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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「逆さまでいい」


​聖書:マルコの福音書10:42-45

はじめに

物事が逆さまになると困ることがあります。

たとえば、聖書や賛美歌が逆さまだったら読みにくいですね。飲み物が逆さまだったらこぼれてしまいます。今、私が天井からぶら下がっていたら、みなさんの目は回ってしまうでしょう。唯一、プッチンプリンは逆さまが似合っていておいしいかもしれませんね。そして聖書にも逆さまで困っていることがあると記されています。


ああ、あなたがたは物事を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしていいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。」 (イザヤ29:16)


これは、神と人との関係について言っています。私たちは神さまのこと、この世界のことを逆さに考えているのです。たとえば、運動会や遠足の日に熱を出せば「神さま、どうして!」とつぶやきます。普段、健康だったことをそれほど感謝しないのに、ここぞとばかりに神さまのせいにして強く当たります。すべては自分の計画通り、願い通りとまではいかなくても、努力したことであればそれが報われるはず、正しいことをしていればわざわいにもあわない、神さまはそうしてくれるはずだと考えて生きています。だからこそ、神さまを信じるのだと。ここで指摘されているのは、それこそ「物事を逆さに考えている」生き方だというのです。最も困るのは、私たちが神さまと人間との関係を逆さにしてしまうことです。私たちが逆さに考えていたら、神さまを正しく知ることができません。私たちが人生を逆さに歩んでいたら本当の救いにあずかることができません。今朝は、私たちには「逆さ」にすべきことを学びましょう。


1 えらくなる

今朝の聖書個所に入りましょう。

「異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています」(10:42)


これは世のあり方です。支配者は横柄で、偉い人たちは権力をふりかざしています。まさに、今の日本社会や世界がそのように思えます。政治家でえらそうにしているのをよく見ます(あまりに低姿勢でも裏がありそうです)。テレビやメディアは権力者に都合のよい面を報道する傾向があります。注意深く観察していると、報道で厳しく質問されたり、しつこく追いかけられているのは「より弱い立場にいる人たち」です。権力者や偉い人たちが追い詰められることは、よほどのことがないかぎりありません。それは、人間は自分より大きな権力を持っている相手を恐れるからです。

たとえば、日本の「報道の自由度ランキング」は世界で68位で(最下位は北朝鮮、その次は中国)、政治的圧力、権力者の支配下にあることが数字にも表れています。特に近年は、権力者に忖度(そんたく)することが常識となり、黙っていても権力者の言い分や立場を重んじる風潮が根付いています。


それと同時に上昇しているのが「自己責任(論)」です。紛争地で拘束された記者の保護や貧困に苦しむ人たちを「自己責任=自分のせいでしょ、自分で勝手にやった結果でしょ」と切り捨てる仕方です。おかしいな、おかしいなと思いながら、世の枠組みに慣れて(飼いならされて)しまうと、疑問を抱いたり、思考したり、具体的に抵抗や言動といった行動にうつすこともしなくなります。なんとなくこれでいい、ある意味仕方がないよねとあきらめたり、アクションを起こしている人を冷ややかに見たりもします。このように、支配者や偉い人がふるう権力は、私たちの大切な思考や生きる力を奪ってしまうものなのです。それで世は治められていきます。


さて、ここで今朝のテーマである「逆さ」を思い出してみましょう。イエスさまは「あなたがたの間では、そうであってはなりません」(43節)と続けられました。「あなたがたの間」と3度も(43,44節)繰り返し、この世と逆さでなければならないと強く念を押しておられます。

この世が権力をふるうことであなたを支配するのであれば、神の国は奉仕することでなり立っていく。あなたが偉くなろうとして横柄になっていくのであれば、神はそれと逆(謙遜、奉仕)を望んでおられる。この世で先頭に立つために、あなたがライバルを蹴落としたり、悪賢い方法をもってでも前に出ようとするのであれば、聖書はその道にあなたを導いてはいない。


