所なのだと。ここでは「このような務めにふさわしい人」と言われていますから、私たちの内実よりも、務め=なすべきことに着目するように導きます。キリストに愛され、キリストに捜され、キリストに慰められ、キリストに獲得された者はみなキリストの香りを放つ。さまざまな人がいるこの世に遣わされている香り。ののしり、さげすむ人もいます。だれもそんな反応を受けて平気な人はいません。だれも冷たくされて励ましを受ける人はいません。しかし、いつでもどこでもキリストのすばらしさを放つ香水。どのようにそんな務めを果たしたらよいのか、途方にくれてしまいますか?そうならないためには、どうすればいいのでしょう。その秘訣は「神のことばに混ぜ物をして売」らないことです。「神のことばに混ぜ物をする」とは、聖書のことばを濁らすことであり、キリストを誇らないことであり、ちょっといい感じにごまかしてしまうことです。実は、これを「多くの人がしている」と指摘しています。それは「神のことばに混ぜ物をする」ことが、この世でクリスチャンとして生きていくには都合の良い逃げ道だからです。聖書の教えを自分流にアレンジをすると、人々にののしられたりせず、無害だからです。


このコリント教会では、聖書の基準を低くして不品行は性的堕落にふけったり、盗みを続けることでした。また、自分の信仰や賜物を誇ったり、他者をさばいてのけ者にしたり、キリストを恐れなかったりすることでした。そのような彼らに対して、「あなたがたは芳わしいキリストの香りなのです」と書き送り、伝えています。その理由は、それが「福音」だからです。だれか資格のある人、ふさわしい人がやるのであれば、それは「福音」ではありません。驚くべき恵みのニュースではなく、当たり前の知らせです。ふさわしくない者が選ばれるからこそ福音です。整わない者が用いられるからこそ福音です。弱い者が勝利するからこそ福音です。自信のない者が力づけられるからこそ福音です。それは、神のことばがまっすぐに語られなければ、届かなかった福音です。「がんばれ。もっとやれ。今のお前じゃだめだ。何とかして変われ。ここまで努力しろ。そうすれば救ってやる。」と言われたら、それは福音ではないし、キリストのことばではありません。


神のことばに混ぜ物をせず、まっすぐに語られたからこそ、私たちに福音が届きました。イエス・キリストは、どんな値踏みもせず、私が本気かどうか詮索せず、私が応答するか確認をせず、まず愛してくださいました。それも中途半端で適当でモノを与えるような愛し方ではなく、一度限りの生涯をこの私のために歩み、いのちを捨ててくださいました。罪を犯したことのない聖いからだを、罪ある私のために十字架につけてくださいました。はじめにこの愛があるからこそ、私は愛され、これからもずっと必ず支えられていきます。このキリストを、混ぜ物をせず、純粋に、そして大胆に語りましょう。シンプルで力があり、いのちがある福音に生き、伝えましょう。■


閲覧数:3回0件のコメント

最新記事

すべて表示

「神を意識して」

はじめに 先週水曜日の夜、大分県沖(豊後水道)を震源とした地震がありました。その直前、携帯電話に緊急地震速報(警報)があり、アラームが鳴り響きました。私が東北にいたころは、ひんぱんに地震があったのである程度慣れていましたが、九州に来て2年が過ぎ、地震への警戒が薄れていました。自分でも意外なくらい、警報の通知音に心身が反応していました。 そして、これが本来の警報の役割であり、効果であると思いました。

「整えられた道を」

はじめに 本日から新たな聖書箇所でシリーズが始まります。これからしばらくの間、主の日の礼拝ではルカの福音書からみことばを聞いてまいりましょう。1-2章はクリスマスの出来事が記されており、昨年の12月アドベントで開きましたので、3章からスタートいたします。 ルカの福音書の著者はルカとされています。この福音書自体にルカが著者であるとは書かれていませんが、使徒の働き28:14の「私たち」や、またパウロの

「失望に終わらない希望」

はじめに 本日はイースター礼拝です。 ご存じのように、私たちの教会の屋根には十字架が掲げられています。どんな十字架でしょうか?夜になると赤い光を放ちます。そして、イエス・キリストがはりつけにされていない十字架です。伝統的なカトリック教会や聖公会などでは、十字架とはりつけになったイエス・キリストが掲げられています。 これらのことから、それぞれに強調点の違いがあることが分かります。イエス・キリストがは

bottom of page