神のことばによれば、私たちは、この世とは逆さに物事を考え、この世とは逆さに人を見て、この世とは逆さに生きることを望まれています。そうです、私たちはこの世とは逆さでなければならないのです。


2 仕える

では、どうしたら世の強い風に立ち向かって逆さに生きることができるのでしょうか。それは、私たちがイエス・キリストを見ることによってです。ただイエス・キリストだけに従うことによって、それはできます。


イエス・キリストは、どのような生き方をされたでしょう。聖書によれば、その誕生からして、どんな人も経験しないような生まれ方をされました。ヨセフとマリアの旅先で泊まることになった家畜小屋の飼い葉おけ(エサ箱)の中で産声をあげました。これが正しいことだと思いますか?ここに愛を感じるでしょうか?愛とはほど遠い、むしろ残酷とも思える粗末な状況でイエス・キリストは誕生されました。まさに逆さの状態でイエスの生涯は始まったのです。


それからの生涯は枕するところもない流浪の人生でした(マタイ8:20)。どこへ行っても人々に囲まれ、どんな人をも愛し、常に導き、養われました。


その生涯の終わりはどうでしょうか?すごく辛い生活をしてきたけれども最後はハッピーエンド・・・でしょうか。いいえ、そうではありません。イエス・キリストはその最期、重い十字架を担がされ、嘲笑を浴びせられ、どくろの丘と呼ばれる処刑場で殺されました。「十字架につけろ!」と叫んだのは、イエス・キリストがその生涯を通して癒し、愛してきた人々(群衆)でした。その人生は目に見えて報われることなど何一つないように思えるものでした。人を愛したのに、裏切られたのは逆さです。罪を犯すことがなかったのに、殺されてしまったのは逆さです。イエス・キリストは誕生から死まで、すべて逆さの世界で過ごされました。自分を迫害する者のためにとりなして祈り、自分の敵を愛し、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅さず、罪がないのに罪人の罰を受けられ、大事にされるはずなのにムチで打たれ、崇められるはずなのにさげすまれました。このように逆さに生きられた目的が今朝の45節に記されています。

「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(10:45)


まさに、イエス・キリストはこのみことばどおりの生涯を歩まれました。不幸で報いが何もないと思えるような生涯をまっとうされました。イエス・キリストが生きていたのはこの世のいのちのためではなく、永遠のいのちのためでした。イエス・キリストは、一時的なこの世での成功ではなく永遠の御国の喜びに目を留めておられました。


私たちは物事を考える時に、この世の時間だけで考えます。わずか数十年という時間の世界の中で、自分は損をした(いつもこうだ)、あいつが得をした(さぼってるくせに)、あっちの人は成功した(うらめしい)、こっちの人は失敗した(いい気味)と言いながら暮らしています。もし、それで量ったなら、イエス・キリストの人生は大失敗です。だれもイエス・キリストのように生きたくはありません。しかし、イエス・キリストはこの地上での小さな報い、一時的な満足や安心を求めず、やがて与えられる永遠の御国で与えられる報いを見ておられました。「わたしについて来なさい」(マルコ2:17)と招いておられるのは、この永遠の御国の喜び、報いのためです。私たちは、自分勝手な道ではなく、イエス・キリストが歩まれた道に呼ばれているのです。

それゆえ、私たちもこの地上での時間だけを見ていてはいけません。この地上での小さな評価にまどわされてはいけません。この世の宝に魅了されてはいけません。たとえ、この世では報われることがなくても、決してうろたえることなく、永遠の御国での評価はどうであるのか、神の前に自分の基準を合わせるのです。


3 杯を飲む

本日の聖書個所であるマルコ10:42-45の4節分でしたが、最後に少し節を戻ってこれがどのような会話の流れで言われているのかをたどって結びに向かいます。


同じ文脈の少し前には一番弟子は誰かと争う弟子たちが「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください」(37節)とお願いを申し出ています。おそらく、毎日のように弟子たちは「この中で一番偉い弟子はだれか」と論じ合い、競い合っていました。そうです、弟子たちは「物事を逆さに考えて」いたのです。天の御国で一番偉い者は誰だろうか、神の国でイエスさまの左右に認められる者は誰だろうか、ここには12人の弟子がいるが誰がその中の一番であり、二番なのだろうかと日々競いながら、イエスさまのあとを付いて行っていたのです。まさに、イエスさまと毎日いっしょにいながら、永遠の御国のあり方とは逆さに考え、逆さの世界で生きていたのです。

そのような弟子たちに、イエスさまは「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか」(38節)と聞き返しておられます。それからこの10:42-45へと展開しているのですね。


イエスさまはご自身の生涯=人生を「杯」(38節)と表現されました。後ほど、十字架を目前にして「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」(14:36)ともだえながら祈っておられるように、イエスさまの飲もうとされている杯は苦しいものでした。しかし、イエスさまはその杯を受け取り、飲まれました。それが神から与えられた生涯(誕生から十字架まで)の苦い杯です。杯とは、まるで人生のようです。


聖書において「杯」は、「救いの杯」(詩篇116:13)、「慰めの杯」(エレミヤ16:7)、「恐怖と荒廃の杯」(エゼキエル23:33)、「賛美の杯」(1コリント10:16)など様々に表現されています。私たちはできることならなめらかで甘い杯を飲みたいと思うのですが、それほど人生は単純ではありません。杯の中身は甘さ、苦さ、まろやかさ、ザラザラしたものとたくさんの味があります。同じように、私たちの人生は楽しいこともあれば、苦しいこともあります。甘いときもあれば、渋いときもある。それぞれの人生の杯には喜怒哀楽、複雑に混ざり合っています。誰一人として、同じ杯を飲む人生ではありません。 

しかし、重要なのは私たちが甘くて苦い人生という杯を受け取り、飲めるかではありません。ここで問われているのは、人生の山坂を受け止めていこうというポジティブ思考を持って生きることではなく、「わたしが飲む杯を飲むことができますか」(38節)です。


わたしに従えば、全部祝福される、すべてをよくしてくださる、どんな願いごとも思ったとおりにかなえられる、痛みや苦しみ、ましてやわざわいや病にあうことなどない・・・イエス・キリストはそんな甘いことばで弟子たちや私たちを誘い出すことはなさいません。ここでは逆に、 「苦い杯」を差し出されています。それは、人から褒められることや認められることが少なく、権力を持つことがなく、横柄やわがままにふるまうことがなく、時には正しいことをしていてもののしられ、自分の責任ではない咎めや罰を負わせられるような杯です。人に仕えられるためではなく、人に仕える杯です。人から褒めそやされるのではなく、自分のいのちを与える杯です。だれが、この杯を受け取るのでしょうか。だれが、最後までこの杯を飲むことができるのでしょうか。


「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか」(10:38)


こうして私たちに苦い杯を差し出すイエス・キリストは、「蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」(イザヤ53:3)お方です。なによりイエス・キリストご自身が苦い杯を飲まれたのです。その杯を最後まで飲み干されたのです。主ご自身が、見捨てられ、裏切られ、鞭打たれ、ののしられ、十字架にかけられたのです。その手に釘を打たれた穴があるのです。その脇腹は槍で刺された深い傷があるのです。だから、イエスさまは私たちが受け取る杯の重さを良く知っておられます。私たちが世とは逆さの杯を飲むのにちゅうちょする弱さを知っておられます。あなたの苦しみも、叫びも、悩みも、恐怖も知っておられます。ともに喜び、ともに泣いてくださいます。私たちの震える手に、その御手をそえて支えてくださいます。イエス・キリストは最後まで愛し、仕え、走りぬかれたお方です。勝利者です。この方以外には、だれによっても救いはありません(使徒4:12)。この世においてどれほど報われず、間違っているような逆さの生き方であっても、永遠のいのちの喜びがあります。惑わされず、振り回されずに、私たちはただイエス・キリストだけを見上げ、イエス・キリストのあとに従いついていこう。


「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです」(へブル12:2)


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